ようやく全部見ることができました。
非常に内容が濃く、専門的な話もありましたが、広島・長崎を始まりとして、日本がどのよう放射線と向き合ってきたか、どうして世界の原発関連の機関は、それぞれに立場が違うのか、そもそもどうして日本が原発を始めることになったのか、すべてが語られています。
非常にながいお話でしたが、聞いていただく価値は十分にあります。
是非、お時間をとって、ご自身の目で、耳で確かめていただきたいと思います。
iwakamiyasumi2 06/08/11 05:12AM (164:55)
名古屋にて名古屋大学名誉教授沢田昭二先生に話を聞く。
http://www.ustream.tv/recorded/15241220
【以下、時間の無い方のために書き出しましたが、こちらも長いですよ・・・(笑)】
非常に内容が濃く、専門的な話もありましたが、広島・長崎を始まりとして、日本がどのよう放射線と向き合ってきたか、どうして世界の原発関連の機関は、それぞれに立場が違うのか、そもそもどうして日本が原発を始めることになったのか、すべてが語られています。
非常にながいお話でしたが、聞いていただく価値は十分にあります。
是非、お時間をとって、ご自身の目で、耳で確かめていただきたいと思います。
iwakamiyasumi2 06/08/11 05:12AM (164:55)
名古屋にて名古屋大学名誉教授沢田昭二先生に話を聞く。
http://www.ustream.tv/recorded/15241220
【以下、時間の無い方のために書き出しましたが、こちらも長いですよ・・・(笑)】
(岩上氏)先生は放射線については日本で第一人者と伺っているが、長い期間の研究と共にご自身も被曝経験があると。放射線の怖さは誰よりもご存知だと思う。広い視野と観点で、放射線の怖さを論じていらっしゃったが、今、福島原発で起こった事故について、事故後の被曝の影響について教えてください。
インタビュー前に先生から、広島で被爆したときの話を伺って、ショッキングなお話をしていただいた。今見ている人のために、原爆体験を話してほしい。
(沢田氏)当時中学校2年生。当時の中学生は学徒動員。機関銃の弾丸製造工場にいっていた。その日は病気だったので、自宅で休んでいた。その時、原爆が爆発した。ピカドン。爆心地から1400m。気が付いたら、つぶれた家の下敷きだった。もがいてつぶれた家から這い出せたが、周りが暗闇だった。広島全体が破壊されて、埃がすごかった。こげ茶・茶色・黄色・しろと埃の色が変わっていき、周りが見えるようになった。一面広島がつぶれていた。足元で私の名を呼ぶ母の声。「足が引っかかって動けない」母親が、お説教を始める。「自分はもういいから行きなさい」天皇のために生きる教育を受けてきたので、命を大事にするという感覚がなかった。くすぶっていた火が燃え広がり、火事になった。母親に言ったら「もう逃げなさい」でも逃げられない。何時間頑張っていたかわからないが、とうとう火事嵐になり、母親が「今すぐ逃げろ」彼女からは火が見えない「お母さんごめんなさい」といって逃げた。
(岩上氏)つらい体験ですね。周りに助けてくれる人は居なかったのか?
(沢田氏)ときどき大人を捕まえるが、「もう駄目だ」といって逃げていく。父親は、島根に出張中。山の中にいたので、広島で原爆があったなんて全然知らなかった。二日後になって知って帰ってきたが、結局は三日後になった。山にずっといたが、その山から燃える広島を見ていた。あくる日も近づこうとしたが、熱くて近づけない。三日後に近づけたが、まだ下のほうでは火がくすぶっている。母親の遺体があるだろう場所に行くが、陶器が簡単に壊れるくらい熱いところで母親が死んだのだと…。骨を集めて持って帰った。
(岩上氏)先生自身は、その時被曝しているのですね?今はお元気だが、被曝の影響は身体に出たのか?
(沢田氏)当日病気で寝ていたのに、原爆でそんなことはどこかへいってしまい、爆心地から1400mだったし、あまり遠くに逃げる気になれなかった。1550mの河原にずっといた。後から調べたら必ず被曝をしている。しかし放射線の影響がほとんど出ていない。健康状態はいい。放射線については個人差がすごく大きい。
(岩上氏)先生はたまたま遺伝的要素も含めて、影響が出なかった。他の人は影響が出るということを踏まえて…。
(沢田氏)弟は学校に行っていて、ほぼ同じ距離で被曝した。体中傷だらけ。自分は運良く布団に包まっていた。ガラスの破片もほとんど怪我をせずに済んだ。弟は30何箇所傷があった。校舎と一緒につぶれた。でも一人でちゃんと帰ってきた。被曝の影響もあった。65歳になってガンでなくなった。僕は被曝のせいだと思っている。急性症状がなかったことは親に感謝している。
(岩上氏)同じような状況で同じような年齢の方は被曝の症状がもっと厳しかった?
(沢田氏)同じ距離で被曝した人の多くが、髪の毛が抜けたり急性症状を発症していた。個人差が大きいということを踏まえないと。
(岩上氏)生き残って元気な人を判断基準にしたら、大きな間違いということですね。こういう体験があって、研究に入られた?
(沢田氏)いや。子供の頃から理科が好きだった。原爆が落ちる前、「子供の科学」を読んでいた。1943年に「アメリカでは原子力爆弾を作っている」という記事があったが、まさか自分のところに落ちるとは考えていなかった。科学が好きだった。それで大学も物理学を研究。中学から「自然」という雑誌を購読し、意味がわからないなりに読んでいた。生物素粒子物理学に興味があるということで、湯川秀樹さんがノーベル賞をもらったり、そういうことも雑誌から読んでいた。大学でもそういう分野をやろうと繋がっていった。僕の専門は生物素粒子物理学。すごく民主的。全国の研究者が対等に話せるグループを用意した。湯川先生が受賞したのをきっかけに、基礎物理学研究所ができた。通常、大学で研究したものは、大学のものになるが、その壁をなくして、全国の研究者が共有できるように湯川先生がやった。その運営も選挙で選ぶ。若い大学院生も研究部委員会に参加したりして、湯川先生たちと一緒に研究できた。若い頃から第一人者と一緒に作業できたし、湯川先生は核兵器をなくすというお手伝いもできた。科学者京都会議の運営もしたバートランドラッセルとアインシュタインが一緒に書いた宣言。1954年、アメリカがビキニ島で水爆実験をした。日本でも原爆禁止運動が起こった。広大の学生だったので、自分の体験した原爆よりも1000倍も大きい水爆ができてしまったことに衝撃を受けた。
(岩上氏)広島の1000倍の水爆がビキニ諸島で実験されたのですか・・・。大衆娯楽でいうと、この実験のせいでゴジラが出来たんです。
(沢田氏)広島の原爆の場合は1万5000トンの火薬を一瞬で爆発させるものだった。15キロトン。水爆の場合は15メガトン。広島の1000倍の破壊力。自分の専門にしようとしている物理学でこの水爆を作っている、このままいくと人類が核戦争で絶滅してしまうと考えた。いろいろな場所で議論し、原子爆禁止広島学生協議会を組織した。実行委員長になって署名運動などした。主にしたことは、(今では考えられないが)広島市と広島県から5000円ずつ助成金をもらって、原水爆展、展示を作ることをやった。勉強したこと、原爆・水爆・放射線の恐ろしさを伝える責任があると考えた。5000円は当時の月給くらい(50万円程度)なので、100万円もらって40数枚のパネルを作り、広島の平和公園で展示した。黒山の人だかり。広島の原爆資料館がないとき。ちょっと冷えすぎ…
(20:00-)エアコン調整・・・
平和公園で展示し、いろんな新聞社や国鉄に協力してもらったりした。
(岩上氏)今とは全然雰囲気が違いますね。
(沢田氏)学生だったから、ちょっと生意気だったんだと思う。
(岩上氏)学生の自主性を行政が認め、労働組合やいろいろな機関が手を携えて、そういう自由な空気だったのですね。1954年頃ですか。
(沢田氏)国民的に行政も学生と一緒にやっていくという雰囲気があった。
(岩上氏)今は行政がそういったことをすることは、考えられない。
(沢田氏)考えにくいでしょうね。学生の意識も(国によって違うだろうが)、学生が一般社会に対してどうしていくかなど、そういう発想はできないんじゃないか。当時の学生はそうだった。僕たちが原爆展が初めてかと思ったら、2,3年前に
京都大学生でやっていた。そういう時代。
(岩上氏)世の中が右と左に分かれるとか、内向きになっていくとか、左右も制度化していくとか、そういったことが60年代70年代に起こり、80年代以降はそれが様式化してしまった。それ以前は、風通しのいいものだったのですね?日本中、どの立場にあろうが目を皿のようにして・・・、みんな関心があった。
(沢田氏)日本中関心をもってやり始めた。日本国憲法はあったが、この原水爆禁止運動が起こったことが、こういう問題を自分の頭で考える、民主主義・平和が浸透するきっかけになったと思っている。憲法が出来た時は、大衆運動があったわっけではなかったから。大きな国民的運動が起こったのは、1954年のこの原水爆禁止運動が初めて。日本の国民が民主主義や平和を考えるのに大きな役割を果たした。その後の安保条約反対闘争へ繋がっていく。アメリカはそれを恐れて、CIAなどを使って工作を始めた。
(岩上氏)55年体制ができあがる、前夜ですね。社会党の合同、保守の合同、細かくまた分かれていって、両極になりながらも、補い合っているという政治構造ができあがっていく。
(沢田氏)原発の問題もちょうどその頃からスタートしている。核兵器廃絶の問題と原発問題と日本社会の体制化していく、ちょうどその頃が一番おおきな瀬戸際だった。その頃学生だった自分にとってはすごく大きな影響だったと思う。その後ずっと継続して、原水爆禁止運動を今日まで続けてきた。日本国民的運動が起こったので、科学者も一緒に運動した。世界の科学者は必ずしも民衆と結びついていないが、日本の科学者は国民と一緒に取り組んできた。これは特徴。放射線の影響が深刻だとわかったので、日本政府に要求してビキニ周辺の調査をし、日本は特に魚でたんぱく質を取っていたので、持って帰るマグロは全部汚染されていた。政府に要求して科学者を船に乗せて調査した。それを世界の科学者に伝えた。その科学者がラッセル。ラッセルはイギリスBBC放送でその深刻さを訴えた。世界中の科学者にも共有すべきとアインシュタインを説き伏せた。このまま原水爆を作っていくと、核戦争で人類が滅亡する可能性がでてきた。そこでラッセル・アインシュタイン宣言を出してくれた。彼らの考えは、当時は米ソの水爆の開発競争をやっていて、どんどん険悪な状態になっていた。政府間で話し合う状況下ではなかった。しかし、科学者なら国際会議でできる。アメリカの科学者、ソ連の科学者、世界中の科学者が集まって国際会議で核兵器をなくす問題を議論してほしい、という訴えがラッセル・シュタイン宣言です。そのなかにビキニ島で第5福竜丸が被曝したことも入っている。日本の科学者が調査し報告したものが、ラッセル・シュタイン宣言へ繋がっている。1955年に宣言が出され、アメリカの科学者もソ連の科学者も政府とは違う立場で会議を開こうとするのだから、政府は旅費など出さない。でもお金がない。2年後にやっとカナダの金持ちの別荘をかりて、パゴシ会議が開催され、今日までずっと続いている。
(岩上氏)なるほど。先生は、こういう時代背景と原水禁運動に関わる中で、学生としては素粒子物理学を勉強され、こういう大きな事件も起こる。その中で放射線の影響というものは、当初は作用基準やメカニズムなどわかっていなかったですよね?例えば遺伝子にどういった影響があるか、それは学問の発達と共に判ってきた…
(沢田氏)DNAが判ってきたのは1960年。DNAが二重螺旋構造になってそれで人間に対する放射線の影響を受けて、細胞分裂のときに次の細胞に継承される。
(岩上氏)傷が付くとは要するに二重螺旋構造が切断されてしまう、そういうことがだんだん判ってきたと。それ以前は放射線の影響は、表面的なものしか、例えば火傷とか・・・
(沢田氏)臨床的なこと。深刻だということが判ってきたのが、1950頃から。それ以前も研究者が研究しながら自分自身も被曝している。キュリー婦人も被曝に気づかないで白血病。DNAがはっきりわかったのが1960年。1950年の時点で深刻だとわかっていた。だから広島・長崎の被爆者の研究が非常に大事な役割を果たしていた。
(岩上氏)ここは非常に重要なところ。今日話を伺いたいところの大きな柱の一つ。今ICRPという団体は、一般国民は知らなかったそういう団体。国際機関の基準が唯一絶対の基準のように言われている。「ICRPの基準によればこうだ」とICRPの言っていることの解釈をめぐって、例えば「1mSV」は許容できる範囲内だが、それを20mSVにしたときには、「これはICRPのどこどこを理由に・・・」などと議論が展開されている。毎日のように統合会見が行われ、毎日中継しているが、記者と政府、細野さん、東電、保安院などの問答がこのICRPの基準をめぐってどのように解釈するかという点に集中しがち。共有されている前提はICRPが唯一絶対の基準であるということ。でも、そうではないらしいと他の先生から聞いている。マンハッタン計画というものがICRPの始まり・・・
(沢田氏)1940年代の終わり頃に、それまであった委員会をなくして国際放射線防護委員会が作られた。その時アメリカも全米放射線防護委員会を1940年代最後に作った。そして、狙いは放射線防護の問題をアメリカがイニシアチブを取ろうとしたが、全米も国際もそれぞれがパラレルに分科会を作った。内部被曝の分科会、外部被曝の分科会など。アメリカの委員長が、そのまま国際の委員長を兼ねるなどして重なり合っている。
(岩上氏)国際放射線防護委員会=ICRP、全米=NCRP
(沢田氏)外部被曝については、アメリカの研究結果を元にICRPがそのまま見つめるということになったが、内部被曝についてはカールモーガンが委員長で、彼は放射線研究の第一人者だったが、彼のやっていた内部被曝の研究は発表禁止になった。彼が本で書いている。内部被曝の影響は禁止された。広島・長崎の内部被曝も考えないということ。核兵器を使うということは、ぴかっと光った瞬間の初期放射線というのだが、電気的に1分以内にやってきた放射線を言うが、光った瞬間に人間を貫いているのが、初期放射線。これは距離と共に急速に減少する。広島の原爆の場合は、2.5kmになるとほとんどゼロ。しかしトルーマン大統領が1947年に、ソ連に対抗して将来核戦争が起きた時に、自分と相手の軍隊にどれだけ放射線の影響があるかを調べるためというのが基本的な考えだったと思う。広島・長崎の被爆者の初期放射線の影響を調べると。しかし初期放射線にしぼったというのは、原始帽が出来たて広がっていき、放射性降下物は非常に広範囲に影響がある。(いわゆるきのこ雲)アメリカでもネバダの核実験所で実験した時も、風下100km200kmのところまで流れていくのを彼らは計測している。初期放射線のみに限定すれば、核兵器を使ってもせいぜい2kmくらいで限定できるが、放射性降下物(=内部被曝)を考慮すると、かなり広い範囲に及ぶ。核兵器を使うことが非人道的だと。これは国際人道法により「広い影響を及ぼすものは使ってはいけない」とあるので、核兵器はモロに該当する。世界中から非難を受ける。なのでこうしたデータは無視するという方策を採った。日本を占領した直後から、マンハッタン計画で人体影響を調べていた責任者、ファーレル准将は「広島・長崎では放射線で苦しんでいる人はいない」とした。後に残ることや広い範囲の影響は無視するという基本方策を採った。
(岩上氏)極めて科学的ではない、非科学的な
(沢田氏)政治的
(岩上氏)政治的プロパガンダ、かつ軍事戦略的なプロパガンダだったのですね。
(沢田氏)広島・長崎にトルーマンの命令で、原爆障害調査委員会(=ABCC)が被爆者を対象に調べた。1950年に日本は初めて国勢調査をし、被爆者をチェックした。その被爆者のリストをアメリカに全部渡してしまい、日本政府は被爆者に何の対策も採らなかった。ということは、その調査はアメリカの要請で調査したのではないか。ABCCは広島市に住んでいる被爆者と長崎市に住んでいる被爆者を対象とする寿命調査集団を作った。そして被爆者から初期放射線データをとることをやった。そのために広い範囲で放射性降下物の影響を受けた人たちは、被曝をしていない、近い距離に居た人から初期放射線のデータを取り出すことをやった。結局「遠距離の被爆者は、被曝をしていない、彼らの影響は無視できる」という方策をとった。1975年に日米共同運営になった。これが今の放射性影響研究所=放影研。共同になったが、初期放射線の影響のみ明らかにならず、放影研の方針は変わらなかった。
(38:20-)
(岩上氏)この75年においても、まだ50年代の占領下における主権の無い状態で米ソ対立や、政治プロパガンダたあったりした中、それでもまだ科学的なことを無視して「初期放射線の影響は無視できる」という立場を取ったのですね。それは今でもですか?
(沢田氏)今でも基本的には続いてる。放影研は放射性降下物の影響は無視できるという基本姿勢は変わっていない。裁判をやるとよくわかる。
(岩上氏)先生は、あちこちで被爆者が原告で国を訴える原爆症裁判の原告側にたつ非常に数少ない学者。法律家からも敬意の念を持たれている。そういった裁判の中で放影研の姿勢が現れてくる?
(沢田氏)実は私自身も、放射性(降下物)の影響が深刻だと気が付いたのは、1990年代の終わり頃。それまでは、放射性降下物の影響が少ないといわれ続けていた。それをある程度信じていた。
(岩上氏)ある意味文学者の方が、直感的に言い当てていたと言うことか?例えば「黒い雨」のような?
(沢田氏)「黒い雨」は有名だが、それほど深刻な影響を与えたとは考えられてない。降った地域は限定されている。黒い雨も、これまでも放影研や日本政府の放射性降下物による影響は、雨が降ったあと、放射性物質が地面に残っている状態で、その放射性物質を取り出して測り、どのくらい影響があるかということを調べている。しかし、これは被爆者が受けた影響からすると、2桁3桁も少ないもの。被爆者がどういう被曝をしたかというと、放射性の雨よりも、放射性の微粒子、つまり雨粒ではないもので被曝をしていることが判っている。それに気が付いたのは1990年代の終わりに、被曝手帳をもらった被爆者は検診ができるが、被爆者自身が放射線の影響で自分が病気になったということを、国が認定してくれれば、原爆症認定で特別手当で治療費だけではなく、生活面も含めて支援する。しかし、厚生労働大臣が認めないと認可されない。その認定がどんどん厳しくなっていった。そこで被爆者が199年代に裁判を起こしだした。長崎の被爆者、まつやひでひこさん、京都のこにしたておさんが、10年ほど裁判に取り組んでいた。その最後の段階で、ぴかっと光った瞬間の初期放射線を遠距離では過小評価していることが、裁判で問題になった。
私は、広島・長崎でそういうものを測定するグループに入れてもらっているので、彼らの測定結果を分析すると、遠距離で系統的に過小評価になっていることが判った。それを控訴審の段階で出した。こにしさんの場合は、地裁の段階で初めて裁判所の門をくぐり証人になったのが1990年代の終わり。こにしさんの場合は高裁で勝利して終わり、まつやさんの場合は最高裁までいって勝訴した。しかし厚生労働省は、影響が何だったのかを認めない。その時まつやさんの証人になってくれたわたなべちえこさん、彼女は2800mで被曝している。しかし、髪の毛が抜けた。まつやさんは2455mで被曝したが、髪の毛が抜けた。多くの被爆者はその距離で脱毛している。初期放射線は2.5kmまでしか届かないが、そこのところを実験にあわせて過小評価を是正したとしても、説明できない。裁判には勝ったが、彼女たちの毛が抜けた原因が放射性降下物しか考えられない。ところが、長崎では放射線降下物の影響は、東側の3kmほど離れた西山地域しかないというのが国側の基準になっている。しかし、彼女たちが被曝したのは南側。とうことは長崎でも南側でも放射性降下物の影響があった。雨はそんなに降っていない。とすると、放射線微粒子が充満して、それを吸い込んで病気になったとしか考えられない。
(岩上氏)大気中の微粒子ということ?
(沢田氏)そうです。アメリカ・ネバダでの核実験では黒い雨は降っていない。乾燥した砂漠では雨粒が小さいから、十数分ほど上空に上がるが消えてしまう。後は風下に放射性微粒子として、目に見えない微粒子として流れていく。それは実験だから、あらかじめ測定装置を置いていてどれだけやってきたかを測定している。日本で広島・長崎で原爆が投下されても、そういう微粒子が当然できる。
原爆が爆発して、火の玉ができる。すごく小さな太陽。その中央部分に核分裂でできた大量の放射性微粒子がつまっている。それが上空に上がっていき、冷えて水分を周りの大気から付着させて水滴ができる。水滴ができるから原子雲として認識できる。原子雲の元になるのは、原爆でできた放射線微粒子。真ん中の部分はすごい勢いで上空にあがっていき、10分もしない間に1万数千mまであがっていく。急速にあがっていくので、水滴も急速に上昇し、重くなって落ちてくる。それが黒い雨。ところが、対流圏は大体1万mの高さ。そこから上は成層圏になる。すると今度は温度が上がったりして、上昇する勢いがなくなる。しかし、下からはものすごい勢いで押されるため、横に広がる。長崎の場合はわかりやすい。30分もたたないうちに、20kmくらい水平・円形に広がった。水滴は小さいので落ちてくる途中で蒸発し、またもとの放射性微粒子に戻っている。
その②へ続きます。
インタビュー前に先生から、広島で被爆したときの話を伺って、ショッキングなお話をしていただいた。今見ている人のために、原爆体験を話してほしい。
(沢田氏)当時中学校2年生。当時の中学生は学徒動員。機関銃の弾丸製造工場にいっていた。その日は病気だったので、自宅で休んでいた。その時、原爆が爆発した。ピカドン。爆心地から1400m。気が付いたら、つぶれた家の下敷きだった。もがいてつぶれた家から這い出せたが、周りが暗闇だった。広島全体が破壊されて、埃がすごかった。こげ茶・茶色・黄色・しろと埃の色が変わっていき、周りが見えるようになった。一面広島がつぶれていた。足元で私の名を呼ぶ母の声。「足が引っかかって動けない」母親が、お説教を始める。「自分はもういいから行きなさい」天皇のために生きる教育を受けてきたので、命を大事にするという感覚がなかった。くすぶっていた火が燃え広がり、火事になった。母親に言ったら「もう逃げなさい」でも逃げられない。何時間頑張っていたかわからないが、とうとう火事嵐になり、母親が「今すぐ逃げろ」彼女からは火が見えない「お母さんごめんなさい」といって逃げた。
(岩上氏)つらい体験ですね。周りに助けてくれる人は居なかったのか?
(沢田氏)ときどき大人を捕まえるが、「もう駄目だ」といって逃げていく。父親は、島根に出張中。山の中にいたので、広島で原爆があったなんて全然知らなかった。二日後になって知って帰ってきたが、結局は三日後になった。山にずっといたが、その山から燃える広島を見ていた。あくる日も近づこうとしたが、熱くて近づけない。三日後に近づけたが、まだ下のほうでは火がくすぶっている。母親の遺体があるだろう場所に行くが、陶器が簡単に壊れるくらい熱いところで母親が死んだのだと…。骨を集めて持って帰った。
(岩上氏)先生自身は、その時被曝しているのですね?今はお元気だが、被曝の影響は身体に出たのか?
(沢田氏)当日病気で寝ていたのに、原爆でそんなことはどこかへいってしまい、爆心地から1400mだったし、あまり遠くに逃げる気になれなかった。1550mの河原にずっといた。後から調べたら必ず被曝をしている。しかし放射線の影響がほとんど出ていない。健康状態はいい。放射線については個人差がすごく大きい。
(岩上氏)先生はたまたま遺伝的要素も含めて、影響が出なかった。他の人は影響が出るということを踏まえて…。
(沢田氏)弟は学校に行っていて、ほぼ同じ距離で被曝した。体中傷だらけ。自分は運良く布団に包まっていた。ガラスの破片もほとんど怪我をせずに済んだ。弟は30何箇所傷があった。校舎と一緒につぶれた。でも一人でちゃんと帰ってきた。被曝の影響もあった。65歳になってガンでなくなった。僕は被曝のせいだと思っている。急性症状がなかったことは親に感謝している。
(岩上氏)同じような状況で同じような年齢の方は被曝の症状がもっと厳しかった?
(沢田氏)同じ距離で被曝した人の多くが、髪の毛が抜けたり急性症状を発症していた。個人差が大きいということを踏まえないと。
(岩上氏)生き残って元気な人を判断基準にしたら、大きな間違いということですね。こういう体験があって、研究に入られた?
(沢田氏)いや。子供の頃から理科が好きだった。原爆が落ちる前、「子供の科学」を読んでいた。1943年に「アメリカでは原子力爆弾を作っている」という記事があったが、まさか自分のところに落ちるとは考えていなかった。科学が好きだった。それで大学も物理学を研究。中学から「自然」という雑誌を購読し、意味がわからないなりに読んでいた。
(岩上氏)広島の1000倍の水爆がビキニ諸島で実験されたのですか・・・。大衆娯楽でいうと、この実験のせいでゴジラが出来たんです。
(沢田氏)広島の原爆の場合は1万5000トンの火薬を一瞬で爆発させるものだった。15キロトン。水爆の場合は15メガトン。広島の1000倍の破壊力。自分の専門にしようとしている物理学でこの水爆を作っている、このままいくと人類が核戦争で絶滅してしまうと考えた。いろいろな場所で議論し、原子爆禁止広島学生協議会を組織した。実行委員長になって署名運動などした。主にしたことは、(今では考えられないが)広島市と広島県から5000円ずつ助成金をもらって、原水爆展、展示を作ることをやった。勉強したこと、原爆・水爆・放射線の恐ろしさを伝える責任があると考えた。5000円は当時の月給くらい(50万円程度)なので、100万円もらって40数枚のパネルを作り、広島の平和公園で展示した。黒山の人だかり。広島の原爆資料館がないとき。ちょっと冷えすぎ…
(20:00-)エアコン調整・・・
平和公園で展示し、いろんな新聞社や国鉄に協力してもらったりした。
(岩上氏)今とは全然雰囲気が違いますね。
(沢田氏)学生だったから、ちょっと生意気だったんだと思う。
(岩上氏)学生の自主性を行政が認め、労働組合やいろいろな機関が手を携えて、そういう自由な空気だったのですね。1954年頃ですか。
(沢田氏)国民的に行政も学生と一緒にやっていくという雰囲気があった。
(岩上氏)今は行政がそういったことをすることは、考えられない。
(沢田氏)考えにくいでしょうね。学生の意識も(国によって違うだろうが)、学生が一般社会に対してどうしていくかなど、そういう発想はできないんじゃないか。当時の学生はそうだった。僕たちが原爆展が初めてかと思ったら、2,3年前に
京都大学生でやっていた。そういう時代。
(岩上氏)世の中が右と左に分かれるとか、内向きになっていくとか、左右も制度化していくとか、そういったことが60年代70年代に起こり、80年代以降はそれが様式化してしまった。それ以前は、風通しのいいものだったのですね?日本中、どの立場にあろうが目を皿のようにして・・・、みんな関心があった。
(沢田氏)日本中関心をもってやり始めた。日本国憲法はあったが、この原水爆禁止運動が起こったことが、こういう問題を自分の頭で考える、民主主義・平和が浸透するきっかけになったと思っている。憲法が出来た時は、大衆運動があったわっけではなかったから。大きな国民的運動が起こったのは、1954年のこの原水爆禁止運動が初めて。日本の国民が民主主義や平和を考えるのに大きな役割を果たした。その後の安保条約反対闘争へ繋がっていく。アメリカはそれを恐れて、CIAなどを使って工作を始めた。
(岩上氏)55年体制ができあがる、前夜ですね。社会党の合同、保守の合同、細かくまた分かれていって、両極になりながらも、補い合っているという政治構造ができあがっていく。
(沢田氏)原発の問題もちょうどその頃からスタートしている。核兵器廃絶の問題と原発問題と日本社会の体制化していく、ちょうどその頃が一番おおきな瀬戸際だった。その頃学生だった自分にとってはすごく大きな影響だったと思う。その後ずっと継続して、原水爆禁止運動を今日まで続けてきた。日本国民的運動が起こったので、科学者も一緒に運動した。世界の科学者は必ずしも民衆と結びついていないが、日本の科学者は国民と一緒に取り組んできた。これは特徴。放射線の影響が深刻だとわかったので、日本政府に要求してビキニ周辺の調査をし、日本は特に魚でたんぱく質を取っていたので、持って帰るマグロは全部汚染されていた。政府に要求して科学者を船に乗せて調査した。それを世界の科学者に伝えた。その科学者がラッセル。ラッセルはイギリスBBC放送でその深刻さを訴えた。世界中の科学者にも共有すべきとアインシュタインを説き伏せた。このまま原水爆を作っていくと、核戦争で人類が滅亡する可能性がでてきた。そこでラッセル・アインシュタイン宣言を出してくれた。彼らの考えは、当時は米ソの水爆の開発競争をやっていて、どんどん険悪な状態になっていた。政府間で話し合う状況下ではなかった。しかし、科学者なら国際会議でできる。アメリカの科学者、ソ連の科学者、世界中の科学者が集まって国際会議で核兵器をなくす問題を議論してほしい、という訴えがラッセル・シュタイン宣言です。そのなかにビキニ島で第5福竜丸が被曝したことも入っている。日本の科学者が調査し報告したものが、ラッセル・シュタイン宣言へ繋がっている。1955年に宣言が出され、アメリカの科学者もソ連の科学者も政府とは違う立場で会議を開こうとするのだから、政府は旅費など出さない。でもお金がない。2年後にやっとカナダの金持ちの別荘をかりて、パゴシ会議が開催され、今日までずっと続いている。
(岩上氏)なるほど。先生は、こういう時代背景と原水禁運動に関わる中で、学生としては素粒子物理学を勉強され、こういう大きな事件も起こる。その中で放射線の影響というものは、当初は作用基準やメカニズムなどわかっていなかったですよね?例えば遺伝子にどういった影響があるか、それは学問の発達と共に判ってきた…
(沢田氏)DNAが判ってきたのは1960年。DNAが二重螺旋構造になってそれで人間に対する放射線の影響を受けて、細胞分裂のときに次の細胞に継承される。
(岩上氏)傷が付くとは要するに二重螺旋構造が切断されてしまう、そういうことがだんだん判ってきたと。それ以前は放射線の影響は、表面的なものしか、例えば火傷とか・・・
(沢田氏)臨床的なこと。深刻だということが判ってきたのが、1950頃から。それ以前も研究者が研究しながら自分自身も被曝している。キュリー婦人も被曝に気づかないで白血病。DNAがはっきりわかったのが1960年。1950年の時点で深刻だとわかっていた。だから広島・長崎の被爆者の研究が非常に大事な役割を果たしていた。
(岩上氏)ここは非常に重要なところ。今日話を伺いたいところの大きな柱の一つ。今ICRPという団体は、一般国民は知らなかったそういう団体。国際機関の基準が唯一絶対の基準のように言われている。「ICRPの基準によればこうだ」とICRPの言っていることの解釈をめぐって、例えば「1mSV」は許容できる範囲内だが、それを20mSVにしたときには、「これはICRPのどこどこを理由に・・・」などと議論が展開されている。毎日のように統合会見が行われ、毎日中継しているが、記者と政府、細野さん、東電、保安院などの問答がこのICRPの基準をめぐってどのように解釈するかという点に集中しがち。共有されている前提はICRPが唯一絶対の基準であるということ。でも、そうではないらしいと他の先生から聞いている。マンハッタン計画というものがICRPの始まり・・・
(沢田氏)1940年代の終わり頃に、それまであった委員会をなくして国際放射線防護委員会が作られた。その時アメリカも全米放射線防護委員会を1940年代最後に作った。そして、狙いは放射線防護の問題をアメリカがイニシアチブを取ろうとしたが、全米も国際もそれぞれがパラレルに分科会を作った。内部被曝の分科会、外部被曝の分科会など。アメリカの委員長が、そのまま国際の委員長を兼ねるなどして重なり合っている。
(岩上氏)国際放射線防護委員会=ICRP、全米=NCRP
(沢田氏)外部被曝については、アメリカの研究結果を元にICRPがそのまま見つめるということになったが、内部被曝についてはカールモーガンが委員長で、彼は放射線研究の第一人者だったが、彼のやっていた内部被曝の研究は発表禁止になった。彼が本で書いている。内部被曝の影響は禁止された。広島・長崎の内部被曝も考えないということ。核兵器を使うということは、ぴかっと光った瞬間の初期放射線というのだが、電気的に1分以内にやってきた放射線を言うが、光った瞬間に人間を貫いているのが、初期放射線。これは距離と共に急速に減少する。広島の原爆の場合は、2.5kmになるとほとんどゼロ。しかしトルーマン大統領が1947年に、ソ連に対抗して将来核戦争が起きた時に、自分と相手の軍隊にどれだけ放射線の影響があるかを調べるためというのが基本的な考えだったと思う。広島・長崎の被爆者の初期放射線の影響を調べると。しかし初期放射線にしぼったというのは、原始帽が出来たて広がっていき、放射性降下物は非常に広範囲に影響がある。(いわゆるきのこ雲)アメリカでもネバダの核実験所で実験した時も、風下100km200kmのところまで流れていくのを彼らは計測している。初期放射線のみに限定すれば、核兵器を使ってもせいぜい2kmくらいで限定できるが、放射性降下物(=内部被曝)を考慮すると、かなり広い範囲に及ぶ。核兵器を使うことが非人道的だと。これは国際人道法により「広い影響を及ぼすものは使ってはいけない」とあるので、核兵器はモロに該当する。世界中から非難を受ける。なのでこうしたデータは無視するという方策を採った。日本を占領した直後から、マンハッタン計画で人体影響を調べていた責任者、ファーレル准将は「広島・長崎では放射線で苦しんでいる人はいない」とした。後に残ることや広い範囲の影響は無視するという基本方策を採った。
(岩上氏)極めて科学的ではない、非科学的な
(沢田氏)政治的
(岩上氏)政治的プロパガンダ、かつ軍事戦略的なプロパガンダだったのですね。
(沢田氏)広島・長崎にトルーマンの命令で、原爆障害調査委員会(=ABCC)が被爆者を対象に調べた。1950年に日本は初めて国勢調査をし、被爆者をチェックした。その被爆者のリストをアメリカに全部渡してしまい、日本政府は被爆者に何の対策も採らなかった。ということは、その調査はアメリカの要請で調査したのではないか。ABCCは広島市に住んでいる被爆者と長崎市に住んでいる被爆者を対象とする寿命調査集団を作った。そして被爆者から初期放射線データをとることをやった。そのために広い範囲で放射性降下物の影響を受けた人たちは、被曝をしていない、近い距離に居た人から初期放射線のデータを取り出すことをやった。結局「遠距離の被爆者は、被曝をしていない、彼らの影響は無視できる」という方策をとった。1975年に日米共同運営になった。これが今の放射性影響研究所=放影研。共同になったが、初期放射線の影響のみ明らかにならず、放影研の方針は変わらなかった。
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(岩上氏)この75年においても、まだ50年代の占領下における主権の無い状態で米ソ対立や、政治プロパガンダたあったりした中、それでもまだ科学的なことを無視して「初期放射線の影響は無視できる」という立場を取ったのですね。それは今でもですか?
(沢田氏)今でも基本的には続いてる。放影研は放射性降下物の影響は無視できるという基本姿勢は変わっていない。裁判をやるとよくわかる。
(岩上氏)先生は、あちこちで被爆者が原告で国を訴える原爆症裁判の原告側にたつ非常に数少ない学者。法律家からも敬意の念を持たれている。そういった裁判の中で放影研の姿勢が現れてくる?
(沢田氏)実は私自身も、放射性(降下物)の影響が深刻だと気が付いたのは、1990年代の終わり頃。それまでは、放射性降下物の影響が少ないといわれ続けていた。それをある程度信じていた。
(岩上氏)ある意味文学者の方が、直感的に言い当てていたと言うことか?例えば「黒い雨」のような?
(沢田氏)「黒い雨」は有名だが、それほど深刻な影響を与えたとは考えられてない。降った地域は限定されている。黒い雨も、これまでも放影研や日本政府の放射性降下物による影響は、雨が降ったあと、放射性物質が地面に残っている状態で、その放射性物質を取り出して測り、どのくらい影響があるかということを調べている。しかし、これは被爆者が受けた影響からすると、2桁3桁も少ないもの。被爆者がどういう被曝をしたかというと、放射性の雨よりも、放射性の微粒子、つまり雨粒ではないもので被曝をしていることが判っている。それに気が付いたのは1990年代の終わりに、被曝手帳をもらった被爆者は検診ができるが、被爆者自身が放射線の影響で自分が病気になったということを、国が認定してくれれば、原爆症認定で特別手当で治療費だけではなく、生活面も含めて支援する。しかし、厚生労働大臣が認めないと認可されない。その認定がどんどん厳しくなっていった。そこで被爆者が199年代に裁判を起こしだした。長崎の被爆者、まつやひでひこさん、京都のこにしたておさんが、10年ほど裁判に取り組んでいた。その最後の段階で、ぴかっと光った瞬間の初期放射線を遠距離では過小評価していることが、裁判で問題になった。
私は、広島・長崎でそういうものを測定するグループに入れてもらっているので、彼らの測定結果を分析すると、遠距離で系統的に過小評価になっていることが判った。それを控訴審の段階で出した。こにしさんの場合は、地裁の段階で初めて裁判所の門をくぐり証人になったのが1990年代の終わり。こにしさんの場合は高裁で勝利して終わり、まつやさんの場合は最高裁までいって勝訴した。しかし厚生労働省は、影響が何だったのかを認めない。その時まつやさんの証人になってくれたわたなべちえこさん、彼女は2800mで被曝している。しかし、髪の毛が抜けた。まつやさんは2455mで被曝したが、髪の毛が抜けた。多くの被爆者はその距離で脱毛している。初期放射線は2.5kmまでしか届かないが、そこのところを実験にあわせて過小評価を是正したとしても、説明できない。裁判には勝ったが、彼女たちの毛が抜けた原因が放射性降下物しか考えられない。ところが、長崎では放射線降下物の影響は、東側の3kmほど離れた西山地域しかないというのが国側の基準になっている。しかし、彼女たちが被曝したのは南側。とうことは長崎でも南側でも放射性降下物の影響があった。雨はそんなに降っていない。とすると、放射線微粒子が充満して、それを吸い込んで病気になったとしか考えられない。
(岩上氏)大気中の微粒子ということ?
(沢田氏)そうです。アメリカ・ネバダでの核実験では黒い雨は降っていない。乾燥した砂漠では雨粒が小さいから、十数分ほど上空に上がるが消えてしまう。後は風下に放射性微粒子として、目に見えない微粒子として流れていく。それは実験だから、あらかじめ測定装置を置いていてどれだけやってきたかを測定している。日本で広島・長崎で原爆が投下されても、そういう微粒子が当然できる。
原爆が爆発して、火の玉ができる。すごく小さな太陽。その中央部分に核分裂でできた大量の放射性微粒子がつまっている。それが上空に上がっていき、冷えて水分を周りの大気から付着させて水滴ができる。水滴ができるから原子雲として認識できる。原子雲の元になるのは、原爆でできた放射線微粒子。真ん中の部分はすごい勢いで上空にあがっていき、10分もしない間に1万数千mまであがっていく。急速にあがっていくので、水滴も急速に上昇し、重くなって落ちてくる。それが黒い雨。ところが、対流圏は大体1万mの高さ。そこから上は成層圏になる。すると今度は温度が上がったりして、上昇する勢いがなくなる。しかし、下からはものすごい勢いで押されるため、横に広がる。長崎の場合はわかりやすい。30分もたたないうちに、20kmくらい水平・円形に広がった。水滴は小さいので落ちてくる途中で蒸発し、またもとの放射性微粒子に戻っている。
その②へ続きます。
私のTWで・・・ 責任を取るべき人が 責任から逃げ 責任のない人に 責任を押し付ける :皆が目覚めて この国を変えないと 弱いもの 力のないもの が犠牲になる 目の前の 小さな不正義 を見て見ぬふりをすることは 結局 もっと大きくなって 自分や家族に降りかかる 私達の生き方が 問われている
>>岡田さん
コメントありがとうございます。
皆が現実を直視し、覚悟を決めて新しい日本を作っていく時がきています。少しでもよい未来を残せるよう、私たちの責任を果たしていきましょう。
失礼します。