※この記事は、百人百話シリーズの第47話です。
2月29日 【内容起こし】IWJ百人百話 第46話 大橋さらさん『伯父さん、このまま住み続けて大丈夫だと思う?』(お話の中に出てくるお姉さんは大橋さんのことだと思います)に関連しています。

【動画】3月1日 百人百話 第四十七話 佐々木るりさん
http://www.ustream.tv/recorded/20802098 (74:41)

【以下、お時間の無い方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2012年1月6日収録
Q.自己紹介をお願いします。
 福島県二本松市在住の佐々木るりと申します。
 年齢は38歳です。
 出身は福島県福島市なんですけれども、二本松市に嫁いで20年くらいになります。
 子供が5人いまして、上から22歳、15歳、13歳、5歳、1歳の5人おります。
 もともと何年くらい前までかな・・・10年くらい前までは幼稚園の教諭で隣接してる私の家で経営してる幼稚園で教諭をしておりましたが、子育てが忙しいことと家の家業でもあるお寺の仕事も忙しくなったことで、今はお寺の中の仕事とあとは専業主婦ということで毎日生活しております。
【3月11日以降のお寺での活動】
 ここのお寺は浄土真宗大谷派のお寺で、真行寺というお寺です。
 3月11日以降は、まずは自分の家の周り、この幼稚園を経営してますので、幼稚園の除染とお寺の境内の除染を中心に活動しておりましたが、全国のお寺からの支援をいただいて、NPO法人を立ち上げまして、そこで食品の放射線量を測ったり、あとはもちろん除染を続けながら子供の一次避難とか疎開の支援をしていくという活動を主に今はやっております。
【Before 3.11】
Q.生まれ育ったのはどのような環境だったのでしょうか?
 私の実家は、父親が教員だったこともあって、だいぶ転校が多かったんです。引っ越しがあちこちに引っ越して歩いて、生まれは会津若松市だったらしいんですが、その後幼少時、小学校5年生までを郡山市で過ごしまして、そこから福島の方に転校して、福島で中学3年生まで過ごしました。
 兄弟は私6人居て、年子で上から3人女が続くんですが、その3番目です。私のすぐ下に二つ下に弟が一人と、またその二つずつ下に妹、妹という女5人、男1人の6人姉妹で、幼少時代あまり裕福ではない家庭で育ちまして、両親もあまり仲のいい両親ではなくって、今もう離婚してしまいましたが、どちらかというと、だから両親の影響もあって、姉妹同士のきずながすごく深いかなとは思うところはありますね。
Q.幼いころどのような少女時代を過ごされましたか?
 幼少時代は、私はとってもおてんばで、外遊びが本当に好きで、全く家に学校から帰ったらカバンを放り出して、外で暗くなるまで遊ぶような女の子でした、と思います。 もちろん学校に遊びに行くこともあれば、学校の裏山を一人で探検して歩くようなこともあったり。ちょうどいいツルなんかみつけると、そこでターザンをしたり、ターザンがすごく面白いと、ちょっと戻ってその辺にいる子供たち捕まえてきて、「一緒にやろう」なんて一緒にターザンごっこをしたりして遊んだり、あとは、夏は川遊びをだいぶ。それは福島に来てからですけど、福島は本当に田舎の農村地帯に引っ越しましたので、郡山市に居た時にはできなかった川で泳ぐっていう体験がありまして、それが本当にお気に入りの夏の遊びというか。
Q.ご主人は初恋の人だったそうですね。
 はい、私は中学校を出て高校に落ちてしまったので、すぐ中学出て高校請けるための予備校に入学しました。今の主人は高校には受かってたんですけれども、自分のちょっとこう納得のいく高校じゃなかったっていうことで、1か月で高校を辞めて予備校に転校してきました。
 それで、もう私の方が一方的に一目ぼれをした感じで、だいぶ私が追い回して<苦笑>、それでもう夏・・・夏休み終わったくらいにお腹に赤ちゃんができまして、私は当時15歳だったんですが、私の方が学校を辞めて、もちろん彼も辞めたんですが、15歳で妊娠するっていうのは、もちろんだいぶませていたとは思いますけれども、私はその・・・とっても子供ができる前から早くお母さんになりたかったんですね。早くお母さんになって、なんか大好きな人と早く家庭を持ちたいっていう変な願望が強くて・・・それもきっと彼も同じ気持ちでいてくれるんだろうなと思っていました。
 赤ちゃんができたって二人で一緒に病院に行って、赤ちゃんができたっていうことがわかったときも、もちろん堕胎っていうことは全く私もきっと彼も考えてなかったと思いますし、ただどうやって周りの大人を納得させようかっていうところをすごく・・・話し合っていたと思います。
 もちろん、でもやっぱりそこらへんは子供で、子供を育てるためにはお金が必要だとか、そういったことはまるで頭にその頃は無くて、まぁ、でも怖くも・・・だから逆に怖くもなくて、ただ「赤ちゃんができたから産んで、二人で育てようね」っていうところだけで・・・、お互いきっと産むことに関しての迷いは一度も無かったと思いますね、産むものだって思っていたと思います。はい。
Q.出会った頃、旦那さんのどんなところに魅力を感じたのでしょう?
 第一印象から「あ、この人すごく意思の強そうな、頑固そうだし、でも間違いなく人を引っ張っていってくれる」というか、そこまでの自覚は私の中にはきっと芽生えてなかったんですが、守ってくれそうな人だなって思っていて、それは今も全く彼に対する気持ちは変わらないですね。やっぱり安心して任せておける、子供たちのことも私のことも、きっと彼は生涯をかけて、自分の命を懸けて守ってくれる人だろうっていう、今もそこは間違いなく感じます、彼から。はい。
Q.15歳でママになったと判った時の周りの大人の反応は?
 妊娠したのが判って、すぐに私はまず母親にそれを話しました。それで、母親は割と・・・なんにでも理解を示してくれる母で、私のやることを反対したことはそれまでも一度もなくて、今に至ってもそれは全く変わらない姿勢でいてくれている母親なんですけれども。それで、
「あなたはどうするの?」
っていうことで、私は「もちろん産んで育てたい」ということを母に話しました。母は
「じゃあできる限り自分も一緒に応援していくから、これからのことについてもっときちんと、子供を産んで育てていくためには、あなたはこれからどういうことをしなくちゃいけないのかということをもっときちんと話し合っていきましょう」
ということで、そこに父にも連絡をして、私と母から父に報告をしたんですが・・・、父はもう、全くそこは聞き入れませんでした。
 自分も高校の教員という父の立場がありましたので、私がまぁ言ってみれば不純異性交遊っていう、父からしてみればそういうことしていると、
「自分の仕事、自分は高校生にそういうことをしてはいけないと指導しなくちゃいけないのが、仕事ができなくなってしまう。だからお前はもし子供を産むっていうんなら、お前のことは俺の子供にしておくわけにはいかない。お前はこの家から出ていってもらう」
ということで、私もそこの、その勘当するってその時言われたんですが、勘当という意味もよく判らなくて、
「でもそれならそれでいいわ」っていう、
「別のところに住めばいいんでしょう?」
くらいの気持ちで、母とその後もアパートを探して、私がそのアパートで暮らすというのでアパートを探しまして、その頃、家賃が1万6000円のもっのすごいぼろアパート、周りから見たらものすごく悲惨な状況の中で、15歳の子がたった一人ぼっちでぼろアパートに引っ越してきて、なんか哀れな状況に見えてたと思いますが、不安を感じることもほとんどなくて、なぜかもう赤ちゃん産めるっていうことに満足感があって、その身ごもっていることで独りぼっちっていう寂しさもなくて、どちらかというと本当にもう満足感と、なんか・・・<お嬢さんが登場して>あ、来た!<笑>あなただったの、ごめんね、ちょっとね今お話してるから、その車、台所で遊んでおいで。ごめんね。
Q.ごめんね~。何歳なんですか?
 あれが5歳です。はい。女ですね。
 全然不安という気持ちはなくて、お金もなくてもその日満足に食べられる食料が無くても、子供と一緒にいられる、お腹に子供が居る満足感とか満ち足りた気持ちで、ぼろアパートで生活してました。
 主人の実家のお寺の両親は、まぁ・・・はじめ子供の報告をした時は、
「とにかくウソでしょ?ウソでしょう?」
っていう感じで言ってまして、賛成とか反対というところはあまり意識してなかったと思います。ただ、「こういうことになりました」という報告をこのお寺に二人でしに来たんです。それで、その後のこちらの両親、お寺の両親は、主人が中卒・・・学校を辞めてしまって中卒のまま。私も学校を辞めて中卒のまま、両親が中卒の子供がかわいそうだということをとにかくすごく言ってまして、私もそこは本当に、確かに中卒が悪いっていうことではないですけど、やっぱり子供が生まれていろんなお勉強のことを聞かれたりしても、私がわからないんじゃ、ちょっと情けないなって思ったり、単純にそんなことで主人も大学まで行ってもらいたいって、私の中の想いもあって、私自身ももっと勉強もしながら自分も成長していきたいというか、自分も磨いていきたいっていう思いもあって、それですぐには一緒には暮らし始めずに、主人は大検を受けるための勉強を東京の予備校でお寺の両親にお金を出してもらって、主人は東京の予備校で大検を受けるための勉強を始めました。
 私は福島に残って、赤ちゃんを働きながらとにかくまず赤ちゃんと産むということで、バラバラに子供が生まれるまではもう別々に過ごしていました。
Q.離れて暮らすことに不安は無かったのでしょうか?
 離れることで、確かに不安・・・きっとお互いになんかこう嫌いになっちゃったり、別に好きな人ができちゃったりなんていう不安はあんまりなくて、ただ寂しかったですね。ときどき会えるんです。ときどき会って、別れるときの新幹線見送るときの・・・それはすごく寂しかったですね。
 だけど、きっと大学まで二人できちんと世間の人に認められるような人間になれば、皆が祝福して一緒に・・・一緒になれるなって思っていて。
 もう15,6は法律的に籍も入れられない、主人が18になるまでは籍も結局入れられないので、籍を入れられるようになった時に皆が認めてくれて、祝福してくれたらいいなと思いました。
Q.当時の状況を旦那さんはどのように捉えていたのでしょうか?
 彼は私といろんな話し合いをする中で、私はかなり弱音を吐いたと思います。「寂しいよ」とか「一緒に居たい、もっとずっと一緒に居たい、そばに居たいんだ」っていう話をして、もちろん彼も「自分もそう思ってる。」
 でもいつもですが、彼は弱音とか愚痴をこぼさない人間なんですね。弱いところを全く見せない人で、「大丈夫だ。大丈夫だ」「頑張れよ」っていう言葉はいっぱいもらいましたけど。ただ、それが私にとっては、親に・・・割と「俺には夢がある」みたいな、「俺も絶対・・・」学校に行くことを夢っていってたのかどうかわかんなかったですけど、その頃から割と「俺は旅に出たい」とか、ポロッと言ったりするような人ではあったんです。「カンボジアに行ってみたい」とか、一人で・・・それがいつも一人で度に出たい人で、「木の上に家を建ててみたい」とか「北海道で農業やってみたい」とか、割となんか私の思ってる、私はその子供と家庭を築きたいっていうところで、ずっとそこばかりだったんですが、彼はなんとなく一人で夢を追うような人だったので・・・。
 弱音ではないんですね、きっといっつも夢ばかり言ってるような人ですね。
 その夢があるとか夢について語られると、その時だけはやっぱり不安に思いました。
「この人は家庭を築いていこうと思ってるんだろうか?」
っていうところは、「どこかに飛んで行っちゃうんじゃないだろうか、このまま」という・・・だから彼から寂しさは感じませんでしたけど、もう夢だけ追いかけて・・・夢だけで私たちは忘れられていくんじゃないかみたいな、フッと夢を語られると不安になることはありました。
 私が第一子を妊娠していたのが、昭和63年で1988年でしたから、その頃はまだ家に一台電話が、普通の家庭には1台電話があるくらいな状態で、もちろん携帯電話なんていうものもありませんでしたし、メールっていうシステムもきっとその頃はまだ無かったと思います。パソコンも家庭にパソコンを持っている家は、まだどこにも無いような時代でしたから、彼と連絡がとりたいときは、家の電話から彼の家に電話をかけるっていう、そのやり方しかまだ連絡を取る方法は無かったですね。
 子供・・・結局彼と、きちんとずっと生涯一緒に、もう離れ離れにならないで生きていけるんだなって安心ができたのは、籍を入れた時で、それまでの子供が生まれても産んだ後も、お互い18になるまで、彼が18になるまで籍が入れられない状態でしたし、彼の両親からは、
「きちっと大学に二人とも受かって、周りに認められるようになるまでは、籍は入れない、入れられない」
というような話もされていたので、ずっとやっぱり・・・不安が綺麗に拭い去れるということはずーっとなくて、結局は籍を入れた段階で「やっとこれでもう離れ離れにならないで一緒に生きていけるかな」っていうところ。そこでやっと確信が持てた感じです。
Q.大変でしたね。
 はぁ。でも大変・・・今振り返ってみると、割とこうやって話すと思いだしてみると、大変、あの時代は自分は大変だったのかもしれないと思うんですけど、当時は全く・・・自分の身の周りに起きてることを客観的に見れてないというか、今ある自分が精いっぱいで、何か客観的に「あ、大変だ」とか「辛いな」という感じはしなかったですね。ねぇ・・・。
Q.子供が生まれてから、ご自身の父親や旦那さんのご両親との関係に変化はありましたか?
 赤ちゃんが生まれて、自分の父親だったり、「距離が埋まることはその時点ではなかったですね。父はやっぱり私に娘が生まれて何年も会おうとしませんでしたし、私が籍を入れるまでは主人の両親も、
「ちょっとまだ親戚には紹介できません」
という形で、やっぱり生まれたから、「じゃああなたたちも今度は頑張っていきなさいね」という祝福されるようなムードではなくて、やはりあまりその辺もまだ変わらない何年間かを過ごしました。
 主人が大検に合格して、それが子供が生まれた翌年ですね。大学を受けるのに東京から二本松市に戻ってくるということになりまして、その時点で
「じゃあもうあなたたちはお寺で一緒に籍を入れて、お寺で一緒に暮らしたらどうか」
という話と、あとはやっぱり周りの噂でお寺の方も対応が段々できなくなってきたというか、
「息子さん、子供居るんならちゃんと皆に紹介しなくちゃダメだぞ」
っていう檀家の人たちからの声があったりもしたらしくて、それで主人が二本松市に戻ってくるタイミングで、私も福島市から二本松市に引っ越してきて、ここで一緒に暮らし始めたんです。
 それで、それが主人が18歳にちょうどなろうとしてた頃ですね、恐らく。私はお寺に入った翌年から通信の高校に通い始めまして、通信ですからここで子供を平日は育てながらレポートを書いたりなんていうことをして、土日は子供を見ていてもらってスクーリングに出かけるということを4年間。
Q.お寺の生活のどんなところが大変ですか?
「お寺は大変だよ」
というのを言われながら、私が実際入ってみるまでは「何が大変なんだろう」っていたんですが、いざお嫁に来てみたら、もうまず全く自由が無い気がしたんです。自分に。私の育った家はサラリーマンですから、休日は家族でどこかに出かけてみたり、もちろんお盆やお正月なんていうのはおじいちゃんおばあちゃんの家に集まって、親戚が皆で集まって楽しく過ごすっていうお家からお寺に入ってみたら、一番その実家に皆が集まるお盆やお正月は、全く家から出られない。こちらに来る檀家さんの接待をするのに、全く家からは出られませんし、あとはお寺ですからいつお葬式ができるかわからなくて、お葬式の連絡っていうのは本当に24時間体制で待っていなくちゃいけないとか、家を空けられないです。家を空にできないので、家族で旅行に行くということもできないですね。
 あとは、土日が一番法事や何かで忙しいので、せっかく子供たちがお休みの日に家族でどこかに出かけるということもできない。なんかそういうことが全く・・・。あとは、ウィンドーショッピングみたいなちょっとお買い物に出かけてみたいなと思っても、なんか絶対に買わなくちゃいけないものが無い限り、出かけちゃいけないような雰囲気があって、とにかく自由が無くなってしまったというところで、一番苦痛を感じました。
 ずーっとそういう気持ちを抱えながら過ごしてきましたが、何か例えば何かのきっかけでガラッと自分が変わったということもなく、10年くらいの時間をかけて、なんとなく自分が変わっていったというか、あまり・・・外に例えば自由に外に出ていくことだけが自分の人生、楽しみ、それしか楽しみが無いわけではなくて、もっと子供とこの家の中での関わりだったり、子供の成長を見ていくことだったり、そういうことで十分幸せってたくさん、実は自分の家のこの家庭の中で日常の中で、幸せっていっぱいあるんだなってことが、きっと10年くらい時間がかかってだんだんわかってきたことで、だからそれほど出かけられないことに関してだったり、自分の自由な発言に関しても、嫁という立場ですから、あまり決定権が何に関しても私には決定権が無いということも、すごく苦しかったんですけれども、そういうことも時間の流れの中で別の方向から見る、
「もっといっぱい身近なところに幸せってあるんだな。幸せ感じる瞬間っていっぱいあるんだな」
っていうことに気づいていったんだろうと思います。
【After 3.11】32:50頃~
 3月11日地震があった日は、このお寺におりました。お寺の台所でちょうどうちで何人か小さい子を預かっていて、その日は一人でしたね。近所の男の子1人2歳をあずかって、あとは自分の家の当時4歳だった娘と、あとは1歳になりたての息子と、子供3人で自宅の台所におりました
「そろそろおやつにしようか」
なんて言ったら、グラグラっと揺れだして、ちょうどどの期間っていうのは、何日も前から余震みたいな揺れがちょこちょこあった時期で、
「あ、また?また揺れたね。またいつもの・・・このごろ地震多いね」
なんていう話を、姉がちょうど姉も隣に居たので、姉に言って・・・そしたらいつもだったらすぐに収まるはずの揺れが、どんどんどんどん強くなって、
「これはおかしい」
と思って、すぐに子供たちを抱きかかえて、そばに居た姉も一人子供を抱いて、姉と私と小さい子供3人台所のテーブルの下にすぐに隠れたんですね。
 それで、そうしてるうちにもどんどん揺れが強くなっていって、もううちの台所のテーブルってものすごく重いテーブルで、ちょっとひとりの力では持ち上げられないくらい、動かすのもちょっと二人掛かりで押さないと動かないくらい重いテーブルなんですが、そのテーブルが床の上を・・・私たちごとずるずる左右に揺れ動く感じで、しばらく姉と二人で逃げることもできなくて、テーブルごと床を振り回されてる状態で・・・。でも上からいろんなものが落ちてくる音だったり、どこかできっと何かが倒れてるんだろうなっていうような音だったり、とにかくものすごい音、音の中でその時に姉とどんなふうな会話をしたかとかもよく覚えてないんです。
【避難を決めた経緯】
 その地震のすぐ後から、うちに近所の家族が何家族か、あとは姉のところの家族だったりで、何カ所かで集まって過ごしていました。
 3月14日の日の爆発があって、私なんかはもう全くそこに危機感を感じていなくて、テレビ見たまま
「あぁ、水素爆発したんだ。でもあれは原発の事故ではなくて、ただの水素爆発だから、何も心配ないんだな」
と思って、14日は日が暮れて。
 そしたら夜10時くらいになって、主人が
「お前らやっぱりここに居ちゃダメだ。とにかく女の人と子供はすぐに逃げてくれ」
っていう話をしはじめて、私はそれでもまだピンときてなくて、
「どうしちゃったんだろう?何を言いだしたんだろう?」
と思って、もうその頃はガソリンスタンドにガソリンも無くなっていて、家の車のガソリンも無くて、
「逃げるっていったってどうするの?どうやって逃げよう」
っていう・・・。
「でもとにかくここは危険だから、行けるところまで行け」
っていう命令に近いような状態だったので、きっと駄々をこねても逃げなくちゃいけないんだろうなっていう、そのくらいの思いで「行きたくないな」と思いながら、渋々持てるだけの服を持って、
「もしかして1時間くらいしたら・・・」
とか、
「途中まで行って1時間くらいしたら、主人が『もう帰ってきていいよ』って言うんじゃないかな」
と思ったり。
Q.母子のみ避難することは、ご主人が提案されたのですか?
 主人が言ったのは、とにかく・・・車にも定員がありましたし、逃げられる人数がもう限られているので、弱いものからということで小さい子供と女性が逃げて、そこに居る何家族かの父親は寺に残るという話で。
 その時にお寺に避難してきてた家族っていうのは、もともと交流があった近所の家族で、どなたも檀家の方ではなかったんですけれども、一人が先ほどもでた、今NPOの測定室の測定員をしてくださっている福田さんというご家族で、その方は震災の1か月前に東京から二本松に越してきたご家族でした。それで、あともう一家族は、ご主人が救命士をやっておられる方で、救命士・・・本当はなんかその時は、「まだ外部に漏らしちゃいけない」って言われてたらしい原発の危険性について、こっそり主人や私たちに教えてくれてました。
 それで、あとはもともとちょっと原発のことについて、詳しい主人の知り合いのお坊さんに電話をして、
「今こんなことが起きてるけど、これはどういうことなんだ?」
ということを後になって聞いたんですが、主人は相談して、それで出した結論が「逃げろ」ということだったらしいんです。
 ワゴン車1台に15,6人乗り込んで、私は座席で子供、赤ん坊を抱いて、足は上にあげて体育座りみたいな形で、お隣もそんな感じで乗ってて、足元にも高校生の女の子が私の足元には、また体育座りで座っているというような状態で、とにかくぎゅうぎゅう詰めのワゴン車1台で。
 そのワゴン車も「逃げろ」って言われた時点では、ガソリンがもう全く入ってなくて、近所の人だったりお寺に車を止めたままにしていらっしゃる方に了解をいただいて、ガソリンを分けてもらって、1台の車に全部ガソリンを入れられるだけ入れて、ガソリンのもつところまで、とにかくここから離れるということで、福田さんのご主人が車を運転してくださって、とにかくもう会津方面、新潟方面にどんどん向かったんです。
 その・・・全く行先も何も決まってない状態で、とにかく離れなくちゃいけないっていうことだけで、会津方面に向かって車を走らせてまして、夜10時くらいに二本松市を出て、明け方の4時ころ新潟駅の周辺に到着して、「今後どうしようか」ということで、とりあえず一晩でも二晩でも置いていただけるところが無いかどうかっていうことを、二本松に残っている主人があちこちの知り合いのお寺の方に電話をして聞いてくれてたようで、新潟駅にいる私たちのところに
「とりあえず休ませてくれるところが見つかったから」
という連絡が朝6時くらいに入りました。
 今度はそこから新潟の三条市というところに向かいました。三条市にはここの宗派、浄土真宗の別院という大きな開館がありまして、そちらの職員の方が、そちらの主人の知り合いのお坊さんの伝手でそこを紹介していただいて、新潟市から一時間くらいの場所にある三条市の別院というところに避難させていただいたんです。
 最初に出るときに、1時間くらいで帰って来られるんじゃないかと思っていたのは、主人が逃げろと言ってる理由は、
「もしかすると原発が本当に爆発をするかもしれないから、そうなってからでは間に合わなくなるから、今のうちに逃げておけ」
っていうことなんだろうと私の中で理解したんです。
 それで、1時間もすれば、「あれはやっぱりもう爆発しなくなったんだってよ」っていう情報が入るんじゃないかと思ってたんですね。まさか、あの時点でもう放射能がばら撒かれてるなんてことは全く考えてなくて、しかも二本松市まで飛んできてるなんてこともまるっきり考えてなくて、別院に着いた時・・・余震・・・その一晩かけてとにかく不安な不安な夜を過ごして、行く場所もまだ決まってないし、この先どうなってしまうのかなっていう不安もあって、その不安を抱えたまま別院に到着して、車を降りたらそこに笑顔の職員が、ニコニコ待っててくれたんです。
「あぁ、日本にはまだこんなに安全な場所が・・・」
 ある意味それはまでは余震が怖かったんです。放射能とかっていうことよりも、揺れないっていう安心感がある。それまでは震災の後からは、とにかく笑う人間も居なくなってた中で、ニコニコしてる人を見たのが久しぶりだったので、
「こんなにまだ安心できる、安全な場所が日本にあったんだ」
っていう、そこでまずホッとしましたし。
 ただ心配なのは、二本松に残っている人たちのことと、その人たちが今逃げている私たちをどういう目で見ているんだろうっていうことは、とても不安で。
 私たちは30㎞圏内のある避難区域に入っていない場所から逃げてきてるので、ちょっと勝手に逃げている人たちっていうふうに二本松市に残ってる人には思われていないかとか、これがもう大丈夫っていうことになって戻った時に、果たして地元の人たちが受け入れてくれるんだろうかっていうのは、逆に日が経つにつれて不安が増していったというか。
 それで、その1か月くらいして4月の初めに二本松市で学校が始まるという連絡が来て、そこでまず一番最初に子供たちを転校させて新潟でこのまま暮らすか、二本松に皆で帰るかっていうことをすごく悩みました。
 それで、子供たちは「絶対に転校だけはしたくない」っていう話をしていたことと、あとは学校に連絡をして聞いたら、
「今の段階で転校していった子供は誰もいない」
ということで、「じゃあ二本松市にこのまま家族に戻ろうか」という話にもなったんですが、やっぱり一番下の子供が、まだやっと歩き始めたか、歩くのもおぼつかないような感じで、外に出したら外の土をにぎってむしゃむしゃ食べるような、ちょうどそのくらいの時期で、ちょっと現実的にこの子を二本松に戻して私たちと一緒に暮らしていて、被曝させないで過ごせるかなっていうのはすごく心配で、結局は、父親と中学生の娘と息子だけを二本松へ、その3人が二本松に暮らして、私と下の幼い二人の子供たちは新潟で暮らすっていうのを1か月間、5月20日までだったんですが、そういう生活をしてまして、その間も本当に私は別院ではたくさんの人に囲まれて、毎日励ましていただいてたので、すごく楽・・・楽にというか、避難してるという感じではなく・・・まぁ何の不自由もなく過ごさせてもらっていて、ただすごくだんだん怖くなっていったのが、離れている環境に自分も慣れていってしまって、最初はものすごく寂しかったはずなのに、息子と娘も最初のうちは毎日電話をよこしてくれたのに、段々電話も来なくなり、電話で話しても会話も無くなってくる。何を話していいか判らない・・・そういう状態に今度は寂しさも感じなくなってくる自分もいるし、きっと向こうは向こうで私を必要としなくなっていってるんだろうなっていうことも感じ始めたら、今度はそれが怖くなりました。
 家族が・・・もう・・・家族じゃなくなっていく感じです・・・。
 一番怖かったのは、『必要とされなくなること』。
 離れていることで、もう居ないのが当たり前になっていってしまうことがすごく怖くなって、
「やっぱり家族は一緒に、同じ場所で生活しないと」
って思って。
 それでお寺のこともありますし、主人がどこか別な場所でっていうことはちょっと現実的に考えにくかったので、私たちが二本松に戻って、またここで生きる道を・・・被曝しないで生きる道を探していくしかない。逃げていてもきっと・・・何も前に進まないような気がしてきて、それで戻る決意をして、5月20日に二本松市に子供たちを連れて帰ってきました。
【二本松に戻るのか、それ以外の場所で暮らすのか。】
 二本松市に戻るのか、それ以外の場所で暮らしていくのかっていうことを考えた時に、実際方法として、もし二本松を離れる道を選ぶとすれば、お寺を捨てることになる。そうするともう檀家の人たちを捨てることになる。
 っていう、それを考えると、とてもその選択肢はありえないなということは、チラッと福島を出ちゃおうかとは思うんですが、でもお寺を捨てるわけにはいかないし、お寺を捨てられないだろうということは、どちらかというと私のほうが主人よりも口にしていたとは思います。
 主人は、
「お寺はどうにでもなる。何が一番大事なのかっていうところで、もしそれがもうどうしても暮らせないような二本松市ならば、お寺は捨てたってかまわないんだ」
というような話もしてましたし、実際にあの同じ宗派のお寺でも、原発のすぐ近くでお寺、檀家の人も散り散り、お寺の住職も奥さんも避難されて空になってしまったお寺というのも何軒もありますし。ですから、主人のほうは割と「お寺のことを考えるのは二の次でいいよ」という話で、ただ私としてはなんとなくその責任感というか、逆に外から入った人間だからなのか、お寺を責任を持って守っていかなきゃいけないんだという思いが強かったように思いました。
 私がお嫁に来てから、いろんな檀家さんたちとのつながりの中で、
「この先はあなたたちがこのお寺を守っていくんだからね」
という言葉を、本当にどんな方も帰り際におっしゃっていく、法事の帰り際に
「あなたが今度ここに来た新しいお嫁さんなのね。今の住職さんたちが亡くなったら、あなたがここを守っていくんだからね」
というのは呪文のようにずっと繰り返し繰り返し聞かされてきた言葉で、それは私にとっても恐らく喜びだったんだと思うんです。
「必要とされているんだろうな、きっと私はここで受け入れられていって、檀家の人たちも応援してくれてるんだろうな、期待してくれてるんだろうな」
って。それで、この期待に応えていかなくちゃいけないんだろうと、きっと漠然と思いながら過ごしてきたんだろうと思いますし。
 あとは・・・震災の後ですけど・・・みんなで手をつなぎ合わないと、もう個人の力では、問題、壁が大きすぎて乗り越えられないなと思ったときに、自分だけ逃げてしまって、残された人たちがどうやって今のこの問題と戦っていくんだろうと思ったら、やっぱり自分もこの渦の中に居て、みんなで手をつないで、この問題、放射能と向き合って戦っていかなくちゃいけないんだろうなっていうことも感じました。
 この震災の1か月前に、お寺の私の主人の母親が亡くなりました。その1年前に末期ガンを宣告されてまして、もう長くない命だということは家族もみんな判っておりましたし、みんなでとにかく母が最期まで自宅で家族と過ごせるように看病しながら1年間過ごして、最後まで笑いながら、亡くなる前の晩まで孫に本を読んでくれたりして、パタッと息が止まって亡くなったような亡くなり方だったんですが。
 その母が恐らく生きていたら、私はまだここには戻ってきてないんじゃないかなと思うんです。
 母を看病しながらお寺のこと、いろんな仕事を任されていく中で、母はだんだん弱っていくのを見ていく中で、やっぱり私はお義母さんの代わりにここを守っていかなくちゃいけない人間だなっていうのも感じましたし、母は亡くなって1カ月後の地震だったんですが、亡くなった後の1か月間お葬式に来てくれた方達も含めて、みんながやっぱり
「あとお願いよ」っていうふうに
「お義母さんの代わりができるのは、あなたしかいないんだからね」
「お義母さんの代わりに大変だろうけど、お義母さんの代わりに頑張ってね」
っていうふうに・・・<涙されています>みんなにそう言ってもらえて、きっと義母の死があったから私はこのお寺を、私が守っていくしかないなと思えたんだろうなと思うんです。はい。
【お寺としての責任と、小さい子供を持つ母親としての責任。】
 はい、えっと、子供、1番下の子と4番目と5番目、5歳と1歳の子供たちを果たして二本松に住まわせていいのかどうか・・・は、本当に今でもやっぱり悩みますし、それが「自分の都合でここに置いているな」っていう「子供たちに申し訳ないという気持ちももちろんあります。
 ただ、だからこそできる限り、できるすべてのこと、子供たちを被曝させないために今自分にできるすべてのことをやっていかなくちゃいけないなとも思って、だから除染だったり食べ物、子供の口に入れるものは、もう全て測定室で測ってもらって、セシウムが出て無いものだけを食べさせています。
 そうしていれば、まだきっと・・・。家からもう出さないようにしてるので、幸い家の中が広くて、家の中で縄跳びができるくらいの広さもあるので、それほどストレスたまってるふうに子供らは今のところ見えないので、家の中だけでそんな生活を送っていますけれども。
 毎日やっぱりまだ、まだ悩まない日は無いですね。
 これで本当に良かったなんて思えない<涙されてます>でも、思えるように何とかしていかなくちゃとは思ってます。
 それまで避難するまでは、割とお寺の中だけで私は生活をしていて、このお寺の他のお寺とのつながりを私はほとんど持っていなくて、他のお寺の方達との交流っていうのが無い、自分のお寺の中だけのつながりしか持っていなかったんです。
 それで、実は戻ってきてからは、新潟のその三条でお世話になったお寺の方達とのつながりだったり、あとは他の他県で応援してくれている人たちとのつながりだったりということが、そういうつながりが広がったので、こちらに戻ってきてからのこちらの皆を・・・檀家だったり幼稚園に来ている幼稚園のお母さん同士のつながりの、そのサポートを周りに呼びかけられるようになったというか、自分の役目がそこに・・・中と外をつなぐ存在になれたということはありますね。避難したおかげで、中にしか目が言ってなかった自分は、外とのつながりが出来上がって、また外と中をつなぐ役割ができたというか。
 今はそれに一番・・・実際やれてる活動としては、やっぱり小さい子供たちの口に入れるものは、私もそうですけどお母さん、小さい子供を持つお母さんっていうのは、ものすごく神経質に気にしてることだと思うんです。
 測定室のこともそうですけど、新潟県のお寺の方とかが「ご門徒さんからたくさんお野菜いただいたから送るね」なんて言って送ってくださったり、そのお寺さんから聞いたご門徒の方が直接こちらのお寺に送ってくれたりっていうものを、無料で「欲しい」っていうお母さんたちに青空市場みたいな形で配っていたりっていう、そういうことが、そういうことを通して、自分がやっぱり地元に戻ってきて、地元のために何か役に立てることがあるなっていうような気持ちはしてます。
【チーム二本松について】
 私の主人は、震災後初めは岩手や宮城の津波の被害にあった場所なんかにボランティアで入って活動をしていました。主人はちょうど震災の半年前に仏教青年会という岩手と宮城と福島3県のこの宗派のお寺の若い住職さんたち、副住職さんたちで作ってる組織の会長になってまして、BOBというのは、BusseiOfuroProjectといって、まず震災直後、お風呂に入れない子供たちがたくさんいたので、その子供たちにお風呂を提供するという活動がまず一番最初の始まりだったんですけれども、そこで活動をする中で、最初は福島には何をしていいのか判らないというような状態でしたが、だんだんやっぱり放射能の害やなにかいろんな人に話を聞いたり勉強していく中で、内部被曝も外部被爆も、被曝から子供たちを守ることが一番大事だということで、お寺からこの宗派だけって、私もあまり詳しいことが判らない、不確かなことは言わない方がいいですね。
 寄付を募って、福島のために何かできることないかということで、食品の放射能を測る測定器を購入するという話になりまして、その測定器を置いて、食品の放射能を測って安全な食を提供しようということで始まったのが、今だと最近9月にできたチーム二本松というNPO法人です。
 資金の面でまだいろいろと・・・活動がまだ大きくなってはきてないんですが、目標としては、食品の放射線量を測ることと、あとは地域の除染をしていくことと、子供たちの一時避難と一時保養をしていくという、その三つが今少しずつしかできていないので、それをもっと大きな活動として広げていければというので始まったんです。
 私はどちらかというと、なんかあんまり活動に関わるというよりは、主人が動きやすいように、疲れて帰ってきたら休める家庭でいようというところくらいしか、なんかもうお手伝いできるところがなくて、主人は震災後本当に忙しくてほとんど家に居ないことが多くなりましたので、その間の子供たちとの関わりと、あとは主人が安心して出歩ける環境づくりくらいしか、私はサポートはできてないと思うのですが。
【『家族』について今思うコト。】
 やっぱり家族は一緒に過ごすことが、私は一番いい形だと思いますし、家族・・・バラバラっていうのは今になると考えにくいです。
 16歳のあの時期を過ごしたからこそ、やっぱりバラバラじゃ本当の家族じゃないなっていう思いもあります。
 ・・・若い16の頃は、いつか一緒になれる・・・いつかは一緒になれるっていう目標、それに向かっていけてたので頑張れたような気もしますし、そして一緒になった時のあの喜びと、それから過ごしたこの20年間と、それでやっぱり今改めて思うのは、家族は一緒が間違いなく一番だなって。
 きっと檀家の人たちにとっては、自分の帰る場所というか、一番最後に帰る場所、行き着く場所がきっとお寺と思ってる方はたくさんいらっしゃって、あとは自分の大事な人たちが眠っている場所、お墓がある。年に数回お盆だったりお彼岸だったり、お墓に来て手を合わすことで、またそこで亡くなった人と再会してるような気持ちになれる場所で、なんかもう、もちろんご先祖様だったり奥様だったり親しい子供たちだったりが眠っている、その命っていうところを一番・・・感じられる場所が私はお寺じゃないかな、そう思っていて・・・だから・・・命の帰る場所、みんなが最後に帰っていく場所、そこを守っていく仕事というか、私はきっとそんな運命に生まれてきたのかなって、今思ってます。
【以上】

失礼します。
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