※※この記事は、百人百話シリーズの第52話です。前回は3月7日【内容起こし】IWJ百人百話 第51話 タエバさん(仮名)『山下氏は医師向けと市民向けで発言内容が違う』です。

【動画】3月8日 百人百話 第五十二話 吉成洋拍さん
http://www.ustream.tv/recorded/20960238 (153:08)

【以下、お時間の無い方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2011年12月21日収録
Q.自己紹介をお願いします。
 吉成洋拍といいます。みんなからは「はぐちゃん」と呼ばれてるんですが、歳は40歳、福島市在住で、そうですね、もう40年福島に住んでいます。生まれた時から福島生まれで40年間いまして、今は飲食店を経営させていただいてます。
Q.ご家族はいらっしゃいますか?
 私、嫁、娘、小学校4年生10歳の娘が一人います。

Q.どのような飲食店なのですか?
 飲食店は夜やってるバーなんですけども、あとは家族がみんなで集ってくれたりとか、仲間がいっぱい集ったりとか、福島でみんなが集まれる場所を目指してやってるお酒飲めるバーですね。
Q.福島市のどのあたりにお住まいですか?
 福島市の駅からすぐ近くのところに住んでいるんですけれども、親父が自営業をやってる、私自身は6人家族だったんですけども。
 私は次男になりますね。3番目。姉、兄、私、弟と。
Q.どのようはご家族なんですか?
 6人の家族なんでね、ほんとに4人兄弟仲良しで、わきあいあいとした家族です。
Q.ご両親の出身はどちらなのですか?
 親父が福島県の本宮市というところで生まれて、おふくろは福島市で生まれて、どっぷり福島家族ですね。
 本宮は、福島の中通りという真ん中の福島市、二本松市、本宮市と、その下に郡山市があるところですね。
Q.ご自身はどのような子供だったのですか?
 自分が次男ということもあって、親は結構放任主義というか、好き勝手にやらさせていただいて、自由人のような若いころを過ごさせていただいたかなと思います。自由奔放に育てられてきました。
Q.渡利地区はお近くですか?
 自分が住んでいる場所は、渡利からは車で10分、15分くらいはかかるようなところなんで、福島駅に西側の方に住んでます。
 自分は親と二世帯住宅で一緒に生活はしてます。
Q.子供の頃ご自身にとって福島市がどのような印象だったか教えてください。
 福島市っていうのは、やっぱり山に囲まれてて、ちょっと車で遠くに行けば海もある、湖もある、ほんとにスキー場もあって、自分が小さいころ親父が活動的だったっていうのもあるんで、いろんなところに連れていってもらってるんですけど、なんでしょうね、小さいときは近所の川に魚が泳いでたりとかザリガニ採りしたりとか、そういう風景は最近は見ないですけどもね、本当に、自分が生まれ育った町なんで昔から大好きだったと思います。
Q.ご自身の足跡について簡単に教えてください。
 人並みに小学校、中学校と近所の学校に通って友達もいっぱいいますし、高校もいわゆる進学校というところに行って、福島東高等学校というところに行かせていただいてるんですけど、あまり高校はいい思い出が実はなくて、男子校だったっていうのもあるんですけどね、その分大学に行って、大学がちょっと福島の大学に行って、そのあとちょっと福島のテキサスA&M大学っていう大学に行かせていただいて、そのあと実は4年間くらいアメリカ留学してるんですけども、楽しい学生時代を人並み以上には過ごしたかなとは思います。
Q.学生の頃福島県を外から見た時、どのように感じましたか?
 多分僕の人生のターニングポイントの一つが、アメリカ、テキサス州に留学したことだったと思うんですけど、やっぱりアメリカの異国の文化に触れて、いろんな感動もありましたし、自分の中でいろんな勉強になることもあったんですけども、一番こっちに戻ってきてというか、一番アメリカ行って良かったなと思うのは、福島の良さ、日本の良さっていうものを改めて気づいた。それは多分同じ箱の中に居たら気づかないんですけども、一回外に出たことによって故郷の良さとか、日本の文化、福島の文化なんかを再発見したなぁみたいな、それはすごく思います。
Q.どんな時にそう感じたんですか?
 アメリカに行ってむちゃくちゃやっぱ、日本恋しくて、日本が恋しいっていうか家族が恋しかったり、彼女が当時日本に居たりとかで恋しくて、アメリカでいろんな経験させていただいてね、日本では体験できないような本当にスケールのでかい、全てにおいてスケールがでかいのでね、旅行に行って土地土地をみただけでも、日本では見られないような景色を見たりとか、食べ物ステーキ一つ注文しても、日本の3倍も4倍もでかいような、そういうような本当に驚きの連続の毎日ではあったんですけれども、それと同時にホームシックまではいかないし、帰ってきたくはなかったっていうのも正直あるくらい楽しかったんですけど、やっぱり家族だったりそういうのは心のどこかで・・・やっぱりさびしいなとか日本がいいなと漠然とはすごく思っていて、のちのち今となって考えるといろんなことに気づくんですけども、あの時はまだ帰ってきたときはちょうど25歳くらいだったんで、なんかイケイケムードで漠然と「あぁ、日本やっぱりいいなぁ」みたいな気持ちは持ってました。
Q.具体的にはどの様な部分ですか?
 やっぱりおふくろの味。誰が作るとか何を作るじゃなくて、家庭の味っていうのはすごい恋しかったですね。おふくろが作る料理で一番はね、福島市の福島県なのかな?ちょっとわからなんですけど、名物でね、「いかにんじん」っていうのがあって、イカと人参を松前漬けに近いのかな。僕はずっとそれが全国国有名なものだと思ってたんですけど、日本人の食卓に必ず出るものだと思ってたんです。最近「「いかにんじん」って福島の人しか食べないんだよ」って聞かされて、やっぱおふくろがつくるいかにんじんとかはすごく大好きだったし、日本でっていうか家でしか食べられないものだったんでね。いかにんじんと白いご飯があって、じゃがいもとワカメが入った味噌汁。それがあれば一番の贅沢なんじゃないかなと思います。
Q.なぜアメリカに留学しようと思ったのですか?
 自分は高校3年生の時に夢というかやりたいことがいっぱいあったんですよ。それで、その夢っていうのが、ちょっと人間の心理学を学びたいなとか、親父が自営業やってたんで僕も経営学びたいなとか、ちょっとよくわかんないけど外国に留学もいいなとか、幼稚園の先生にもなりたかったんですよ。僕実はすごい悩んで、どうしようかなと思って。
 それで、受験場所を全部違う学科、全部自分の夢、5本のラインですよね。そこの大学を全部受けたんですよ。それで、尚且つ受からないだろうっていわれてる大学をワンランク一つ上で選んで受験したんですけど、見事5個のうち4つ落ちたんですよね。一つ残ったのがアメリカ留学っていう、じゃあ僕はこっちの道へ行こうっていう、本当にそれだけで、とりあえずアメリカ行ってみようかなみたいな感じで、大学、最初は郡山市という福島県の郡山市で、昔流行ってましたよね。駅前留学じゃないな、なんか日本に居ながらアメリカの大学に行けるっていうシステムがそれこそ20年くらい前に日本でブームになってたと思うんですけど、その一つに進学する形になりました。
Q.彼女を置いていくことに不安はなかったのですか?
 多分アメリカに行くことは決まっていて、その時にちょっとなんでテキサスを選んだかというと、ネイティブアメリカンにすごく興味があって、インディアン、いわゆる日本ではインディアンと呼ばれてますよね。僕ね、ウエスタンの映画が大好きで、ずっとインディアンを的だと思ってたんですよ。映画を見ると、必ず白人の人たちが馬に乗ってインディアンをやっつけて、「こいつら悪だ!」みたいな。それがね、高校1年の時かな、ある日そのインディアンが悪じゃなくて白人が悪なんだっていうことに気づくというかね、見方次第でしょうけども、ようは白人の人たちが行ってその土地の人を追い出してっていう・・・「インディアンって悪者じゃないんだ」って思ったときに、すごくネイティブアメリカンの人に興味を持って、その歴史を学びたいなというふうに思ったんですね。その流れで、でもウェスタンの馬に乗るのは僕のすごい憧れで、馬に乗りたいなって言って、福島に牧場があったんですけど、そこで知り合ったのが彼女だったんですけどもね。それで、「半年後にはアメリカに行くよ」みたいな感じで付き合っていたんですけど、その後も1年くらいは本当に超遠距離っすかね、地球の裏側なんでね。
 僕は自由にやりたいことやってたんで、そんなに寂しいというか無かったですけど、迷惑掛けたかもしれないです。
Q.アメリカに行ってどのようなことを感じましたか?
 アメリカのインディアンの居住区みたいなところに行って、ネイティブアメリカンの人と仲良くなったりとか、そういうのは今最近ちょっと連絡とってないんですけども、ちょっと前までは連絡取り合ってるくらい仲良しの人は何人かいたりとかして。まぁでも普通ですよね。はい。
Q.アメリカに残ろうとは考えなかったのですか?
 本当はあと2,3年くらい実は居たかったんですけど、ちょうどそのころ親父の事業とかの手伝いとかもあったんで、そのタイミングで帰ってくるタイミングなのかなっていう感じで自分で戻ってきたんですけど。はい。
Q.お父さんは自営業とのことですが、何の経営をされているのですか?
 うちの親父はとんかつ屋を経営してまして、あの当時で福島県で8店舗チェーン展開してたんですよね。結構親父はやり手だなぁと今でも思うんですけども、8店舗。僕は全然店を継ぐっていう気はさらさらなくて、ただサービス業ということで、僕は小学校じゃない、中学校2年生からお店に立って接客とかやってて、それなりにサービス、接客っていうのは自信持ってたんですけど、お金のこと、経営面は全く判らない。そんなのがあって、アメリカから日本に戻ってきて親父にお願いして、会社の経理の勉強させてくれということで、最初は2年くらいで卒業して後は自分で店を持とうって思ってたんですけども。
Q.お父さんから経営を学んだんですか?
 中学校2年生から親父のとんかつ屋を手伝ってて、とんかつ屋が家族だったんですよ。僕にとって。っていうのは、家に帰っても誰も居ないんだけど、とんかつ屋のお店に行くと家族がみんな居るんですよ。夜ね、だいたい9時閉店で、片づけやると大体10時になると家族みんなで家に帰ってくるみたいな。兄弟もみんなとんかつ屋を手伝ってたりとかしたので、弟は流石に小学生とかだったんであれでしたけど。僕にとってとんかつ屋=家族、家庭っていうのがあったもんですから、だからアメリカから帰ってきた後も、やっぱり家族のつながりっていうととんかつ屋に入るっていうのが、なんか刷り込みではないんでしょうけど、常にそういう何の抵抗もなく「手伝わせて」みたいな感じはありました。
Q.とんかつの味にこだわりはありますか?
 自分、今でも思ってるんですけど、もう僕は本当にとんかつマニアで、多分日本全国でも僕よりっていうくらいとんかつにはうるさい男だと思ってるんですよね。もちろん作らせても僕は日本一だと思ってる。さっき一番最初に「ここはバーです」って言ってたんですけども、とんかつバーなんですよね。ここは。おいしいとんかつが食べれるバーっていうコンセプトでやらせてもらってるくらい、やっぱり今でもとんかつラブですね。
Q.手伝い始めてからはどんなことがありましたか?
 当初は2年で、2,3年くらいで親父の会社を出て、その間にお金を貯めて自分でお店をやりたいなと思ってたんですけども、親父がちょっと病気で倒れるんですよ。それで、それは親父が倒れたのは僕が入社して4年目くらいだったんですけど、最初は2,3年って思ってたんですけど、なんかダラダラと結構いい給料もいただいてて、居心地良かったんでそこに4年くらいいたら、僕が29の時に脳梗塞で倒れて、それで結局結論からいうと、親父は死ななかったんですけど、ほんとにあの頃「今晩が峠です」みたいな感じで、「覚悟してください」というところまで親父がいっちゃってね、そんな中実は会社ですごい借金があって<苦笑>、店を閉じたほうが良かったんですけども、さっき言ったように僕はとんかつ屋が自分の家族の、家庭を重ねていたんで、「じゃあ借金返してでもこのとんかつ屋は継ごう」となんかスイッチが入っちゃって、会社として4億その頃負債を抱えていて、多分親父はそのことで悩んで心労で脳梗塞になったんじゃないかなと思うんですけど、その時に実はうちの兄貴と姉の旦那さんも一緒に働いてたんですけど、話し合いをして、「彼らは抜ける、辞める」ということで、当然僕に次が来て「じゃあ俺がやるよ」みたいな感じで・・・よくわかんなかったんですね。29歳で4億の意味が。当時は・・・年商でも4億くらいあったんで、何とか返せるのかなって。でも、脳みその中では1店舗にしたいと思ってて、そこがちゃんと咬みあってなかったんですよね。
Q.そもそもなぜお店を1店舗にしたいと考えたのですか?
 1店舗、僕は決めちゃったんですよね。1店舗で日本一のお店を作りたい。そのために各店舗に兄弟なんかもいたんで、そこをみんな集めてなんとかやりたいなっていうふうには思って・・・これは負債があるとかないとかじゃなくて、僕がこのお店を継いだら、この会社を継いだら、1店舗で究極のお店を作りたいなっていうふうに最初の方から思ってたんで、そこに躊躇は無かったです。
Q.それはいつ頃ですか?
 ちょうど2000年か2001年とかそのくらいだったと思うんですけど。そうですね・・・。でも、なんとか返せるかなとは思ってやってたんですけど、半年間で返済が溜まっていって4億8000万くらいまで上がって「全然返せないよ、これ。どうしよう?」みたいな感じで。本当に毎月返済・・・純利で300万残っても返済が毎月500万あるような生活だったんです。もうどう頑張っても黒字なのに借金が返せないって本当に毎月謝罪しながら、「もうちょっと待ってください、待ってください」みたいな、過去の負債に対してだったんで、業者さんにお願いしたりとか、なんとかなんとかやってたんですけども、僕、ある日ひらめくんですよ。今までとんかつ屋をやってたのが親父が作ったメニュー、親父が作ってるシステムだったんですけど、客単価にして大体700円とかそのくらいの客単価だったんですけど、ある日
「あ、客単価700円だから1500円の客単価にすればいいんだ!」
っていうふうに思って、思っちゃったんですよね。
 ある日、高級食材に変えてめっちゃくちゃおいしいとんかつ、あの時で1380円で今まで700円くらいのとんかつを1380円を売りにして出した。当時吉牛が250円にしたりとか、マックが100円にしたりとか、世の中が値下げブームの中、僕は倍の単価にしたんですよ。味は全然自信あるんで「いけるな!」と思ったら、これで福島の業者さんが全員
「あそこの社長のバカ息子が気狂った」
っていって、一切取引をしてくれなくなったんですよ。それで、
「いやじゃあ今後そのメニューでそういうシステムでやるのは応援します。そのかわり過去の3か月分の溜まってる分を払ってください。そしたら明日から納品します」
と言われて、困っちゃいますよね。仕入れができないんですよ。今考えると笑っちゃうんですけど、それでどうしようかなーと思ってたらね、たまたま僕その時インターネットを始めたばっかりのころで、そこで楽天と出会うんですよね。楽天を開いたら、楽しいんですよ。日本一の塩とか日本一の味噌とか、今まで手に入らなかったものが楽天を使えば手に入るんだっていうことに気づいて、それで福島の業者さんと取引が一切なくなっちゃったんで、
「インターネットで買えばいいや」
みたいな感じで始めたら、気づいたら日本一の食材祭りみたいなとんかつになってて、これがね、結構ちょっと浸透するには時間はかかりましたけども、受け入れられて今に至るんですよね。めちゃくちゃ業者さんがそっぽ向いてくれたおかげで、なんかそういうおいしい日本一の食材を使った本当においしいとんかつっていうものを提供できる店になっちゃって、とんかつに行きつくために、実は東京でとんかつの師匠と出会うんですけど・・・
Q.なぜ東京へ行くことになったのですか?
 自分の中でとんかつ屋をこれから作っていこうっていうふうに決めた時に、いろんな壁があって苦しかったし、借金どうやって返そうかなとか、そんな時に一通のダイレクトメールが来るんですよ。それは『とんかつ店専門のオーナーさんへ』っていう勉強会だったんですけど、そのメールはしょっちゅうダイレクトメールで来るんですけど、今まで一件も見向きもしなかったんだけど、なんかこの講演会、セミナーは参加してみたいなって僕人生で初めての参加したセミナーが、そのとんかつ専門店をやってる人のためにセミナーみたいな。「なんじゃこりゃ」みたいな感じで、それで初めて申し込んで行ったのが東京。そこで講師をやってた、講師というかゲスト講師という感じで来てたのが鳥取の社長さんで、そのお話を聞いた時に僕は本当にイラッときて<苦笑>、そこのセミナーに集まってる人はみんな多分倒産寸前の会社の人たちばっかりなんですよ。とんかつ屋さんの本当にどうやったらとんかつ屋の売り上げあげられるのかなって、藁をもすがる思いで来てる人たち、そこでステージで理想的な話をいっぱいしてるので、言ってることはすごいんですよ?
Q.例えばどのような話ですか?
 いや、
「良い食材を使っておいしいものを出せば、お客さんは喜んで売上あがりますよ」
とか、
「お店はこういうレイアウトにしたほうがいいですよ」
とか言うんですけども、僕らお金なくて投資ができなくて困ってるのに、「ここはこう」、「メニューはこういうふうに改善したらいいです。」とかそういう話をされて、うーん・・・とか思って。
 僕は最後の質問コーナーの時に、社長に結構優しくというかやんわりだったんですけど、最後の方に興奮して自分で何を言ってるか判らないくらい、ちょっと口論というか、なんか社長に食って掛かっちゃったんですよ。でもね、それがご縁で
「じゃあおいで。まずはうちの店見に来てごらん」
って見に行って、そこからやっぱり僕の人生が変わっていってね。
Q.どのような方だったのですか?
 鳥取にある株式会社大陸さんっていうところの社長さんなんですけど、めちゃくちゃ食にこだわってる人で、鳥取県に特化したとんかつ屋で、そこで今3店舗多分営業されてると思うんですけど、そこの社長さんに出会って僕初めて社長と話したときに、
「社長、言ってることはすばらしいんですけど、全部理想論でそんなの実現できないですよね」
っていったら、
「何をいってるんだい?!」
って怒られてね。
「それだったら今から一緒に鳥取に行こう」
って言われて。
Q.実際に鳥取に行ってみたのもは、どのようなものだったのですか?
 いや、本当にその鳥取で社長のお店を見させていただいて、もうね、実は鳥取まで行く交通手段が無くて、高速道路を自分の車でが一番安い手段だったんで14時間くらい、福島県福島市から鳥取まで14時間くらいかけて行ったんですよね。
 行って、最初にもうくたくたになってるところでとんかつを無理やり3人前食べさせられたんですよ。
「もう食べられません」
って言ってるんですけど、どんどん「全部食え、全部食え、全部食え」って言って無理やり食べさせられたんですよ。
 でも、全然胃もたれしないんですよね。
「身体に良い食材を使っていい油で良いものを使って食べたら、胃もたれしないんだ。胃もたれするのは、身体が拒否反応を起こすから胃もたれする。身体にいいものだったら、満腹感はあるけど気持ち悪くなったりはしないもんなんよ」
っていうふうに教えてもらって、確かに僕、14時間くらい運転してへとへとだったんですよね。そんな中とんかつ3人前食べさせられて全然胃もたれしなくて、
「なんだ?このとんかつは!?」
っていうふうに思って。
 そこからもう嬉しくて1週間そこで弟子入りして、「帰れ!」って言われたのにずっとそこに居たんですけど。
 それで、いろんな盗めるもの盗んで、その後何回か社長ともやりとりで福島の方にも来ていただいたりとかして、今のとんかつ屋があります。
Q.そのとんかつは何が違ったのでしょうか?
 とんかつ、いろんな世の中にとんかつというものがあって、例えば有名なのはね、黒豚はおいしいですよとか、値段も高いんですけども、実はブランド名、黒豚なんか僕は黒豚にとんかつにすべきじゃないくらいに思っていて、そこの鳥取の社長と出会ったときに紹介していただいたのが、鹿児島で作っているもち豚っていう品種だったんですよ。この鹿児島産のもち豚っていうのは、すんごい油が甘くてね、とんかつにしたら最高の肉っていうのはこれだな・・・僕もそのあといろんなブランドとかいろんな土地の豚を食べさせていただいてるんですけども、やっぱり今うちでも扱ってる鹿児島産のもち豚、それに勝るものは無いなって思えるくらいの肉質。あとは、そこの社長さんのところで使ってた、本当にパン粉にこだわって、パン粉には水分の含有率が14%より15%ですとか、すごいこだわりを持ってて、そういうものとか。
 最終的にはおいしい・おいしくないっていうのは上げる人のあれになってくると思うんで、素材・・・バランスですね。心・技・体じゃないですけど、やっぱり肉質、お肉、パン粉、油のバランスだったりとか、揚げる人の技量だったりとか本当に変わってくるんで、同じ食材のものを揚げても、やっぱり全然違うものに変わってきちゃうし、本当にこだわればこだわるほど・・・ほんと変わってくるし。
 例えばロースかつ、一枚とるじゃないですか。ロースかつ一枚でも背中に近い部分なのか、お知りに近い部分なのかで味が変わってくるし、その社長さんは雄か雌かでも味が違うって言うんですよ。僕、未だにそれはわからなくて<笑>雄と雌で味が違う・・・確かに人間に例えたら違うような気がするんですけど、未だに僕は雄・雌の区別はつかないんですけど・・・。
 そうですね、とんかつは考えるときりがないですよ<笑>
Q.福島県内の業者さんとはその後も取引していないのですか?
 食材は、今でもメインはその県外からとらせていただいてて、あとはやっぱり冷凍食品なんかもお弁当だったりとか、お弁当は今使ってないかな。宴会だったりとかそういうものは地元の業者さんとやらせていただいたりとか、野菜なんかも地元のものを使うような形で、それはどんなにやっぱり県外で素敵で有名ないい食材って言われてても、輸送するまでに味が変わってくるものとかもあるじゃないですか。どんな卵1個とるとすごくわかるんですけど、どこかのすごいおいしいこだわった卵よりも、近所でとれた今日採れたての、生みたての卵のほうがおいしいですよね。そういう意味で、そこはチョイスをしながら、今は福島県産のものと、あとは全国、例えば塩でいうと沖縄粟国島っていうところの塩がおいしいっていったら、やっぱりそこの塩をとらさせていただいたりとか、その辺はチョイスしながらやってます。
Q.その後、経営の立て直しはできたのですか?
 最高の出会いがあって、最高のタイミングで本当に最高の出会いがあって、最高の食材、あとはインターネットを使ったりとかで、本当にベースができました。
 じゃあこれを売り込もうといったときに、やっぱり700円のとんかつ屋だった・・・幸か不幸かというか、とんかつ屋は福島では結構有名でね、かなり親父がやり手だったんで、やっぱり有名だったんですよ。有名だった分落ち目でも有名だったんですけども、そんな中「今度700円から1500円のとんかつだすよ」っていうとこで、やっぱりすんごい苦労はあってね、「何のためにその値上げをしたの?」っていうところが、
「味がこれだけ違って、どこでも食べれる700円のとんかつよりも、日本一のとんかつを1500円で食べてもらいたい」
っていう僕の想いは、やっぱりしょっちゅう毎日空回りしててね、これどうしようかなと思って・・・。
 それで考えたのが・・・広告とかも入れるんですけど1回に40万、50万かかるような世界なんで、全然もととれないし、どうしようかな・・・そこでマスコミさんをうまく利用しようっていうふうに思ってね、僕は毎日地方のテレビ局にラブレターを書くんですよね。
「うちに取材にきてください」
って。それで2週間くらい毎日続けてたら、1本の電話が入って、そこで取材していただけることになって、そこからはもう右肩上がりでガーンと上がってきてるのかなって思うんですけども。はい。
 右肩上がりってそれなりに生活というかはあったんですけども、やっぱりね、その借金を返済するのには・・・7年、8年本当に苦労したし・・・
Q.お店を締める際、どのような点に苦労しましたか?
 お店を閉じてく苦労というと、もちろんお金がない、お金が無いというか、苦労して借金があったんでね。ただ、自転車操業なんですよね。自転車操業っていうことは1か月仕入れて、半月後に給料を払ったりとか、1か月以内に先月分の清算をしなきゃいけない。それがまるまる、例えば12月1日に店を閉めますっていうと12月15日に給料を払わなきゃいけないけど、今までだったらそれを自転車でなんとか回してたんですけど、もし12月1日でお店を閉めるってことは現金収入が無くなってしまうということなんで、それでまとまったお金が必要になってきたりとかね、やっぱりあと保証の問題とか、従業員の整理というか、本当に解雇するような形しかなかったんでね。そういうものの・・・ただそこを迷惑かけないようにお店を締めていくっていうのは、本当に苦労というか、お店をオープンするときはお金貸してくれるかもしれないですけども、お店閉めるのにお金は貸してくれないので、そこは自分で用意しなきゃいけないっていうのがあったし。
 本当に大変でした。
 その後、僕は実は違う・・・そこを辞めてとんかつ屋をうちの弟にすべて任せて、違うところに僕は行くんですけども、今でもうちの弟がまだ借金で1億くらいは返済残ってるかと思います。
Q.苦労して借金の返済してきたお店を、なぜ弟さんに任せることになったのですか?
 実はこれ、また話が長くなりますけども、うちの親父が脳梗塞で11年前に倒れました。親父、本当に酷い状態、命に別状はなかったんですけど、一気に僕から見て20歳くらい老けちゃったような、もう半身まひになって言語障害も残って、それまでの僕のイメージするバリバリの本当に、本当に怖いワンマン経営者っていう親父の姿が無くなっちゃったんですよね。
 それは僕にとって、すごい悲しいというか、これどうしようかな・・・っておふくろと話してて、そしたら、ちょっとリハビリをやらせようっていう話になって、何をしたかというと、うちの親父に紙と鉛筆を渡して、電卓を渡して、うちの親父昔から床屋をやりたいって言ってたんですよ。
「低料金のいわゆる1000円カットの床屋を福島は無いからやりたい」
って言ってたんで、親父にそれのシミュレーションをやらせたんですよ。シミュレーションっていっても単純に今月の売り上げというところに数字を書かせて、それを電卓で足し算・引き算をやらせていって、人件費は何%だからいくらとか、そういうひな形を作って経営のまねっこみたいな<笑>それをやってたらね、もう本当にお医者さんもびっくりするくらい、半年くらいですごい回復しちゃって、やっぱりなんか根っからの経営者なんだなみたいな感じで。
 ある日家に帰ったら、知らない男の人と女の人が家にいるんですよ。「は?」と思ってね。それでうちの社長を囲んでね、「な、なにごと?」って話したら、
「実は床屋をやるから求人いれたんだ」
って言って、勝手に開業して。それで、シミュレーションでやってたはずなのに、いつのまにか親父、本物と区別つかなくなったのかわかんないけど、それで床屋を始めたんですよね。親父。本当に無一文から、その1000円、低料金の床屋を始めたら、これが大ヒットですごかったんですよね。3年くらいで10店舗くらいまで膨れ上がるくらいになったんですよ。その借金を返そうか、頑張って返して、返してたんですけど、その一方で実は親父は床屋がどんどん急成長していくわけです。普通に考えたら、親父こっちに返済しろよっていう感じなんですけど、一銭も返済してくれなかったんですよ。僕の成長のためかなんか<笑>
 悔しくて、僕はもう親父はあの時に死んだっていうふうに僕は決めて、そうじゃないとやりきれなかったんで、もうだから「死んだ人が勝手にここで売り上げあげてるけど、僕は知らん、知らん」みたいな。
 最初の年は青い軽トラで、翌年にマークⅡになって、その翌年がボルボになって、ジャガーになってって、隣で親父はすごいんですよ。でも僕はもう毎月本当に借金返済してて、絶対俺は意地でも親父にお金足りなくても「お金貸してくれ」って絶対言わないって決めてたんで、その思いがあるからその床屋も、絶対見ないように、甘えちゃうからね。見ないようにしてたんで、それで、そういうのがあって・・・なんですけど、また親父、今度はね、大腸にポリープが見つかるんですよね。すごいいってるところで、大腸にポリープが見つかって、その時は床屋さんは9店舗くらいお店。僕はとんかつ屋で1店舗で、やっと縮小したらば、親父がまた9店舗広げてて、親父が倒れたら誰も継ぐ人が居ない。もう大混乱になっちゃうから。
 僕はそこで本当は嫌だった。正直今田から言うと嫌だったんですけど、まぁでも、それで9店舗あって従業員が80人とかそのくらいかな、いたんでね、その人たちが困っても大変だっていうことで、今度は僕はそこの床屋の方に専務という形で入らせていただくんですけど・・・
Q.苦労しましたね。
 ただね、僕のバイタリティ、30代ちょうど29から今僕40歳なんで、最近までのバイタリティというかは、親父に対する反骨精神というか、恨ん・・・大好きなんですよ?親父のことは大好きだし・・・ただ、「この親父・・・!」っていう反骨精神で借金返済というか、駆け足でやってきたかなっていうふうに思うんですけど。
Q.床屋さんの専務になってから、とんかつ屋さんはどうされたのですか?
 36歳の・・・36の時に親父がその大腸にポリープが見つかって、ちょっと検査入院するんですけど、大腸のちょうど真ん中あたりで「十中八九悪性だよ」って。でもまだ検査結果が出ない。結局検査結果が出るまでに2,3か月かかって、どういうふうにするかっていう。その間ちょっとどうしていいか判んないから、僕はそこから床屋の方に入っていくんですけど、うちの弟と話して、うちの弟もとんかつ屋継ぐというか、一緒に僕とやっていくっていうふうな話だったんで、
「じゃあ俺ちょっと床屋の方見てくるから、とんかつ屋お前に任せていい?」
っていったら
「いいよ」
っていうことで、蛇足、蛇足というかあれなんですけど、うちの弟に変わってからまた売上上がっていくんですけど<笑>僕よりすごいなと思うんですけど。
 それで僕は床屋の方に行って、本当にね、とんかつ一本というか飲食一本でずーっとやってきたんで、床屋のこと何もしらないんですよね<苦笑>
 例えば、理容と美容の違いなんていうのもよくわからんし、本当に勉強をしたんですけども未だにわからないこと一杯あるんですけども、勉強をして、やっぱ業界のしきたりみたいなのもあるじゃないですか。飲食にもあったんですけど、やっぱり理容業界、美容業界もすごい・・・不思議な世界で、楽しかったですね、それは。
「あ、すごい!」
ってすべてが新鮮だったんで。
 そこから、「僕は何にもわかんないよ、でも勉強するからみんなよろしく」という感じで、従業員とは仲良くやらさせていただいて、でも自分の中ではね、それなりにとんかつ屋で成功してるっていうのがあったし、飲食も理容・美容もサービスだし、所詮はお客さんに喜んでもらって帰っていただいて、その人がまた来てもらうっていう繰り返し。それは理容も飲食も変わらないことなんで、
「俺にまかせろー!」
みたいなイケイケムードでそこのお店もやらせてもらったんですけど。
Q.その後床屋さんの経営はどうなったのですか?
 うちの親父は、大腸にポリープ見つかって、結果的にこれは良性だったんで問題なかったんですけど、やっぱり歳も歳だったんで、そろそろ70過ぎたんでね、引退考えて、後はお前に任せるみたいな感じだったんでね。あまり経営に入ってこないような感じで任せるってことで、僕はそこから床屋のほう3年くらいはやらせていただいてきたんですけども、この業界がね、本当に・・・自分の中で、僕自身がいろんなことで人生観、価値観が変わっていくんですよね。この床屋の専務になってから。なもんですから、会社の方もなんか利益路線より幸せ路線みたいな、そういうものを求めていこうと奮闘するんですよね。
Q.価値観が変わるとはどういうことですか?
 僕、その床屋に入った時も、結構多分嫌な経営者、悪い経営者だったんですよ。低料金の床屋の業界がこういうふうだからとか、なんか勝手に言い訳というか。人が辞めたら補充すればいいやとか、嫌らしい言い方をすると人を人とも思わないような、なんか薄利多売ですごい苦労、大変な思いをさせて、とにかく嫌な経営者というか本当にお金、お金、お金・・・。そういう人生を僕は過ごしてきてたんで、お金、お金、お金っていうふうな。
 ある時に、僕は新年会というか会社の1月4日の時にですね、従業員全員ミーティングで集めた時に、
「今年の目標は、今年の抱負は?」
みたいなこと何も考えてなくて、何て言おうかなと思って。
「じゃあお前ら、今年は異業種交流の年だ」
とか勝手な思い付きで言っちゃってね。社員全員に1年間で6回講演会に行きなさい。そのうち3回は会社で負担してあげるから、3回は自腹で行って来いっていうような、
「今年の目標はそれだ!」
みたいな。
 なんかその後カッコ悪かったんで、俺は12回行くとかって言っちゃったんですよね<笑>
「毎月1回、僕は異業種交流会とか講演会に参加して、自分のステージ、成長を高めるから」
ってあんまり大したこと思ってなかったんですけど、そういうふうに言っちゃって、
「わー!」
みたいな感じで、最初のうちは、例えば青山で有名な美容師のカリスマ美容師の社長さんだったりとか、あとは・・・日経関係の本に出てくる社長さんとかそういう人の講演会とか、あとたまに本は読むんでね、本を読んで感動した人の講演会とか行こうというのはあったんですけど、12回講演、僕は月に1回行くって宣言しちゃった都合上、次誰に会いに行こうかなと思ったときに、昔その前に僕がレストランをやってた時の日経レストランという雑誌に連載をしてた大嶋啓介っていう居酒屋てっぺんっていうところの社長さんがいて、これはまた本気の朝礼とかで有名な方なんですけど、僕より年下なんですけどバリバリおもしろいことをやってて、この人に会いに行こうと思ってネットで調べたら、近いうちに講演会があんまり書いてなかったんですよね。でも1か月後くらいに熱海で1泊2日の合宿をやるっていうようなのがあったんで、僕の中で講演会1回3000円くらいっていうのがあったんでね、その熱海合宿は7万円なんですよ。
「7万出して行くのどうかな・・・。でも1泊2日だったら大嶋啓介と仲良くなれるかな」
みたいな軽い気持ちで彼に会いに、その合宿タイプの講演会に行って来たんですよね。
 そこでね、僕は人生の多分、あれが人生のターニングポイントになるんですけど、変な大人しかいないんですよ。変なってほめ言葉で変な大人なんですけど、ホントにすごいその世界で活躍されてる会社の経営者さんだったり、いろんな方いらしてたんですけど、とにかくなんかポジティブシンキングの塊みたいな<笑>ちょっと異質・・・僕が今まで会ったことないような経営者さんが150人くらい集まってて、
「何かの怪しい宗教かな?」
って思うくらい。でもそこで大嶋啓介に僕は会いに行くんですけど、大嶋啓介さんの師匠にあたる福島政信先生っていう方が居て、福島政信先生が3分くらい壇上でスピーチして、「僕ちょっと次あるから」って帰っていっちゃったんですよ。その3分間のスピーチが強烈に印象に残ってて、僕は
「何なんだ!?このおっちゃんは!?」
って。
<51:50頃まで>

とりあえず、とんかつ食べたくなりました。

【その②】へ続きます。
失礼します。
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