※この記事は、、百人百話シリーズの第52話です。前回は3月8日【内容起こし】IWJ 百人百話 第52話 吉成洋拍さん『親父の家業を継いで』【その①】です。

【動画】3月12日 百人百話 第五十三話 鈴木則雄さん
http://www.ustream.tv/recorded/21060457 (77:30)

【以下、お時間の無い方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2011年11月16日収録
Q.自己紹介をお願いします。
 郡山市で生まれて郡山市で育って、54歳の鈴木則雄といいます。
 仕事は郡山で郡山コミュニティ放送という放送局をやっています。妻一人、10月に生まれたばかりの赤ん坊が1人、3人家族です。
Q.生まれ育った環境はどんなだったんですか?
 いわゆる旧家でして、お盆やお正月になるとものすごい親戚がいっぱい集まってみたいな、そんな家だったんですけれども、商売やってたんですね。明治時代には、なんか立派な屋号を持った商店だったというような感じでした。

 今は、代替わりするたびにどんどん資産をちょっとずつ減らしているという感じなんですけれども、不動産賃貸業というようなことでやっています。
 郡山っていう町は、そうですね・・・若いころは「郡山にひと風吹かせてやろう」みたいなこと思ってた時期も確かにありましたけど、風が吹いたかどうだかいろんなことをやってきましたが、ある程度歳もいってから見てみると、郡山って意外と保守的なんだなと。なかなか大きくは変わらない町なのかなというふうな感じはしてます。
【コミュニティFM開設の経緯】
 自分は、大学、音大に高校生の時に郡山にワンステップフェスティバルというのがありまして、間近で見まして非常に感化されまして、「バンドやりたい!」と思って、高校2年生のときに、
「親父、俺バンドやるから学校やめようかな」
みたいな話をしたら<苦笑>
「ちょっと待てよ。学校やめなくてもバンドはできるだろ?大学行ってもバンドはできるだろ?」
といわれまして、「なるほど考えてみればそれもそうだな」と思って、
「でもバンドをやるために学校行くんだったら、そんな経済とかやってもしょうがないし、じゃあ音大いくわ」
って言って、高校2年生から進路をガラッと変えて音大受験になったんですけど、ピアノも弾けなかったんですけど、受験にピアノが必要って実は知らなくて、そこからピアノ始めて、なんとかギリギリ入れてもらって。
 それで音楽一生懸命勉強して、音楽関係に仕事に就いて、ロックバンドの事務所だったんですけど。いろいろやってるうちに自分もちょっとやってみるようなことになってしまって、ちょこっとやったりしました。それでそのバンドをやってる頃に、両親が事故を起こしまして・・・ロックバンドの事務所といっても、非常にしきたりのある音楽事務所畑の系列の事務所だったので、
「親の死に目にも会えないのが板の上に立つ人間の宿命なんだ」
みたいな話をされて、たまたま僕はそのバンドのリーダーだったので、他のメンバーはどうするんだ?という話になりまして、またそこでいろんな選択もあったんですけども、バンドの仲間も大事だけど、親はもっと大事だと。バンドの仲間に判ってもらって、バンドを解散して自分は郡山に戻りました。
 いろいろできることをやろうということで、うちの中でできることをいろいろやりつつ、自分がやってきたことを郡山で活かせないかなということで始めたのが録音スタジオだったんですけど、ラジオ局を作ることになって音楽関係の仕事をやった、レコーディング関係の仕事をやったってことはものすごく大きく役に立って、使う道具は一緒なんですね。マイクとミキサーで。だからそこから先が音響屋さんはスピーカーだし、僕のような録音屋はそこから先テープレコーダだし、ラジオ屋さんはそこをアンテナになってる、それだけの違いで入り口と途中経過はほとんど一緒なので、どんどんとラジオ局開局へできるようになりました。
Q.コミュニティFM放送とは?
 コミュニティ放送っていうのはその名のとおり、コミュニティに放送する放送局でして、コミュニティ=人々の生活圏ですね。行政区に影響されずに買い物はここに行くんだっていうのが、まぁそれはコミュニティなんですけども、実際のところ、今平成の大合併じゃないですけど、あちこちで統合されて大きな意味で「市」というくくりになってしまったので、各市に一つというのがコミュニティ放送局というような感じです。
 これは、郵政省と昔は郵政省の管轄だったんですけど、FM局を各県に一つ作りましょうということが充分に行き渡って達成されたので、次の目標として各市に一つあったらいいんじゃないのかということだったんですね。それで福島県には、福島市、いわき市、会津若松市、喜多方市、本宮市ともうすでに5つの市で開局していて、
「郡山に無いのはなんでだろう?」
ということは常々疑問に思ってたんですね。
 どんな放送をしてるかっていうと、電波がまず届かないんですね。そのコミュニティを越えては。ですので、本当にコミュニティに限った内容の話だけなんです。例えば、電話番号を言う時に市外局番はいらないとか、住所を言うのにいきなり何々町何丁目という「郡山市」というのを省いて話すとか、具体的にいうとそんなような放送局なんです。これは、全国に今260局くらい開局しています。
 阪神淡路大震災以降に急激に注目されて、どんどんできたというのがこの放送局です。
 地震の時に、非常に有益だったという報告が阪神淡路大震災から報告されて、実際には阪神淡路大震災で活躍したのはミニFMだったんですけど。ミニFMっていうのは、免許申請なくて開局できる非常に小さな放送局なんですけれども、そういったものでも放送局というのは有効であるということが立証されて、いろんなところがいざという時に備えて放送局を作りました。
 阪神淡路大震災の時に、みんなで放送して役立った情報っていうのは、やはり生活情報なんですね。実際、例えば、大きなNHKとか大きなテレビ局のニュースとか見てると、
「こんな大きな事故がありました。被害はこのくらで、何人の方々が大変です」
というような放送をされますけど、現場ではその情報は大した意味を成さないんですね。それよりも大事なことっていうのは、「今路頭に迷ってるけど一体どこに行ったらいいんだ」ということやら、或いはもうちょっと落ち着いてからですと、「水が無くなったけど水はどこに行ったらもらえるのか」とか、「ゴミ溜まっちゃったけどこのゴミどうなるんだ」とか、そういったことを流してくれる放送局が必要だったんですね。
 その放送っていうメディアが垣根泣く飛び越えていける、その現地に物を配らなくても伝えることができる。たいていの場合にはそのトランジスタラジオということで、インフラが止まっても、電気が止まっても電池で聞くことができるということで、その情報伝達ツールとしてもものすごく威力を発揮したんです。
 そのことは中越地震の時にもやはり立証されて、それ以降ちいさな市町村では
「防災無線設備を設備する投資よりも、コミュニティラジオを開局する方がいい。お金がかからない」
ということで町が応援してコミュニティ放送が開局するという風潮になりました。
Q.コミュニティFM放送に関わるようになったきっかけは?
 僕がコミュニティ放送局に関わるようになったきっかけというのは、会津若松市なんですね。会津若松市がコミュニティ放送局を開局しようという動きを起こしたんです。会津若松市というのは、非常に進取の気性に富んだ町で、会津大学という大学がありますけども、その布石といってはなんですけども、ニューメディアに対する意識が非常に高くて、コミュニティFMを開局したいということになって、実はそのFMラジオ局の中にはもう一つくくりがありまして、イベントFMっていうFM放送局があるんですね。これは期間限定でできる放送局で、お金も大してかからないということで、コミュニティFM曲を開局するリハーサルとして非常に最適な放送局で、そういう意味でコミュニティFM曲の開局を見据えてイベントFM局を立ち上げるということで、イベントFM局のミキサーに実は抜擢されまして、当時フリーな立場のミキサー、音響エンジニアっていうのは福島県内に僕くらいしかいなかったんですね。皆さん大きな会社とかホールとかにお勤めで、フリーな立場の方はいらっしゃらなくて、僕は自分で会社やってましたけど個人事業ですのでフリーランスといえばフリーランスなので、フリーランスミキサーということで抜擢されて、非常にラッキーだったのは企画の段階から一緒に携わることができて、まずはじゃあ先進地視察ということで、日本全国のいろんなイベントFM局ですとかコミュニティ放送局とか会津の人たちと一緒に視察して回ったんです。
 それで、「なるほど、こういうふうにすればできる」とか「こういう時に役立てるのがコミュニティ放送局なんだ」とか、そういうことをその時に一緒に学びました。
 ほとんど同時に会津と福島といわきと三つが1年くらいの差があったかもしれないですけど、同じくらいの時期にできまして、会津で手伝ったということでいわきでもちょっとお手伝いさせてもらったりとか、福島、いわきとできて、
「じゃあ次は郡山の番だね、じゃあ郡山で僕は一生懸命やりますので、皆さんよろしくお願いします」
といって郡山に帰ってきて、「郡山でやりましょうよ!」って声挙げたんですけど、そのころは郡山市では県一のFM局を郡山主導で立ち上げるということに一生懸命で、
「この時期にコミュニティFMをっていうのはちょっとお前空気読めよ」
みたいなことを言われちゃいまして、
「え?ダメなの?」
って言って。僕、まどろっこしい根回しとか苦手なたちで、直接会議所の会長のところに行って「やりたいんですけど」って言ったら、
「ダメだ!」
の一言で終わっちゃいまして。
 ダメだって言われたのは、14年前です。思いだした。青年会議所入ってたんですけど、郡山には青年会議所と商工会議所青年部というのと、似たようなのが二つあったんですけど、会津もいわきもコミュニティFMの立ち上げを一生懸命やってたのは商工会議所青年部の方だったんです。そのネットワークというのがあったので、これを使いたいなと思ったので、僕はそれで商工会議所青年部に入ったんですね。コミュニティFM局を開局する目的で。
 ただ、既に青年会議所のほうもやっていたので、両方できないなと思ってたんですが、青年会議所は40歳で卒業というのがあって、40歳で卒業したと同時に商工会議所青年部に入って、その当時は48歳までできたので「8年居れば開局できるだろう」と思って入って、そういう活動をしたんですけども。
Q.郡山にコミュニティ放送局を作りたかったのはなぜですか?
 郡山って、僕が過ごしていた高校生までの郡山、ものすごく良い町だったんですね。割と町中に住んでいたっていうのもあるんですけど、街中に無いものはないという状態で、なんかあるとものすごい人が集まって、日曜日とか・・・なんでしょうね、一時期の原宿・竹下通りくらいの賑わいで、「なかなか前に進まないよ、この道」っていうのが郡山だったんですね。非常に景気も良くて。
 ところが、大学終わって仕事を東京でやって帰ってきてみたら、ちょっと違うぞというような陰りが見え始めていて、郊外型にドーナツ化現象がもう既に始まっていたところで、
「これはどうなんだろう?」
という思いがまずそのときにあって、みんなで町中活性化みたいな話が盛り上がったんですけど、町中がドーナツ化が起こって皆郊外に拡大していって、すっぽりなにも無くなってしまったというところを活性化するっていうのは、聞こえはいいですけれども、町中っていうのは要するに旧家が多くて、商工会議所の席に顔を並べるような旦那さま方が町中であって、活性しなくなっちゃったから、活性化を商工会議所を使ってするっていうのは、ちょっとおかしくない?っていうのが実は僕の考えで、
「拡大してくのはしょうがないじゃない。それを拡大するっていうのはむしろ喜ばしいことじゃないの?スクラップビルドするいいチャンスじゃないの。ドーナツ化してしまって何もなく空き地になったっていうんだったら、こんないいチャンスないじゃないの」
と思うんですけど、そう考えずに昔の栄光を取り戻したいというような感じで町中活性化を叫ぶということが、どうも腑に落ちないなという思いがあって、「広がったんなら広がったなりに交流させればいいじゃない」っていうのが僕の考えだったんですね。
 広がっちゃうとどこに何があるのか、実はなかなか把握できない。若い人たちは若い人たちなりのネットワークで、どこに行けばあれあってっていう話になるんですけど、僕くらいの歳になってくると、例えば
「靴を買おうかな、あれ?靴屋なくなってるしどこに行けば買えるの?靴は履かなきゃ絶対わかんないよな。」
っていう信念の持ち主だったんですけど、ある時インターネットで買ってみたらぴったりのが買えて、
「これはお店無くなるわ」
って思ったのが・・・正直その時の僕の気持ちですね。
 ここにコミュニティ放送があったらば、ちゃんと情報伝えられるんじゃないのかな。いろんな人が聞くわけですから、若い人たちばっかりじゃなくて、年配の人も聞いて、
「なんだ、そこに行けばこういう店もあったんだ」
というようなことがそこで判るようになれば、本当にこの血の通った町になって循環がよくなって、循環が良くなるっていうことは道路もよくならなきゃいけないわけですから、大きな意味で郡山がどんどん発展していくんだろうというふうに、そういったことに寄与できるんじゃないかなというのがコミュニティ放送やりたいなと思った大きな理由なんです。
【3.11当日】24:00
 放送局の中でした。放送局でCDが並んでる棚があったんですけど、CDが目の前を飛びあってるんですよ。最初のうちは押さえてましたけど、押さえられるもんじゃない。身の安全をと思ったけどどうしていいかわかんなくて、立ち尽くしていたっていう感じですね。
「もう収まるだろう、もう収まるだろう」
と思ったけど収まらない。いつまで続くの?っていう感じでしたけど、それでも生放送を続けながらやっていました。
Q.放送はできたんですか?
 できました。ただ、揺れがあまりにも長かったせいでアンテナマストが倒れていたんですね。アンテナのマストは倒れたけど、アンテナのエレメント三つあったんですけど、そのうち二つが生き残ってて、その二つから出てる電波でなんとか放送は続けられました。
 何が起こってる、どうなるっていうのが全く判んない状態で、その前に地震があった時だと思うんですけど、地震が起これば気象庁の情報を見てとか、冷静にやってたと思うんですけど、そうなはれなかったですね。もう・・・とにかく、「みんな大丈夫か?」って。その時にやってたパーソナリティさんもそのまま放送続けていたので、
「わかった。じゃあこのまま放送続けよう」
「大きな地震がありました。詳しい情報は集めています。お待ちください」
というようなことを繰り返し放送して、まぁ・・・ネットが瞬間的にダウンしてしまって、「情報を得られないぞ、これは」ということで、郡山市と災害協定とか結んでましたけど、郡山市は肝心の市庁舎が被災して全く機能しなかったんですね。市からのそういった情報が来たのは、その日の夜ですかね。自転車に乗って情報が届きました。
 とにかくどういった情報があるんだというときに、
「足で稼ぐしかないな。市内行けるところは行ってみよう。あそこはどうなってるんだ。そこはどうなってるんだ。」
っていうような情報をみんなで集めて放送してました。
Q.震災後、まず伝えなくてはと思ったのはどのようなことでしたか?
 まずやんなきゃいけないと思ったのは、情報よりも生の声を伝えて
「あなた一人じゃないんですよ。ここにラジオ局があって、あなたの声を待っていますよ。助けてほしいなら助けてということを伝えてほしい」
ということですね。
 それぞれがやっぱり不安な気持ちになると思うんですよ。超不安な気持ちになっていて、何が起こったんだろうと思ってテレビをつけるわけです。テレビをつけると、津波にのまれてる画像しか流れてこないわけです。
 これ、余計不安になりますよね?
「浜の方は大変なことになってんだ・・・だけど郡山のこっちは家は倒れてるのに、誰もここのこと一言も言わないけど、郡山って忘れられてるの?」
とか、
「郡山は序の口で、日本中が実はもっと大変なことになってるの?いや、でも東京は電気ついてるしな」
とか、余計不安になっちゃうんですよね。
 その時に不安になるんじゃなくて、一緒に郡山に居て一緒に大変だねって寄り添うっていうのかな、同じ立場に立ってる人はいるよということを伝えるだけでも、それだけでも十分価値のあることだと、そう思いました。
 まずはうちのパーソナリティをやっていた人たちがあちこちから自発的に集まってきてくれて、
「ここを通ってきたときにはこんなだった」
「こっちの道はひび割れてたよ」
「信号はみんな止まってました」
とかそういった様子を伝えて、自転車で取材に行って。取材に行っても結局は「立ち尽くしてる人がいました」というような話しかないんですけども、最初のうちは。
 一晩というかその夜に郡山市から自転車に乗って情報が届いて初めて「避難所がありますよ」という話を皆さんに放送して、「避難所に皆さん避難してください」と。何か所あったかな、100か所近くあったんじゃないですかね。小学校とか公民館とか、大きなところは却ってなかったですね。大きな天井がみんな落ちちゃって。公民館くらいのようなところのほうがいっぱいあって、そういうところに皆さん避難していて。
 段々に通信状態が回復してきて、FAXが使えるようになり電話が使えるようになり、インターネットも使えるようになって、避難所情報とかそういったものは本当に頻繁に更新されて流れるようになりました。
Q.震災直後、原発の情報は郡山に届いていましたか?
 全く無かったですね。原発に関する情報というのは。
 だって、浜通りの人たち、原発10㎞圏内20㎞圏内の人たちを郡山市は受け入れてたわけですから避難先だったわけですね。
「郡山に避難してくるんだから、郡山は安全なんだろう」
と思ってましたね。
 あの時にものすごいプルームが流れていったということは、誰一人判らなかったと思います。
 郡山人として浜通りの人たちが皆さんがやきだされてる、逃げ出してくるという状態をなんとかして暖かく受け入れてあげられないものかと、みんなそっちのほうに頭がいっていて、ボランティアで炊き出し部隊の人がいたりとか、布団を集める係をやるとか、そんな状態でしたね。
 外出制限をしようとかっていう話は一言も誰も無かったです。
 その時は、政府発表のほうを信じたんですね。米国は80㎞といって、政府は最初2㎞とか5㎞とか一桁言ってて、最終的に20㎞は避難という話になって、米国は80㎞で政府は20㎞避難して、実際20㎞圏内の人を40㎞くらいの田村町とかに避難させている・・・。郡山は60㎞・・・。これは大丈夫なんじゃないの?という・・・そう思ってしまいましたね。
 まず根拠は何かというと、大した根拠は無いですね。やっぱ「政府が言うんだから」っていうことと、「現に避難してきてる人たちが来てるのがここ。ここは避難地なんだ。危ないとこに避難するわけないじゃない。」っていう、その辺で・・・アメリカ80㎞っていうのはちょっとオーバーなのかなっていう感じでした。
 ただ、これがどうなんでしょう。60㎞っていう郡山だったからそう思ってて、30㎞くらいのところにいたらどうだったろうなと思いますね。20㎞で避難っていわれて、仮に21㎞地点にいたらやっぱり言われなくても避難したと思います。じゃあ22㎞なら、23㎞ならっていって、30㎞も避難したかな・・・。それを考えていくと、どこからの距離だったらという話になりますけど、なぜか「郡山は大丈夫なんだ」という勝手な思い込みがありましたね。
 あとから「中通りを流れていったんだ」っていう・・・「あ、そういうものなんだ」っていうのはその時初めてわかったわけですよね。それまでは、同心円を気にしていて、原子力発電所から直接放射能が出てるものだと思ってたので、「距離があれば大丈夫、山もあるし大丈夫」そんなことだったんですね。
 それがある物質について風にのって流れてくるっていう、「じゃあ気にしなきゃいけないのは風なんだ」っていうのは、もう通り過ぎた後に気づいてるわけで、うーん・・・。
【山下俊一教授】35:20
 あの・・・まぁ福島県の環境アドバイザーということで山下さんが就任されて、精力的に福島県内回って講演会を開いて、ものすごい人がいっぱい集まってました。
 うちの放送局でもそれを生中継したんですけども、うん。その時はみんな山下教授の話を、郡山にきたのは高村さんという方だったんですけど、高村さんの話を聞いて、
「ほら、やっぱり安心だったじゃない」
といって・・・、一般市民が望んでいるような話をしていってくれたんですね。
「外遊びしても大丈夫だよ」
「手さえ洗ってれば大丈夫ですから」
という話をされて・・・うちの放送局もそれを放送して、それに被せるように
「皆様、そういうことですので、手洗いに気を付けて生活しましょうね」
くらいの放送をしてしまっていたわけですね。
 ですが、まぁ大手マスコミは、やはり枝野長官が「ただちに健康に影響はない」という話を繰り返し放送しているし、実は「そうじゃなくてもっと気をつけなきゃダメだよ」っていうことは、やっぱりどこから伝わったのかなというと・・・、どうなんだろう?いろいろ思うとやはり・・・そういういち早く危険性に気づいている人がやっぱり呼びかけて、本当に本当に個人的な市民活動を始めていて、例えば矢ケ崎さんですとか武田先生とかそういった先生を呼んできて講演会を開いて、
「のんびりしてる場合じゃないんですよ」
という話をしていただいた。残念ながら、自分にはそういったチャンネルを開いてなくて、そうやって呼んでくださった、そういう講演会があって
「よし、じゃあ取材だ、行こう!」
って自分は全然単なる取材のつもりで出かけていって話を聞くと、
「ちょっと待てと。県のアドバイザーと言ってることと随分違うじゃないか。悉く県のアドバイザーの言ってることは間違ってる」
ということを説明してくれる。ものすごく丁寧に。それはものすごく納得できて、「うん、確かにそうだ」と。それは県や国がいうことは間違ってる。
 年間20mSvに落ち着いたという話がありますけども、実はその時には山下教授に福島県の知事は「100mSvと言ってくれ」とお願いしたそうです。
「そうじゃないと福島県に誰もいなくなっちゃう。100mSv安全というふうに言ってくれ」
というふうにお願いしたという話があって、何を優先させるのか、福島県に人が居なくなってしま・・・うってことがそんなに・・・一時的にですよね。一時的にでもほんとに避難して、それがそんなに大変なことなのかと実際に行っても浪江町とか葛尾村とか、誰も居ない町になってるじゃないですか。
 それが福島県全体に拡大・・・浪江はよくて福島県全体ならダメなのかって、やっぱり理屈の通らない話で・・・。なんかその辺でやっぱり、マスコミが騙していること、うちの放送局も実はその、「県からの番組です」とか「政府からの番組です」とかっていって、実は山下さんの放射能講座みたいなのを放送した時期があるんです。1週間か2週間くらい。
 そうしましたら、「県内のすべての放送局に流すように依頼してます」という話だったのでうちも放送したんですが・・・。そんときは・・・「放送できません」とは言えなかったですね。自分はね・・・。
 ただこういった放送をしたんなら、「じゃあ」っていうんで、両方の意見を出さなきゃっていうので、矢ケ崎先生の講演会を録音させてもらってそれを放送したりとか、そそういうことはしました。
【避難を決心した理由】41:50
 この自分の気持ちが中立というよりは、むしろ避難だというふうに立場が変わったのは、どこかといわれるとやはり、妻が妊娠した、そこですね。妻の妊娠がわかって、判ったのは3月の末だったんですけど、その時には勘で「これは危ない」という感じだったんですが。
 5月になって矢ケ崎先生の講演会を聞いて「胎児は影響を受けやすい」という話を聞いて、もうそこからですかね。
 ただ、家族を守るという、そのことと仕事と板挟みといっては何ですけれども、多くの皆さんそうだと思うんですけど、自分は10年後にどんな自分がいるだろうっていうことを想像してみるんですね。明日の予定とかだと皆さんお持ちで、「明日この仕事やって明後日これやって」ってやってくと、明日のことしか考えてないと10年後どこに行きつくかさっぱりわからないですよね。たまたまなんですけども、子供ができたので10年後、この子の元気な姿。もうそれしか描けなかったんですね。
 そのためにどうしたらいいんだということで、「まず子供を安全な場所に避難させよう」ということで避難しまして、完全避難ではなくて僕自身は仕事は郡山に残っていて、行ったり来たりの二重生活です。
 本当に子供も小さいので、いろんな判らないこともいっぱいあって大変なんですけども、避難するかしないかっていうのは本当に皆さんもいろんな事情だと思うんです。先ほど言ったように、10年後の自分というものを思い描いて、自分も郡山の復興のために頑張るんだと決めてらっしゃる方であれば、それはそういう道を歩まれるという。
 僕の場合には、たまたま本当に生まれたばかりの小さな命があったものですから、まずそっちを最優先にしたということですね。
 その優先順位っていうのも、今まで何の優先順位なく全部大事で、全部大切で、だけど「こっちは切り捨てなきゃいけないよ。何か切り捨てなきゃいけないよ」というそんな事態に陥ったことはないわけで、僕はそんなばっと??にできるような器量の持ち主じゃなくて、ただ単に欲張りなだけで何も失いたくない。・・・何も失いたくない。それですね。皆さんそうだと思うんですよね。
「なんで失わなきゃなんないの?なんか悪いことした?」
っていうそこに行っちゃうと思うんですね。
「なんで失わなきゃいけないの?」
という、それが本当に地震だと思えば、或いは津波だと思えば、ある程度納得は皆さんいくと思うんです。
「また地震が来ないように安全なところに行こうね」
とか、
「津波で家無くなっちゃったから、別のところに住もうね」
とか、いろんな踏ん切りは付くと思うんですけど、本当にこの放射能は、一つは目に見えないということと、いろんなこと言う人が居ると。政府の発表でさえ、朝言ったことが夕方には変わってる。何を信じていいのかというのが本当に皆わかんない状態で、これどうなの?って自分が家族を避難させたっていうことは、まぁ勘ですよ。
「これこれこういう数値があって避難しなければいけませんよ」
っていうそういうことが出たから避難したわけじゃないし、これから出るのかもしれないですけど時間かかりますよ、それは。それは待ってる間に被爆するリスクを考えたら、今すぐということになりました。
【ご両親のこと】48:50
 震災があったときには、まだ父と母が存命でして、すぐ亡くなってしまったんですけど、非常に危ない状態に、2月には危篤と言われて危ない状態だったんですけど、それは母ですね。母が2月に危篤といわれたんですが、一命を取り留めて。そしたら危篤の知らせを受けた父が具合悪くなってしまいまして、父が寝たきりになってしまって。母は病院に入院して父は家で寝たきりという状態で震災があって、うちは電気は止まらなかったので父はずーっとテレビ見てて、「大変なことになった」と。
「原発事故が起きて大丈夫なのか?」
という話をしたときに、
「ぼくは逃げないよ。父さんも母さんも寝たきりで動けない。こんな父さん、母さん置いて逃げるわけにいかないから、僕は逃げないよ」
ってそう父に話したんですね。後から思うと、余計なひとこと言ったなぁと思って。
 父は3月22日の日に肺炎で亡くなりました。あの余計なひとこと言ったせいで、なんか「迷惑かけちゃならない」と思ってさっさと逝ってしまったのかなと思って。
 その父が亡くなった知らせを持って母の病院い行ったんですけど、母は危篤を脱してからも意識が無くて、植物状態だったんですけども、時々意識は戻るんですよね。何も言えずに帰ることになるかもしれないなと思って病室行ったんですけど、本当になんか母を眼と眼があったので、「言わなきゃ」と思って・・・
「お父さん亡くなったよ」
って言ったら、ボロボロッって泣き出して何度も聞きなおして、
「明後日お父さんのお葬式なの?そうなの。明後日お父さんのお葬式なの。」
って何度も聞きなおして、その後昏睡状態になって、スーッと逝ったんですよ。
 お坊さんにお願いして「一緒にお葬式させてください」といって合同葬で。
Q.震災の中迎えたご両親の死、そして新しい命の誕生。どのような心境でしたか?
 実は子供の出産に立ち会いまして・・・立ち会って生まれるその瞬間に、なんかすべてのことがつながって、
「自分の人生は今ここを通過すること、これはもうあらかじめ決まっていたことなんだ」
というような、そんな瞬間をちょっと感じて戦慄を覚えたんですけど、一生懸命子供を産み落している妻を見て、
「自分もこうやって生まれてきたんだ。妻もこうやって生まれてきたんだ。」
と思ったらば、傍にいる助産師さんも看護婦さんも
「みんなこうやって生まれてきたんだ」
 その瞬間に自分の後ろに親父がいて、爺様がいて、曾爺さんがいて、ダーッと。妻のほうもダーッとものすごい広がるわけです。
「これ同じ広がりが自分の息子から先の未来にまたあるべきなんだ」
と、そんなふうにその瞬間感じて。
 これこそ人生の目的なのかなというふうな、そんな思いを感じましたね。
【心房中隔欠損】53:00
 出産から3日ほど経ってから、
「実は心臓に穴が開いてますよ」
というふうに告げられて、
「そっか、これか!」
というふうに。
 ずーっといろんなこと見ながら生きてきて、自分にとったら命題だったんですね。生まれて死ぬまで何するんだ?と。
 若いころはいろんな人の役に立つ仕事をするんだと張り切ってたんですけど、だんだんなんか、程遠い方向に行っちゃってて、「自分で好き勝手なことやってるだけじゃん」という、なんかそんなことで。
 それが例えば父親やおふくろの葬式を出して、この人の人生は何だったんだろうなということを考えさせられて、自分の人生もやっぱり考えました。親父の棺の前で考えて、俺がこれから先どうやって生きていくんだろうといろいろ考えてましたけど、結局答えは見つからなかったんですが、その答えが「これだ!」と。
 要するに、子供を育てるっていうのは単に個人的なことではなくて、これからの未来のことについても責任持たなきゃいけない。これからの社会のこと、そしてうちの子の場合にはそういった障害があるということで、それを克服して
「こういうふうにすれば克服できますよ」
というか、或いは
「この病気はこんな簡単な方法で避けられますよ」
とか。
「本当にこれからの世の中の人にとって有益である情報が一つでも伝えられたら、それこそが自分が生まれて死ぬまでにやらなきゃいけないことだったんだ」
 なんかそういう感じを受けたんです。
 ですから、心臓に穴が開いてるということ、普通は隠すのかもしれないですけど、僕はそのことを敢えて皆さんにお伝えして、こういうこともあるんだということを知ってもらいたい。そう思ってます。
【福島の今後について】56:30
 はい。
 ・・・ダメなのかなっていう気持ちの方がちょっと勝ってますね。
 復興してほしいという、故郷ですから。そう思います。故郷じゃなくても、どこかよそでそういう悲惨なことがあったら「頑張って」って一生懸命支援したと思いますけども、その支援してどうにかなるかっていう問題なのかどうなのか、まず判断するにはちょっと情報が少なすぎますけど、真実が語られていないというところがあるんですけど、放射能ってなんか、今環境放射能測定所、毎時間うちの放送局でも発表してますけど、一時期になんか目に見えて減って、なだらかーに減ってるんですけども、それは皆さんは「減ってる」というふうにものすごく誤解してるんですけど、それは毎時の値であって、積算量はそれだけあるという、それはどんどん重なっていく。重なるのがほんのちょっと減ったに過ぎないんですね。増えていってるんですよね、積算量という観点から見ると。
 それをなんか、「もうちょっとで0.6になるよね。0.6になったらもう安心だよね」みたいなことを言ってたり、知識がとにかく・・・何なのかな・・・。
 もっと正しい知識を皆さんは求めていて、誰がどの立場で言うのかということによって信憑性が問われていると。
「この人は結局辿っていけば、原発擁護派の人である。こっちは原発反対派の意見である」
というなんか二分化しようとする社会の風潮があって、これもまたすごく良くないことだなというふうな感じがしていて・・・対立は避けたいですよね。
 結局はみんながそれぞれが幸せに暮らすということを望んでいるはずで、目的は一緒のはずなんですけど・・・。もうそうなってくると本当に国際的な話になってきて、TPPどう対応するのかということになってきますよね。
 そうすると本当に産業そのものが大きく変わって、一昔前にパラダイムシフトっていう言葉はやりましたよね。今まさしくその真っ只中にいるわけで、先見性なんて誰も持ち合わせていなくて、今はとにかくどっちに転んでもいいように両足に重心のせてバランスをとるのが精いっぱいという、そんなことだと思いますね。
【ジレンマ】01:00:50
 例えば、駅伝やりましたよね。線量の高いところで駅伝やって、今度は福島県の駅伝が白河スタートして福島ゴールという、まさしく被曝コースをいく駅伝があるんですけど、「復興のシンボルだ」といってやるわけですよね。
 多かれ少なかれ、なんか「イベントやります」っていうと「復興のシンボル」とされてしまって、「されてしまって」というかそうなるのであって、コミュニティ放送では
「イベントの情報をお伝えします。こんなイベントがあります。」
って伝えることが、「復興していますよ」というポーズをとる側に思いっきり加担しちゃってるという、そのジレンマがものすごくあって、中には良心的なイベントがあって、
「放射線量を測ってこのような対策をしてやるイベントですので、安心してお出かけください」
みたいなそういうのも中にはありますけど、ほとんどがそうではなくて、なんか物産展みたいなのやって「地元のものをおいしく食べましょう」みたいなイベントもいっぱいあって・・・もう頭の中本当にどうにかなりそうです。分裂症になりそうですよね。
 このことっていうのはどうなんだろうと思って。
 自分がこういう想いでいて、この放送局のトップとして放送を続けていけるのかどうかというと、本当に難しいところで。
 スタッフと話し合って「二極論に走るのではなくて、情報を出していこうよ」と。「復興しているよ」というイベントも放送するけれども、「放射線対策はこんなふうにしましょうね」というそういう放送もしていこうということなんですけども、どうしてもやっぱり・・・暗い話よりは明るい話、景気の悪い話よりは景気の良い話にいってしまいがちだし、スポンサーさんも結局はお金を出して「復興しているよ」という放送をしてほしいと思ってくるわけで、「放射線をもっと気をつけましょうね」ってそんなスポンサーいないです。
 どうしても押されていってしまって、うーん・・・。
 毎日葛藤ですね。
 これから先、このうちの放送局がどういったことを放送していくべきなのかというときに、常に原点に立ち返って市民による市民のための市民の放送局ということで、自分が郡山市民だという認識を持って放送しなきゃならないので・・・その時に郡山市民なんだけど・・・復興という旗印のもとにいる市民なのかどうかと。復興しないよなってことはやっぱりとてもじゃないけど言えるムードではない・・・ですよね。
 本当に復興モードに水を差すんですけれども、
「復興の前にまずは健康・安全を確保しようよ」
と。
 ・・・病気っていうのは、「いいよ、病気になったってかまわないよ」っていう人は、どんどん病気になってもらって結構だと思うんですけど、医学に貢献してもらえばいいと思うんですけど、『本人の意思に関係なく』っていうところ、これは『暴力である』と思うわけです。
 子供が学校であさかまいの給食を食べさせられる。
 ・・・これは辛いと思います。
「あさかまいは安全ですよ」って言ってますけど、基準自体がまず問題なわけであって・・・ちょっと震災前原子力事故が起こる前の世界的スタンダードな基準に立ち返って、もう一度検査してほしい。
 そういうふうに思いますね。
 もう今となっては、確かに一斉避難とかっていうのは到底ありえない話になってくるのかもしれません。ですから、線量の高いホットスポットといわれているようなところを皆一生懸命除染してますけども、ホットスポット除染するということは、放射能の拡散のほかならないわけであって、最終的には全体に薄めてるだけじゃないの?だって無くならないんですよ?『除染』という言葉にみんな、なんとなく片づけてさっぱりしたというような印象を持ってしまうんですけど、それはどこかに集めてるだけで決して無くならないんですね。その自然に減るっていっても半減期というのがありますけど、半分に減ったってそもそもの量が多いですから、ゼロには永久にならないわけですよね。
 そういう言葉のマジックにみんなかかってるのかなと・・・思います。
 こういうことを岩上さんのチャンネル通じて今しゃべってますけど、本当は自分の放送局でしゃべりたい。いろんな反発がくるかもしれない。スポンサーさんも怒って「お金かえせ」って言ってくるかもしれない。そんなところに結局のところは抗えなくって、妥協してる自分っていうのが非常に情けなくて・・・悔しくて・・・います。
 僕自身、避難してしまった後ろめたさみたいなものっていうのは、やっぱり多くの人が思ってるように同じようにあって、仕事は郡山でしてるわけですよね。郡山で生活してる人たちを相手にして仕事をしていて、そこでいただいたお金で自分だけ避難して・・・これはやっぱり理屈通んない話で、そこを悩んじゃうとやっぱり皆さん、何も行動できなくなってしまうと思うんですけど、よく言いますけど「避難できる人はいいよね」っていうふうな言い方される方います。僕はいろいろ考えていろいろやって、避難できました。だから、「避難しました」っていうことを敢えて言いたいですね。自分の人生をまっとうすることはとても大事なことなんですが、個人の悦楽を優先するのではなくて、本当に世界のことを愛を持った目で見つめて、自分の人生を日々生きていってほしいなというふうに願っています。
【以上】

失礼します。
にほんブログ村 環境ブログ 原発・放射能へ
にほんブログ村

人気ブログランキング