※この記事は、百人百話シリーズの第46話です。

【動画】2月29日 百人百話 第四十六話 大橋さらさん
http://www.ustream.tv/recorded/20775090 (59:57)

【以下、お時間の無い方のために内容を起こしています。ご参考まで】
 大橋さらと申します。
 40歳です。
 家族構成は、夫とあと娘が二人おります。高校3年生と中学校2年生です。
 二本松の生まれではないんですけれども、今は二本松市というところに住んでおります。二本松市に来てからは10年以上経ちます。
 親子仲はですね、良い方だと思います。かなりいいと思います。いつも4人家族一緒に居て・・・<涙されています> こたつを囲んで・・・ほんとに原発の事故で屋内退避していたときも・・・家族4人で寄り添って過ごしていました。

 とっても子供たちは素直ですし、反抗されたこともないですし、良い子たちです。
「本当に私たちにはもったいないね、良い子だね。この子たち良い子だね」
っていつも、いつもいつもそういうふうに言いながら日常を過ごしている、そんな私たち家族は、そういう家族なんです。
 夫婦が仲良くするのが家族の基本だと思ってきましたので、仲もいいですし、姉妹二人は歳は4歳離れてるんですけど、本当に仲が良くて下の子はお姉ちゃんが大好きで、「おねえちゃん、おねえちゃん」っていっつも言ってるし、お姉ちゃんの方でも下の妹のことをとっても可愛がっていて、小さい時からずーっとそうで、今でも高校生と中学生なんですけれども、いつも二人こたつの同じところに並んで座って、いつもベタベタ二人で遊んでいて、とっても仲が良くて。私とも主人とも仲がいい、本当に円満で恵まれてるなというふうに感じています。
【そして2011年3月11日―】
 ぱっとテレビを見たら地震警報っていうふうに出てました。その時はほどなく揺れが始まって、慌てて子供・・・その時友達の子供たちも遊びに来て、二人ほど預かっておりまして、こちらにも小さい子供が5歳の子供と1歳の子がおりますので、その子たちの4人と妹と私と6人でテーブルの下に隠れて、揺れをやり過ごそうとしていました。 
 感じたことのない大きな揺れが来まして、ガタガタガタガタっていう音で、テーブルごと床を・・・とっても重くて大きなテーブルなんですけども、床を横にずれて動かされままして、これはただの地震じゃないといいますか、とっても怖くて、そして揺れもなかなか収まりませんでしたので。
 それで妹は、
「どうする?外に出る?」
とか冷静に判断しようとしてるんですけど、私はそれに答えることすらできなくて、子供たちが自分の腕の中にいるから言っちゃいけないと思ってるのに、
「怖いよー」
って言っちゃってて、もうその「怖いよー」っていう言葉を止めることもできなくて、そうこうしていたら、外からお友達のお子さんを預かってたその子たちのお父さんが外からきてくれて、「大丈夫か?」っていうふうに声を掛けてくれたんですね。
 外に出ましたら、まだ揺れているような状態で、幼稚園の子供たちも・・・ここ、同朋幼稚園もやっているんですけれども、そこの園児たちも先生と一緒に園庭の方に出てきて、みんなでしゃがんでいまして。それで私も園庭でしゃがんで、揺れが収まるのを待ちました。
 揺れが収まって、妹はすぐに
「さらちゃん、家に帰りなよ」
って言ってくれたんですけども、私はその時はこのくらいの揺れだったらば、
「家がつぶれたっていうことはないだろうから、いや、私は帰らなくて大丈夫、大丈夫!」
っていうふうに言ってたんですけども、妹は
「いやいやいや、帰った方がいいよ」
って何回も言ってくれて、私も
「じゃあ一回様子見にいってみようかな」
 その時家には、中学生の娘と高校生の娘、二人がいるのは判っていましたので、それから車に乗って家に戻りました。
 その途中、何回も余震が来て、道路が波打つようにというか、こういう・・・揺れているのが判ったり、電柱がもうグラグラ揺れてるのが判って、そこで
「あれ?こんなに大きな余震が来るっていうのは、大丈夫なのかな?」
と思って、ちょっと急に家の方が心配になって・・・。
 ここの真行寺は城下町でお城のすぐ近くですので、やはり地盤が固いのか家具が倒れることもありませんでしたし、電気もついてましたし、水道も出てましたし、本当に揺れが酷かったなぁくらいの被害だったんですけど、私はそのまま家に帰って驚いたんですけど、家の屋根瓦は落ちていて、家の中を外から除くと食器棚が倒れて食器が台所中にバリバリに割れていて、寝室ではタンスが倒れていて、リビングでは42インチの大型テレビが倒れていました。
 子供たちは、道路に出て2人で抱き合って道路に出ていたので無事だったんですけれども、あとになって庭を見て、庭に屋根瓦が落ちてる様子を見たときに、
「あぁ!ここに居てくれなくて良かった!」
とほんっとに思いました。
 あれがちょっとした揺れだったら、庭にパッと出たりするので、そのままそこに居たら屋根瓦が落ちてきてそれにあたってしまったかもしれないなと思って、本当に怖かったです。それを見た時は。
 主人が会社から戻ってきまして、4人で抱き合って無事を喜んだ記憶があります。
 そして、まぁ家の中はめちゃめちゃですし、何しろ電気が通ってないことには掃除もできないし、また暖房器具が家はファンヒータだったものですから、ファンヒータも使えない。どんどん雪も降ってきてましたし、
「じゃあ、今日どうしようか?」
ということになって、避難所になってるのは近くの小学校、原瀬小学校だったんですけれども、そこに行くか、それともここの真行寺に寄せてもらうか、どちらにするか家族で相談して、真行寺だったら発電機も持ってるって聞いてるし、井戸もあるし、きっと大丈夫だろう、何も困ることは無いだろうと思って、ここの真行寺に家族4人で寄せさせてもらいました。
 私たちが真行寺に着いた時には、近所の方も一家族、二家族避難してこられてまして、私たちまで来てしまって三家族になって、この真行寺の家族の方もたくさん、人数多いですから、とっても大所帯のようににぎやかになりまして、妹も快く受け入れてくれまして、
「にぎやかに皆で楽しくやってたほうが、こういう時は良いよ!」
なんて言ってくれて、それでもう、ご飯も外でバーベキューをしてくれたり、あるものをたくさん出してくださいまして、それでみんなで快適にといいますか、なんら困ることなく一夜を過ごすことができました。

 12日の爆発があったとき、爆発の直後に私たちはここに到着しまして・・・真行寺に到着しました。
 そしたら、妹の旦那さんのミチノリさんが、
「爆発した!でもそれを成功だって言った!あれは嘘だ!嘘だ!」
っていうふうにおっしゃってました。
 私ははじめ何のことか判らなかったんですけども、とにかく爆発したっていうんだからしたんだろうなというふうに捉えていました。その後ですね、何回か「成功です」っていう報道を自分の目で確かめたいと思って、インターネットなどで随分探しましたけども、一度も見つけられませんでした。その映像は、隠されてしまったのか、無くされてしまったのか、私は未だに目にすることはできていません。
【参照】
蒸気放出は成功【共同・47Newsより】
http://www.47news.jp/movie/general_national/post_2601/
【報道記録】
3月12日「爆発的事象」福島第一原発爆発後の報道-爆破弁?

※保安院が14:00頃からの1号機のベントに成功したと思われると発表した後、15:30頃に爆発が起こったので、ベントの成功と爆発の関係で混同されたのではないかと想像します。
 その後、14日の爆発があった時も、ここで真行寺のテレビからその情報は得ていました。余震がその時も何回も来ていましたので、やはり地震が来ると怖いので皆で外に出るんですが、そうすると「放射能が来てるかもしれない」と思うので、やっぱり中に入ろうというような行動を1日中繰り返していました。14日の日には。
 それで非常に疲れたのを覚えています。
 余震は来る。
 でも放射能。
 でも見えないからホントに判らないんですよね。来てるかどうかも判らない放射能に怖がってる自分が馬鹿なのかもしれないと思いながらも、何回も子ども達を連れて、出たり入ったり出たり入ったりを繰り返して、
「なんだか今日はそれだけで疲れちゃったな」
という気持ちで家に戻りました。
 夜になったら、妹から電話が来まして、
「私たちもう避難するから」
っていうふうに言われたんですね。それで、私はその時は
「えぇ!?」
っていうくらいの、ホントにそういうリアクションでした。
「避難するんだ?そんなに怖がってるんだ?」
っていうふうに始めは思いました。
 それで、家族に
「??ちゃん家は避難するんだって」
というふうに話しまして、家族も皆、「え?なんで?」っていうような反応で、
「ガソリンが尽きるところまで避難します。」
ということだったんですけれども。
 それで妹たち家族は、その後新潟県の三条市というところまで行ったそうです。三条別院というお寺の施設がありますので、そこに住まわせていただいて春休み中はそちらのほうで過ごしました。
 そして、私たちは一緒には行かなかったんですけれども、その電話をもらった時点では16日から学校が再開するっていうことになってましたので、私はまずそこに頭がいってしまって、
「え?逃げたって学校が始まるよ?」
っていうのを一番最初に思ったんですね。それで、部活動も娘二人ともバスケットボールをやっておりまして、そのバスケットボールはもう小学生の時から私と主人が指導者でもありましたし、そういった本当の家族で取り組んできた一つの競技でしたので、とっても私たちの家族にとって大切なものなんですよね。そのバスケットの部活動もいつ再開されるかちょっとわからない・・・まだその時放射能が危ないって情報は、全くと言っていいほど無い状態でしたので、ただ自分は怖いので外には出ていませんでしたけれども、とにかく学校が始まるっていうのと部活はいつ招集がかかるか判らないっていうのがあって、私は・・・どうしようって、ちょっとそこで「私も避難しなきゃ」っていうふうになれませんでした。
 でも怖いから、ちょっと2,3日どこかに行ったほうがいいのかなとすごく迷いもあって、主人に
「どうしたらいいかな?」
って相談したら、主人は、
「1回避難したら、そう簡単には戻って来れないぞ」
ってその時に言ったんですね。そして、自分には会社がある。主人は、「もしかしたらこのまま逃げたら、会社を首になるかもしれない」というような不安を抱いていたようでした。実際に、
「周りで避難をしてる人は居ないの?」
って私は何度も聞いたんですけれども、
「そういう人は居ない」
っていうふうに言っていて、それで「自分だけが逃げるわけはいかない」ということも言っていました。
【「自宅で屋内退避」の決断~伯母の勧めを受けて】
 そうして悩んでいるときに、私は長野に居る伯母の存在を思い出したんです。その伯母は、チェルノブイリの事故・・・
Q.その叔母さんはどういう関係かって、いろいろありますから、母方のなんとかのって、すいません。
 その伯母は、母の姉にあたる方なんですけれども、今長野県におりますが、チェルノブイリの事故があったときに、その事故処理にあたられた消防士の方の手記を日本語に訳して是非日本で出版したいということを思い立ちまして、ウクライナ語を勉強し、それから原発事故について勉強し、そして本をこちらにあるこの『チェルノブイリの火、勇気と痛みの書』という本を翻訳ではありますけれども出版した方なんです。
 それで、私はこの伯母のことをその時思い出したんですね。それまでは、私はその25年間伯母がチェルノブイリ事故のことに関わってきて、反原発の運動にも関わっているのは知っていたんですけれども、もしその話を詳しく聞いたら、とっても怖いことを言われるんじゃないかなっていうところから、それと「チェルノブイリは遠くで起きたことだし、旧ソ連でしょ?」っていうような認識でしたので、まぁ、あまり自分たちには関係が無いといいますか、そんなに危険なこと・・・ね?同じ危険と隣り合わせだったとは認識してませんでしたので、原発について話したことは一度もありませんでした。伯母と全くそういう話にはなったことがありませんでした。
 伯母に初めて電話をした時は、もう私もかなり気が動転したような状態でしたのですがるような思いでした。今まで自分がそういうチェルノブイリの事故について、よく話を聞いて来なかったことも、ちょっと頭にはありましたけど、もうこうなったら私たちも被害者だから、開き直ったような気持ちで電話をかけて、そしたら
「あぁ、さらちゃん!どうしてる?大変なことになったね。」
と言われました。それで、妹たちが避難したことを伝えて、
「私たちも避難したほうがいいの?どうしたらいいの?」
っていうふうに聞いたら、
「落ち着いてね。まだ大丈夫だよ。建屋が吹っ飛んだくらいではまだ大丈夫だから。でももっと酷いことになったらホントに逃げなくちゃなんないから、準備はしておいてね」
ってその時は言われたんです。そして、
「家族がバラバラになるというのは、私は良くないと思うんだ。そうなるんだったら、皆家族4人一緒に居て・・・屋内退避っていう方法があるから、それでさらちゃんたちは頑張ってみたら?」
っていうふうに言われまして、
「あぁ、そういうやり方の放射能を避ける方法があるんなら、私たちはそれでいこう」
ってその時私は思いました。その後・・・とにかく子供たちを外に出さないようにしていました。窓から外を見ると、普通に外に出ている子供たちや皆車で出かけていくし、まぁね、ガソリンのある車だけなんでしょうけど、あの時はホントにガソリンが無かったので、ガソリンを求めて出かける人、食料を求めて出かける人、たくさんの人が外に出ているのも怖かったです。
 それで、子供たちは「外に出たい」って言いました。
「みんな外に出てるし、私たち運動部なのに家の中にずっと居たら、身体がなまっちゃって走れなくなっちゃうから、友達とメールすると『外で走って身体鍛えてる』って言う人も居る。」
って子供は言ったんですけども、私は
「それはダメ。走るなら家の中で走ってなさい」
っていうふうに、そこはホントに頑として子供に言い聞かせて、子供たちはテレビ見てゲームをしてパソコンやってゴロゴロして、ちょっと太っちゃったんですけれども。

 学校が始まるときには、私はこのまま学校を始めてしまってもいいのだろうかという疑問は抱いていました。それで、長女の高校に電話をかけて、
「放射線量がこんなに高いのに、学校を始めてもいいと思っているんですか?何か学校の方で子供たちを守る対策は考えていらっしゃるんですか?」
というふうにお尋ねしたところ、
「教育委員会が大丈夫だと言っていますので、私たちはどうすることもありません」
という回答でした。
「特に考えていません」
っていう回答だったんです。私、高校の方では本部役員もしておりましたので、他のお母さんに電話をかけて、「どう思う?」って聞いてみたりしたんですけど、やはり学校の方でも上からの何か指示が無ければ何もできないというのが現状だろうというお話でしたので、私も仕方がなく・・・部活も始まりますし、大会も近かったですし、子供を学校に送り出すことにしました。
 その時点で転校させての避難ということは考え・・・ちょっとは考えましたけれども、やはり子供は高校3年生になる時でしたので、大事な大学受験もあるし、ここで学校が変わるっていうのは子供に対して子供の心に負担も大きいだろうし、難しいだろうな・・・というふうに考えていました。
 下の娘も中学校の1年生から2年生に上がるところだったんですけど、
「私は避難したくない。どこにも行きたくない」
ってその時点では言ってまして、じゃあ学校は下の中学生の娘は完全に送り迎えで、決して外は歩かせないというふうに家の中で決めて、もちろんマスクをするっていうことを約束して、上の娘にも
「マスクはしてね。周りの人がマスクをしなくなっても、あなただけはマスクをしてね」
といって毎日送り出していました。
 そして、テレビをつけると、まぁ「この状態では人体には、直ちには人体には影響がありません」のお話ですね。繰り返し繰り返し聞いて、でも、それは信じてはいませんでした。
 『直ちに』っていう言い方自体が気にかかって気にかかって仕方が無かったです。
 でも、私がその時頭にあったのは外部被爆のことだけだったんですね。
 そして、東京に主人の姉が居るんですけれども、主人の姉が活性炭を送ってくれたりして、
「炭の粉を飲んだ方がいいみたいだよ」
っていう手紙を添えて送ってくれたんですけれども、初め・・・
「どうしちゃったんだろう?この人は?」
って思いました。そこで一度主人とけんかになりました。
「俺の姉がこんなに心配してくれてるのに、お前のその態度は何なんだ?!」
っていうふうに言われるくらい、私は本当にそのお姉さんがせっかくしてくれたことに対して、「大袈裟だ」っていうふうに怒りを感じたというか呆れてしまったというか、
「え?!炭飲むって、どういうことなんだろう!?」
 その内部被曝っていうことに対しての知識はゼロでしたので、
「そんなことをしてどうなるの?」
っていうような変な情報に振り回されてるんじゃないかっていうふうに考えてしまって、全くその時点で、とにかく降ってるものが収まってくれれば、元の生活に戻れるというふうに思いこんでいました。
 で、テレビでは「大丈夫です」って・・・言ってますし、インターネットでは「いやいや大丈夫なわけないよ。これはとっても怖いことなんだよ」っていう情報もたくさんありましたが、その時は何が本当なのか、何がウソの情報なのかは、自分でも識別できないでいましたので・・・。
 でも、なんか大丈夫って言われた方が、ちょっと自分が嬉しいっていうのがありまして・・・。だんだん、「大丈夫らしいよ」っていうふうに自分がなっていってしまったんです。

 真行寺の皆さんは、4月の学校が始まるときに、中学生のお子さん2人はこちら、二本松の方に戻ってきました。妹の旦那さんと一緒に戻ってきていましたが、妹と下の小さな子供二人は、そのまま新潟に残っておりました。5月の連休が終わるまでそちらの新潟の方に妹と小さい子供2人は行っておりました。
 そのこともありまして、やはりここの真行寺の中に主婦が誰も居なくてはいろいろと大変だろうということもありましたし、それで私も毎日こちらに通わせていただいていたんですけれども、そこでニコニコしながら、
「なんか福島県の汚染は、チェルノブイリとは比較にならないくらい大したことが無いらしいんだよ」
って、私ニコニコして、ここで真行寺の中でそんな話をしていたんです。その時は。
【逃げる者の論理と逃げない者の葛藤】
ある時、妹の旦那さんに
「ちょっと来て」
っていうふうに呼ばれまして、
「自分は今回、私たちの家族が避難をしなかったことはおかしいと思う。」
というふうに言われました。<涙されています。>
 ・・・でも、
「なんですぐに決断しなかったんだ?それで子供たちが被曝しちゃったじゃないか。」
っていうふうに言われて・・・絶対に言われる・・・だろうっていう気持ちは・・・していたので、それがショックだったわけではないんですけど・・・私も私なりに毎日悩んで、怖くて・・・すごく・・・苦しみながら、家族でいろいろな話をしながら・・・「少しの被曝は仕方がない」っていうふうに考えて、屋内退避・・・という判断をしたことが・・・うーん・・・
「正しいとか間違っていたっていうことを言っているんじゃないんだよ?」
って旦那さんはおっしゃって、でも私はなんか、その私の辛かったことを旦那さんが全然理解してくれていなくて、ただ・・・こちらの副住職さんが
「そのことを責めてるんじゃないんだよ。でも、逃げた方がいいことは絶対明らかなことなんだから、今度何かあった時には判断間違っちゃダメだよ」
っておっしゃったんですね。
 で、私はその悩んで苦しんだ3月のことを頭ごなしに否定されてるような気がして・・・
「それも大人の都合でしょ?」
っていうふうにも言われましたので、何か私や主人が身勝手な・・・都合で、お金のことだったり、いろいろな自分たちの都合で子供たちを危険な目に遭わせたというふうに責められてるような気がして・・・その時本当に・・・私も泣きながらいろんな話をしましたけれども・・・。
 なにか、その・・・ね?結論が出たということではないんですが、そういった会話がありました。
 それで、それからは、なんだか私がその放射能のことを話すのも、ちょっと・・・また何か言われるんじゃないかなと思って、あまりこの真行寺の中でそういう話を自分からはしないようにしていました。
 妹の旦那さんは、事故後放射能について、とっても勉強されていることはよく判っていましたし、決断も早いですし、そして行動力もありましたので、私がぐずぐず、ぐずぐずぐずぐず家族を・・・引き留めていた・・・っていうようなことが・・・まぁ、本当に「なんで早く逃げて、子供たちを守らなかった?」って思われたの・・・だろうというふうに思います。
 でも、まぁ・・・そうですね・・・。私の危機感は、確かに指摘されてもその通りだと思うように甘いものだったと思います。
 ただ、うちの中でも大変意見は分かれていました。
 主人にも私が毎日毎日、「放射能、放射能」って家の中で言うので、
「もうあまりそういう話は・・・」
というふうなことも言われたこともありますし、なんだか・・・一人で戦ってるような気持ちでした。
 ただ、その長野の叔母に言われた「家族はバラバラにならないでね」っていうことと、「どこに居ても結局は同じになるかもしれないよ」とか、そういう言葉に自分もすがっているようなところもありましたし・・・。
 私は子供たちがそれほど小さな子供ではなく、中学生と高校生でしたので、もちろん健康的な心配がないわけじゃないですけれども、赤ちゃんだとか妊婦さんだとか、乳幼児ほどの・・・そこまでじゃないんじゃないかなっていう考えもありました。
 それで、ただ・・・副住職さんに指摘されたことは、もう本当にショックはショックでしたね。
「今更そんなこと言われても」
っていう気もありましたし、ねぇ・・・。うーん・・・。誤解してるんじゃないかっていう気持ちもすごくありました。私が馬鹿なやつだと・・・いうふうに考えているのかな。でも、それまでも関係はすごく良いものでしたし、だからもちろんそのことはそのことで置いておいて、これから放射能に対して、私も同じように知識を得たいと思いましたし、もう副住職さんはその時、自分がどんなことをするか、いろいろ考えていらっしゃったので、まず除染とか、もういち早くそういう行動に移していましたから。私も何かできることがあったらお手伝いしたいなっていうふうに考えていました。
 ただ、外に向けて訴える活動家としては、そういうふうにはならないようにしようって、私の中では考えていて。なぜかといいますと、活動家、社会的な活動されてる方、テレビとかでしか見たことはないですけども、なんかいつも怒ってる・・・サングラスを掛けて・・・<苦笑>あの・・・
「ザマス!わたくしは・・・」
っていうような口調でお話したりとか、なんか私の中で偏見がいっぱいあったんだと思いますけれども、本当に今となっては失礼な考えでしかなかったと思いますけども。そういう活動を私が始めたら、家族もみんなそれに協力してもらうようになっちゃうし、だから私はとにかく家族を守っていくように、静かに家族を守って、一市民として放射能から家族を守ってやってこう、そのための知識を自分のために得ようっていう意識でいました。
【伯父・河田昌東(チェルノブイリ救援・中部)との再会~内部被曝の恐ろしさを知って】
 そして4月になって、4月19日の夜に私は6人兄弟なんですけれども、5番目に妹がおりまして、その妹は町田に住んでいるんですけれども、私の伯父の河田昌東という人がいるんですけれども・・・
 はい。長野県に居る伯母の、今はちょっと別々に暮らしてはいますけれども、旦那さんだった方で、河田昌東さんという元名古屋大学にお勤めだった伯父が、福島市で講演会をするよっていう情報を妹から教えてもらいました。
「二本松から福島市まで来たの?」
って聞かれて、
「おじさんの話を聞きに来たんだよ。でも、私避難しなかったから・・・妹の旦那さんからは『ダメだったね』って言われて、すごく不安だったんだ」<涙されています>
ということを言ったら、
「過度に怖がる必要はないよ。でも、これから言う話はよく聞いてね。講演するからね。」
って言われて、講演を聞きました。
 そしたら・・・そこで聞いた話が・・・私が思ってた話と全然違って・・・
「内部被曝・・・今から気をつけなくちゃいけないんだよ」
っていう注意を促すような講演会でした。
 その講演を聞いて、私は初めて内部被曝というものとその内部被曝が引き起こす健康被害の可能性というものをその時初めて知りました。
 終わってから質疑応答になったときに、周りはほとんど福島市の方だったと思うんですけれども、皆さん本当に驚かれてるような会場の雰囲気でした。4月20日です。それが。
 その時点では、本当に山下先生の講演会が盛んに行われてる時期でしたし、
「『安全です』という話を聞きに来た方には、怒られるかもしれませんが・・・」
と河田は言いました。
 私も『安全です』っていう話が聞けるかもしれないって50%くらいそう思っていましたので、とってもびっくりしたのと、自分が何も知らなかったっていうこと・・・放射能の数値が下がって、「あぁ、終わった、終わった」じゃないんだってことに、そこで本当に気づかされました。
 そして、「このまま福島に住んでいて大丈夫なのか?」質問した人が居ました。
「私たちはどれくらい被曝したんだ?」
「病気になるかもしれないのか?」
って聞いた人が居ました。そして伯父の河田はそこで、女のお医者さんも一緒に来ていましたので、「その方にその質問は答えていただきましょう」と言ってマイクを渡したんですね。
 そしたら、そのお医者さんが立ち上がるなり、泣き出してしまったんです。
「私がそんなことを言わなくてはいけないなんて、辛くて・・・」
って言って、泣き出されたんです・・・。<涙されています>
 そこで本当に自分の知識が無かったこと、楽観的だったなっていうことに気づきました。
【子供たちを避難させるということ~このまま福島に住み続けてもいいの?】

 それから、子供たちの身体のことが心配で心配で、これからですね、私たち家族は・・・ちょっと前の話に遡るんですけれども、私は河田昌東の講演会を聞いた時に、もう野菜のこともそうですけど引っ掛かっていたのは、子供たちが今の家に住み続けていて大丈夫なのかどうかっていうのは、とっても気になっていて。
 だから、5月の初めには伯父にメールをして、どう思うかズバリ聞いたんです。
「このまま住み続けて大丈夫だと思う?」
って。で、返事が来て、そのメールを開けてみたら、
「来年の春からでも、お子さんたちだけでも私の母のところに引っ越させてはどうでしょうか。」
って書いてありました。
 そのメールを見た時、頭が真っ白になりました。
 覚悟はしていたつもりでも、すんごいショックでした。
 もう、それからは3日くらいですね、誰ともしゃべりたくなくて。ただ、この真行寺には毎日来ていましたし、普通に仕事をしてましたけども、やっぱ一人になると涙が出てしまうし、そのメール・・・今までそれ以来一回も開いてないんですけど、メールの文面を思い出しただけで・・・<涙されています>もう涙は出るし、目の前でご飯を食べている子供を見ると・・・この生活を続けることが・・・ベストではないってことが突きつけられたショックが大きくて、すごく・・・なんていうんですかね・・・身が引き裂かれるってこのことなのかと思うほど、ここら辺から引っ張られて持っていかれるような・・・そんな感覚で、ホントに誰ともしゃべりたくないって思うくらいショックでした。
 主人にもその相談をしたことは言ってなかったので、なんて話そうかと思って、3日間考えて、でも4日目にちょっと主人を呼んで
「実は伯父さんにこういう相談をしたんだけども、転校させた方がいいんじゃないかって言われたよ」
って言ったら、やっぱり主人もすっごいショックな顔して、
「嫌だ!」
って言って
「私だって嫌だよ!」
って二人でホントに半べそかいて。その時は二人でショックでした。
「伯父さん、なんでそんなこと言うんだ!?」
ってうちの人も言いましたし、私もそのメールを見た時、最初自分で聞いておきながら、
「なんでそんなこと言うの?」
ってちょっと思っちゃったりして・・・
Q.アドバイスをくれた人をちょっと恨んじゃうんですね。
 ね?なんか、ちょっと感情だけなんですけどね。もちろん理屈では分かっているはずなんですけど、「なんでそんな酷いこと言うんだろう」ってちょっと、ちらっと思ったりして、返事も返せずに何日か・・・。
 でも、その伯父のメールの文面の最後には、
「私だってこんなことを言うのは辛いんです」
って書いてありました。
 それで、とにかく返事を出せるようになって、
「よく考えて結論を出します」
という返事をしました。
 とにかく、1年間悩もうっていうことにして・・・。
 1か月か2か月過ぎたころかな。試しに本人はどう思うだろうかと思って、本人に
「あんた、転校するか、それとも中学校3年生までは二本松に居て、高校はおばあちゃんのいる神奈川県の高校に行くっていう手もあるんじゃないかな?って思うんだけど」
ってちょっと軽い感じで聞いてみたら、娘は目を輝かせて
「行く!」
って言ったんですよ。私にベタベタしてるような娘だったので、
「お母さんと離れ離れになっちゃうんだよ?」
 そしたらきっと「嫌だ」って言うだろうなって思って言ったら、
「いいよ!」
って、ニコニコしながら「いいよ」って言ったんです。
 そこでなんか私もここまでこんなに苦しくて悩んできたのが、なんかちょっとフッと、「あぁ、本人がこうなの・・・。」っていうのと、まだでも多分、地元を離れて県外、遠くに行って、私や主人と会えなくなってっていうことが現実として判ってないっていうことも確かにあると思うんですけど、でも、そうなると私の母のところに住まうとなると、上の子もそこから通える大学を目指してますからそこに居る状態で、自分は大好きなお姉ちゃんを追いかけていくっていう形になるし、こんなに本人がケロッとして前向きに言ってるのなら、
「でも途中で中学3年生に転校するのは絶対に嫌だ。今の友達を離れていくのはイヤ。部活も最後の引退する時まで続けたい」
っていうことだったんです。
 それで、じゃあ高校からあっちっていうふうな・・・神奈川の方に行くということを私たちも具体的に考えていってもいいんじゃないかなというふうに思えてきて。
【福島に留まる理由】
 私たち夫婦は、主人の仕事もありますし、私もこのお寺で働かせてもらっていることで収入を得ておりまして、それを失くして他所に行くっていうことは、今は難しいというふうに考えています。子供たちを外に出すなら尚更、私たちがその生活を、金銭面でも支えていかなければ、長女も大学の学費のこともありますし。なので、私と主人は福島県に、この二本松市に留まって、子供たちの生活を支えて。主人のご両親は福島市におりますので、ご両親もちょっと置いていくのもなっていう考えもありますので、残る方向で今は考えています。
 ただ、今の生活もそうですけども、野菜の産地ですとかも気を付けていますし、精一杯気を付けながらは生活していくしかないとは思っています。
 ・・・まだ主人は30代なんですけども、私はこないだ40歳になったばっかりなので、もうヨウ素剤ももらえない年になったので。でも、それで私は病気になりませんとは思ってないんですけれども、もちろんウクライナのことを叔父から聞くにつけ、『やはり大人も70%は病気になっている』っていうお話を聞くと心配にはなりますけれども・・・でも、今はとにかく子供たちを早く、早くというか、本人たちも納得のいく形で福島県から出すということに、ちょっと気持ちは集中しているというような状態です。
 それと、ここに残っている、福島県の中通りに残っている子供たちが大勢いますから、その子供たちを守る活動を自分は子供たちを手放した後も続けていきたいと思っているんです。
 小さい子供を抱えてる若いお母さんたちって、なかなか自分の自由な時間もないし、大きなことをすることもできなくて、ただ本当に不安になっているっていう方もたくさんおられると思うし、そういう人たちに対して、このおばちゃんたちが手を差し伸べていくっていうことが意義のあることだとも考えてるので、自分たちは今のところ二本松に留まって、とにかく子供二人大学を出すまでは、この収入も現状維持でっていうふうに考えてます。
 私たちも住まいを移って、主人も仕事を変えて、私も新しい仕事を見つけてということは、うーん・・・これまではそういったことを具体的に話し合ったことは無いです。
 なんとなくというか、うーん・・・。
 恐らく夫も、転職の経験があって、仕事っていってもそう簡単には見つからないだろうとか、そういった懸念とか不安とか、そういうものがありますので、うーん・・・。
 ただ、その収入さえ例えば補償されてるとか何かあれば、収入が困らないっていう何か、そういうものがあれば、出ていくんだけどな」とは夫はちょくちょく言います。
「俺たちでって出ていくのになー。ただ何にもないから、まして55㎞も離れてると避難区域でもなければ、一応大丈夫な場所みたいな扱いをされてますので、行政的にというかね、政府としてはここは大丈夫っていう場所になっちゃってる以上、なんの補償もないし、そこでね、収入が途絶えても、やっぱり家族の生活が成り立たなくなって、どうにも立ち行かなくなったら困るだろう?」
っていうことで・・・そんなちょっと愚痴を言うくらいで、真剣に「私たちもどこか行こうか」っていう話にはなったことがないです。

1


【以上】

失礼します。
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