※この記事は、3月8日【内容起こし】IWJ 百人百話 第52話 吉成洋拍さん『親父の家業を継いで』【その①】の続きです。

<51:50頃~>
Q.福島さんは何を話されたのですか?
 福島先生はね、国際救助隊っていうものを作る、自衛隊っていうものはもちろん福島、日本を守るものではなくて、本当に世界中に・・・ほんとなんかサンダーバードの世界ですよね。なんかそういうものを作っていきたいっていうような話をするんですけど、ちょっと福島先生、ホントに宇宙人みたいな話をするんですけど、僕がうまく説明できないんですけど。
 その福島先生のその最初に衝撃的な出会いがあって、
「あの人一体何者なんですか?」
って僕が聞いた時に、
「福島先生っていうのは、みんなの夢を応援したりアントレプレナーセンター(?)っていう会社を起業家を養成する会社なんですけども、福島先生は日本中に夢を、福島先生=夢っていうような感じで、いろんな本とかも出されてる方ですけれども、実は会ったその日に懇親会が第一回目の???の懇親会があったんですけど、福島先生はすぐ懇親会・・・3分か5分くらいしゃべったら帰っていっちゃったんですよね。それで、
「ごめんなさい、今日夜中12時までに福島県で明日講演会があって、そのやつで12時までに行かなきゃいけない。だから僕は帰るからごめんねー!」
って先生帰っていかれたときに、全然まだ福島先生がどんな人かよくわかんなかったんですけど、
「今福島県って言ったな」
と思って、先生のとこ追いかけていって、
「先生、じゃあ僕車の運転手やらせてください。僕運転しますから」
って言って、福島先生と結局マンツーマンで福島まで車で移動して、そこでいっぱいいろんな話を、僕の経営で抱えてる悩みだったりとか、先生が話すこととか、
「そうはいってもそれは先生理想ですよね。」
最初に行ったとんかつ屋の社長に会った時みたいに、僕はやっぱりかみついていって、
「理想はそうですけど、例えば従業員の幸せ追及してあげようねとか、そうはいっても、会社の経営でお金を生む方が大事じゃないですか」
みたいな感じで、先生にどんどん結構最初はやわらかいんですけど、どんどん4時間半福島先生と二人で車の中で会話ができたので、どんどんもっと掘り下げて掘り下げて、自分のことを全部さらけ出したときに、最後の方、最後の1時間号泣・・・泣いてたんですよね。もう何の涙か判んないんですけど、
「あ、自分のそういう生き方ってあるんだな」
みたいなのを教えていただいて・・・
Q.車の中でどんな話をされたのですか?
 よく福島先生が言われるのは、福島先生って夢だったりとか感動だったりとか、利益よりも先に、福島先生よく言うのは、
「人を感動させると、人って変わるよ」
みたいな。
「すべては感動から始まるよ」
っていうふうにおっしゃるんですけども、やっぱり今まで僕の中に無いんですよね。なんか感動・・・?みたいな。
 それを教えてくれたりとかいただいて、実際僕がお客さんにちょっと感動を与えたら、思いもよらないような答えが返ってきたりとか、従業員を今まで従業員を喜ばす・・・お客さんを喜ばすことは考えてたんですけど、従業員を喜ばすことなんてしたことなかったし、試しにやってみようかっていうので、
「どうも今日あいつの誕生日だから、みんなでサプライズで誕生日やってみようぜ」
なんていったら、従業員が泣いて喜んで、
「実は私会社辞めたかったけど、なんかもうちょっと頑張ってみます」
なんて、
「あ、そうなの?」
みたいな、なんかいろんなことが起こり始めてね。すごいリアクションが返ってくるんで、そんな中福島先生とその車で運転して帰って、最後に・・・僕最後に何を会話してたかよく覚えてないんですよね。もうただ最後に車を降りて、僕が車を降りて、
「吉成君、じゃあね」
と言われたときに、福島先生が最後に言った言葉が
「吉成君、福島変えるのは君だからね。頑張ろうね」
って言われたときに鳥肌立って、
「はぁ・・・」
みたいな。多分ね、僕福島を意識するようになったのはあの日なんですよね。「あ、僕の福島・・・」っておこがましいですよ?僕の福島っていうのは。ただ、僕の行動一つで福島の印象って変わるし、そのあと実は僕は自分の中のキャッチフレーズっていうのが今でもそれはあるんですけど、
『我は福島なり』
という言葉を自分に課してるんですよ。僕の行動が福島の行動だと思ってるし、それは別にテレビに出て有名になるとかじゃないくてね、例えば、東京に行って一つの会場で僕がする行動が例えばごみ一つ拾いました。
「福島の人はゴミ拾うんだね」
っていうようなことになるし、なんかいつもそれは僕の中であって、『我は福島なり』って、僕の行動一つで福島県の印象ってどんどん変わるんだなっていうふうに思わせていただいたのも福島先生だし、そんな福島先生と出会って
「あぁ、福島。俺福島代表だから」
って勝手に勘違いで思ってるんですけど、福島大好きで、それはほんと今でも大好きなんですよね。
Q.その後ご自身で何か変化はありましたか?
 自分はあれですね、やっぱり29歳のときとんかつ屋を継いでから、小さい時から親父を見てたっていうのもあるんですけども、経営者は孤独が美学だと思ってたんですよね。仲間要らないと思ってたし、会社の社員に給料さえ払ってればいいやって思ってたし、経営者になってから本当に10年近く友達が必要ないっていうような性格、もちろん高校時代のとか年に1,2回会う友達とかいても、自分の悩みを打ち明けるような仲間もいなかったし、必要ないと思ってて。
 そんな中福島先生と出会って、仲間の大事さっていうのをすごく感じさせていただいてね。本当に今福島先生と出会ってもう3年経つんですけど、ホントに今ね、多分、数えたことないですけど、1000人くらいの同じ志を持った仲間に混ぜていただいたりとか、多分僕全国に旅行行こうと思えば、多分一回もホテル無しで泊めさせてもらえるような仲間が全国にいっぱいできて・・・なんか、仲間が大事だなっていうのをすごく教えてもらいました。
 だって、何をやるにしてもやっぱりどんなに志があって、仲間が同じ心、同じ応援してくれる仲間がいると全然違うと思うし、逆に言うともう仲間がいれば何でもできると思ってるで・・・
Q.仲間とはどういうことですか?
 多分、自分の・・・僕はやっぱり、経営者の孤独が美学だっていうのは、見えない鎧というか、自分の心を誰にも見せなかった。強い自分を演じてたというか、経営者って絶対的なものだなっていうふうに勝手に勘違いしてて、それはやっぱり従業員に対してもそうだったし、周りの知り合いなんかにもそうだったし、僕は絶対自分の心を見せないようにね、多分生活してきてて、ある日福島先生と出会って、その鎧を外すことができたんですよね。
 極端・・・単純な話、例えば僕は従業員の前で泣いたことありませんでした。でも、その感動を通して、最初は恥ずかしかったけど従業員の前で僕は普通に今泣くんですよ。嬉しくて。「うわ、うれしい!!」って泣いたりとか、それを多分自分の心の鎧というか、なんかプライドだったのかなんか知らないんですけど、それを脱いだ時になんか皆と触れ合うことが、ぬくもりを感じることができるようになったというか、それは本当に全国にそういう同じ価値観、同じ感動で涙できる仲間がいたりとか、もちろん従業員同士で今まで抱き合って泣くなんてなかったですけど、そういうことが、そういうコミュニケーションがとれるようになったっていうのは、僕の中では革命的な話だったと思うんですよ。
Q.その後床屋さんの方はどうなったのですか?
 ずっと床屋のほうで僕は専務としてやってきたんですけど、やっぱり僕はサービス業、人とお客さんとのコミュニケーションがすごく大好きで、デスクワークっていうのがあんまり苦手だなっていうのに気づくんですよね。そんな中、震災が、3.11の震災が起こった時に、会社ずっと行かなかったんですよね。それは、後で話すると、炊き出しとか避難した人に対して、炊き出しをしたりとかボランティア活動にちょっと一生懸命になりすぎて、会社に電話しても
「専務来なくても大丈夫です。僕らにお店任せてください」
みたいなふうに言われたので、
「あ、そう?」
みたいな感じで、僕は3.11以降ほとんど会社に行かなくなったときに、それと同時にいろんなことに気づいてね、今までの価値観が変わって、地震、大震災以降価値観が変わっていって、自分の使命・・・例えば
「あれだな、この床屋じゃない。床屋にはないな」
って気づいて、気づくというか、ほんと賛否両論はあって
「社員をほったらかして何してんの?」
みたいな話にはなってくるんですけど、社員と話しあって、
「俺ちょっとやりたいことあるから、後任せた!」
っていって、今の会社は実は社長はもうちょっと復帰、うちの親父も復帰して、うちの親父が床屋の方を今やってて、僕は去年の8月、2011年の8月からここ、とんかつ屋のあがとっていうお店を今度自分でやって、ここで自分のこれから叶えたい夢とかを実現していきたいなっていうふうに今日々奮闘しているような状況なんですよ。
Q.ご結婚はいつされたのですか?
 結婚は、<笑>、えーっと自分が25の時にアメリカから帰ってきて、すぐに友達の紹介でその時彼女いなかったんでね、友達の紹介で会ってみたいな感じで会ったのが今の嫁なんですけど、会ってすぐお付き合いさせていただいて、それがね、10月の12日だったんですよね。翌年の10月12日に籍を入れたんで、そこからもう今15年目ですかね。はい。
 仲良くやってます。
Q.どんな女性ですか?
 ほんと嫁には感謝しかないですね。僕はその本当に苦労を・・・多分僕はそんなに苦労してない・・・とんかつ屋で借金を背負おうが誰に頭下げようが、うまくいかなくなろうが、僕はやりたくてやってるからいいんですけど、それをやっぱり陰で支えてくれたのは嫁ですし、嫁は専業主婦でそれは何でかというと、僕が親父とおふくろを見てて、親父とおふくろは昔から同じお店で働いてて、やっぱりそういう喧嘩とか見たりとかね。家のことで喧嘩するんじゃなくて、お店のことで意見の違いで喧嘩とかするのを散々僕は見てるから、自分は絶対結婚したら嫁は専業主婦、同じお店で自営業はやりたくないって決めてたんで、嫁も「それでいいよ」っていう。
 だからね、毎日家で待っててくれるんですけど、本当にやっぱりお金の面では苦労かけてますから、ほんと感謝しかないんですよね。
Q.お子さんはいらっしゃいますか?
 子供は今10歳の4年生の女の子なんですけど、女の子一人なんですけど、ほんとにちょっと・・・嫁が不妊症だったんで、できるのに6年くらい、本当に治療とかも受けててね、3年くらい治療受けてできないんで、妊娠はするんですけども、ちょっとそのまますぐ流産しちゃったりとか、ちょっとできにくい体質だったらしくて、不妊症・不育症、せっかくお腹に宿ってもちょっと1か月くらいでダメになっちゃったりとか、その都度にやっぱり嫁、夫婦で精神的に落ち込んでしまうんで、もうそろそろ諦めようって思ってた矢先にできちゃって、あれ?とか。そしたらその子はやっぱりちょっと不安定だったんですけども、最終的に生まれてきた子なんで、ほんとに奇跡の子ですよね。
 ほんとに生まれてきてありがとうっていう感じで、いや、嬉しかったですね。男の子か女の子かは聞かなかったので、生まれてきて、どっちでも良かったっていえばどっちでも良かったんですけど、男の子でも女の子でもね。ただ、女の子って聞いた時に、
「うわー!かわいいわ!」
と思って、ほんとに嬉しかったですね。
Q.どのようなご家族だと思いますか?
 良い家庭だと思いますね。自負しちゃってもあれなんでしょうけども、ほんとに仲良くやらせていただいてもらってるし、不満出したらいろいろ出てくるし、自分に点数つけてって言ったら僕は何点になるかわかんないですけども、自分自身ではほんとに素敵な家族だな、家庭だなっていうふうに思ってるし。
Q.話は変わりますが、3.11はどこで被災されましたか?
 3.11ね、あんまり人に言いたくないっていうか、言いたくなくはないんですけど、実はパチンコ屋に居たんですよ。
 実は僕、あの日海に行こうと思って、僕ちょっと趣味で流木を拾う趣味があって、海に行くと流木が流れてて、それをフォトフレームを作ったりとか、お店に飾ったりとかで、散歩がてらに僕流木・・・海沿いを歩く趣味なんですけど、なんか拾ってきてそこにペンキで文字を書いて人にプレゼントしたりとかしたり、なんか趣味的にやってて。
 それをそろそろ行こうって思ってたら、友達から「明日パチンコ行こうよ」って誘いを受けて、「じゃあ行こうか」とか行って、もしかしたら海で被災してたかもしれないんですけど、たまたまその日はパチンコ屋でパチンコを打ってたんですよね。
 そしたら、聞いたことも無いメロディーが流れてくるんですよ。「ブー!ブー!ブー!」って、僕はあの時初めて携帯で緊急地震速報っていうものの音を聞いて、
「なんか新しい演出!?パチンコの演出!?」
みたいな感じで、でもよく見ると店中でそれが響いてて、え?とか思った瞬間、ダダダダダダ―っときて、でも実はみんなまだ結構揺れてたんですけどパチンコに夢中だったんで、誰一人「は?」みたいな。でも上を見たら、エアコンがつり天井のワイヤー4本くらいのつり天井のエアコンが有り得ない動きをするんですよ。揺れるじゃなくてうねるみたいな。
「これはやばいよね」
みたいな感じで、みんなパチンコの玉を持ちながら避難してたんですけど<笑>
Q.パチンコ屋さんは福島市内ですか?
 被災したのは福島市内でほんとに近所のパチンコ屋だったんですよ。それでみんな持って駐車場に行ったときに、僕は人生で初めて地震で四つん這い、危険を感じて四つん這いになろうって思ったのは人生初めての揺れで、近くにはおばあちゃんとかも本当に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とかいいながら泣いてるおばあちゃんとかもいたり、
「ばあちゃん、大丈夫だよ、大丈夫だよ」
なんつって。
 もう本当に駐車場の車がポンポン跳ね上がってるような状態だったので、流石に僕もうあの時
「やばい!これはすごいな」
っていうふうに思いましたね。
 地震が来て「これはただごとじゃないな」っていうふうに思って、一番最初に自分のお店、今はあがとっていうお店だったんですけど、その当時はここからすぐ歩いて2分くらいのところにある小さい8席くらいのやたいってお店をやってたんですけども、そこで昼間僕ちょっとお店を貸してるんですよ。兄夫婦にお店を貸してたのがあって、まず家族も心配だったんですけど、小さい掘立小屋の屋台でそこにうちの兄の嫁が多分働いてたんで、小屋がつぶれたんじゃないかっていうふうに心配になって、一番最初に自分のお店の屋台のところを見に来たら、兄夫婦は元気で「大丈夫だよ」って言ってたんで、「じゃあ」って言って自分の家に戻って、その後は嫁の安全を確認した後、学校に娘を迎えに行って、そしたら娘も本当に大変怖い思いをしてね。その日は、もう停電したりとかいろいろ水道がとまったりとかあったんですけど、
「今日は家族で一緒に過ごそう」
みたいな感じで、家族で3人布団に入って過ごすんですけど。
Q.原発の爆発を知ったのはいつでしたか?
 3.11地震が来て、自分、まず仲間、そのみんな大丈夫かなっていうので連絡しようと思ったんだけど連絡つかないような状況の中で、家族は無事だという・・・結果的に福島市はそんなにけがをしたとかそういうのは一切なくて、ただどうも近所の体育館に避難してきてる福島市内のおじいちゃん、おばあちゃんとか家族の人が、電気なくなってとかで体育館で避難してるらしいよっていう噂は聞いてて、僕ら福島市のこのパセオ通りっていうんですけど、このパセオ通りの飲食の仲間が
「どうせ電気止まっちゃうんだたら、冷蔵庫・冷凍庫のものダメになっちゃうから、それ集めて炊き出しいこうぜ」
みたいな話になって、僕、その日はやっぱ娘と一緒にいたかったんで、
「ごめん、俺今日はちょっと・・・」
っていって、一回自分のお店の冷蔵庫のものだけ、あとはガスコンロとか鍋とかを貸して、
「ごめんね」
って言って。それを僕は提供して家に戻って、それで家族と一緒に過ごすんですけど、翌日になってね、やっぱりいろんな情報、電気が通ってないんでね、携帯でしか情報が入んないじゃないですか。そんな中、小っちゃい携帯の画面で津波の映像だったりとか
「いや、これはただごとじゃないことが起こってるな」
と。でもホントに電気、水道、ガスが止まってる状況の中で、食べるものもままならない状況でわかんないけどすごい恐怖感。これはほんと日本人全員があの映像を見て、何が起こってるの?っていうような感じだったと思うんですけど。
 その日は夜中もろくに寝ないで家族は寝かせて、僕は結構徘徊してたんですけども、生まれて初めてですよね。ホントに福島中の電気が真っ暗で街灯もついてない、音もなにもないような世界で・・・。
 朝方ちょっと買い出しで買えるものがあるかなと思って、ちょっと近所を走り回って食材を探すんですけどお店もやってない状態で、でもお店の方にちょっと朝日が昇ってから家族は大丈夫だなと思ったから、
「ちょっと俺店みてくるわ」
って店見に行ったら、どうも今度は海の方から避難してくる人がいっぱい居るらしいよっていう、たまたまちょっと役所関係の知り合いの人とそこであって話したときにそういうような話で、僕の中では前日炊き出しできなかったから、罪滅ぼしじゃないんですけど、
「じゃあ今日は俺やるわ」
みたいな感じで、福島市の飯坂温泉っていって、福島市の中でも北側にある温泉街があるんですけど、そこに最初400人って言われたかな。
「浜の方から400人が原発関係、津波もそうですし、最初は津波で家が無くなった人がこっちのほうに避難してくるようになるから、400人くらい受け入れ態勢を整えてるんです」
というような話を聞いて、
「じゃあ400人分の豚汁とおにぎりなんかを作って持っていくわ」
って言って、始まったのが炊き出しなんですけど、今思ってもあの日はやっぱり壮絶というか、本当に酷い状況・・・ほんとに砂まみれでね、印象的だったのは、おばあちゃんが頭ポリポリ書くと砂がぼろぼろぼろーって落ちてきて、
「私津波で流されて、もうよくわからん」
みたいな感じで、ただ避難先が飯坂温泉っていうことで、もうみんな温泉に入れると思ってきてるんですよ。もうそれは翌日の夜だったから、もう・・・36時間とか経って、30時間とか経過してるわけですよね。その間ホントに1回もお風呂に入れないような状況の中で福島に来て、温泉、自分の車で移動してきた人もいるし、バスに乗せられてきた人もいるんですけど、温泉に入りに、でも福島は実は電気が止まってる状況で、その避難所は自家発電かなんかで電気はきてるんですけど、温泉はない。お風呂には入れない。お湯もないっていうような状況の中で、やっぱどうしても「温泉入りたいわ」みたいな感じでね、なんか本当になんかしてあげたいのに、僕ら豚汁しか出せないような状況で、
「ごめんな、ごめんな」
っていって、そのおばあちゃんと初めて会った時には、津波で本当に流されちゃっててもいるんだみたいな、まだあの当時は津波で死んだとか亡くなったとかっていう報道とかは一切無いような状況なので、津波は来てる映像はきてるけど、人が亡くなったかどうかっていうのは、その時に、
「あ、ホントに津波で人間って流されるんだ」
っていうような・・・、なんか得体の知れない恐怖みたいなのを感じてて・・・
Q.その情報は何で知ったのですか?
 あの時メディアの情報というよりは、
「流されたんですか?」
って言ったら、
「それもそうだけど、放射能の避難が始まったらしいよ」
みたいな、ほんとに不確定な話で、あの当時
「まさか原発漏れるわけないでしょ」
みたいなね、楽観的というか、「それはないでしょ」みたいな「そんなことあったら大変なことになるよ」くらいの感じで信じてないというかね。
 12日の時点では、原発漏れてるとは思ってませんでしたし、自分ではもう炊き出しをやってたんで、そんなにテレビの情報を見てる電気も来てなかったので、情報も入ってなかったし、原発が漏れ始めたよっていうのを知ったのは、15日の昼間くらいに、
「どうも数値が上がってきてるよ」
みたいなのが15日ですかね。はい。
 ですので、15日までは原発漏れてるとか爆発とか、危険な状態っていうのは気づいてないですね。はい。
Q.原発に関する知識はどのくらいお持ちでしたか?
 原発・・・放射能の知識なんていうのは全く無かったし、ましてや正直いって福島に原発があるのは知ってたけど、それが福島にどう影響するのかなんて考えたこともなかったし、そうですね・・・。第一原発、第二原発がどこにあるのかも、「海のどこかだよね」みたいなくらいの感覚でしたから、原発と福島市が直線距離では60㎞くらいなんですけど、実際そこに行こうと思ったら、多分100㎞くらい、いわき市というところを経由していかなきゃいけない、多分道が無いんでね、そこに行くまで。山道はあるのかもしんないですけど行ったことも無いし、もうホントに異国の出来事くらいの勢いですよね、はい。
Q.原発が爆発した時は何をしていたのですか?
 俺らは炊き出しを僕は12日、うちらのチームは11日の夜からやってたんで、僕が参加したのは12日の夜から炊き出しを、毎回1200食くらいずつの炊き出しをやらせていただいて、多分ね、11日以降何してたの?って言ったら、炊き出しのための準備と夜炊き出しで配るっていう、その繰り返しで、とにかく目の前の人、困ってる人にあったかいスープ、それしかできない。食材が無いんでね。味噌だけは30㎏s、40㎏sあったんで、それでなんとかみたいな感じでやって。
 炊き出しをしてるんですけど、やっぱり情報であちこちから、
「原発、やばいらしいよ」
とか、そういう情報は、「危険だよ」みたいなのも。「そうはいっても」みたいな、あんまり信じてなかったっていうのが正直なところなんですけど、14日の日、炊き出しをしてその時に15日もやるはずだったんですよね。でも、15日になってなんか線量が一気に上がった、24マイクロシーベルト/時とかまで福島市は上がったみたいな話になったときに、
「24マイクロシーベルト?」
みたいな。
 意味が全然わからなくて、「24マイクロシーベルトまで上がったよ」っていうのは、確か僕はインターネット、僕はやっぱツイッターだったと思うんですけども、上がってとにかく電気とかが・・・電気は来てたんだな、あの頃。でもテレビ放送とかそういうので言ってたわけではないんで、多分噂というか、
「数値すごいあがってるらしいよ」
みたいな感じで、その日僕ら炊き出しやってるんですけども、やっぱ僕らも飲食のプロが集まってるんで、僕らの炊き出しをすることによって、あの頃内部被曝っていう単語知らなかったと思うんですけど、
「放射能を自分らが提供した料理が、放射能にもし汚染されててそれを皆が食べてバタバタ倒れたら大変だな」
みたいな。それで、15日は流石に炊き出しは止めたんですよね。それはやっぱり、一応屋根はついてるけど外で料理を作んなきゃいけないっていうのが、犬走りというかね、なんかそういうところで作んなきゃいけなくて、雪も降ってたし、何より大学生のボランティアも3,4名いたんで、
「こいつら危険にさらすわけいかんね」
っていって、その日は炊き出しはやんなかったんですけど、やっぱ24マイクロシーベルトの意味がわかんなかったし、今だったら速攻逃げますけど、あんときはわかんなかったっていうのが正直ですね。はい。
Q.炊き出しを中止した後は何をしていたのですか?
 15日は中止したんですけど、16日以降はやっぱり市の要請という訳では、まぁ要請まではいかないんですけど、「やってほしい」みたいな感じがあって、このまま毎日何も食べないのも大変だなっていうのが、僕らもほとんどもうスーパーとかから食材が無くなっちゃってて、どうしようかなと思ってたら、旅館、温泉街が福島市にはいっぱいあるので、その旅館全部、全部ではないですけど、何カ所か回った時に、やっぱ旅館も春休み前に食材いっぱい仕入れてるんで、
「どうせこれ腐らせちゃうんだったら、安く譲るわ」
みたいな感じで、「くれるわ」って言われたんですけども、
「ちょっと申し訳ないから買い取ります」
っていって、買い取って食材いっぱい買っちゃってたので、
「別にこれは食品自体には放射能入ってるわけではないんでね、作るときに気を付けてやれば大丈夫じゃねぇ?」
みたいな感じで16日以降はまた炊き出しを毎日、大体1200食くらいずつ続けて、3月いっぱいくらいまではそれをずっと続けたんですけど。
Q.炊き出しをしていた場所はどちらですか?
 3月の12日、13日、14日、3日間はその飯坂温泉のパルセ飯坂っていう会場で、そこは最初800人から1000人くらいだったのかな。そこの炊き出しを3日間くらいやらさせてもらったんですけども、飯坂は結構婦人会みたいな、女性の会みたいなのがあって、近所の人もおばちゃんとかも炊き出しをしてくれてたんですよ。そのもうちょっと離れたところにあづま総合体育館っていう結果的に福島市で一番大きい避難所になるんですけど、そこに2000人近くいるんだけど、もう3日くらい何も暖かいものも何も、おにぎりとパンとかは支給されてたんですけど、ほとんど誰も炊き出し行けてない。っていうのは人数があまりにも多すぎるんで、誰も対応ができないっていうことで、僕らすんごいでっかい鍋を持ってたんで、
「じゃあ明日から僕らそこで炊き出しをします」
ってことで、14日以降はそのあづま総合体育館っていうところで1200人から2000人くらいの間の炊き出しを毎日やるんですけど。
 ただ3月後半くらいになってきたら、福島はガソリンが入るようになってきてね、ガソリンがみんな手に入るようになってきたら、今度東京都か県外の人が炊き出しにいっぱい来てくれるようになったんですよ。ですので、僕らが出す豚汁より、東京はすごいですよね。マグロの解体ショーとかいろんなのが来るんで、僕らの炊き出しより全然おいしそうだし豪華だから、「僕らはこの辺でいいね」とか言って、僕らはちょっと違う方のボランティアに回るんですけど。
Q.総合体育館に居た人はどこから避難してきたんでしょうか?
 あづま総合体育館というところで避難してた福島市で一番の避難受け入れ先だったところでは、やっぱり一番は原発の避難の人が多かったですね。あとはもちろん津波で家が無くなった人とかもいるんですけど、大体最終的には原発関係の人が多かったですね。
Q.避難している人から何か話を聞きましたか?
 やっぱり1200人とかの人が避難してると、その中には東電の社員の家族さんだったりとか、東電関係の人とかもいっぱい実は居たりとかもして、でもあんまり・・・なんかよくわかんないですけど、噂はいっぱい聞くんですよ。いろんな噂は聞くんですけどそれが事実かどうか判んないんで、よく判らないっていえば判らないんですけど・・・
Q.情報にはかなりギャップがあったのですか?
 ほんと大混乱の中ね、情報も何から仕入れていいのか判らない、テレビなのかラジオなのか、インターネットなのか。開く媒体によって情報が全然変わってきて、そうですね・・・行政の発表っていうのは、やっぱり
「直ちに影響はありません」
みたいなのだったし、例えば僕なんかはインターネットを結構活用したほうで、やっぱりヤバいのはヤバいってすごくわかってて、僕は家族を説得してね、僕は自分の命はどうでも良かったんですけども、まぁどうでもいいわけじゃないんですけど、自分の命は自己責任でいいんだけど、最終的にはやっぱり僕にとっての最悪の未来っていうのは、娘が死ぬことなんですよ。放射能で。それだけは避けたいなと思って、ホントに娘、嫁と三人で何十回家族会議をしたか判らない。
 結局、福島県の会津若松の奥の方の本当に放射能来てないだろうっていうところで、1週間だけ寝泊まりして、そこで、それがね3月17日から1週間で、23だか24だかに帰ってきたんですけど、その1週間だけは避難したんだけど、
「何もすることなくて飽きた」
なんて言って帰ってきちゃったんですけど、僕にとっては娘が死なないにしてもね、病院で苦労する姿とかをイメージしちゃったりとかすると、もうホントに発狂するくらい嫌な話で、正直怒り、やり場のない怒りですよね。誰に言う訳でもないんですけども、どうしていいのかわかんないし、ホントに・・・悩んだというか、あんなに悩んだのはないんじゃないかっていうくらい放射能怖かったしね、見えない無味無臭のものに対して、なんら景色は変わんないのに「放射能すごいです」って言われて、そんな中娘と嫁だけはなんとか避難させたかったんですけど、結局はしなかったんですけどもね。
Q.ご自身の情報の入手方法について教えてください。
 多分放射能を意識したのは、やっぱり3月15日の午後くらいに数値が急に跳ね上がったっていう話を聞いて、それはヤバいねっていうことで、ツイッターとかで調べるというか、今どういうことが起こってるのかっていうのを調べて、流石にこれはやばいのかもしらんっていう。
 その日は僕も自宅待機してたんですよね。
 実は僕、多分同じ時期くらいだと思うんですけども、これから炊き出しとかボランティア活動を続けていくんであれば、絶対必要になってくるのは線量計だなというふうに思ってて、小型のものがあるって最初は知らなくてね、よくテレビで映ってる四角い箱の「あれ欲しい!」と思って手配してもらったら、3月の20日くらいかな、1週間か10日くらい・・・3月の20日くらいになったらその機材が届いて、そこからまた活動はできるんです。毎回運ぶんですけど、まぁ・・・最初はホントに放射能怖いな、でも怖いレベルがよく判らない状態の中でね、基本的に自分そんなテレビ見ない、実は新聞も見ないっていう・・・あんまりテレビ見ないんですよ。流石に震災後は情報を得るのにテレビはつけてたりはしたし、でもそういってもいろいろ行動はしてたんで、自分が得る情報っていうのは仲間・知人の噂話と、あとはたまに見る行政の発表。それをツイッターで発表されるじゃないですか。そういうのを見て、自分で噛み砕きながら行動していくんですけども、最終・・・やっぱり最初は山下教授の話は鵜呑みにしました。はい。僕はね、山下さんの話は、今でも僕は間違ってるとは思ってないんですよ、実は。あの時の言い方とか表現の仕方が悪くてなったのかもしれないんですけど、今改めて聞くと間違ってることは言ってないんです。ただ唯一、山下さんが
「100マイクロシーベルト/時以上でなければ大丈夫。今、福島20くらいだから大丈夫」
みたいな話をされて、それをみんな信じてしまったので、言い間違いだったのかどうだか、後から県のホームページとかでは訂正してるんですけど、その当時はやっぱり
「100じゃないんだったら20だったらいけるんかな?」
みたいなのは正直思っちゃったんで。
 最初は僕も行政・・・100%信じてたかっていうと、どうなの?とは思うけど、でもそこを信じなかったらすべて疑うようになっちゃうんで、僕は最初行政の発表することと、あとはそれに自分なりにちょっと色を付けて解釈はしながら、活動してましたね。はい。
Q.山下さんの発言は、どの辺が正しくてどの辺が間違っていると思うのですか?
 僕も専門家じゃないんでね、よくその山下さんの話が正しい・正しくないっていうのはわかんないですけど、ただアドバイザーとして・・・何なんでしょう、その
「100ミリシーベルト/年、1年間で100ミリシーベルト以下だったら、ガンの発生率は無い」
とかっていうのは、よくわかんないですけども、そういう言い方もあるんだと思うし、それは何ですかね・・・、あの当時、でも僕が怒ってたというか、は、やっぱりね、何パーセント、ちょっとパーセンテージ忘れましたけど、「ガンの発生率は0.5%です」みたいなね、「じゃあ1000人居たら5人は確定するの?」というような話で、行政の言い方だとね、
「じゃあ995人は大丈夫だから、交通事故に遭うより低いんで大丈夫です」
っていうその言い方はすごく「はぁ?」みたいな感じは。あの頃はちょっと怒りに満ちてる部分もありましたけどもね。
Q.では正しいと思う理由はどこにあるのでしょうか?
 ちょっと話が飛んじゃうのかもしれないんですけど、例えばあの時
「笑ってる人に放射能は寄ってきません」
とか行ってたから、こっちは「はぁ?!」っていうふうに怒るし、
「何を言ってんの?この人は!?」
って正直僕も思たけども、実際にじゃあ福島にね、もう今いる人は多分避難しないじゃないですか。まぁする人もいるかもしれないですけど、ほとんどの人は残るっていう選択をした場合に、5年後にどうなるか判らないことにビクビク5年間過ごすのか、ね?それとも5年間楽しくその日1日1日を怯えることなく過ごすのかっていうのは、大きな差が出ると思うんですよ。放射能で体をやられる前に心やられちゃったら意味が無いし、そういう意味で、
「あ、山下さん、そういうことを言ってたのかな?」
というようなのは、今だと理解できるんかなっていうふうに思ったりとか、そういう話で、まぁあの時期に話したのは良い・悪いっていうのは僕はちょっとわかんないですけど。
Q.異なる情報が人々を混乱させた面もありました。
 ね?僕も大混乱は大混乱だったし、やっぱり親なんかはね、
「新聞で行政が言ってるんだから間違いないでしょ?あんたそんなに放射能・放射能って騒ぐな」
って最初僕は親に怒られたくらいですから、その後ね、避難しないっていうふうになったら、逆に
「なんであんた子供避難させないの?」
なんて<苦笑>やっぱり新聞・テレビを信じてた人ととかは後になってひっくり返されたっていうのはすごく多いと思うんですけどね。
Q.ご自身がガイガーカウンタを購入されたことについて、少し詳しく教えてください。
 僕は炊き出しの話の続きなんですけど、僕ら3月17日の日かな?に、全然何の情報も無かったんですけど、
「南相馬市の市役所職員が何も食べれなくて、困ってるからなんとかならないか?」
っていうふうにちょっと人伝いで連絡いただいて、南相馬ってどこなの?って判るんですけど、原発から滅茶苦茶近いし、僕らが炊き出しをやってる人たちの中でも南相馬市民っていっぱいいたので、「そこに行くの?」って。
 結局その炊き出しのリーダー格の3人で南相馬市に3月17日に職員のための炊き出しをしに行くんですけど、やっぱりあの時一番死を覚悟したというか、原発25㎞地点くらいの市役所の中だったんですけど、
「でも困ってる人いるしそこで職員は毎日頑張ってるわけだから、俺らもちょっと行こうか」
みたいな感じで勢いでね。
Q.桜井市長がYOUTUBEで呼びかけをされる前のことですか?
 桜井・・・そうですね、その時にそれは南相馬市役所からの依頼ではなかったんですけど、どうもそこで頑張ってる職員さんが200何十人居ると、もう全然家にも帰れてないし、1週間くらいほとんど何も食べない、食べないというかスナックとかそういうもので凌いでるっていう話で、行かせていただいて、その時にはおにぎりと餅の粉があったんで、餅を作ったのかな。なんかあんころ餅をつくったりなんかして、豚汁、なんか二回分くらいの食事を僕ら3人で行ってやった時に、なんか桜井市長ともその時初めて僕らもお会いさせていただいて、
「いやー、民間人が来るのは震災後初めてだ」
とか言われて、1週間ぶりに桜井市長も
「市長室を会議中みたいな札を立ててくれて、30分間だけ初めて休憩するんだ」
なんて言ってね、市長ともお話させてもらって、すごい桜井市長がどうとかいろいろあると思うんですけど、僕はその「カッコいいな、この市長」とか思って、そういう思いで。でもその時にやっぱり、放射能の数値がね、すごい判らないけどとにかく高いんじゃないの?みたいな感じで・・・
<01:42:40頃まで>

【その③】に続きます。
にほんブログ村 環境ブログ 原発・放射能へ
にほんブログ村

人気ブログランキング