※この記事は3月14日【内容起こし】IWJ百人百話 第55話 大賀あや子さん『原発に賛成でも反対でも、どんな立場の人でも廃炉の時代になる』【前半】の続きです。

<43:30頃~>
Q.3.11はどちらにいましたか?(43:30頃)
 仮住まいのアパートに夫と二人で引っ越し準備をまさにしていました。東京に住んで東海原発、福島原発を心配していたころから、ずっと私は地震にはすごく敏感で怖くて、
「今この瞬間原発のところではどれくらい揺れてるんだろう。大丈夫だろうか」
っていつも思ってたんですけど、まさに大地震が来てしまったっていう、すごい恐怖でした。
 もうアパートから5㎞くらいですけど、そこの第一原発っていうより「女川原発が心配だ」ってその時揺れてしがみつきながら思ってましたね。もちろん第一原発も心配なんだけど、やっぱり完全になんていうか・・・得てる情報で何か刷り込みになっちゃっていて、ここがこれくらいの揺れで、絶対宮城のほうがすごい地震で、宮城県沖が絶対100%くるのがありましたから、「ありましたから」っていうかとっさにそう思っちゃってましたね。あとはアパートでものがガラガラと落ちている音も地鳴りがしてあらゆるものが音を立てて、ちいさな社宅が右に左に1mくらい畳の上を動いてるのとかっていうところで、直接的に今このアパートが崩れて下敷きになるかもしれないって直接的な恐怖もあって、もう両方でものすごく怖さでした。
 まずは原発で少しでも異変があるという情報が入ったらば、近所の人、周りの人、特に子供が居る人に、その情報を元に私がマスクとかカッパとか具体的な防備とかをおすすめして、「役場が言ってるなんかよりも早めに遠くに避難したほうがいいと思いますよ、そうしましょう」っていうことを言わなきゃいけないって、それは常に思ってたことなので。ただ、揺れただけで何の根拠もなくは言えないので、ちょっとでも情報を得なきゃいけない。だから情報を得るということが第一で。・・・ところがまぁ多分そうなるとは思いましたけど、携帯全く不通でメールも全く不通で、もしも原発で何かあった時はそういうふうにしなきゃいけない、自分ができることは少しでもしなきゃいけない。それで人にも分けられるように常に車の中に非常用具の箱が入ってて、救急箱とかマスクが何十枚も入っていたり、カッパは何着か、子供用のカッパなんかも何着かあって、ほんと何着かですけど、でも誰か身近な人に何かはできるかもしれないとしてたんですけど、地震と同時だったらどういうふうにしようかとか、こんな細かいシミュレーションはしてないので、地震から1時間半後くらいにラジオで
『原発はすべて緊急停止しました』
っていって、
「あ、一応公式発表で停止したんだ」
っていうことで、ちょっとだけほんのちょっと、安心というかその点は良いニュースというか・・・あって、私も夫もラジオから聞こえて、
「これ、あとちゃんと冷やせるかどうかが問題なんだよ。私まえから言ってたでしょ」
っていう感じで。
 それで、アパートの中が完全に滅茶苦茶になって、戸も何も閉まらないという状態だったので、原発が何もなければという大前提の上で、その場合は新しい家のほうだったらばまず井戸水がある、そして薪ストーブがある、薪があるっていうことで、なんらか生きていけるからとりあえず行けるならば新しい家に行ってみようということで、夫の車に積み込んで出発しました。
 その新しい家の方に移動した5時前後、5時過ぎですかね、PHSも持ってたのでPHSの方が繋がって、一緒にハイロアクションで活動してる福島市の友人から電話が繋がって、
「非常用ディーゼルが全部止まっちゃった。たいへん!」
っていうことを言われました。
 ところが私、そのとき
「え?全部ってほんと!?」
っていうのが私の反応で、「いくつかじゃなくて全部なの?え!?」っていう感じで「それは確かな情報なの?」っていうことを彼女に聞き返したんですよね。でもなんか相当混乱してるような感じで、
「いや、何々さんも何々さんも大変なことのようだから、避難したほうがいいって言ってくれてるよ」
というような、すごく慌てた感じでそんな答えになっちゃって、もうちょっと情報を聞こうとしたら切れちゃったんですね。
 これまた本当に子供がいたら、そんなこと聞いた時点ですぐさま避難行動するんですけど・・・、何にしろ近所の人に必要がある、伝えられる瞬間になったら伝えて一緒に避難したいっていうのがすごく大きかったので、
「非常用ディーゼルが全部止まった・・・それでは何も伝えられない」
と。非常用ディーゼルが全部止まったらどういうふうに危ないかって、事故のメカニズムを説明して納得してもらって、「じゃあ誰も逃げろって言ってないけどうちは逃げましょう」って近所の方に決断してもらうなんてことは到底できないと思ったので、なんかもうちょっと情報が、もうちょっとあったら、もうちょっと詳しいもの、何か情報があったら、それで早く近所の方に。
 ちょうど2軒隣には2歳、まだ学校行ってないお子さんが二人居てね、私たちがアパートのほうから車で来て「みなさん、どうですか?」とかって声をかけて、「あんたたちの新しい家はどうだった?」っていう会話をしたときなんかにも、その小さい子たちは震えていてね。その様子もほんっとに胸にあって。
 またこのPHSが繋がるかもしれないから、何か情報を得てうまく伝えて一緒に避難しなきゃいけないって、それを思って。ところが繋がらないんですね・・・。
 繋がらないってただ足踏みしてもしょうがないんで、まずは井戸水汲んで。近所の井戸水はモーターなので、停電したら水が汲めないので、我が家が井戸水モーターでもあげてるけども、コンクリートのふたを退ければ手で汲み上げられるので、その近所の人たちと汲み上げて、ほんっと情報を待ちながらその井戸水濁っちゃってるんですよ。それを沸かしてポットに詰めたり。
 そのうち携帯の方なんかは、もう発信してつながらないではなくて、何も音がしない状態になってしまって、これは携帯のアンテナ局もバッテリーが切れたのかもしれないなということもあって、ここは電波ももともと悪かったし、ちょっと移動してどこかで情報があったら戻ってきて、近所の人と一緒に避難したほうがいいんじゃないかと考えて、そして進んでいたらば、電源車と一回すれ違いました・・・。あぁ・・・本当に、もちろん「一つも動いてない」がデマだったとは思ってなかったんですけど、証拠がここにあった、本当に・・・電源車が・・・。しかも私が5時くらいに聞いてから3,4時間も経ってるのに電源車とすれ違ったって、全然間に合ってないなと思って<涙されています>・・・、まだゆっくり進んでいたらば9時過ぎになってラジオで、
『3㎞圏避難勧告、10㎞圏屋内退避』
っていうのが判りました。
 それで、もう道のりがそこまであまりにも大変で恐怖だった、大変だったので、上下線ともある程度車が流れてるんですね。流れてるって言っても、段差がある度つっかえて、10台くらい行列してゆっくり乗り越えてっていう感じで、今避難のこういう情報が出たところで、引き返してしまったら・・・混雑で、しかもいつパンクして道を塞ぐ蚊もわからないようなところ、一台余計に増やすことを避けたほうがマシなんじゃないかってちょっとその時思ってしまって、私と夫でなんかそこは一致してしまって。
 北の方は宮城の方で地震が酷い方向だからダメだろう、
 西の方は山だから峠などが落石で通れないんじゃないか。
 もう南に行くしかないと思って、普段から電波もそういう方角の方がいいし、南に進んでましたので、そのまま南へ向かって、普段であれば1時間くらいで着くようないわき市のほうに2時間以上かけて辿りつきました。それで、友人の家に夜中に駆け込んで・・・っていうことになりました。
 電気が通じてたので、いろんな情報が入っていてテレビがついていて、大変な状態だっていうことがわかりました。
 いわきの友人の家に着いてからは、もう常にテレビやラジオで情報を入れながら、ずっと気を揉んで、どうか屋内退避っていっても用心して早く逃げてもらえるよう・・・
 かなり事故の状況はよくない、
 早く避難地域を広げてくれないか、
 やっと朝5時過ぎ10㎞圏に避難が拡大された、
 ベントするなんて言ってる、
 もう早くベントする前に避難が進まないだろうか、
 どうなってるんだろうか、
 どうしてテレビもラジオもどこから何人の人が避難が辿りついたんだ、みんないわきにたどり着いたってどうして何もやらないんだろう、
 そのうちにベントを10時ころでしたか、「ベントをもうしました」っていう発表があって、朝5時から避難開始して・・・何万人もの双葉郡の人たちの避難が終わらないっていうことは、私たちは防災計画とかマニュアルで想定できてたので、そのニュースの時は友達の奥さんが
「うそつき!」
って言って。
「みんなが避難してからベントするって言ってたのに!やっぱりうそつき!」
って言って<涙されてます>、もう泣きながら、余震に震えながら過ごしていたんですが、いわきが断水をしていたので、そこのお宅に私たち夫婦がいるということは、二人分水も減るっていうことで、これはもうここにじっとしていてどんどん水や食料が減るより、二人で栃木の親戚のところに移動するしかないんじゃないかというふうに言って、12日の午後早くに出発しました。
 栃木に移動してる途中で1号機爆発のニュースがありまして、本当に・・・。11日、12日の行動なんかせっぱつまってて、後からそうやって正しいかどうか、パニックですかね、非常に慌てていたということとかもありますし、近所の人、町の人、みんなより・・・半日早く出てきてしまった、家族だけで半日早く結果的には出てきてしまったということが、しばらくはすごくつらかったですね。
 でも、とにかくガソリンももう栃木の避難先でも全然無くなってしまったから、駆けつけて何か手伝う訳にもいかない、もちろん駆けつけたって物資を自分の分食べて飲んで減らしてしまうだけですし、3.11から1週間くらいはどんどん爆発もしますし、どんどん事態が悪化していく。
 私が読み聞きしていた事故の可能性っていうような、自分が想定しうるようなものをあっさりと超えてどんどん悪化してしまって。
 ただはっきりした放射線量とか汚染のデータというものはそんなにきちんと公開されないので、2,3週間目くらいですかね。栃木の親戚のところから東京にとりあえず避難先を移動してたんですけど、東京の知人に
「2度と戻れない」
と、そういうことをチラッと言われたときに、
「いや、まだ2度とかどうかわかんない。10年か20年かしらと思うようにしてる」
とかっていうふうに、何の根拠もなく言ってましたね。
 夫の職場で5月からの転勤希望っていうものを被災者、避難者にはとられたので、私が大熊町役場があって大熊町の人がたくさん避難している会津若松がいいと思うっていうふうに言いまして、夫は先に4月末に、私は5月中旬に会津若松の大熊町の2次避難所の空いた部屋に入れてもらいました。
Q.放射能安全キャンペーンについて(01:02:30頃)
 双葉郡の避難した住民たちには、放射能安全キャンペーンってほとんど来てないんですよ、私の知る限り。
 っていうのは、やっぱ原発近くて、もともと・・・ある程度うすうす危険性をなんか知ってる、あとはあまりにも前と真逆すぎるから信頼されないからとか、もう既に避難してるから「避難しないでいいんですよ、通常でやっていいんですよ」って言ったって、通常じゃないんだから既に避難して、ありえない避難所暮らしをしてるんだから、むしろ怒りに火に油を注ぐかもしれないような変なキャンペーンというものはほとんど来なかったですね。
 安全キャンペーンについてどうかは判らないんですけど、南相馬とかいわきっていう双葉郡と隣接してる地域でも、やっぱりそれより遠くの地域とは違うみんなの認識っていうのは、どうもいろんな人の話を合わせるとあるみたいで、爆発したって聞いたらば、どんどんと市民が逃げ出して人口の半数くらいは逃げたとか、そういうのもやっぱり
いろんな人間関係とか話の伝わりとか、いろんなものがあって、やや近いからちょっと心配だなとかそういう意識があって、ということのためなんですよね。
Q.家に戻れない状況について(01:04:10頃)
 非常に早く、3月の時点である新聞記事でチェルノブイリの事故のために避難した、完全に故郷を離れた方の証言というのを読んだ時に・・・<涙されています>
『置いてきたものを思い出してはいけません』
っていう言葉があって・・・、それはちょっとまだ数週間の私にとっては、ものすごく辛くて・・・どの瞬間何をしても・・・常に思い出すし。普段完全に住み慣れたところだと何気なく日常生活ってあると思うんですけど、ちょっと個人的に我が家の場合だと、家を建てて今度どういうふうに暮らそうと毎日思い描いて計画を立ててっていう1年、2年を暮していた時だったので、馴染んでる日常ではなくて毎日思い描いてる日常が、頭の中でそれがもう、もう失ったもので思い出してるものっていうふうになってしまって、すごく辛かったですよね・・・。
 そんなこと言ったってここに居るここだって、次爆発したら居られないかもしれないんだからっていうふうに何かでそういうもの想いを断ち切るわけですよね。尚且つ私の場合は電話もかかってくる、「どこどこ行って一緒に行動しましょう」とか「避難してきた話をしてください」ということもあったりするもんだから、忙しくて。
 忙しいから思いだして落ち込まないでいられるっていう面もあったりという生活をずーっと続けて、ある意味今でもそういう状態だったりもしますね。
 家族と一緒にいる、東京で実家にいましたので、実家の家族もよく事情を分かっていて、「まるまる住宅ローンかかえちゃって住めなくて、帰れなくて・・・大変だよね」って、「うちの夫が一番大変だよね」とかっていうような感じに家族で気遣ってくれたりして・・・。
 もう避難の途中から、ただ嘆いても、もうどんどん悪化する状態とか避難が進まない状態とか、もう嘆き悲しむことなんて絶え間ないので、冗談でもたまには言わなくちゃというような感じで、
「これでもうあの住宅ローンの何倍かを東電から賠償してもらったら優雅に暮らそうか」
とかってありもしない冗談を言って、
「いや、これで作り笑いでもすれば、少し免疫力もあがるんだから。落ち込んで泣いてて病気になんか。ただでさえ大損害受けてるのに、更に具合悪くしてなんかいられない」
って言って、結構家族で笑えない冗談を言い合って、毎日笑うようにして。
 私は電話で母乳調査母子支援ネットワークの電話っていうのもうちに問い合わせが一部掛かってくるような状態だったので、それこそパニック、大変な心配をしてるお母さんになんかは、しばらくお話した最後に
「実は私、原発のすぐそばの大熊から避難してお電話を受けてるんですよ」
って言って、
「でも意外と私、いろいろ明るくこういうふうに免疫力上げてとかって言ってるでしょ?これ以上落ち込んで、常に落ち込んでだけいて、それで身体の具合まで悪くしてられないから、落ち込むときもあるけど作り笑いでもするように頑張ってるんですよ」
とかいって、そうすると相手の方も少し「うふふ」とかっていう感じに
「あら、そうですね、明るい方だと思ってました」
とかって言われたりして。
Q.今後について(01:09:00頃)
 私自身、今後避難生活どうしていくかっていうことをあまりにも忙しくて考えられない中なんですけども、できればそこで一生過ごすくらいで農業して安心して暮らせるところであればいいなと。ただそれにはどれくらいの汚染状態で許容するかというところで農業をして、土の上で子供を育てたいっていう夢をまだ完全に諦めてないっていう中では、多分大熊町の多く残したコミュニティーが行くところとかっていうところは、少し汚染があって安心して農業をして、それを人に供給したり自分も食べたり子供に食べさせたりできるところではないのかもしれないなと思ってます。正直言って。けど、まだそれがわからないから、そして今避難所やここで借り上げ住宅に入ってからの大熊町内の人とちょっとずついろんな助け合える、そしてほんと、そういう同じ立場同士で励まし合えるようなこともいろいろあって、今のところはそこにいる、いろいろなその人の考えで決断して新しいスタートを切ってる人っていうのは、決断力もあったりするんだなというような、もうそれって、原発の知識とか放射能の知識とか、全然そういう問題でもなくて、あと立場だけでもなくて、こういう非常時のそういう人間の判断とか道っていろいろなんだなっていうふうに。私はけっこうぐずぐずとしてるなと。
 今でもやっぱり思いだして泣くときとかありますね。うちの夫がそうやって私が愚痴をこぼしたり泣いたりするのも否定しない、止めない、一緒にいてくれる人なのでありがたいなと思って。
Q.大賀さんにとってふるさととは?(01:12:20頃)
 そうですね、「ふるさととは?」っていうことを聞かれて、とても返事に困ってしまう、あまりにも生々しく毎日を過ごしているという自分がいるんですけれども、別の土地で暮らして、例えば子供を育てたりするときに、毎日毎日大熊のことを思い出して、「本当はここに居たくないのに、本当に居たいのはあそこなのに」って思いながらでは子供を育てちゃいけないだろうなとかっていうふうに思い悩むみたいな・・・ことも繰り返してるんですけど、ちょっと今で10か月くらい過ぎて、あ、そこまで毎日喪失感と怒りとか、そういう中にいるんじゃない心も持ちようでいられるかもしれないなぁという感じがちょっとしてきて、もちろんきちんと責任を取るべき人が取るべきだとか、そういういろんなことはありつつ、そういうものを置いた自分の生活とかっていう時に、今よりもう少し時間が過ぎれば、今よりもっと前向きに暮らせるようにもなるかなとかって、ちょっと思い始めてるところです。
 我が家では、私がそういうわけでまだ出産したいかもしれない、決断できないっていうことを重視して、一時帰宅しないんです。夫だけが3回チャンスがあったうち、1回だけ夫が行ってきました。我が家の場合は、建築士、設計してくれた友人がたくさん写真を撮って保管していてくれて、それが警戒区域の外だったものですから、たくさんそれを見て、また人にそれをお見せするっていうチャンスもいっぱいあるので、そうしたいうちはそうやって「こんな家だった」って自慢していてもいいかなと思っていて。
 ほんと最初は思いだすのも辛かったけど、それもだんだんそうやって移り変わっていくし、そういう感覚というものが全く封印するよりは、私にとっては良かったかなと思って。
 そうそう、建築で思いだしたんですけど、これ、木材が我が家の隣の杉林のものもですけど、それで足りない部分っていうのは、隣町の田村市の森林組合のものを使っていて、当時福島県の県庁の事業で、県産木材で福島県産の木材を使った家で見学会とか、ある程度PR活動をしてくれる家庭には補助を少し出しますというものに、我が家は見事抽選の結果当選していたということがありまして、実はそれも2011年度の事業だったので執行していただいていて、変な話ですけど被災してからも十分PRして外国産じゃなくて、そうやって環境に負荷が少ない地元も木材でそうやってコストも切り詰めて、こういう家ができてたんですよって、どんどん話すようなことになってます。
 今でも大熊町を愛してる。ずっとですね、これからも。
 っていうのが私には切り離せないものです。
【以上】

失礼します。
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