※この記事は、3月12日【内容起こし】IWJ百人百話 第54話 安竜昌弘さん『地方紙・地域紙の記者として』【前半】の続きです。

<01:06:30頃~>
【津波の被害】
 戻ってみたら、まず道路が、道路のところに家が流れてきてて、道路が通れない状態です。それで、知ってる顔が居たんで消防担当の人だったんですけど、うちはどうなってるという話を聞いたんです。
「よくわかんないけれども、その近くは大丈夫だって話を聞いたから、大丈夫なんじゃないですか。」
という話だったんです。それでそのまま真っ直ぐ家には行けないので、裏の道を通って車を置いて、歩いて家に向かったんです。そしたら家があったんです。
 周りが波とか海から流れてきた残骸とかで滅茶苦茶な状態の中で家があって、全員の無事を確認したという感じ。

 私の家っていうのは古くからある家なんで、多分昔津波があったときも大丈夫なところにできてた家みたいなんですね。それで、今回被害にあったところというのは、昭和年代に埋め立てをしたところがほとんどやられてしまったんです。それで大丈夫だったみたいなんです。あと、家の前に新しく出来た建物というのがあって、それがカバーしてくれたっていうこと。
 床下は浸水したんですけど。あと車が海の近くに二台置いてたんでそれが流されたという感じです。
 一番酷い被害を受けたところっていうのが、久ノ浜っていうところと豊間、薄磯っていうところなんですけど。トータルで300人くらいいわきでは亡くなったということなんですけど。まだ行方不明、身元が判ってない人が30人くらい。
 復興に関しては、まだ取り壊しが終わってない状態ですね。それでこれからどうするかということをきちっと話し合っていくということで、だからとても復興の状態にはなってないですね。
 被害が大きかったところは基本的にはそこに住まないで、松林やなんかにして。土地区画整理事業の一環で高台に移転するという、原則的にはそうなってます。それで積極的にそれを話し合って進めてる地区もあります。高台移転を自分たちの地区はやりたいっていってるところもあります。
Q.地区ごとの対応?
 基本的には市の計画っていうことで市が取りまとめて、それで各地区の計画を決めて、あとは地区との話し合いっていう、そんな段取りですね。
Q.県と国の対応は?
 この津波・地震があってそうなんですけど、これだけの大きな災害があったというにも関わらず、「これは県の仕事」、「これは市の仕事」、「これは国の仕事」というのがきちっと縦割りで決まっていて、それが要するに崩せないっていうのが現実ですね。だから、移転に関してもその国の仕事、県の仕事、市の仕事というのは、前と変わってないです。それぞれの役割分担の中でやってるという感じです。
 それぞれの役割・・・連携という意味では前よりはとれてると思うんですけど、基本的にはそれぞれの役割分担の中じゃないと仕事ができないというほうが正しいかもしんないですね。
【原発事故発生】
 原発の事故に関しては、そもそも原発が他人事だったということで全く関心もなかったし、地震が起こった後も原発についての頭ってのは回らなかったというか、原発がどうなんだろうっていうことは考え付かなかったんですね。
 それは、個人差があると思うんです。原発のことを気にしてる人は原発のことに思いが至ったと思うんですけど、私の場合は原発に対する関心というのがなかったし、原発の意識っていうのもすごい薄かったので思いつかなかったんですね。
 11日に地震・津波があって、12日、13日が休みだったんですけれども、12日にうちはテレビも、テレビが見れないような状態だったんで、ネットを主に見てたりしたんですけれども、それで休み明けのことが心配だったんで仲間に電話をして。そしたら原発の話になって、それで「じゃあとりあえず14日月曜日に集まりましょう」ということになったんですね。
 14日に市役所に行ったんです。そこで脱原発福島ネットワークの世話人をやってる佐藤かずよしという市会議員が居るんですけれども、そこに行こうということになって行ったんですね。そしたら、
「若い女性は逃げなきゃダメだ」
という話をして。
「俺は市会議員やってるから逃げないけど」
ということを言ったんですね。非常に切迫感というか、原発に詳しい、しかも放射能のことをよく知ってる本人から直接その話を聞いて、その時にヨウ素剤の話になったんですね。
「爆発してる以上はヨウ素剤を配らなきゃ。」
「なんで配らないんだろう」
という話になって、その市会議員が
「市長には言ったんだ。すぐヨウ素剤を配れって言ったんだけど、まだ配られてない」
という話になって、それで一緒に行った記者が、
「市長のところに行ってヨウ素剤を配るように言いましょう」
という話になって、市長探しをその日したということです。
 まず秘書課に行ったんです。
「市長いませんか?」
 その当時は消防本部が災害対策本部になっていて、「災害対策本部にいます」ということだったんです。それでそちらに二人で行ったんです。そしたら、呼んでもらったんですけども居ないんですね。市長がいない。それで、
「ひょっとしたらまた秘書課に戻ったかもしれません」
ということなんで、また本庁に戻ってきたんですけど、
「いや、こっちには戻ってきてませんよ」
ということで、その日はつかまらず、結局ヨウ素剤を配った方がいいですよということも言えなかったんですね。
 実はJCOの事故があったときに、いわき市はヨウ素剤を買って、それから更新してる。ずっと買い続けてるという市なんで、ヨウ素剤はあるはずだということで、そういうことをやりましたね。
【配られないヨウ素剤】
 ヨウ素剤があるのに配れない、そしてその理由というのが、
『国からの支持が無い』
っていうことだったんですね。やっぱその時の想いっていうのは、その時思ったかその後に思ったかちょっと定かではないんですけども、今回の原発事故で中央集権的な国・県が言ったことを後追いでやってる、末端行政というか基礎自治体の行政の在り方が変わるんじゃないかと思ったんです。
 やっぱり住民の命というのを大事にするならば、やっぱりここはリスクを背負っても配るべきだということを思ったんですけれども、なかなか「これは厳しいな」というのが実感でしたね・・・。あぁ、非常時の時にリーダーの資質が問われるっていうか、そんな思いしましたね。
 今回の震災と原発事故を経験して、一番機能したっていうのが地元の消防団と自衛隊だったと思うんですね。要するに被災者の立場からいうと。それで、行政は事故の実態さえおさえられない状態だったですから。それで取材もできない状態です。普通だといわき市としてのくくりということで、いわきでどのくらい被害を受けて、水道はどのくらい止まっててっていうのが、災害対策本部とか広報課に行けば大体取材できるんですけど、全く取材できない状態です。停電がどのくらいあるのかもわからない状態で、判ったことを県にFAXで送るだけの状態だったんですね。
 市役所が把握できなかった、機能できなかった、全く機能してなかったっていうことですね。さまざまなやることが多すぎたし、度肝を抜かれて何をするべきかが判らなかったというのが実態でしょうね。
 あと、市民からの要請というか、断水になって水はどうするのかとか、水道局はどうするのか。その情報さえ12日、13日で思うように流せなかったという感じだったですね。
 正直なところ、12日、13日っていう時の状況っていうのが、本当に12日に飲み会をやる予定だったんですよ。それで、大阪からいわき民報時代の先輩が朝日にその後移ったんですけど来る予定だったんです。ところが全く連絡が取れない。「あぁこれはダメだな」と12日はそのくらいで終わりました。13日になって水が全く出ない状態になって、水を買いに行きました。それで水が出てる地区があったんで、遠野という地区なんですけど、そこに行って水をもらったりして帰ってきました。
 原発の放射能に関してはネット情報などを探して、結局外に出ないようにということとか、マスクをするようにとか、本当の初歩的な知識っていうのを得ながら、家族にも言ったりっていうような感じだったと思いますね。
 そのうちにいわき市、要するに30㎞圏内が屋内退避という報道が流れたので、家にいようということになったんです。あの時も、屋内退避の区域っていうのがいわき市と南相馬・・・要するのその一部であるにも関わらず全域が屋内退避のような報道だったんですね。それで、ちょっと錯覚したというか、いわき市民っていうのが全員家にいなきゃなんないという状況だと思ったというところと、放射能に敏感とか原発に対しての知識が非常に先行してる人たちは、「すぐにでも避難」っていう感じだったですね。我が家ではちょっと様子見という感じだったですね。様子を見ながらという感じ。
 東電関係との付き合いというのもほとんどないですし、その原発関係の情報というのは、私の周りの中ではほとんど過疎的な状態だったですね。だから、2回目の爆発、最大の決断というのは2回目の爆発でどうするかということですね。
 14日の爆発が起こった時に、家族をどうするかということだったですね。
 2回目の爆発が起こった時に、まずまだいわきにいた娘が一人いて、2番目の26歳の娘がいるんですけれども、ちょうど3.11の前に結婚して、それで4月からはその旦那の仕事の関係で横浜に移ることになってたんですね。それで3.11っていうのは非常に中途半端な時期で実家である我が家に暮らしてたわけなんですよね。それで、娘の車は流されたけども津波は大丈夫だった。それで、原発事故が起こったということで、2回目の爆発、14日が起こった時には、すぐにでも逃がしたいと思ったんですね。
 そしたらその夫が車で横浜に行くということになって、夫の家族と一緒に。それで、一緒に横浜に。14日だと思うんですけどね。14日の夜だったと思うんですけど、横浜に娘は避難したという感じでした。
 娘が避難するときに、妻も一緒に行ったらいいんじゃないかと。私は留まるつもりでいたんです。仕事っていうか、いわきの現状っていうのを見たいというのと、父と母がいますから。それで妻も一緒に行かせたかったんですけど、本人が1日様子を見たんですね。それで、そのまま居たという感じです。
 父・母は、避難するっていう意識も無かったですね。身体が弱いというか非常に高齢なので、出ることに対するリスクっていうのを本人が感じてたというのはあったと思いますよね。
 東京にいる娘たちが妻に対して、私たちに対して、
「いわきにいちゃダメだから、すぐにでも東京に来るように」
という話になって、それで盛んに電話がかかってきたんですね。なんとか行かせたいと思って、ちょうどその頃那須塩原と東京間だけが電車が通じてるということになったので、那須塩原まで車で送っていければ行きたいと思ったんです。
 15日に本当は出たいと思ったんです。ところが、ガソリンがない。それで、15日にガソリンが入れられれば出発できたんですが、並んだんですけれどもガソリンが入れられなかったんですね。それで家に戻ってきたんです。もう1台軽ワゴンみたいな車があったんで、それが満タンだったので、16日の朝、とりあえず妻を乗せて那須塩原に向けて出発したんですね。
 ところが、ガソリンの減りが非常に激しくて、私は降ろして(電車に)乗せてから戻ってくるつもりだったんですね。
「・・・ちょっと厳しい、これガソリンが無くなってそのまま立ち往生しちゃうと大変だ」
と思ったので、年に1回行っている矢祭っていう町があるんですね。根本町長という人が合併しない宣言とかで有名なところなんですけど。そこにゆーぱるっていう宿泊施設があって・・・
Q.矢祭町っていうのはどの辺にあるんですか?
 茨城県との県境で福島県の中で中通り地方の南の方に県南地方っていうところにあたるんですけれども、いわきからそうですね、2時間半くらいかかるところなんですけども、そこに車で行って、とりあえずゆーぱるっていう施設を予約して、そこに落ち着いたんですね。東京の娘たちが車で迎えに来るという話だったんですけれども、迎えに来るにもやっぱり2日くらいかかるという話になって、じゃあとりあえず一泊して、一か八か矢祭といわきではちょっと状況というか、矢祭の方が随分のんびりしてたんで、途中でガソリンを入れて那須塩原まで向かおうということになって、それで那須塩原まで向かったんですね、1泊して次の日に。それで、そしたらタイミングよく少し並んだんですけどガソリンが入れられたんで、那須塩原まで行って妻を新幹線に乗せて、そしていわきに戻ってきたというのが17日に戻ってきた。だからいわきを留守にしたのは16日、矢祭に1泊しただけということです。
Q.大変でしたね。

Q.どのように情報を得たのか?
 まず自宅の周りが津波でやられたということで、最初のうちは自宅の周りをとにかく写真を撮りまくっていましたね。それで、妻を那須塩原から東京に行かせてからは、まず家に行って、会社に来て、会社のスタッフはみんなそれぞれということにしてたんで、役所にいったり病院に行ったりしながら、現状っていうのを見たっていうか、自分の眼で見たという感じでしたね。
 でも実際的には、記者・・・ほかの記者たちもいわきにいない状態。要するに社内内規で要するに「離れろ」ということで、福島に引き上げていたというような状態だったですね。それで、いわき市にも広報体制っていうのがほとんどできてない状態だったんで、何をしてたかっていうのが定かじゃないというか、会社には来てたんですけど<苦笑>、会社に来たり・・・。要するに・・・電話でスタッフとやりとりをしながらどうするかっていうのを決めてたっていう感じだったですかね。
【被災者であり取材者である】
 今になって思うんですけど、結局、被災者であって記者っていう微妙な立場っていうのがボディーブローのように聞いてくるっていうか、無理して動いてるんですけども足が動かないっていうか、ギアがトップに入らないというか、それがずっと延々と続いたような状態ですね。
 それで、連絡を取り合ってて、「じゃあ集まりますか」ということになって、その前に14日にできるはずの新聞ができるっていう連絡が印刷所から入って、それを送ろうと思っても東北6県は送れない状態なんですよ。それで、受け付けもしてないということで、関東っていうことで茨城県の一番北の高萩まで行って、そこに置いて東北6県以外の読者、震災前に編集した新聞、フラガール特集だったんですけど、フラガールの一騎生たちを追った新聞だったんですけども、それを送ったりしながらバタバタと過ごしたという感じですね。「新聞を渡さなきゃなんない」という思いと、ギアが入らないっていう感じと、それでみんなが集まって海岸線を取材したり原発のことを取材始めたりしても、なかなか普通の状態に戻らないというような状態が続きましたね。
Q.どのように記事を発信するか?
 最初に日々の新聞をやろうと思った時は、あくまで活字にこだわりたいっていう思いが強かったんですね。それはなんでかというと、一覧性とデザインというか。
 例えば本が好きな人だとわかると思うんですけれども、活字メディアというか、要するに活字もの、活字の良さ。あと何とも言えないそのデザインの良さというものが総合的に自分のセンスの中で表現できるというものだったんですが、震災になって印刷所はやってない。それで日々の新聞は3人なんですけど、取材記者が二人、オペレータっていってデザインをしてデータを作ってくれる人が一人。そのオペレータも居ない状態の中で、もう現実的に新聞発行は無理ですよね。
 そんな中で伝える方法っていうのは、もう本当にインターネットしかない。しかも携帯基地局が駄目で、家に居るときには携帯も繋がらないような状態だったんですね。だから、ネットでのメールとかツイッターが一番の手段だったわけなんですね。だから、その中でブログをやろうと思いましたね。
 新聞はみんなが揃って、それでみんなで話し合って、それからやればいいかなと思いました。
 ツイッターは結局、こちらの安否っていうのを気遣う親戚とか知り合いがどんどんツイッターに加盟して、違う方から
「ツイッターで安竜さんの安否を確認してる書き込みがかなりありますよ」
ということを伝えられて、「じゃあやんなきゃ」ということで始めたんですね。ブログに関しても、双方向っていうか、読んだ方のコメント、それから連絡っていうのがかなり反応が早くきましたね。そういう面での有効性っていうのはすごい感じました。正直言ってブログが新聞拡張に繋がったっていうケースが3.11以降かなり多かったので、だからそういう面ではかなり新聞というのをフォローしてくれる存在だったということですね。
 ネットメディアに対する違和感っていうのはそんなには無かったんですね、もともとね。それで、ただ、すぐ伝えられる手段ということで、かなり有効だというのは実感しましたね。
 あとやっぱり役割分担というか、ネットメディアと紙媒体との要するに役割分担というのもすごく感じましたかね。
 新聞作ってて、前の旧態依然とした新聞というか・・・例えば講演会ありますよね。普通の県紙とか地域紙では、『誰々が来て講演会を開いた』ということが主なんですね。それで、私はそれにすごい抵抗感を感じていて、講演会に行けない人のために端的にその講演の内容を伝えるということが主だと思ってきたので、そういう面では日々の新聞というのは、結構講演会の中身というのをかなり詳しく伝えるという作業をしてきたんですね。だけどもここにきて、ネットメディアの普及で、ネットメディアはもろに講演会をリアルタイムで伝えられるということですよね。そうすると、取材して判りやすく骨っていうか、主旨っていうのを伝えるっていう作業は、けっこう新聞媒体に求められてるんじゃないかという思いがあります。
 それから情報速報性というものが、非常にメットメディアで優れてるんだけれども、例えばレビューっていうか、論説的なものとかその裏側にあるものっていうものを活字で伝えるっていうこと。あと、例えば50分の講演会をリアルタイムで見るっていうことと、50分のものっていうのはある程度照合性として伝えた時に、読む作業っていうのは10分くらい、5分か10分くらいで済むというところがあるので、その辺の違いというのがあるので、震災以降自分も報道してて感じることっていうのはありますよね。
【「日々の新聞」原発事故を伝える】
  もう本当に3.11以降は極端なんですね。放射能と原発っていうことなんです。それはなぜかというと、自分の原発に対する無関心、あと無知さに対する罪の意識っていうのがまず強いです。
 それで、市民と一緒に勉強するという意識が強かったです。3月下旬のことなんですけれども、全く安全キャンペーンで頭が洗脳されてしまって、市の広報マンが駄目なんですね。それで、我々取材してても放射能に対する恐れっていうのは市民の間ですごい切迫感があるし、その頃今の放射能っていうのはどのくらいで、それは有害なのか無害なのか全くわからない状態だったんですね。例えば何マイクロシーベルトっていう数値は判るけれども、それがどの程度のものなのかっていうのは全く判らない状態だったんですね。特にいわき市はそんなに高いかどうかも判らないっていうか、飯舘とか深刻な状況ではなかったので判らない。その中で安全だという話が出た。
 それで、各団体がそれに詳しい人たちを呼び始めたんです。それで、一番最初に来たのが崎山さん。その夜に安斎育郎さんの講演会があったんです。社民系と共産党系が呼んだんですけども。
 うちの新聞のモットーとしては、「思想信条にこだわらず、読者に有益なものは全て伝える」というのが信条なんですね。「新聞の常識にとらわれない」っていうのは、例えば、朝日の主催行事は読売では絶対に扱わないとか、それが非常に読者にとって必要な情報な時には、全くこだわらないで扱うということを主題としてるので、二人の取材をしたんですね。それで、その時に崎山さんの講演会だったんですけども、質問タイムになって「これがいわきか?」と思うほどの質問が出たんですね。ほんっとに必死なんです。
 「これがいわきか?」っていうのは、講演会があってもみんなシャイなので、質問っていうのはほとんど出ないんです。やらせの質問、主催者の中でサクラが行って質問するっていうのがほとんどだったんです。ところが、崎山さんの講演が終わった時に、
「マスクは有効なのか?」
「洗濯物は本当に外に干せるのか?」
「放射能とはどういうものか」
というようなことを次から次へ、ほとんど女性だったですけど質問したんですね。それで、そこから始まったんです。放射能っていうのはどういうものかというものを我々も勉強しながら伝えて、読者も勉強するということ・・・ですね。
 日々の新聞を作りながら、自分も放射能について勉強して、とにかく一番最初の号だったと思うんですけれども、脱原発ネットワークの世話人をやってる佐藤かずよし議員に「今回の事故についてどう思いますか?」っていうインタビューをしたんですね。
 その時に、原発の構造などを言うんですけれども、まったく知識が無いんで何が何だかわからない状態。でもなんとか記事にしたんですけど、それでも間違ったところがあったりして怒られたりしたんですけど、そういうような状態だったですからね。
 ただ、4月5日だったと思うんですけど佐藤かずよし議員が、原子力資料情報室に呼ばれて東京で講演したことがあったんですね。その時にネットで行けなかったんで見たんですけど、その時の講演っていうのはやっぱり自分の中ではすごい入ったっていうか、まず最初に「原発でこういう事故を起こさせてしまったことに対する自分たちの活動の甘さ、責任」っていうのをまず詫びたんです。出席者に詫びたんです。それで、こういう状況になったしまったということです。それから、
「今福島は被曝後の世界になってるんです。」
ていうことを言ったんです。
「被爆前じゃなくて、もう被曝後の世界になってしまったんで、被爆前の世界には戻れないんです。それを実感して、放射能と向き合って生きていくしかないんです。」
ということを言ったんです。そこで初めて、『被曝』っていう二文字が全く遠い存在・・・「原爆でも落ちなければ被曝なんてありえない」と思っていたのが放射能が空気中に舞って飛散して、みんな放射能を受けたっていうことが『被曝』なんだな。それは要するに身近でも起こることなんだということ、これは大変なことが起こったんだということを実感として判ったということですね。
 いわき民報にいたときも、いわきをエリアとする新聞なんで、いわき以外のものは扱ってはならんという編集方針だったんですね。だから、全く範疇外だったので、そういう面では非常に原発に対して無知だったということを反省して、それでやっぱり佐藤かずよし議員の取材をして、東京でネットで語った話を聞いて、いわき市民、読者のことを考えた。それは自らのことも考えるということなんですね。
 それからは、普通の新聞で扱わない記事です。山下教授、安全キャンペーンじゃないものというのを積極的に市民に対して知らせていくということの繰り返しだったんですね。広瀬隆さんがきて、広河さんがきて、矢ケ崎さんがきて、菅谷さんがきたり、児玉さんがきたりという、いわゆるみんなが知りたい学者の話を包み隠さず報道していくということの繰り返し。それで勉強していくということだったんですね。
 小出さんが福島に来るといったら、やっぱり福島までではっていって、小出さんの話を聞いて。あとやっぱり、今までは地元の記者しか居なかったのが、さまざまな記者が集まって、要するに取材っていうのが非常に中央的になったというか、記事の材料が豊富になったということなんでしょうね。福島にいろんなタイプの記者が入ってくる、取材のために海外とかっていうことですね。あと、原稿を依頼されたり、日々の新聞を訪ねてくるカメラマンとか記者たちも増えたっていうのはあります。
 正直なところ、いわきの線量っていうのは15日と21日っていうのが極端に高いんですね。21日がなぜ高いかというのをよく判ってるっていうのは、雨が降ってたんですね。終日雨だったんです。その時に???から原稿頼まれて締め切りの日で3月21日家に籠って原稿うってたんですね。だから、それがすごい記憶にあるんで、後で21日が非常に線量が高いということが判って、1日雨降ってて犬の散歩も行かないで、うちに入ってたなっていうのがすごい記憶にあったんで、そのようなことが多かったですね。原稿頼まれたり被害者の身分でいろんなこと聞かれたりとかかなり多くなりました。
【地域メディアの役割】
 基本的に、なんで地域メディアにこだわるのかということなんですけれども、取材できる範囲っていうのは限られてる。逆説的にいうとですね。
 例えばホームドクターみたいにある患者を診る場合に、お父さん、お爺さんのことまで判ってるからその患者が判るっていうように、地域できちっと取材できる範囲っていうのは限られてる。しかも、地域で起こってることは必ず中央にもつながるという思いっていうのがあるんですね。だけれども、日々の新聞を始めてからはいわきにこだわるということは特にはしてないんですね。いわきと少しでもへその緒があったり、繋がってたり、あと、いわきの課題っていうのがほかの土地と共通性があって、そこの事例を取材することでいわきの問題解決の糸口が掴めるという場合には積極的に行くようにしてるんですね。
 例えば、福島県の南部にある矢祭町っていう町は、住基ネットにもつながない、合併もしない。それはなぜなのか。根本っていう非常にリーダーシップのある町長がいるからなのか、それともなんか矢祭にそういうような土地の中に素地があるのか、っていうのを考えて、毎年1年に1回くらい矢祭に行って根本町長とお話して、その根本町長が引退するっていうことになって、代わりの町長になったんですけど、そしたら全く矢祭は普通の町になってしまったんですね。そういうようなことっていうのもあるので、あくまで地域メディアっていうか日々の新聞のスタンスというのは、自分たちの取材できる範囲っていうのをより深く掘るっていうことというのがベースなんですけれども。
 だけれども、今度の原発問題で、やっぱり一番大きかったのは、放射能っていうのは人間が作った境っていうのを平気で越えるということだと思うんですね。それを聞いた後思うんです。この前もちょっと話したんですけれども、これは福島だけの問題ではないということをまず言いたいし、フクシマ、カタカナの『フクシマ』でくくってしまう報道の在り方っていうのは、僕は非常に違和感がある。っていうのと、やっぱり温度差ですね。いわきと福島をちょっと離れただけで、非常に温度差を感じるということに、すごい「これでいいんだろうか」というか、「放射能はそんなに甘いものじゃないんだよ」というような思いはありますね。
 まず津波に関していえば、取材しやすかったなと思うのは、同じ目に遭ってるっていうことだと思うんですね。笑ってしまうんですよ。不思議な感覚なんですけど、話をしていて思い出しながら、
「いやー、波に足をさらわれて、水の中に沈み込んで、車が上を通っていったんだ。そんな状況の中で助かったんだ。その時に、奥さんの位牌が流れ着いてきたんだ。それを握ったんだ。そうしてるうちに必死になって何かにしがみついて立って、波が引いて助かったんだ。これ、おっかあが俺を守ってくれたんだ」
って言うんですよ。それで二人で笑ってしまうんですけれども、その後泣いちゃうんです。
 そういう・・・なんていうんですかね、被災者であって記者っていうの、要するに自分の立場になれるということっていうのはすごい感じたというか、なんか笑っちゃうっていうこと。笑えるって・・・これ他の地区から来て取材してても、笑うとちょっと不謹慎っていうことになっちゃうと思うんですけど、なんか寄り添えるんでしょうね。それで笑っちゃうということが非常にあったなっていうのと。
 あと、木村真三さんっていう人がたまたまETV特集で時の人になったすぐなんですけど、今中さんの代わりにいわきに来たんですね。市民団体から依頼されて、市内をグルグル回って線量を測るということになって、2日間一緒に測ったんですけど、それをこと細かに記録して、各地域の線量っていうのを。あと『木村真三の動き』っていうのを取材して報道したっていうのは、結構市民には役に立ったんじゃないかなと思います。
 とにかくそのころは何が何だかわからない状態だったんですよ。どこの放射能が高いのか低いのかもわからないし、信じられないことなんですけど風評被害を打破するためにその辺の農家のおばちゃんたちが作った野菜を、駅前で物産展を開いて売ったりしてたんですからね。もう本当に3月くらいだと思うんですけど。
 とにかく『がんばろう』『安全だ』っていう、その雰囲気っていうのがすごい強かった中で、できるだえけそういう報道は止めようと。それは貫いてましたよね。
【原発報道 警鐘を鳴らす】
 基本的には、去年、おととしに福島県がプルサーマルを始めるときに、「なんで今?」っていうことを取材してたんですね。その前に広瀬隆さんが来て、プルサーマルの危険性っていうのを散々話していったんですよ。
 例えば、原発に興味が無くても長崎と広島がウラニウムとプルトニウムっていうのはわかるし、核に対する違和感っていうのはある。そうした中でこういう事故が起こって、一番は「心配し過ぎてあとで何もなかった」っていうことがいいんじゃないかって思ったんですね。当然安全キャンペーンに対する胡散臭さっていうのはすごい感じましたし、意図っていうのも感じましたし、取材してるうちに正直言って、あるスポンサーから医師会関係が非常に変だっていう想いっていうのが、取材すればするほど、嫌に医師会関係が突っかかってくるなっていう思いはあったんですね。
 日々の新聞がグイッと放射能関係とか原発関係の報道に舵を切った時に、それは一番は普通の新聞がそういう報道をしないというのが一番大きいんですけど、一般の読者とか市民がそういうことを知りたくても、ネットくらいしか無いということで、自分たちも知りたいということで報道を始めたんですけれども。
 ある時お医者さんから電話が掛かってきて、
「もっと明るく行こうよ。安竜さんの気持ちは判る。より詳しく知らせたいんだね。それで危険性も知らせたい。だけども、うちの子供、みんなマスクして外にも出られないような学校生活っていうのをどう思いますか?」
って来たんですよ。何回も経験してるんで、これは平行線なのは判るんで、
「いろんな考えあるけれども、日々の新聞としてはこのままの路線でいきます。不確かなことが多すぎる」
ということを言ったんです。そのうちに、いわきの医師会と福島県と県の医師会が主催して、山下さんの講演会がいわきであったんです。
 我々としては、山下さんの話もきちっと聞いて、どういうことなのかっていうのを知らせたいと思ったんですね。偏っちゃいけないんで。それで行ったんです。医療従事者だけだっていうことだったんですけど、知らんぷりして座ったんです。そしたら、医師会長が来て、
「取材はちょっと出来ないんです」
という話になったんです。それで、
「公的な機関が主催したものをなんでメディアが取材できないんですか?随分閉ざされた組織ですね」
という話をしたんです。
 多分、山下さん、かなり中手君たちにやられてたんで、もう公のところでメディアが入ったり普通の人が入ってつるし上げられるのがすごい嫌で、県が多分庇ったっていうか、防御網を張ったんだと思うんですけども。
 それで、みんなお客さんいっぱい入ってるし医療従事者もいっぱい来てるんで、そこでもめるのも何なんですけども・・・。
「それはおかしいですよ?普通いわき市の医師会の研修会だって平気で取材してましたよ。それを載せるか載せないかは、こっち側の判断であって、オープンにするのが普通ですよ」
って話をして。
「県が駄目だって言ってるから」
 ここで揉めたんじゃ困るんで、
「じゃあ帰ります」
って帰ったんですけど、もう帰りの車でちょっとむかっ腹が立って、それをブログで何回か書いたんですけど。一応確かめようと思って、県の医師会と県に電話をしたんですね。でも、はっきりした返事はない。自分がかかってる病院にいっても、『いわきは安心して暮らしていけます』っていう学者のコピーが張ってある。ほとんどの医者と話しても、「100mSv、安全だ」ということで、そういうところですごい違和感感じましたね。
 大事にしてるものが違うっていうことですね。南相馬の桜井市長にインタビューしたときに言ってたんですけど、
「市民の生命財産を守るっていうのが首長の役割ですけども、生命を守ることを優先すると、私の判断になるんだ。財産を守ることのほうを優先しちゃうと風評被害の問題とか様々なこと。」
 要するに今の自分の立場っていうのを守ったり、既得権益を守ろうとするとそういうことになるんだろうなっていう思いは、すごい強く感じましたね。
 観光が駄目になるっていうんだけれども、一回ダメになって、そこからどうするのかっていうの、要するに今、放射能問題っていうのを解決しなければ何も始まらないんじゃないかっていう思いは強かったですね。なんでいわき市っていうのはそうできないのかという思いっていうのが常にありましたね。
【人々の意識と葛藤】
 さっき『温度差』っていいましたけど、脱原発会議を二日間取材したり自分でも話したりして、やっぱり感じたっていうのは、放射能まみれだって言われてる人たちの切迫感であり、常に放射能を意識してるっていう生活感なんですね。
 それ以外の人たちと徹底的な差になって立ち上がってくるっていうことなんですけれども、福島に限っていえば、要するにいわきに限っていえば、基本的に放射能に対する恐れっていうのは変わってはいないと思うんです。ただ、「わずらわしい」とか「面倒くさい」っていう想いっていうのはあると思うんですね。そこでどう折り合いを付けていくかっていうことだと思うんですけども、その結果二極化するっていうことだと思うんですが、ベースにある放射能を常に意識してるっていうか、喉元にとげが刺さったような感じっていうのは無くならないと思うんですね。それを持ちながらも考えないようにしようとしてるっていうのが実態だと思うんですね。
 市内の書店に日々の新聞を置いてもらってるんですけども、せいぜい3.11以前っていうのは、5部おいて2部、ちょっと市民が興味があるものっていうのは5部売れるっていうくらいだったんです。それが3.11以降は、とても5部では足りなくなって、10部にする、20部にするというような感じになったんですね。それでも足りない時はまた補充するというような売れ方をしたんですが、放射能に関する記述が多い新聞っていうのは、売れ方が減らないですね。未だに結構続いてるという状態なんで、放射能関連に対する情報っていうのに信頼を持たれてるということプラス、更にどういう状況で今どんなことが起こっていて、何が問題なのかっていうことをつねに知りたいっていう思いって言うのが強いんだと思うんですね。
 だから、よく表だって放射能の心配が出来ないという人がいたりして、そういう人が日々の新聞に訪ねてきて泣いてしまったりして、
「こうやって清々と話しできることっていうのはないんだ」
というような話をしたりするんですけれども、潜在的にそういう想いを持ってる人っていうのがかなりいるっていうか、ほとんど・・・なんじゃないかなと思いますね。
 いろんなリスクっていうのがありますからね。ここで暮らしていく上ではっていうのは。だけれども出ていけないということなんでしょうね。
 毎日犬を散歩に連れていくんですよ。そうすると読者の人で議論を吹っかけてくる人がいるんですよ。「また放射能だったな」って結構年配の人なんですけど。
「おれ、放射能のこと読みたくて日々の新聞とってるわけじゃないんだ」
って言われるんですよ。それで、
「逃げた方がいいのか?それなら逃げろって書け」
って言われるんですよ。その時に言うのは、
「判断するのは読者ひとりひとりなんです。どう判断するかっていう情報っていうのを流してるだけなんだ」
という話をするんですよね。それで、もちろんその人たちがネットを見れるかというとネットは見れないんですよ。そうするとそういう近所のおじさんおばさんたちネットを見れない人たちが、どうやって例えばテレビが言ってることを正しいと思ってるんですよ。自分がとってる新聞が書いてることが正しいって思ってるんですね。それで
「毎日新聞ではこう書いてあったぞ。おめえが書いてることとは全く正反対のことなんだ」
っていうのを言われるんですよね。いや、それはそれなりの事情があって様々なことがあるんだけど、ここで話するともうかなりの時間になっちゃうし、ちょっと判りあえるとも思わないので、
「とりあえず日々の新聞が流す情報は間違ってない」
っていうことを認識してもらって、あとは普通に自分でとってる新聞と日々の新聞を読んで判断してほしいということを言うんですね。それで、私なんかもネットでずーっと情報を調べたりするんですけど、今原発に対して心配してる人たちっていうのは、ほとんどがネット情報で、本当にこれでもかっていうくらい知ってますよね。海外の情報まできちっと探ってやってる。だから、そういう中で日々の新聞を出してる意味っていうのは、数は少ないかもしれないけれども、そういうネットを使えない人とか活字じゃないとダメだっていう人に対して、少しでも「ひょっとして今とってる新聞が言ってることっていうのは、全て正しいんじゃないんじゃない?」って信じないとは思うんですけど・・・っていうことを少しでも気づかせるっていうための紙媒体っていうか、そんな面もあるのかなと思いますね。
 3.11以降舵を切ったんですけれども、そのきっかけっていうのは、日々の新聞を発行していく中で様々なことがあったんですね。読者に、例えば読者っていろんなタイプの人が居て、社会部ネタを異常に求める人と、文化的なネタを好む人とか。文化的なものを報道するととっても喜ぶ。あと「今回は読むところが無かったね」っていう人もいる。そうしたら編集室で話し合ったのは、
『自分たちが伝えたいと思ったことをブレずに伝えよう。読者からはいろんな声があるかもしれないけど、ブレずに伝えよう』
っていうことだったんですね。その延長線上で、3月11日以降っていうのは、原発問題とか放射能の問題を絶対避けては通れないというか、例えばそれが一色になってしまっても、これを解決しないといわき市民の生活っていうのは有り得ないんだっていう想いっていうのを深めたっていうことではあるんですね。
 だから、そういう中での報道だったんですけれども・・・。多分、日々の新聞って捨てないんですね。読者がみんな取っておくんですよ。1号からとってる人たちも
「たまたま誰かにあげちゃったので、欠番ができちゃったから残ってる新聞くれませんか?」
って言われることが多いんですね。それで野球なんかもそうなんですけど、野球のゲームを見たあとに、新聞でそのゲームをどういうふうな見方をしたかっていうことを期になったりする。だから、活字媒体って確認作業っていうか、そういう役割っていうのがあって、形としてあるものっていうことで活字として確認していくという作業というのがあるんじゃないかなと思うんですね。だから、確認して残しておくっていう存在になれたんじゃないかなと思うんです。
 日々の新聞始めた時に、新聞を立ち上げるっていうことというのがほとんど不可能だと思われてたんですね。その中で、京都経済新聞っていうのを立ち上げた築地さんという人が居て、日経に勤めてて、自分で京都エリアの経済の新聞を日刊で立ち上げたんですよ。輪転機も買って。その人にどうしても会いたいと思って、コンタクトをとったんですね。そしたら「山の上ホテルで会いましょう」となって、山之上ホテルであって、レストランでご飯食べたんですけど、その時の別れ際に、
「安竜さん、いつか地域紙の全国の集まりっていうのを、志を同じくした人たちの集まりっていうのをやりたいですね」
っていう話をして別れたんですよね。
 ところが築地さんの新聞は日刊から週間に変わり、結局廃刊してしまったんですね。それがすごい残念だったんですけれども・・・。
 群れるのは嫌いだけれども、何かジャーナリズムとして志が共有できる人たちのネットワークっていうのは、欲しいような気はしますね。
 いろんな人と知り合って、日々の新聞にとって一番重要なのは、毎号毎号積みかさねるということなんですね。それで、最初は週刊でいきたいと思ったんですけれども、週刊ではなかなか今のスタッフでは大変で、これ部数が伸びて会社の経営っていうのがうまく回り始めて、もう8年何ですけれども、最低でも二人記者がプラスされれば、二人が組んで二週間動いて週刊として出せるっていうシステムはできると思うんですけど、それができてないっていうことがやっぱり一番大きいですかね。だから、まだ足元が固まってないっていうのがあるんですけど、でも、何か日々の新聞を出した時に社会の一ページをめくりたいっていう思いがあったんですよ。それはどういうことかというと、社会の中心に居る人たちっていうのは、果たして真っ当な考えをきちっともって社会を動かしていけるのかな?と。なんか社会そのものに諦めてしまって声を出さない人たちっていうのがこのベールの下にたくさんいて、その人たちがガッと外に向かって何かを訴えるような社会にならないと、このページはめくれないと思ったんです。それで、その少しでも何か明かりになれればと思って、そんなような思いがあったんですね。 
 だから、今回の震災で果たしてそれが維新的になるんじゃないかなと思ったんですけど、なかなかそうはいかないというのがちょっと残念ではあるんですけれども、でもやることは変わりないです。少しでも同じような志のものとか、要するに声を発する人たちが増えて、今の状況っていうのを変えていってもらえればという思いはありますね。
 人の心にずかずかと入っていく以上は、自分もさらけ出さないといけないというのがあって、ひとつ言えるのは、なんかね、泣き虫になっちゃったんですよ。3月11日以降からなんですけど、自分の生い立ちとか興味っていう話もしたんですけれども、実は新聞記者になったあとに川本三郎さんの『マイバックページ』というのを読みまして、遂に川本三郎もあそこまで自分を晒したかと思ったんですね。それで、実は去年、『マイバックページ』が映画化されたのを機に1960年代後半から70年代のあの時代っていうのを取材して、川本さんにも話を聞いて、それであの時代の全共闘時代のこととか、場合によっては菊井良治も探し出して、インタビューしたいなっていう思いがあったんですね。ところが3.11ですべてが崩れてしまって、取材もできないような状態になって。
 でもどうしても『マイバックページ』は映画で見たいなと思ったんですよ。それで、いわきではやらないというので、ひたちなかまで行って映画を見たんですね。原作に思い入れが強いんで映画はあんまり期待していかなかったんですけれども、ラストシーンで妻夫木が泣く場面があるんですね。川本さんも書いてたし言ってたりもしたんですけど、なんか震災で心配して、実は川本三郎さんに創刊号で原稿をお願いしてそれ以来手紙のやり取りとか電話のやり取りとかしてて知ってるんですけども、なんか突然涙が襲ってくるというようなことを書いてたのはみたんですけど、ほんっとになんか、信じられないくらい泣いちゃって、泣いたっていってもダーッと涙がこぼれてきただけなんですけど、
「あぁ、これは様々な3月11日からの想いっていうのが溜まってて、それが川本三郎さんのあの事件に巻き込まれた朝日新聞をやめざるをえなくなって、その後の生活っていう苦しい想いと共鳴したんだろうな」
っていうことがありましたね。それで、被災者に寄り添うとか自分の心に寄り添うっていうのはこういうことなんだなということは感じました。
 だから、何回も『温度差』っていう言葉を言うんですけども、結局福島の人たちっていうのは、もう『覚悟』と『決断』なんだと思うんですよ。
 テレビでは「故郷に戻りたい」っていうんですけど、取材でそりゃ望郷の念はあるけれども、早く決めてほしいっていうのが実際の気持ちですね。
 さきほど取材して・・・っていう話あったんですけど、浪江町で大堀相馬焼を焼いてた人がいわきに移り住んで、家を借りて今も大堀相馬焼を焼いてるんですけども、その人を取材した時に、
「良い環境の中で暮らせてて、今も焼き物をやってるけども、所詮借り物なんだ」
っていう話をしてました。
「ここは借りてる場所。借り暮らしなんだ。だから、それは浪江には帰りたいよ。自分が生まれ育ったんだから。だけど実際的に、現実的に帰るのは無理でしょう?だからとりあえず帰れないってことを決めてもらって、新しい人生に向かって区切りをつけたい」
 それは要するに『覚悟』と『決断』なんですね。それが行政っていうのができてないっていうのが、やっぱり大きい、生殺しにしてるんじゃないかって思いは強いですね。
 それを普通のメディアのようにきれいごとじゃなくて、本音っていうものを伝えていきたいという思いはあります。
【以上】

失礼します。
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