※この記事は、百人百話シリーズの第48回です。3月1日 【内容起こし】IWJ百人百話 第47話 佐々木るりさん『これで本当に良かったなんて思えない』の続きです。

【動画】3月2日 百人百話 第四十八話 佐々木道範さん
http://www.ustream.tv/recorded/20824667 (129:00)

【以下、お時間の無い方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2012年1月6日収録
NPO法人チーム二本松代表
 佐々木道範、39歳です。
 福島県二本松市にある浄土真宗真行寺の副住職をしています。
 それと震災後にNPO法人を立ち上げて、チーム二本松というNPO法人の一応代表をしております。
 家族構成は、一応父が住職をやっていまして、あと妻と子供が5人おります。一番上は大学4年生、2番目が中学3年生、中学1年生、幼稚園の年中とまもなく2歳になる5番目がいます。

 16で身ごもって・・・22歳だから、17で生まれたんですね。22歳の長女がいます。
 一般的からしたら若干早かったのかなと思いますが、うちはお寺もやってますし、命が授かったということで妻と二人で一生懸命育てようということで、いやでも妻にまかせっきりです。僕はちょっとあんまり・・・子育てもお手伝いできないような好き勝手生きてきたなぁって今思うと思いますけども。
 妻と初めて会ったのは、僕が高校を1か月で中退してしまって、来年また違う高校行こうかなと思って予備校に行ったときに妻に出会って、素敵な女性だなということでお付き合いして。命を授かって・・・なれそめ・・・どうなんでしょう。僕が惚れたんでしょうか、はい。一応妻がということにしてありますが、一方的に妻がではないんで、やっぱり僕も素敵な女性だなと思いながら、妻も惚れてくれたのかなというとこで。
 ただ、すぐ子供を身ごもったということで、普通の・・・普通のっていう言い方もおかしいんでしょうけど、一般的な高校に行って大学に行ってという人生ではなかったですけど、でも長女が居たおかげであんまり曲がらずに人生歩んでこれたのかなというふうには思います。
 とりあえず子供ができて、妻の親とも最初そんなうまくはいかずに、うちの親もずっと思ってたのかな・・・?それはあまりうちのやつと本気で話してないのでアレですが、でも僕はやっぱり最終的には妻の親もうちの親も、「命をきちんと育てなさい」という応援をしてくれたなぁと思ってますが、やはり世間的には・・・ちょっと厳しい扱いというか、冷たい視線があったり。僕自体がそんなに、何て表現したらいいでしょうか、ちょっとやんちゃだったんでしょうがない。あんまりいろんなものに反抗して生きていたように思います。子供を授かった当初も、とりあえずうちの親は「高校の資格をとったらいいんじゃないか」っていうのは、経済的には余裕があったので、だから僕も「じゃあ大学の試験を受けて、高卒の資格を取るわ」なんて親にも妻にも言ってましたが、僕はどうしても東京に行きたいなっていう、「大都会東京ってどんなんなんだろう?」っていう興味もあって東京に行って、真面目に勉強したかっていうとそうではなかったですね。やっぱりいろんな友達と遊びまくったり、大検も一応試験前に勉強して受かりましたが、でも世間一般的には・・・なんていうんでしょうかね、不良っていうんでしょうかね。僕は自分は不良だと思ってませんが、世間の方達はそういう目で間違いなく僕を見てたんだろうなと今は思うし・・・
 そうですね。・・・いろいろ人を傷つけて悪いことをして生きてきたなぁと今は思いますが、その当時はそんなこと全く思わずに、ただなんか悶々としながら、社会になんかムカつきながら、自分の人生を模索しながら、八つ当たりをしながら、妻も子供も顧みず生きてたんだなぁと思います。
 妻は福島市ってところの実家の近くに残って、僕が一応大検に受かるのを待っていてくれたような状況ですが、でも妻も僕も若かったですから、お互い不安だらけでいたと思います。
 僕は強がったふりをして、妻に対しては接してたと思うけども、妻はもう子育て、どうやって子供を育てていくかで、もういっぱいいっぱいだったんだろうな。でもそんな寂しさの中で僕を待っててくれて、たまに東京に遊びにというか会いにきたり。でもやっぱり僕が妻は本気で僕が勉強してるもんだと思ってるので、勉強の邪魔をしてはいけないという思いもあって、そんなに頻繁に東京には来ませんでしたけど、僕はそんな中で妻が一生懸命子育てしているにも関わらず、危ないことばっかりやって・・・ほんと申し訳ないなと。でもよく僕を待っててくれたなという感じですね。
 東京に出て、福島に戻ってきてお寺を継ごうという思いは全く無かったですね。
 しかも僕の中で、今思うと勘違いだと思うんですが、「お坊さんになる人は立派な人間がなるんだろう」という、勝手に僕が思い込んでて、
「じゃあ、僕じゃダメだろう」
 なぜなら、世間的には立派に生きてるような人間には見えないし、高校を中退して子供を作って、東京行って・・・悪いことをしたり人を傷つけたり、そんな生き方をしてる僕がお坊さんになるべきではないだろうなっていう、勝手に僕が思っていて。
 だから、そんなのもあって、最初は戻ってきてお寺をついでなんていう思いは無かったんですが、父が長期入院するとか、あとは僕はおじいちゃん子だったので、おじいちゃんが本堂で手を合わせている背中が、今思うとですが、僕を寺に戻したのかなというか。
 当初、寺に戻ってやっぱり葛藤があって、「こんな僕が坊主になるべきなのかな」ってずっと悩んでた時期があって、僕的には別に・・・人生を悔やんではいないし、うーん・・・生きてきた歩みを否定したくはないんですが、でもやっぱり僕のことを知っている門徒さんたちは、僕は帰ってきてからも
「お前はチンピラだろう」
とか、
「暴走族だろう」
とか、そのようなことを・・・。
「お前にだけはお経をあげてもらいたくない」
とか、そういう人たちも居たりして、当たり前だと思うんですね。僕がやってきたことなので。そういうふうに思ってる人たちがいること、僕的にはちょっと辛かったけどでも事実だし、結果的にあの時悩んだことが僕の人生を豊かにしてくれてるなというふうに、今思うとですが思います。
 だからその当時は、どうやって立派なお坊さんになろうか、どうやって門徒さん、檀家さんの人たちに良く思われるようなことをしたらいんだろうか、どうしても自分の今まで歩んできた人生を否定するかのような、自分を演じてた・・・良く思われたいがために自分を演じてた時期があって。
 でも、だんだんそれも苦しくなってきて、やっぱりいきいきと生きたいし、良く思われたいけれども、自分を誤魔化してまで演じ続けることは変だなと思い始めて、僕が本気で坊さんの仕事をして、それでも僕をくそ坊主だというのであれば、しょうがないのかなって思いながら、ちょっとずつちょっとずつ、門徒さんと関わっていく中で、きちんと僕を見てくれる門徒さんも出てきたりして、
「ご住職さんじゃなくて、若さんに法事やってもらいたいんだ」
なんて言ってくれる人たちも出てきたりして、そういう一部ですけど、やっぱり僕をきちんと見てくれる人たちの想いが勇気になってというか、きちんと坊さんをやってないと思いますが、でも演じることも無く絶望することも無く、今があるのかなって、いろんな人たちに支えられてと思います。
 やっぱりお寺の長男として生まれたので、やっぱり小さいころからお寺に来る人たちが僕を跡取りだっていうふうに接していくわけです。
 僕は4人兄弟ですが、僕にだけこずかいをくれたりとか、「あなたは跡取りだから、あなたには葬式たのまなきゃいけないから」とか、知らず知らずのうちにいろんな人たちにお願いというか、悪くいったらプレッシャーが知らず知らずに圧し掛かってきてたなっていうふうには思いますが、でも、小学校くらいまではそれが当たり前のように、別にそこに反発するわけでもなく生きてきたと思いますけど、だんだんと、漠然と社会っていっちゃうとおかしいんだけど、いろんな大人の人たちとの関わり合いだったり、学校の先生だったり、そんな中でなんかこう・・・許せないことや大人が正義だって言ってたことが大人の人たちがやってなかったりとか、なんかいろいろ世の中の矛盾が見えてきて、いろんなものに中学校くらいからですかね、反発するようになってきて・・・、学校も僕がやんちゃだったっていうこともあると思いますが、やっぱり学校の先生に絶望したというか幻滅した時期があって、今思えば僕が悪いことばっかしてるから先生に嫌われてたんだとは思うんだけども、でもなんか、中学生くらいの時に先生や大人たちに絶望したっていうのが、今でもちょっと心に残ってるなっていうか。訳も分からず、どこに反抗していいかもわからないから、ケンカばっかりしたりとか。
 学校の先生に絶望した時期は、結局僕が先生の言うことを聞かないので、僕以外の子供たちを呼んで、先生が「無視しなさい」みたいなことを言ったようで、僕も直接先生に聞いたわけじゃないんですけど、でも僕はその子たちが僕を無視するようになって、最初3日間くらいは悩んで「なんなんだろう?」と思って。4日目くらいに「もういいや」と思って、僕が無視しようと。でもやっぱりやんちゃだったですから、学校行って4日目くらいからは無視した奴捕まえて、ひっぱたいて「何なんだ?」ってしたら、何人かに聞いたら、先生に『佐々木君、言うこと聞かないから懲らしめないと』みたいなことで、そういうのもあって、もちろん僕も悪いなとは思うんだけれども、なんか「大人ってそんななんだ?」っていう、ちょっと・・・キツかったですね。先生がそういうことをするんだって思ったときに、本当はそこまで辿りたくなかったんですけど、ずっと僕の反発したり喧嘩したりしてる根底というか、何が僕をそうさせてるんだろうって。やりたくなかったけど辿っていくと、そこの先生とかに・・・されたというか、先生に絶望した僕のそこの心から始まっているなっていう。
 今思うと馬鹿だ思うけど、その当時は何か訳が分からない怒りの中で、喧嘩が心地よかったり、殴られることで・・・なんと表現したらいいか判らないけど、なんか生きてる感というか、そんな・・・。だからそこで出会った友達とか、やっぱり悪いことばっかしてると、似たような友達が。そんな中でそいつらと喧嘩したり悪いことしたり。でも、こういうこと言うと偏見なのかもしれないけど、すごい友達とか仲間が心が触れてるなっていうか、比べちゃいけないんだろうけど、でも僕は愛情いっぱいで育ったし、先生たちに絶望した時期あったけど、でもなんかちょっと違うっていうか、俺は・・・なんだろうなぁ・・・。
 やってることは同じなんだけど、僕はありがたかったです。そいつらの悲しみは僕にはやっぱり僕を支えてくれている親の温かい愛情があったし、同じ悪いことはしてるんだけど、同じように喧嘩したりしてるんだけど、ありがたかったですね。その仲間と比べちゃいけないんだろうけど、仲間の悲しみとか絶望の方が酷いなって思ったり。
「じゃあ僕は愛情いっぱいで育ってるんだな」
って改めて仲間の心がちょっと見た瞬間に、「俺は恵まれてるんだな、あったかいとこで育ったんだな」っていう・・・そういうところでお寺に戻ってきてるのかな。
 まぁ反発はして、社会にも親にも反発してましたが、でも結果的には今戻ってきて坊主やってるし、僕は心の奥の方にきちんと親に育ててもらった何か温かいものがあったんだなというか、ブレないものがあったんだなって。
【そして2011年3月11日】28:00頃~
 3月11日は、僕のお寺の会館で・・・7月に本山、東本願寺の方で親鸞聖人の750回大遠忌っていうのがあって、うちの門徒さんたちを百何十人連れて京都に行く計画を建ててて、その説明会が3月11日あって、おじいちゃん、おばあちゃんたちが80名くらいだったですかね、家に来て、旅行代理店の方に説明していただいて、旅行の説明をしてる最中に地震が来て、もう揺れが収まらないのでおじいちゃん、おばあちゃんたちをとりあえず外に避難させて、幼稚園の子供たちのところに走っていって、幼稚園の子供たちも園庭に出させて、その時には「すごい地震だな」くらいで、こんな大変なことになるとは全く思ってなくて、3月11日の夜からいろんな人たちが僕の家に避難してきて、お手は広いですから、しかも水道が止まっても、僕の家は井戸水なので水が飲めるということがあったりして、3月11日の夜から何家族だったのかな・・・4家族かな。30人くらいいたのかな。避難されて、家がやっぱり半壊とか全壊の家も結構二本松市にあって、そういう家が潰れて住めない人や、あとは怖くて一人で家にいられないという方達がうちのお寺に集まって共同生活をしていて。
 ここも私の住んでいる地域は、電気がすぐ戻って、テレビも見られたのでみんなでテレビの前で緊急地震速報がなると、窓を開けて外に出てっていうような生活を何日かしてました。余震が酷かったので、しかもみんなもう、怖くて一人では寝られないという人たちもいて、だからテレビを24時間つけっぱなしでテレビの前でご飯も食べて寝てっていうような生活を何日かしてて、で、原発が爆発して。
 とりあえず僕の中でも何をしていいか判らなかったけれども、小さい子供たちも結構いたし、何家族かの奥さんと子供たちを避難させないと、なんか後悔しそうだなっていう思いもあって。
 3月12日の時点では、原発・・・放射能の知識は全く無かったし、だから原発が爆発して放射性物質が僕が住んでいる町まで飛んでくるっていうような思いは全く無かったんですよね。
 でも、国や東電の記者会見がなんか胡散臭くて、「大丈夫だ、大丈夫だ」って言ってることがなんか不自然だなっていうふうに。
 それで14日に、なんかわからないけど、原発がどうなって放射性物質がどうなってるのか全然わからないんだけれども、なんかこう・・・僕らを騙してるような報道を見てて、ずっと感じてたものがあって、
「とりあえず小さい子供と嫁さんたちを逃がしたい」
っていうのをここに避難してきてるお父さんたちに話をして、お父さんたちは仕事があるし、みんなそのときは
「なんで逃げなきゃいけないの?」
「僕も判らない。でも何も無かったら戻ってきたらいいんだから、とりあえず避難してくれ。僕は国がウソをついてる気がする」
ってそれだけだったんですよね、最初は。
 放射能が僕の町に降り注ぐとは思ってなかったですね、3月14日の時点では。だから直感。あと国と東電の記者会見の、なんか胡散臭さが僕を突き動かしたというか。
 結果的に良かったなとは思ってるけど、妻と子供、あと避難してきてる子供たちを新潟に逃がした後にいろんな人たちに電話をかけて、放射能のことを聞いたりしていく中で、
「あぁ、逃がして良かったんだ」
って思って。
 なんで新潟に逃がしたのかっていうのは、まずその原発のほうには逃げられない。その当時、高速道路も動いてなかったので、都心の方に東京方面に逃げたら大渋滞になったり動けなくなったりするんじゃないのかなという思いと、あと会津と新潟の境の山のあっち側が安全なんじゃないのかなと、漠然と。だから風がどっちに吹いてるかっていうのは全く判らなかったし、新潟もあてが無かったし。でも、いろんなつながりの中で
「とりあえず新潟に逃がしたので、新潟の受け入れ先を探してください」
というところで、僕の知り合いが動いてくれて、新潟に避難することになって、結果としては良かったんだなと思ってますね。
 僕の知り合いのお坊さんが岐阜県に居て、その方に連絡して、
「とりあえず嫁さんと子供たちを新潟方面に逃がすので、しかもガソリンも無くて、どこまで行けるかわからないからとにかく助けてくれ」
ということで、「新潟方面に向かいます」ということで。
 そしたら、頼んだ岐阜のお寺さんがいろいろあたってくれて、新潟の三条というところの本山の東本願寺の別院という施設があって、そこの施設は研修施設も兼ねてるので、結構大人数で行っても大丈夫だろうということで、いろいろ僕が直接交渉したわけではないんですが、そこにお願いしたお坊さんが一生懸命交渉してくれて、そこで引き受けますということで、とりあえず行き先が決まったのは15日の朝くらいだったと思います。
「三条というところに行ってくれ。三条の東本願寺の別院が開放してくれるということになったから」
ということで、最初はどこに行っていいのかもわからなかったんですが、でもいろんな人たちの支援があって、三条の別院というところで受け入れてくれることになって。本当に僕一人の力じゃ何もできないし、新潟に避難したのもいろんな人たちのご縁があって、あったかい想いがあってできたことですし、今除染作業や食品の測定してますが、それも全国の人たちのあったかい想いで成り立っているっていうか。
 僕は、最初は自分でなんとかしようと思ってもがいてましたけど、もうどうにもならなくて大切な家族すら僕一人じゃ守れないような状況で、いろんなとこに「助けてくれ」っていう発信をしはじめたら・・・
Q.いつ頃ですか?
 3月の末か4月の頭くらいに、これ僕一人じゃもう・・・どうにもならない震災なんだと思って、でもなんとかしなきゃいけないし、たまたまですけど仙台仏青という組織があって、福島県と宮城県と岩手県の浄土真宗の若手のお坊さんの集まりがあって、たまたまそこの会長が僕だったんですよね。震災前に会長になったばっかりで、そこに本山から救援物資が届いたり、いろんな全国の人たちがボランティアで入り始めて、僕が会長だったものですから、僕が窓口に必然的になって、それで福島のこともあるんだけど、宮城、岩手の被災地にも僕が全国から来るボランティアを避難所に回すような仕事もあったりして、そんな中でボランティアに来てくれる人たちとの繋がりを通して、「福島を助けてくれないか」っていう発信をし始めて、そしたら今日も家にきてますが、石川県のお坊さんが
「食品の測定の機械を買って、僕のところに送ろう」
っていうような動きをしてくれて、それで全国の人たちのカンパで食品の測定器を買っていただいて、それで今食品の測定ができているんですよね。
 だから、その「助けてくれ」っていう発信していくことは、本当に大事だなって。
 今までの僕だったらそんなこと言わなかったと思うんですね。カッコ悪いと思うし、自分の家族ぐらい自分で守れない、情けないって思っちゃうし。でも、ほんっとにどうしようもなくて、震災以前と震災後では、もう全然生き方も僕の中の感覚も違いますね。
 こんなにつながりが大切だって思ったことはないし、やっぱり自分の人生を好きなように、自分の力で生きていくんだって思ってたけど、そんなんじゃなくていろんなところに支えられて強がってたんだなっていうか、震災になって初めて無力感というか、自分の情けなさというか、でも・・・「助けてください」に反応してくれる人がこれだけ居るんだっていうことが、本当に僕は驚きだったし、これからもまだまだ復興なんかしないし、「事故収束しました」なんてテレビでやってたけど、何を言ってるのかなって。
 これからも僕は忘れないでほしい・・・「助けてください」って発信し続けていこう・・・そしたら助けてくれる人たちがいるんだって・・・なんて言うのかな・・・こんなに人を信じたり暖かさを感じたことは無かったですね、震災までは。だから、随分僕は鈍感に今まで生きてきたんだなっていうか、震災以降、簡単に泣けてしまうし、なんかちょっとのことで涙が溢れてくるし、本当はもっといろんなものに感動できたはずなのに、鈍感に生きてたんだなって、震災になって教えてもらったなって思いますね。
NPO法人TEAM二本松の立ち上げ】46:00頃~
 震災後にNPO法人を立ち上げたんですが、最初は何をやっていいかがわからなかったんですよね。でもとにかく、家族をどうやって守ったらいいのか、子供たちをどうやったら笑わせるのかっていう、そこで悩んで今何ができるのか、何をすべきなのかって考えて、最初に僕が震災後にびっくりしたことは、二本松市の県の施設で除染作業をしてるってことを現場市民に知らせずにしていたってことが、僕はびっくりして。しかも、僕の息子が通う小学校の校庭がヘリポートになってて、そこに原発で被曝した人たちがヘリに憧れてきて、向かい側の県の施設で除染作業を。それを僕は知り合いから聞いて初めて知ったんだけれども、それを僕たち二本松市民に知らせなかったっていうことが、僕はびっくりしたし許せなかったし、国の記者会見も東電の記者会見もなんか胡散臭くて、きちんと僕たちに福島県民に、二本松市民に真実を発信してるとは思えなくて、とりあえずなんかよく判らないけど、3月14日に妻と子供と、あとここに避難してきてた何家族かを
「新潟の方にとりあえず避難してくれ、なんかよくわからないけど、なんかヘンだから」
っていうことで、ずーっと僕の中で「福島を騙そう、福島を抑えつけておこう」っていうような変な違和感を感じていて、その知り合いから除染作業の話を聞いて、震災後、小学校は休みに入ったんですが、ちょっと日にちは忘れましたが卒業式もやらずに休みに入ってしまったので、卒業式をやるっていうようなことで学校が始まって、でもその除染作業してる前に子供たちを通わせるってどういう、そんなこと有り得るんだろうかと思って、学校の校長先生に言いにいって、
「なんでこんな状況の中で、原発がどうなってるかもわからないし、しかも目の前で除染作業している、そこに子供たちを通わせるんですか?」
って校長先生に言いに行ったら、校長先生は、
「知らない。除染活動をしてるのは知らなかった」
ということで、
「ヘリポートとして貸してるじゃないですか!?」
って言ったら、
「病人を運ぶためのヘリポートとして貸してくれといわれて、貸しますって言ったんだ」
っていうふうに校長先生おっしゃってて、僕は
「確かに情報で聞いたので、県の方に問い合わせてみてください」
って言ったら、結局県のほうが「除染作業してます」ということで、2日後だったですかね、テレビで『福島県二本松市の県の施設で除染作業をしてます』という報道がされて、その県の施設でされてた除染作業というのは、僕もじっくり見てたわけではないのでよくわからないんですが、消防士さんと自衛隊の方達が・・・防毒マスクというかを付けて、その原発から来た人たちを洗い流しているっていう作業ですね。駐車場、県の施設の駐車場で放射性物質を水で洗い流す作業をやっていたっていうことですね。
 それも垂れ流しというか、外の駐車場でやってるわけで、そういうところに子供たちを通わせたらまずいなという思いで校長先生に言いに行って、その事実を確認したら、もう「判りました」ということで、卒業式もやらずに春休みに入ったんですが、でも、いろんな場面で情報を隠され続けているなという・・・もう国に頼ったり県に頼ったりしたら子供を守れないんじゃないかなっていう思いがあって、そんな中で今のチーム二本松の仲間たちが立ち上がってくれたというか、「二本松の子供たちのために何ができるんだ」っていうことで動き始めて、僕は妻も子供も新潟の方に避難させてたし、いつ新潟から福島に帰って来られるのかもよく判らない中で、うち、幼稚園も経営してるものですから、その幼稚園の保護者さんたちから
「いつ幼稚園をはじめるんですか?」
っていうことで。
 でも、僕は今回の震災があるまで、放射能のことも全然わからなかったですし、除染なんて言葉も生まれて初めて聞いたし、何をしていいのか全然わからなくて、まず放射能ってどんなことなんだろうって、たまたまいろんなご縁があって、そのうちの妻の伯父さんがチェルノブイリにずっと行って除染をしてる方だったり、河田昌東さんですね。その伯父さんに
「どうしたらいいんだろうか?」
って聞いて。それで、とりあえず幼稚園をはじめるのに除染しなきゃいけないっていうことで、幼稚園の建物を洗って、幼稚園の園庭を河田さんに聞いたら、
「5㎝くらい削れば、その下にはまだ放射性物質は浸透してないから、5㎝くらい削って、あとはその土を埋めるしかないだろう」
ということで、幼稚園の園庭に関しては行政が対応してくれて、幼稚園、保育園、小学校・中学校に関して、園庭・校庭は二本松市のほうで除染しますということで、そこは行政がやってくれたのでありがたかったのですが、うちの場合は幼稚園の敷地に隣接しているお寺の方お敷地の方が大きくて、でもそれに関してはどこの援助もないので、チーム二本松の仲間とちょっとずつパワーショベル借りたり、ダンプ借りたりして、いろんな人たちに支援されながらお寺の方もちょっとずつ除染し始めて、結局幼稚園は4月に始めなかったんですが、保護者さんたちが子供たちは共稼ぎの親御さんたちは、
「子供たちを預けておくところが無いので、預かってくれないか」
ということもあったので、一応その4月はどうしても預ける場所が無い方に対してだけ、引き受けますということで幼稚園を開放して、一応5月に園庭の除染が終わった時点で、幼稚園を再開するということで。
 ・・・除染も、僕も何が正しくてどうするべきかもわからなくて始めて。お寺の方はまだまだ除染が終わってなくて震災の当初は、本堂の雨樋の下は40マイクロシーベルト/時ですかね、それくらいの線量があって、幼稚園の側溝も30マイクロシーベルト近い値だったりして、どの値で子供たちを守っていけるのかが全く判らなくて、テレビに出ている学者さんたちは「大丈夫だ、大丈夫だ」って言い続けてて、その「大丈夫だ」にずっと違和感を感じていて、「なんで、何の根拠でこの人たちは言い切るんだろうか」っていう中で、どれを僕が選択してどこが命を守る基準なのかがずっと判らなくて、だから、今子供たちが通ってきてることも、僕は正しいのかどうかも判らないんですよね。だから、未だに毎日まいにち、ちょっとずつちょっとずつ、子供たちの生活空間の線量を下げるためにあちこちの除染をしてますが。
 でも、「除染していくことが避難を妨げるんだ」っていう方もいらっしゃるし、でもここで生きてる子供たちが居る以上、除染しないで僕がただ見ているわけにもいかなくて・・・。
 そんなこんなで、新潟から妻たちも5月の末には戻ってきて、放射能が安全になったから戻ってきたわけではなかったんですよね。
 4番目の娘が、もうストレスでおかしくなってしまってたし、
「お父さん、いつ帰ってくるの?お父さんと寝たい」
 そんな中で、「一応幼稚園の除染が終わったから帰っておいで」とは言ったけども、僕は・・・自分の都合で・・・子供たちを放射能の中で生活させてしまっているっていう現実があります。
 命のことだけを考えたら、子供たちは県外に居たほうが僕は絶対にいいと思うんだけれども、放射能は目にも見えないし匂いもないし、それに危機感を持って生きていくことも難しいなぁというか、子供を守るために・・・でも結果的に僕は、福島に子供たちを戻しているし・・・僕は福島で子供たちに申し訳ない、本当に申し訳ないんだけど、僕は福島で生きる覚悟で、だから子供たちがここで生きていく上で、僕は除染をしていかなきゃいけないし、子供たちの内部被曝を減らすために食品を測っていかなくちゃいけないし・・・
 ということで、今NPOの立ち上げる活動をしてるんだけれども、でもそれが良いことなのか正しいことなのかは判らないんですよね。
 震災があって、自分の本性が見えてきたというか、格好つけて強がっていたけども、実は家族の命さえ守れないかもしれないような僕なんだというふうに気づかせてもらったのも、やっぱり震災だったし、僕が一番自分でも驚いているのは、子供たちが苦しんでいる姿。
 毎日マスクして通っている子供たち。
 外で遊べない子供たち。
 7月の幼稚園の七夕発表会の願い事が
 『マスクをとって遊びたい
 『外で遊びたい』
 『げんぱつ なくなれ』
って七夕の願いに書いてあったんですよね・・・。
 そういう子供たち・・・
 子供たちのそういう願い。七夕の願いに、そんなこと書かせる『げんぱつ なくなれ』とか『外で遊びたい』とか書かせてしまっている・・・僕が情けないなっていうか、震災直後は国と東電らが許せないなと思って、すごい訳が分からない怒りだけが僕の中にあったんだけれども、でもなんか子供たちの七夕の願いや、苦しんでいる姿が僕を照らし出してくれたというか、うまく表現できないけど、子供たちから声にならない叫びっていうか、「なんで僕らがそんな苦しまなきゃいけないんだ」って子供たちの叫びが僕に教えてくれたのは、
「お前のせいだ」
って言われてる気がしたんですね。
「国のせいだ」
「東電のせいだ」
「俺は被害者だ」
って思ってたけど、でもその僕の人生というか歩んできた道というか、原発があって当たり前だと思って生きてきたし、原発が安全だと思ってたし、チェルノブイリの子供たちが死のうがJCOで被曝して亡くなろうが、その人たちの命をきちんと命だと僕は感じられなくて、ホント無関心に、遠いことだというふうに僕は生きてきて、そういう無関心に生きてきた僕の歩みというか人生が、今原発を爆発させて、子供たちを苦しめてるんだなって、子供たちに教えられたというか。
<01:08:00頃まで>

【後半】に続きます。
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