※この記事は、百人百話シリーズの第54話です。前回は3月12日【内容起こし】IWJ 百人百話 第53話 鈴木則雄さん 【郡山市のコミュニティFM放送をしながらのジレンマ】です。

【動画】3月12日百人百話 第五十四話 安竜昌弘さん 
http://www.ustream.tv/recorded/21079452 (135:53)

【以下、お時間の無い方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2012年1月30日収録
 安竜昌弘といいます。福島県いわき市に生まれまして、地元の高校まで行きまして大学時代は4年間東京に行きまして、戻ってきて地元の日刊の夕刊紙に勤めました。それで25年くらい勤めまして、それで地域紙のあり方っていうのに対して非常に疑問を持って、それで自分で今『日々の新聞』という新聞を立ち上げましてスタッフ3人で作っています。週三回の新聞なんですけれど。
 家はいわき市の海岸線にあります。江名っていうところなんですけども、今回津波にあってかなり被害を受けたところなんですけども、そこで生まれ育って、今もその家に住んでいます。

 58歳です。
 江名っていうところは港町でして、江名地区というところがあって、そこには中作とか折戸とかっていう地名があるんですけど、私が生まれ育ったところは折戸というところで、そこで本当に海がすぐ近い、私の家からだと・・・50mもないくらいのところなんですね。そこで生まれ育ちました。
 けっこう町並みが綺麗なんで、映画のロケなんかにもよく使われてまして、有名なところでは黒木和雄監督の『原子力戦争』っていう映画があるんですけれども、そこの中心的なロケ地になったところです。フランキー堺の『地方記者』なんていう映画でもロケ地になったところです。
 そこで地元の子供たちと一緒に海遊びなど過ごしたという感じですね。
 うちは、雑貨屋をやってまして、ほとんど江名地区っていうのは漁師っていうか、漁業者が多いんですけど、あと船主ですね。うちは雑貨屋だったけど商業者っていう感じですね。昔だとサケ・マス・サンマ漁っていうのが非常に盛んだったので、サケ・マスが出港するころなんかは、仕込みといいまして、船に乗せるんですね。酒とか食料品なんかを。そんな商売をやってた店ですね。
 父親と母親と私の兄弟は妹がいます。現在は妻、あと子供が3人女の子がいるんですけど、全員東京・横浜のほうに行ってます。だから今父親と母親と妻と私の4人暮らしです。
 父は江名で、母親は平(たいら)といういわき市の中でも一番大きい町の出身です。親戚もすべていわきですね。いわきから外に出ていった人はいますけれども、代々いわきの生まれ育ちです。えーっと、何代とかいうのはよくわからないですけれども、過去帳を見たことが無いので。ただその言い伝えだと南北朝時代に吉野の方から船でこちらのほうに来た時に北茨城の沖あたりで船が難破して住みついたという話が伝わってますけれども。
 いわきというところは、まず気候がいいですね。それから、漁業と炭鉱の町なんですね。だから、よく漁業者がいますけれども手間がいらないというか魚を獲ってきてそれを売って、????食べて暮らしていけるということですよね。
 だから、漁業と炭鉱ということはよくわかると思うんですけれども、手間いらずというか、要するに自然のものを獲って生活していけるということだと思うんですけどもね。
 代々住んでいるということは、過ごしやすいということだと思うんですね。過ごしていけたということだと思うんですけれども。
 子供の頃は海が近いということで、よく磯があって磯が引くと大体海に入って、小さな魚を獲ったり貝を採ったりしながらですね。あとは近くに海水浴場があるんで、そこにみんなで遊びに行ったり、そんなような生活をしてましたね。子供の頃はやっぱり楽しかったと思いますね。どちらかというとあんまり活発ではなかったので、うちに居ることも多かったんですけれども、やっぱりコミュニティというのが非常に深かったと思いますね。
 時代ということもあるんですが、コミュニティが深いというのは、結局地域で活動するっていうことですかね。だから、世代間の交流っていうのが深かったし、やっぱり小学校の時だったら2年3年くらい上の人たちがリーダーになって後輩の面倒を見たり、あとは大人も地域で子供たちを育てるというような、そんなような地域だったような気がします。
 子供のころから新聞を読むのが結構好きでして、小学校の時は新聞部だったですね。小学6年くらいですかね、非常に競馬が好きになりましてね、家で報知新聞をとってたんですけども、そのころっていうのは寺山修司とふれやま??のコラムっていうのが報知新聞に載ってまして、それで非常に寺山修司といえば競馬ロマン派的な子供ですね。
 それはずっと続いてましたね。やっぱり本、マンガ少年だったですね。28年生まれなんで、テレビと同じ世代なんですけども、やっぱテレビが家に来たっていうのは、何年か後ですから、マンガをよく読んでました。読んでた漫画はそうですね、少年とか冒険王とかマンガ王とかでしたね。あと、そのうち週刊誌が出るようになりましたからね。少年サンデーとかマガジンとかっていう、要するに漫画の歴史とともに育ってきたような少年時代でした。
 子供の頃、活字・映像少年ですかね。やっぱりテレビが生まれた時の歳なので、やっぱ活字・映像少年だと思います。
 中学校の時は私はバスケット部に所属していて、そんなに運動神経は普通なんですけどもバスケット。高校の時は、応援団の練習をしなきゃなんないんですね。1年生の時に。それがすごい嫌でして、部活に入ると応援団の練習をしなくていいということで楽そうな軟式テニス部に入ったんです。それでですね、半年くらいで辞めまして、応援団の練習も終わったので、その後映画同好会っていうのを立ち上げて、自分たちで映画の研究ではないですけど映画のことをみんなで話し合ったり。文化祭の時は映画かけたり、そんなような活動をしてました。
【大学時代】
 その頃国際商科大で今は東京国際大っていう埼玉県の川越にある大学なんですけども、そこに進みまして、実はなんで商科なのか?と今でもあれなんですけど、他は全部大学に落ちてしまって、勉強も全然しない子だったので、そこに行って4年間ほとんど何もしないっていうか、映画を見て暮らしたような、大学にほとんど行かないような生活でした。
 私の大学時代の生活っていうのは、1年生の時だけ大学の近くの川越にいました。2年になって妹が東京に出てきたので、妹が小田急線沿い多摩川だったので、「一緒に暮らせ」と親に言われて、高田馬場大滝橋っていうところにアパートを借りて二人で生活してました。
 大学時代の生活なんですけれども、まず朝起きて大滝橋から10分くらい歩いて高田馬場に行くんですけれども、大学に行きたくないんですね。それで、駅まで行く途中の左側に高田馬場パール座っていうのがあったんですね。駅を少し通り越して右側に早稲田松竹っていう映画館があったんです。それで大学が東上線に乗るので池袋に文芸座っていうのがあったんですね。その辺をエリアにしまして、そこでいいのが無いときには、報知新聞、相変わらず寺山修司のファンだったのでとってたんで、その頃っていうのは映画がどこでやってるかはスポーツ新聞に載ってたので、それで見たい映画があるとおそこまでではっていって、飯田橋笠倉とかさまざまなとこの映画を見まくりましたね。?????とか行きました。
Q.どんな映画を見ていましたか?
 私の大学の頃はサブカルチャーが非常に盛んだったですね。それで、日活ロマンポルノなんかも非常に盛んだったですね。だから、日本映画が多かったですね。やっぱり一番印象深かったのは、『祭りの準備』っていう黒木和雄の映画があって、原田芳雄が主演だったんですけども、それの初日の舞台挨拶を見に行きまして、原田芳雄を見ましたね。やっぱり当時はオールナイトで特集の映画なんかやってたんで、本当に????とか原田芳雄、黒木和雄の特集とか、????とか藤田敏八の特集とかそういうような時代だったからフォーク系サブカルチャー。マンガで言うと永島慎二のような時代でしたね。
【学生運動】
 私たちの世代っていうのは28年生まれなんで、団塊の世代の後の例えば三無主義とか新人類って言われた世代なんですね。非常にノンポリというか、多分私の想うには、熱い時代の残り火というか残りかすというか、非常に退廃的な時代だったと思うんですね。ただ、地方出身なんで高校に遅れて学生運動が来て、高校時代は結構盛んだったんですね。ハンストが行われたり私が出た高校じゃないんですけれども、いわき高校というところで退学になってしまったり、???闘争に行った生徒が退学になってしまったりということがあったんですね。例えば学帽、帽子をだんだん長髪の時代になってきたんで帽子が邪魔になって「なんで帽子をかぶらなきゃいけないんだ?」とかっていうような高校生レベルの非常にかわいらしい学校に対する反発みたいな感じで。
 それはあったんですけど、東京に行ってからは特に学生運動に対して興味を持ったり、大学生時代もノンポリだったですね。国際商科大っていう大学そのものが。それで非常に面白いことがあって、新宿辺りでヘルメットをかぶってそれなりの格好をして、要するに叫んでる学生たちがいるんですけど、非常に滑稽というか目で笑ってるみたいな、そんなような時代だったですね。遅れてきた青年たちがちょっと粋がって活動してるような、そんなような感じです。切迫感とか緊張感とかは無かったですね。
 学生運動に関していえば、結構世代感っていうのを感じるってか考えるんですけども、団塊の世代の後の世代で、団塊の世代をリーダーにしてその後をついてきたっていうのは2番手的な役割が多かったと思うんですね。昭和26年から29年、30年生まれの人たちっていうのは。
 やっぱり本を読んで、学生運動にももちろん興味持ちましたし、その時代60年代に対するあこがれみたいのはありましたね。だから、それが一番東京に行っててそういうものを肌で感じて、新宿なんかで遊んで歩いて、いろんな人と知り合って、そういう話を聞かされて、そういうものっていうのは徐々に体の中で発酵してくるみたいなところはあったと思いますね。
 寺山修司とか唐十郎とかすごく好きで、特にあのころは浅川マキの音楽がすごい好きでレコードとかも持ってて、坂道っていう曲があるんです。ちょうど住んでたアパートが坂の途中のアパートだったもので、それがぴったりで。新宿のさそり座なんかに浅川マキのコンサート聞きに行ったり、やっぱりプロのイメージっていうんですかね。社会そのものが非常に明るくないというか、退廃的な時代だった。それは多分60年代のすごい活発な時代っていうか、体制を倒してやるっていう勢いに敗れて、非常に若者が落ち込んでたっていうか、ここの興味っていうのが内面に向かった時代に学生時代を過ごしてたので、そういうものに対してはすごい興味がありましたね。
【新聞記者に】
 私、その商学部に図らずもっていうか全然希望しない商学部に入って、全く不得意な簿記とかやってたんですけれども、近代経済学とか勉強してたんですけど、全く興味が無いんでほとんど大学に行かなかったんですよね。それで、ただ、ゼミだけは唯一社会学的なゼミがあったんでそこに行ってたんですね。それで、できれば私の希望としては競馬関係の記者になりたいという思いがあったんですね。だから、競馬関係の記者だと東京に残らなければならないですね。それで、専門紙かスポーツ紙の記者になりたいっていう思いがあったんですが、たまたまその頃、私の祖母が亡くなったんですね。その時に、
「お前は長男だからいわきに戻ってこい」
と言われたんですね。そんなこと気にしなければいいんですけれども、ちょっと残りますって。それで、いわきに戻ることにしたんですね。
 親なんかもいわきだと就職が無いんで、
「公務員になれ」
ということだったんです。一応勉強もほとんどしてなかったんですけど、一応公務員の試験受けたんです。そして、落ちました。普通に。
 それで、就職もしないで4月頃、うちでぶらぶらしてたんです。店やってるんで手伝えばいいんですけども、手伝いたくもない。それで部屋にこもってたんです。そしたらですね、ちょうどいわき民報っていう夕刊紙に記者募集の広告が載ったんですね。それで、その時に
「あ、そうだ!俺新聞記者になりたかったんだ」
と思いまして、それで辛かったんですね。何もやんないでいい男が家の手伝いもしないで部屋にこもってるっていうのが非常につらかったんで、とりあえず受けてみようと思って履歴書を出したんです。それで、新聞社を受けた。それで入ったということです。
 私、中学校の時に「あなたに向いている職業は何ですか?」っていうアンケート調査みたいなのがあって、ただちょうど「記者」っていうのが出たんですよ。子供のころから新聞部に入ってたりして新聞作ってたりしたんで、新聞記者になりたいっていうのが漠然とあったんですね。
 それからノンフィクション系の本を読むのがやたら好きで、かたっぱしから読んでたんですね。
 私が就職した会社は、いわき民報という、いわきをエリアとする夕刊紙、日刊だったんですね。入った時に実は、報道部員と広告部員を募集してたんです。それで、社長面接になりまして、
「二人とる。安竜くんは大学も商学部だ。それでマーケティングとか勉強してるようだ。広告の方が向いてると思うんだけれどもどうだろうか?」
という打診があったんですね。そこで
「申し訳ないですけれども、新聞記者になりたくてここを希望したので、もし広告でとられるときには他の人に譲ってください」
って言ったんです。
 もう一人の人はやっぱり報道の記者を希望してたんですけれども、2回目だったらしいんですね、受験が。そう言われたときに、
「私は記者でも広告でもいいです」
って言ってしまったらしいんです。それで、採用になったときに私が報道部、彼が広告部ということになった、人生の転機になったわけなんですね。
 いわき民報というのは、いわき市をエリアとしている新聞で、発行部数は当時で1万部くらいですかね。それで、記者は10人くらいなんですけど社員が80人くらいで、その当時は昭和52年入社ですから、今のようにパソコンっていうか、新聞製作システムっていうのが無い時代だったんですね。だから、原稿用紙も三行の原稿用紙に4Bの鉛筆で原稿を書いて、それを構成が見てタイプのおばさんたちがそれを打って、新聞に作るときは台紙に貼りつけてフィルムを作って、それで発行するというような新聞だったですね。
 土日と祝日が休みの新聞社だったです。
 いわき民報の内容というのは、なぜいわき民報を市民がとるのかということなんですけれども、まず今ではもうほとんどなくなってしまったんですが、黒枠といってお葬式の広告ですね。それで切り貼りっていうのを失礼が無いようにする、その情報をとるということと、予告記事が非常に多いということですね。いわき市内でどんなことをやるのかということをこまめに拾うということ。
 あとは、連載記事ですね。私が入った頃にはあんまり連載はなかったんですけども、ある一つの事象を深く掘り下げるもの。
 その三つが市民に指示された新聞だと思うんですけれども。
 いわき民報っていうのは、要するに県紙と呼ばれる福島県のエリアの新聞よりさらに小さい新聞なんで地域紙といわれるものだと思うんですけれども、いわき市役所にはりついて、市役所の情報をとるという新聞ですね。だから、経済なんかは非常に弱いですよね。それで、中心になるものは事業っていうか、要するに催し物を取材して原稿を書くということですね。それから、あと、市役所でいえば予算の時期になったら「いわき市の予算はこういうことで」とか人事の時期になったら「こういう人事がありました」とかっていうような、そういう内容の新聞です。
【新聞記者の生活】
 新聞記者としては、最初はほんとに先輩たちの鉛筆削りから始まって、あと一番最初に書く記事っていうのが「ジャミ記事」っていって、三行くらいの、例えば妊婦健診とか、それは穴埋めの記事なんですけどね、結局。あとは天気予報ですね。その頃は小名浜測候所っていうのがあったので、測候所に電話して明日の天気を聞くということから始まります。ほとんど3か月くらい中にやらせられて、新聞を丹念に読むという作業。あとは雑用ですね。
 そのうち、だんだんジリジリしてきて「自分は何のために入ったんだ?」っていうふうになるんですね。その頃になると、部長から
「安竜くん、ちょっと」
って言われて、3か月くらいたったら名刺ができて、カメラを預けられて、それで催し物から取材するように言われて。
 最初の担当は普通だと警察担当なんですけれども、たまたま2か月前に警察担当が入ってたので、スポーツ担当になりました。それで、スポーツとか福祉を担当しながら、だんだんに市役所担当ということになっていくっていう感じです。
 スポーツ担当やってて、やっぱり好きになったのはラグビーとか陸上の魅力っていうのが結構ありましたね。野球は中心です。高校野球なんかが中心です。アマチュアスポーツが中心です。プロ野球の球団もないですし、たまに来るんですけども、それはあくまで巨人中日戦をやったくらいの記事ですからね。結局は、市民の興味というのも高校野球ということになりますね。
 少年サッカーとか少年野球とか、中学校の中体連の成績とかを載せると、結構新聞拡張に役に立つようですね。
 いわき民報では25年近く、24年くらいですね。最初記者をやって、そのうちにいわき民報の中でも支社っていうのがあって、小名浜とか勿来とか支社勤務をやって、そのあと報道部の次長になって、報道部長になって、そして組織の改編があって政治文化部っていうのができて政治文化部長になって、編集員っていうのもやりましたね。一時期。もっと深く取材したいということでお願いして、報道部長をやめて編集員にさせてくれということで編集員をやって、最後は小名浜支社長っていう営業と支社の総務管理みたいなことをやって、日々の新聞を立ち上げたという感じ。
 いわき民報という会社の一番いいところは、好きなことをやらせてくれるところだったんですね。だから、給料は安いけれどもそれぞれの記者がやりたいと思うことをやるという会社だと思うんです、私は。
 ところがある時期から様々な縛りというのが出てきて、例えばいわき食紀行っていう連載をもってたんですけど、例えば食べ物に対するこだわりというのを連載してて、絶対自信があるもの、要するに扱うのに自信があるものっていうのをピックアップしてそれを取材して原稿に書くという仕事だったんですけども、「なんでスポンサーを扱わないのか」という話になってきまして、「スポンサーが紹介できるところがあればいいです」という、よく言われる営業と報道のせめぎ合いで、結果的にその時の社長が営業よりだったりすると非常に報道がやりにくくなるという、よくあるパターンですね。
 そういうことが段々多くなってきたんですね。
 それから、新聞の部数を多くするために「細かい記事を書きましょう」「より多くの人の名前を載せましょう」っていうことが多くなってきたんですね。
 「細かい記事を書く」というのは、例えば小学校の運動会あります。普通の記者の感覚からいうと、大体集中して日曜日に運動会があるので、目玉になるプログラムとかニュース性のあるものを選んで代表的なものを扱います。ところが、地域紙になりますと「うちの運動会を扱ってほしい」という読者が多いので、できる限り同じ内容の記事を学校名だけが違うような記事が載るような感じになるんです。私、それはちょっと許せないというか、紙面をそういうもので使うっていうのが許せなかったっていうのがありますね。自分の考え、自分が思う地域紙とか新聞のあり方と、会社の考えっていうのがやっぱりずれてきたっていうのはあると思いますね。
【地域紙のあり方】
 地域としてのイメージが変わったっていうか違うっていうのは、人それぞれ考え方はあると思うんですけれども、私が思うには会議なんかでもよく言ったんですが、結局地域紙っていうのは併読紙です。主たる新聞をとっていて、それを補完する立場の新聞だと思うんですね。それの考え方だと思うんです。
 だから、より細かいものを拾うっていうのも一つの考えではあると思うんですけど、私が思ったのはやっぱりそういうものではなくて、全国紙とか県紙には扱えない、要するに地元にいるからこそ、地元のものをきめ細かく取材して地域の本質を伝えるような、そういうものっていうのができないかなと思ったんですね。
 かつてのいわき民報っていうのはそういうものが複合されてて、やりたいことっていうのはやらせてくれたと思ったんですが、それが非常に平面的になって来たって言う感じはありましたよね。
【地域の変化】
 いわきの町の変化っていうものですが、要するに炭鉱の町と漁業の町といいましたけれども、炭鉱っていうのはもう記者になった時点でかなり下火だったんですね。いわき市というのは、昭和41年に14市町村っていうのが合併して。だから合併の先進地なんですね、言ってみれば。それで、それが非常にいわきという町を形作ってていわきの悩みにもなってたということだと思うんです。無理に一つのイメージを作らなければならないといういわきの悩みですね。
 一体感っていうのを醸成するために、もともと平、湯本、小名浜、勿来とかっていう全国的に知られた地名っていうのが、言ってみれば北九州みたいなもんですね。小倉とか八幡とかっていうのは北九州にあるのと同じで、ひとつひとつも町がいわきになって、いわきの印象、知名度っていうのが低かったわけですから、それを無理に一つのイメージにするために様々なことをやってきたということですね。
 さまざまなことっていうのは、いわき踊りっていうのをつくって、無理に歴史的な、文化的な背景も無い中で無理に一つのものを作ってイベント化して、それでなんとかいわきの一体化っていうのを醸成しようとしたということが多かったですね。
 新産業都市構想っていうのは、結局炭鉱が廃れてしまって、非常に町が疲弊しますね。そうした中で炭鉱に代わるものっていうのを誘致して、国が炭鉱に代わるものを助成して新しい産業立地をするということなんですけれども、いわきの場合は郡山といわきをいっしょくたにした新産業都市構想っていうのができて、それでお金が落ちて、企業の誘致というのを推進した、促進されたっていう感じですね。
 新産業都市構想っていうのは、そもそも無理があるんですね。それはなんでかというと、郡山といわきっていうのは、文化も歴史も違うし、間に阿武隈高地というのがあります。つまり隔絶された町なんです。それが要するに炭鉱っていうのがだめになって、石炭産業がだめになって、国が無理無理・・・阿武隈高地を山脈じゃないので????という独特の解釈をしてくっつけちゃったんですね。だから現実的には、新産業都市構想のための郡山・いわきっていうことだったんですけど、非常に無理がある話だと思います。
 いわきには小名浜港がありますよね。小名浜港の背後地に工業団地を作って、郡山にも企業誘致を図って、小名浜港を一つの物流拠点にして、荷物を出す、そして入ってきたものを郡山に出す。そういうような狙いだったと思います。
 石炭が駄目になって、常磐炭鉱っていう大きい会社があったわけですけれども、そこの常磐炭鉱は石炭に代わるものということを考えたんですね。それで、石炭の会社っていうのは、要するにいわゆる一座一家っていって非常にコミュニティっていうか、自分たちの家族のような感覚があるので、当時の社長が社員をできるだけ首にしないで、そえで何か新しい事業を起こそうということを考えて、それが常磐ハワイアンセンターで、その目玉になったのがフラガールだったということですね。
 ハワイアンセンターの試みっていうのは非常に成功したと思いますね。観光事業としても非常に成功したし、結局いわきの観光の核になったっていうことだと思うんですね。それで、炭鉱で本来出ていかなければならない、随分な人が出ていったんですけれども、ある程度首にしないでやめさせないで観光事業の方で救えたということもあったとは思うんですね。
【原発への意識】
  正直なところ、原発っていうのはいわきにとっては他人事なんです。要するにまず立地町村じゃないということと、いわき市民もほとんど原発を意識しないで過ごしてきたっていうのが事実だと思うんですね。実際に原発関連の本っていうのが朝日新聞のいわき局で出した『原発の現場』っていうのがちょうど新聞記者になったあとで、そのころ一緒に取材してた人たちが、たまたまその時の支局長がいわきと双葉郡エリアが朝日新聞のいわき市局のエリアだったんですね。それで、「こんなに良い材料がいわきにはあるじゃないか」と着目した支局長がいて、原発の取材をして。それで福島版で連載したっていうことがあったんですけども、その連載があったのは昭和55年くらいだとおもうんですけどね。55、6年だと思います。
Q.ご自身はいくつでした?
 私は20代ですね。
Q.どのような内容でした?
 はっきり記憶にないんですよ。読んだような、そういう連載をやったという記憶にはあるんですけど、結局関心も無かったということですね。「他人事」すぎでってことだと思うんです。
 なんで原発がいわき市民にとって他人事なのかっていうと、取材しててわかったんですけれども、いわき市役所に原発担当・・・何だったか忘れたんですけど、原発のことを取材しなきゃなんなくなっていったら、企画課の中の担当してたのが個人・・・原発担当主幹っていう人がいまして、その人の仕事の中の一つとして原発の仕事があったくらいだったんで、それも地域振興という切り口で担当のもち方だったんですね。だから、そのくらい他人事っていうか、なにか原発であったっていっても、「いわきは関係ない」っていう、「いわき市は関係ないよ」っていう感じでしたね。市民もそうだったと思います。
 東海村のすぐ近くに村松虚空蔵尊っていうところがあるんですね。十三参りっていって13になったときに虚空蔵尊にお参りに行くという風習があるんです。その時に会津の柳津か倒壊の村松虚空蔵尊に行くんですけど、その時に原発の近くなので原発を意識する、個人的にはそのくらいだったですね。
【新聞社を退社 新たな新聞の発刊】
 「日々の新聞」を発行しようと思ったのは、まず一番大きかったのはいわき民報の中で取材記者としての仕事をしなくなったというか、できなくなったということが大きかったと思いますね。自分が取材して原稿を書くということ、新聞を作るという作業から外れて、だんだん管理職になってくるとそういうことっていうのはあるんですけど、いち記者として居たかったという思いもあるし、新聞作りに関わりたかったっていうのもある。それから、いわき民報っていう新聞そのものが変わってきたっていうのもある。自分の中で自分だけの新聞を作りたかったという思いっていうのがあったっていうのが大きいですかね。
 まず日刊っていうのは無理ですし、新聞っていうものをできるかどうかもよく判んなかったんですけど、イメージとしては週刊で1週間の出来事っていうのをコンパクトに知らせられて、しかもそれに対して論評を加えられるような新聞という感じですね。
 一番影響として大きかったのは、ワシントンポストの中にオンブズマンがいて、そのオンブズマンがニューヨークタイムズの記者上がりの人だという、立花隆さんかなんかが書いたアメリカジャーナリズム報告かなにかで読んだんですけど、その中にワシントンポストのキャサリンブレアムのスキャンダルがあって、それでワシントンポストはそのキャサリンブレアムのスキャンダルに対してさほど報道しなかったっていうか、報道しなかったんです。その中で、ニューヨークタイムズのオンブズマンが
「ワシントンポストはキャサリンブレアムの土地に絡む様々な疑問に対してきちっと書くべきだ」
というようなことを読んで、そういう新聞をつくりたいなと思いました。
 新聞の中にきちっと第三者的な目を常にいれられるような、そこは常に不可侵の欄であるような、そういうような新聞を作りたいと思いましたね。
 もと東京新聞の記者の安井さんという方がいらっしゃるんですけど、今はこの人がオンブズマン。月2回発行なので、3か月間2人の方に書いてもらうんですね。それがずーっと214回、1回も欠くことなく続いてるということです。
 いわき民報時代に交通死亡記事があったんです。
 それで、私の同僚が記事を書いてデスクに出した。その日の新聞が発行になった。その記事が載らない。その書いた記者はなんか手違いがあったと思ったんです。書いてデスクのところにいって校正に回って校正からタイプのところに行く間に原稿が無くなっちゃったと思ったんです。それで、その原稿を探したんだけど無いので、もう一回書いて出したんです。
 そしたら、帰り際にデスクが
「この原稿は載らないんだよ。」
と言われた。事故を起こした人が大スポンサーの社長だったんですね。
 例えばいわき民報に載らなくても福島民報・民友には載るわけですから、それを載せないで済ましてしまった新聞に対する怒りっていうのが、その時報道部の中で非常に、何て言っていいかわからないくらいの怒りっていうのが。
 ただ、「この程度の新聞なんだな」っていう思いはありましたけども、そういうこととは何回かありましたね。
 だから、『新聞を名乗る以上はそれだけはすまい』っていう思いはあります。
 なぜ「日々の新聞」かということなんですけれども、いわき市立美術館で日比野克彦展が行われたときに、美術館からの提案で日比野さんの新聞をつくりませんか?ということだったんです。それはなぜかというと、日比野さんという方は岐阜出身で、岐阜新聞が日比野勝彦の新聞っていうのを作ったことがあるんですね。それで、そんなことを学芸員の人の頭にあって、日比野さんという人はワークショップなんか非常に好きなんで、その日比野展のときに「日比野克彦の新聞を作りませんか?」という話があって、
「じゃあ面白そうだし私もファンだから作りましょう」
ということになって作ることになったんです。
 その時にできたのがこの新聞なんですけれども、それが非常に日比野展を見に来た人の中からも仲間を募って、みんなで記事を書いたりして作ったんですね。その経験っていうのが非常に楽しかったということで。
 もうその頃いわき民報に対して、「もうこのままじゃいかんな」という思いが非常にあって、いわき民報をやめて、新聞を作るときにこの「日々の新聞」っていう名前をそのまま貰って、人々の日々を伝えたいという思いもあって、「日々の新聞」というというのを作ったということです。
 内容は違うんですけれども、実はその当時の日比野克彦展っていうのは全国を回る巡回展だったんですね。最初はいわき市立美術館で、それでワンコイン100円で会場で売ったんですね。そのうちにこのバージョンがなくなりまして、いよいよ東京の目黒の美術館でやるということで、これが売れたんで少し目黒なんでちょっと増刷して、商売しようかと思ったんですね。それで、日比野スペシャルという日比野さんの事務所があるんですけど、そこで内容もちょっと変えてデザインも日比野スペシャルにお願いして、日比野さんも「じゃあデザインやろう」ということになって、新しいバージョンを作った。それで目黒から新しいバージョンになったということですね。
 日比野さんの新聞を作って、それで「日々の新聞」という題字も使わせてほしいということになって、快く「あぁ、いいよ、やりな」っていうことになって新聞を旗揚げしたということなんですけれども。
 理想の新聞、こういう新聞にしたいという思いはあったんですけど、実際的に新聞を作ってみたら、なかなか自分たちが作りたい新聞っていうのは何だったのか?っていうのが立ち上がってくるんですね。わからない・・・。一応毎号、毎号積み上げてはいくんですけども、何が理想の新聞なのかっていうのがよく判らない。だんだんスタッフと話をしながら浮かんできたものっていうのは、それはもう何年か経ってからのことなんですけども、他の新聞に載らない記事を載せるっていうこと。それから一次情報を旨とするということです。現場至上主義みたいに。それから、いわきから見えるものを扱うということで、決して無理はしないんですけれども地域紙っていうのが何かということを突きつけられたっていうことだと思うんですね。
 要するにいわきに生まれて育って、いわきで死んでいくものたちが、新聞というメディアを通して何をしていくのかということ。それは新聞の無いようにも関わってくるものだと思うんですね。
 それで、そんなことを右往左往しながら試行錯誤しながらやってるうちに、今までにないような形の新聞っていうのが徐々にできてきたっていうのが本音ですかね。日々の新聞でオンブズマンを毎回載せてるんですけれども、その中で一つオンブズマンとの戦いっていうのがあったんですね。それは何かというと、客観報道っていうものに対する見解の違いということなんです。
 確かに客観報道って綺麗だけれども、私は客観報道っていうのは原則的には有り得ないと思ってるんですね。それはなんでかというと、世の中に様々なことが起こってる中で、何を基準にするかというのを選ぶのは記者だし、その取材した者の中から何を取り出すかというのも記者だし、それは読者と記者の間の信頼関係でしかありえないと思ってるわけですね。
 だから、客観報道、客観報道って非常に呪文のように唱えられても、私は
「日々の新聞は究極的な主観報道です
というようなことを言ったんですが、そこがなかなか判りあえなくて、客観報道のバックボーンとなるものというのをきちっと編集者に言ってもらわないと、「我々は信頼できない」というようなことを言われたりして、そこで1回で降りられてしまったことがあるんです。オンブズマンになっていただいた人に3回書いていただくはずだったんですが1回で降りられてしまったということがあったんですね。
 そういうことを繰り返しながら、我々が報道するものっていうのは、まずスポンサーがらみのスポンサーだから報道するというようなことはしない。絶対に一次情報を大事にして、絶対に勧められますっていう料理とか店とか、事象っていうもの以外は報道しない。それから、今これは大事なんじゃないかっていうものっていうのを自分たちで考えて、それは主観的なことなんですけれども、それで報道することによって読者にも知ってもらうっていうこと。
 それを続けているうちにわずかな読者なんですけども、650人くらいの。その650人の読者の行動パターンっていうのがありまして、新聞が出て読むと、必ず何人かの人が日々の新聞に載ったところへ行く。「日々の新聞で読みました」。そういうことの積み重ねが非常に信頼関係というか、「日々の新聞に載ってるなら間違いないね」ということに繋がってきたということはありますね。
 それがいってみれば、やってきたことがそんなに間違いではなかったんだなという思いというのはあります。
 あと、一次日々の新聞のバブルみたいなのがあって、非常に大手スポンサーがついて、非常に月々のお金っていうのが楽だった時期があったんですね。今から4,5年前頃にとても大きいスポンサーがついて、そこの別新聞を作ったりということになったんですけれども、その大手スポンサーがつくことによる弊害っていうのを非常に感じまして、やっぱり細かいスポンサー、あと新聞を楽しみにして呼んでくれる人っていうのがいかに増えるかっていうことが新聞の中立性っていうのを保てるかっていうこと、そう実感したということと、大手スポンサーがつくと、やっぱり楽してしまうというか、動かなくなってしまうというか、営業的にも地理的にも。
 っていう経験をしましたね。
 だから、背伸びはしないということを胸にしてます。
 大手スポンサーがついた時期っていうのは、今考えると仕事も大変だったです。いろんな別々の新聞を作んなきゃなんないとか、広告の打ち合わせで度々行かなければいけないとか、それが非常にスポンサーの仕事の関係もあって、広告が出なくなって、経営自体も大変だったっていう状態ですね。
 いわゆるインターネットによってそのスポンサーが作ってるものが非常に人気が出て、それで短期間で非常に発展したっていう状態だったんですね。食品関係の会社だったんですけれども、急成長したために事業を大きくして、結局楽天なんかであるじゃないですか、ランキング1位になりましたとか、そういうような手法ですごい急成長したんだけれども、一次よりどんどん下がったんで、身の丈に合ったような会社経営に戻ったというような感じですね。
Q.経営は?
 立て直ってるかどうかわかんないです。あの苦しい状態っていうのが続いてるっていうか、要するに人件費なんかで我慢してもらってる。
 最初に会社を立ち上げるときに、ある人に相談したんですね。そしたらもう、
「自分でお金をとるって思わないように。要するに自分の好きなことっていうか志を立てたわけだから、どれだけ我慢できるかっていうのをよく考えてやるように」
ということを言われたので、そこのところは我慢してもらってるんですけども、苦しい状態は続いてるという感じです。だから、一号一号積み上げてる、要するに質のいいというか納得のできる新聞を一号一号積み上げるということが一つの目標という感じですね。
 日々の新聞を始めるときに、一番どうしようと思ったのが、配達の仕方と集金の仕方なんですね。新聞社でしか経験してないんで、そうすると宅配制度で配達する人が集金して回るということだったんですね。
 ところが、自分たちは3人でスタートなんでそんなのできるはずない。どうしようかっていうことで悩んだんですよ。そしたら、ちょうどクロネコヤマトのメール便っていうのができまして、その当時はお金も無かったんで。メール便で全国どこでも80円っていう制度が始まって、しかも取りに来てくれる。シールとソフトも別に提供してくれるということだったんで、パソコンにソフトを入れて宛名を印刷して、ナイロンの袋に入れて発送するわけなんですけれども。そのシステムでできた。
 それから、「雑誌方式にしたらいいんじゃないか?」と。要するに前金制度ですね。購読を申し込んだ人からは前金で3か月、半年、1年という料金をいただくということで、じゃあそれにしましょうということになったり、それでスタート。120部くらいからスタートして、2003年にまずホームページを立ち上げて、それから新聞の準備も。それで創刊号になっていくわけですけど、その日々の新聞のホームページが蓄積していくうちに検索で引っ掛かるようになったんですね。たとえば、箱根の柏原竜二が高校3年の時に福島県の第一走者で都道府県駅伝で1番できたことがあったんです。その時に取材したんですね。高校3年の時。柏原が箱根で鮮烈なデビューをしたときに、みんな柏原のことを調べようと思ったらしいんです。そしたらトップに日々の新聞の高校3年の時のインタビューが出てきたりして、そういうことが重なったりして読者が全国から集まるようになったんですね。今は北海道から沖縄まで読者がいるという感じです。
 柏原選手っていうのは、いわきの内郷っていうところの出身なんです。いわき総合高校出身なんで、それでいわきの選手なんで取材したということなんです。
 柏原のヒットっていうのは、柏原が1年の箱根駅伝でごぼう抜きをしてトップで返ってきたときからですね。その時も日々の新聞のホームページのヒット数っていうのが過去最高だったらしいです。
Q.新聞の価格は?
 新聞購読を全国の人たちがしてくれて、まずきっかけはネットだと思うんですね。そのうちにネットでアップしてるのが一部なんで、全部の新聞を見たいということになって、購読したいという人が増えてるという感じです。一部400円なんです。月800円です。月2回なんです。
【妻子について】
 結婚したのは昭和55年です。28歳だったと思うんですけどね。
 妻は三つ下なんですけれども、いわき民報時代に同じ会社に勤めてて、デザインの仕事をしていたんです。なれ初めは、結局同じ会社に居たので、その新聞を作るときにカットとかお願いに行ってて、それで知り合ったという感じですね。どっちかというと私が好きになって、それで声をかけて付き合い始めたという感じだったような気がします。
 付き合いは穏やかだったと思いますね。ただそんなに長く付き合わないで、知り合って1年くらいで結婚したと思うんですけど。
 私もデザインなんかが好きだった、絵を描くことも結構好きだったりするので、そういう共通点というのがあると思いますね。やっぱ芸術家が好きなんでしょうね。(妻は)美大出身なので、芸術関係が好き。私が芸術関係のものが好きだということはあると思います。
 長く居るとギャップというか、違った部分とか出てくるんですけど、付き合い始めたころはやっぱり芸術関係の話題とかそういうのが多かったと思いますね。
 妻の実家は農家でして、ずっといわきに生まれ育った家ですね。だからもういわきに根付いてる家です。いわき同士なので、説明しなくとも判ることというのは多いと思うんですね。だからそういう面では楽なんじゃないでしょうか。「説明しなくていい」というのは、地名とか・・・結局同じ土地で生まれ育ってるということっていうのは、空気感が一緒だということだと思うんですけど。
 生活習慣は違うかもしれないですね。大学時代の友達なんかと話したりなんかしても、土地によって違うなと思うことはありました。ただ、いわきって結構広いんで、高校に行ったときにいろんな地区から来ますよね。その時もやっぱいわきはいわきの中でも土地によっては違うことがあるのかなという思いはありましたね。
 子供は3人で全部娘なんですけれども、今みんな首都圏にいます。それで長女に子供が生まれたんですけれども、普通だと里帰りさせるんですけれども、やっぱり放射能の関係で東京で産んで、東京で育ててるという感じです。
 私の仕事が忙しかったので、記者やってたので、だからあんまり家には居なかったですね。だけれども、私たちの世代っていうのは、父親の世代みたいに仕事一辺倒ではないと思うんですよ。子供が小さいときにはそれなりに遊んだりいろんなところに連れていったりしながら、普通の家庭生活を送ったと思いますけれども。
【2011年3月11日震災当日】
 3.11の時には、金曜日だったんで、仕事してたんですね。それで、平市内のギャラリーに居て、それでギャラリーで揺れて、その時飾ってたものがほとんど落ちてしまったという状態でした。
 ギャラリーに少しいて、それでやっぱ会社のことが心配になって、会社に戻ってきたんですね。そしたら本棚が全部落ちてるような状態で、その時二人が居たので片づけてるような状態だったんです。
 それで、うちのことが気になって、うちに電話したんですね。1回だけ奇跡的に通じたんです。地震のすぐ後だったんですけど、「大丈夫だ」ということで安心して切ったんです。
 今思えば、なんでそうだったのかよくわかんないんですけど、まず地震そのものっていうのはそんな深刻に考えなかったんです。未だかつてないような地震だったんです。間違いなく。それでとりあえず落ち着いて会社に戻ってきたら、会社の中が滅茶苦茶になってて、二人で片付けてたような状態です。
 それで1人が休みだったので、そのことも心配になって家に電話したんです。結局通じない状態だったんです。そうしてるうちにテレビも壊れてしまったんですね。地震で。テレビをつけることもなく、ラジオつければよかったんですけど、なんかぼーっとしてたんですね。そうしてるうちに、休んでた一人から電話が入ったんですね。奇跡的につながったんですね、電話がね。
 それで「海の方が大変なようだから帰ったらいいんじゃないですか」という話だったんです。津波が起こってることもわかんなかったんですね。それで、その日は6時から講演会の取材があったんです。行く気でいたんです。
「あ、これじゃあ取材にもなんないか」
と。後で思えば、その講師の人だって東京から来れるはずがなかったんですけれども、
「じゃあ行かないで帰ろうか」
という話になって、
「いや、帰ったほうがいいですよ」
という話になって、帰ったんです。
<01:06:30頃まで>

【後半】に続きます。
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