※この記事は、2月28日【内容起こし】IWJ百人百話 第45話 橘柳子さん『満州からの生い立ちと教師になって・・・』【前半】の続きです。

<57:30頃~>
Q.やっぱり相当潤ってたんですか?
 潤ってた。何しろそういう言い方悪いけど、我々の給料より良いっていうふうには言われてましたよ。先生が?????って先生も言われましたら。ボーナスが。それくらい良かった。
Q.「先生が・・・」っていうとこ、ちょっと聞き取りにくかったんですけど。
 あのね、給料の面からいうと、お金の面からいうと、東電社員になったのと下請けになったのとは違うと思うんですけど、東電の本採用の人たちはボーナスが立つっていうのが我々の認識というか言われてたの。我々って結構こんなんで立つわけもないけど。下請けの人だって結構もらってた。やっぱりおいしかったんだろうなっていう話は巷とみんなでちょっと話をしてはいました。
 良かったんじゃないの・・・?
 まず家を建てられるでしょ。借金も返せるじゃないですか。ずっと地元に住んで生きていけるっていうふうに思ってたでしょ?だって『安心・安全』だもん。事故なんか絶対無いっていうふうな流布されてるでしょ。洗脳されてますから。ちゃんと安全教育するそうですから。社員だったり労働者になるとね。
 残念ながら、そういうわけで、運動は乗り越えられませんでした。
【3.11当日】59:00頃
 ちょっと夜ノ森で集まりがあって、帰る途上でご存じかしら。双葉町長を長くやってる岩本さんという方がいるんですけど、ちょっと聞いたことあるかもしれないんですが、最初は社民党、社会党だったので、県会議員やって町長になった人なんですが、ずっと反原発できたんですけど、町長になったとたんパタっと変わっちゃった人で有名な人なんですよ。息子が双葉町議員だから、「なんだ?お前」なんて怒られるかもしれないけど、でも事実だから。
 労働界では話題の人だったんですが、そのお家の前の橋に居たんです、私。信号待ちしてたんです。携帯がすごいおとして、携帯が私が発信あるのみでできなかったんですが見たら地震情報載ってるんですよね。それで、橋が落ちたらこのままやられるなと思って、赤でも見て渡りきって、ちょっと行くと教え子の家が道路のそばにあって、そこまで車を移動して、もう降りられなかったですよ。あんまり揺れが激しくて、揺れが激しくて。止まってまたなったでしょ。そのちょっと止まった時急いで降りて、ぼーっとしてたら、その教え子のお父さんと孫が出てきまして、こんななって電線は切れてましたから。
 そのうちに前の陸橋が、鉄道の。映画のごとくバーンと落ちたんです。あの音と煙と凄さは・・・橋がガタガタが震えちゃって生まれて初めて「足が震えるってこれなんだ」って思ったんですね。それを見ていた私はすぐ「あぁ。もう原発ダメだな」って。その教え子のお父さんも、
「先生!原発ダメだな!」
って言った。
「ダメに決まってるよ!もう爆発だよ」
とか言って、それを最後に別れちゃったんですが、その前に車がすっごい帰還しました。ちょっと収まってから。そのうち私が見えないとこで道が陥没して通れないとかっていって車は回ってくるし、大混乱だったんですが、私はちょっとしてから出ようということで、少ししてからそこじゃないほうの裏を通っていったんですが、これまた惨憺たるもので、塀は崩れてる、水道から水は出てるしで、やっとの思いで浪江に着くんですが、橋という橋が全部通行止めが入ってて行けなかったんです。橋渡んなくても行ける知人で叔母の家があったので、そこに行って。
 それで、まだ揺れてましたから、そのころ。危ないからって物置みたいなところを避難する手伝いをしたりしてたんですが、棚塩で津波で飲み込まれた浪江の棚塩から夫婦二人で逃げてきた人たちが来て、その夫婦が
「家も土地も流されたわー」
ってこう言ったんですね。
 私も他人事だなって後で反省したのは、
「家も土地も流されても、命があるんだからいいんだよ」
って言って一緒に居て。
 でも待てよ、私も帰んなきゃなんないと思ったから、
「通れたのね?」
って聞いたら「うん」って言うのよ。
「橋は?」
って聞いたら「うん」って言うから、じゃあ送っていって、私は自分の車を置いて軽だったから狭くても軽自動車だったら通れるところ行って、家に行ったんです。もう暗かったですからね。
 着いたら真っ暗でしょ。電気切れてますから。玄関にちょっとメモがあって、浪江にいこいの村っていうとこがあって、そこに避難してますっていうメモがあってので、
「そこまで送っていってよ」
って言って送ってもらって、ものすごい車と人でした。それは何の避難かというと、津波だから高台に避難してくださいっていう指示で避難しただけであって、これは会えないかもしんないけどまぁいいやって思ってたら、偶然にも会ったんですね。夫と。
 そんな具合です。そこまでは。これは11日の夜まで。いこいの村、浪江っていうところは、津波の避難所で、私は浪江に居なかったんですが聞いたら
「津波が来ていますので高台に避難してください」
っていう放送があったそうです。それで、そこに避難したわけね。
 停電だけど、自家発電でテレビはずっと見れましたね。それからその支配人の配慮でずーっと遅くなってからですけど、暖かいおにぎりと・・・人間ってね、お腹すくから食べ物のことばっか覚えてるんですね。その暖かいおにぎりとお味噌汁とたくわん二切れが全部に配られました。すごいなぁと思って。おいしかったなぁと思って。引き揚げてきたときのことを思いだして。
 そこで一夜を明かして、何回も放送があって。
「建物が危ないから、崩壊するかもしれないから出てください」
ということで、寒い空の下に避難しては入り、避難しては入り。
 電気無いでしょ。布団と毛布1枚くらいずつあって、そこで眠らないです。
【原発事故のテレビでの報道をどのようなお気持ちで見ていましたか?】01:04:20頃
Q.全然話にならない状況ですね?
 そうです。もう公表しないし、隠してるしね。
「半分ウソだと思って見てれば?」
って私は言ったの。でもみんなはもう夢中だからね。
 11日の夜だからね、避難した時はテレビは放送してましたけど、どこか・・・少しおかしかったんだろうなと思うのね、あとでね。でも見てまして、それが感動もなくぼーっと見てて、「あんなの嘘だよな」って心で思って。「あれはどこまでかな。誰がカメラ入ってんのかな」とか。そばには行けないわけでしょ。だから、誰がどういうふうにして撮ったのかなとは思いながら眺めてはいました。
 発表も遅かったでしょ?枝野さんが最初に記者会見したのもね。まぁ、情報っていうのはどこまでが真実かなんていう難しいとこがあるなと思ってますので、ただぼーっと見てた。
「あそこまでなったよ。危ないな。ここには居られないよ」
って橘には言ったんですけど、主人はだまーったままですよね<苦笑>。
「無理だよ、もう。逃げるしかないんだ」
とは言ったんだけど
【避難】01:05:45頃
 11日の夜は、そういうわけで動けないし車が出るも引くもなんなかったので。夫の車が出れそうというのを朝見て、6時前だったかその辺がよくわかんないですが、とにかく私の車もとってこようということで、そこから叔母のほうの私の車を置いたところに取りに行って。そして、みんな通ってるようだから、とにかく行けるとこまで家に行こうよっていって、10分くらいでいけますから。私の車をとってから2台で自分の家戻ったんですね。戻れたんですよ。水は出てる、へこんでる。家は倒れてる。古い家は全部崩壊してましたからね。そこを避けて辿りついて、それで開けてみたらものすごいですよ。でも人間ってバカなんだよね。女はとは言いたくないけど、これ、通り道作んないとまずいよなって思うくらいガチャガチャ。でも、橘に
「窓開けない方が良いからね。放射能入るから。戸も窓もガラスも通すからっていわれてっけど、とりあえず閉めといてやってよ」
って言ったのに開けたりして「あー!」と思ったんですが。
 それで逃げ道つけてるうちに、放送。浪江町の避難の放送が入りましたけど、それが私、今書きたくて書いてることは、「ただただ避難してください」なの。私が聞こえたのはだよ。よその町の友達から聞くと、
「原発で事故が起こりましたから、直ちに避難してくださいって言われた」
って富岡と浪江は。大熊の友達はわかんないですけど。
 それで、そう言われた。だけど私らは
「避難しろって言ってるから避難するべ」
っていう。私はそれしか聞こえなかった。
「『ただ、避難してください』って『避難しろ』ってなんで避難?」
 橘は素直なんで、私よりそういうところでは。
「避難しろっていうから避難すっぺ」
「なんで避難しなきゃなんないの?何も言ってないしどこにも言ってないのに、行かない」
って言ったんです。
「どうせ原発だから、そんなに急いだって無理だよ」
って私言ったの。混んでるはずだから。それは勉強してたから。車の混雑で動けませんってやってたから。それで行ったところでもぶつかる。なおしましたけどね、あとね。だからもう無理ですよっていうのは学習したから、
「今出たって無理だから、行かないよ」
って言って。でも言うこと聞かないと喧嘩になったから、それでとりあえず出たのね。言ってるとおりに。
「どの道行ったってものすごい車だから、もう出られないから戻ろう」
っていって戻って、
「もうこの際は食だ!」
 食べることだから、米研いでたんですよ。電気来てたからその時。片づけしてる間もずーっとテレビをかけながらやってたんですけど、ご飯を炊いておにぎりをして、それを持って避難した。途中で食べてお昼のご飯をね。何時だったか覚えてないですけど。その頃はある程度の10㎞くらいまではすいすい行けましたけど、そのあとまたダメ。混み具合は114号線を避難しましたから、浪江の住民は津島というところですよね、新聞でもご存知かと思うんですが、114号線を北上するっていうのかな。そこのところを避難ですが、私は車乗る前に、
「ちょっと風どっち向きだ?見てみな。やってみろ」
って言ったんですね。
「私らは風の逆方向に、風の逆に逃げなきゃいけないんだから、風見ろ」
って言ったけど、
「そんなの関係ない!とにかく乗って行くんだ!!」
とか言ってっから、「しょうがねぇな。これもな」と思って、私はしばらく逃げる・逃げないでやりあってたんだから、
「今更放射能がどこに行ったってあんだから行かない」
「そんなこといんじゃねぇ!!!」
って言ってやっとスタートしたんですが、いやー・・・、あとで考えれば114号線、採石場で有名になりましたでしょ?二本松の土地はありますね。そのコースの赤宇木っていうところがあるだけ。飯舘より高いとこ通って、その時も津島通って、それでずーっと行ったら津島の建物全部満杯。私ら遅かったから、午後だったからね。
「入れません、入れません、入れません」
って言って、
「『避難しろ』っていって入らないなんてのはどういうことだよ?探しな!」とかいって威張って。威張ったと思うよ?聞いてる人は。そしたら、そのずーっと奥に羽附っていうとこの集会所がある。
「そこは今OKが出たからそっち行ってください。」
でそこへ行ったんです。私たちが着いた時には、十数人くらいだったんですがそこに避難をしました。12日は。
 12日のテレビはずっと使ってたんですよ、そこもね。それで爆発の放送を一生懸命見ながら、そばに居た人たちも
「あぁ、メルトダウンだよ」
って言ってたら、誰も返事しないの。
「あ、メルトダウンだ。もうダメだ」
って言ったの。もうここは住めないわって思ったのね。
「逃げる必要もなかったかもしれない、死ねばいいんだから」
とか思ったんですけど、それは何回も言いました。でもほかの人たちは、もう自分で寝る場所ですよ。前の日寝てないんだもん、みんな。11日の夜。それで、毛布があのとき来たんだな。被災用の毛布が届かって、それを確保してびっちり寝ましたから。だから、そのことのあと、ご飯の心配、夜のご飯。ところが津島ってところはいいとこで人情がいいっていうのかな。私はそこに10年くらい勤務しましたから、だからその地区の羽附の区長さんという方が米を袋に入ったまんま運んできてくれたから、3日間そこに居たんですけどあったかいご飯とお味噌汁と漬物が出ました。
 とにかくはつけの集会所には12、13、14で全部1号も2号も3号も爆発の様子は全部もろに見てましたから、
「あー、これだけやっぱりあるんだな。4号はどうなんだろう。何も放送してないけどな」と思ってたんですね。燃料を冷やしてるところだから、どうなったのかなと思って。
「3つともメルトダウンだよ、あれは」
と夫に言ってるけど、夫は黙って反応なしで、もうしゃべりたくもない、がっくりきたのかもしれないけど。
 爆発して動きようないもの、だって。地域はあのころはまだ雪あったんですよ。寒いとこだから。住めるほどじゃないかもねと。私らが避難した部分はちょっと怖いとこもあって。動かないで、成行きに任せるしかないわと思って12、13、14の夜はそこに泊まりました。
 15日は、早々に役場の職員が来たんです。避難所に。もう浪江町だけ知らされないんだよ?情報が。データも出てないし、浪江は原発受け付けないっていうか、国策にあらがった町だと捉えられてるんだなって私は個人的に思ったんですけど。
【国策に抗った町】01:13:30頃
 『原発の事故が起きました』っていう知らせもないし、なんとかっていう入るじゃない。機械、FAX。各町に入ったんだよ。双葉も大熊も入って、すぐ避難で双葉・大熊はバスが来たでしょ。真夜中11日の夜に避難の手配した。浪江は全然ない。
 それで、これはどこまで本当かあとで調べてほしいんだけど、かつろうっていうところがあって、職員、かつろうの役場に浪江町の役場を電話したら、「全村避難することにした」と聞いて、避難しなきゃなんないってなったんだから。浪江はね。
Q.国策に逆らった町だからっていうのは、またどういう意味ですか?
 原発受け入れなかったから。
【浪江・小高原子力発電所】01:14:20頃
 原発は国策でしょ。だからその原発の反対運動があったから。舛倉さんをはじめ、意外と強かったんです。一つの運動をして墓地も売らない。棚塩っていう土地を売らないという運動をしましたから、入れられなかった。予定地はあったんですよ。棚塩に。原発を建てる予定地があって、その予定地もダメだから今度は浪江・小高の間に作ろうってなっていった。そっちも作らなかったんですけど。幸せだった・・・恨まれてるかどうかは・・・国策にあらがったという意味では恨まれてるかは判んないけど、個人的見解が強いかもしれませんけど、やっぱり作りたかったんですもの。何十年も延期、延期、延期して現在に至ってるわけだから。最初の原発F1ができてから30年、40年近くなるでしょ。その間作らなかったんですよ。予定地はあっても。でも、この事故が起こる前に、墓地は移す段階に入ってたんですよ。高台に。
「いよいよかなー。とうとうダメだな。」
 運動する人どんどん亡くなっていったでしょ。舛倉さんも亡くなっていったし、団結が壊れてきたのかななんて思ってた。個人的にだよ。
 それで、こういう事故を起こしちゃったわけだから。
 だからやっぱり国も東電も、やっぱりあそこで舛倉っていう人と反対運動してきた人居るでしょってなってると思います。
 棚塩の原発がどういう計画かわかんないですけど、最終的には東北電力のほうにいく形で作るというふうに聞いてますけどね。
 一応東電が最初。全部田んぼ持ってる人にお金をやって、親子げんかをするとか家族ばらばらになったとか。息子らは教師してる夫婦は反対したけど、ばあちゃんが売っちゃって自分の名義だから売っちゃって、そのお金は自分らはもらえないで、娘息子らに送ったという話とか、そういうのは聞いてますけど。
「結局売ったんだよ」
とか言ってた。
 お金は怖い・・・。
 でも東電の人らは、こういうふうにほっぺた引っぱたくといったらそうじゃない。「与えるんだよ、札束で」と言ったんだけど、こういうふうにやられれば弱いという、人間が金に弱いというふうに思いたくないけど、やっぱり無いよりいいものねって思ったのかなって、私は思うんですけど。
【その後の避難生活】01:17:00頃
 15日の午前中、早い時間だったね。記録はちょっと書いたんだけど、それは置いておいて、役場職員が二人来まして、
「今からまた避難をお願いします」
「なにあんたら言ってるの?ここ何回目避難してきてるの?私は最初に90㎞以上に避難すべきだって考えてたんだよ。でも浪江町も役場も混乱してるでしょうから、我慢していたけどそういうことやっちゃだめだから、また移った時に避難しろってことじゃないかぎり、動かないよ」
って言ったら、
「いや、お願いします」
ってもうそれだけだった。
 それでみぞれの中を今度は二本松の東和というところに浪江町は全部避難。そこも放射能高いとこですから、そこに皆で。ばらばらですよ。でも。東和の私らは第一体育館ですが、いろいろな所の指定で全部行くようにばら撒かれましたね。もう東和っていうのは二本松市にあるんですけど、その隣が本宮市になります。その隣が郡山市になります。本宮市の上に大玉村っていう村があるんですけど、大玉村は本宮市と合併しないで頑張ってて、本宮市は日本一小さいんだか、福島県内だかの市だそうです。その本宮市に住んでいる友達と初めて電話が通じました。
「電気も水道も大丈夫だから、すぐ来なよ」
って言われて、19日の朝スタートしたんですが、起きて雪。車も道路もいっぱいでした。雪をはらって、夫がやらないから私が自分でやって偉いでしょ?<笑>
「新聞も持っていく」
「汚い!放射能だから置いていく」
とか言って、新聞を別に廃棄にして、そして車で一目散に本宮という友達のいる町に・・・一路来ました。そうじゃなかったら、私、藤和に居たら死んでたと思うのね。肺炎になりそうになってた。自分でわかるのね。薬は持ってなかったし、これはまずいかもしれないなと思って、「じゃあ行かせて」って本宮の友達のところに来た。
 本宮の友達のとこに行ったときは、もう何カ所目になったんだろうね。うーんと、いこいの村、津島、東和、本宮で4ヵ所ですね。そのとこにはいつまでもいられないでしょ。それで、妹の子供たちが飛行機の手はずをして、切符を。福島空港から出るチケットを確保できたんですよね。それを持って19日。だから、友達の家には16、17、18泊まって、19日に福島空港から神奈川県の相模原に移動しました。
 羽田に着いてバスに乗って、相模大野のところまで着くバスだったのでそこに妹の亭主さんが迎えに来てくれて、それで妹の家に行きました。
 ほっとしたのを覚えてますね。羽田に着いた時。放射能から少し離れたかもしんないし。ただ、あまりにも周りが電気は少し皆抑えてましたけども、付いてるし・・・。エスカレータも一個くらいは動いてたのかな。バスも普通に動いてるし。
「あぁ・・・原発は遠いんだ」
っていう思いを覚えてますね。
「なんだか情けねぇわ」
と思って・・・。
Q.情けないとはどういう意味ですか?
 情けないって、そういう悲しみを共有できない。東京・・・全部電気は東京に送ってます。東京、神奈川でしょ。その電気を送っている地元の人間が、この苦しみでやっとの思いで逃げてきたわけだから、それを感じてる人はもちろん居ると思いますよ。後で美容院に行ったときにその話したら、
「初めて勉強しました。」
とか。
「日本に54基も原発あると判ったし、ちっちゃなとこだけど家に引っ越してきてもらってもどうだろうと娘と話し合いをしてました」
とか。相模原に居る間にね、妹の家もいつまでも居るっていうか、1日中いるっていうのは???じゃない。でもちょっと私は出たくなかったんだけど、とにかく気遣いがあるから出て、図書館に行ったんです。新聞見られるでしょ。いろいろ情報・データが。それを見に図書館に行ったりして過ごしてたんですが、帰りタクシーで帰るんですね。バスで疲れるから。だから、初めていうんですけど、そのタクシーの運転手さんがしゃべってる。
「いや、実は僕も岩手なんですよ。」
「あら、ご両親住んでたの?」
「でも高台だったから、津波には遭わなかったんです」
っていう話で着いたら、はいってお金払ったら、
「要りません」
って言うんですよ。
「いやいや、乗せてもらったんだから取ってください」
って言ったのね。
「いや、いいです」
って。なんかどっちにしたらいいのかなって思って、
「じゃあお言葉に甘えて・・・」
って言って、なんかすごいね、ほわっとした感じね。お金の額とかそういうんじゃなくて、そういう東北の人間と出会ったっていう思いかな・・・と思ったんですけど。そんなことをして。妹のとこには18日からいました。
 相模原の妹の家っていうか、ほとんど毎日出て図書館にいってましたので。見たくて、原発の情報と・・・放射線量出てましたでしょ?それを見たくて行ってたんですが、
「帰れないな。これは浪江に戻れないな」
というのが結論です。私の個人的なね。
 だから出るときから思ってましたから。でも、みんな大体「避難しなさい」のときは「2,3日で帰れる」と思ったそうですけど、それはありえないことだから、私はもう帰る気もないし帰れないなと思って過ごしてました。
 先のことなんか考えないで、「帰れないな」だけだった。
 ただ、その時思ったな。「感情が殺されてる」って思ったのは、花を見ても、あの頃ね、チューリップとか花が咲き始めたんですよ。桜も咲いてましたしね。それ見てもね、「あぁ咲いてんだ」ってだけなんです。「あぁ綺麗」とか「うちの庭のもこうだ」とか全然思わなかったですね。
「あぁ、今咲くんだ」
っていう感情で涙も出ないんだから。そのうち転んだんですよ。足に怪我して。治癒まで5カ月かかったんですけど、骨は折らなかったんですけど、傷が骨と皮のとこだったので塞がらないので、医者に即行って、今度は妹のところに居られないから、同じ相模原の弟のところに移ったんです。それで5カ所目になるでしょ。そこに1ヵ月くらいいたかな。4月の最後の日まで居まして、それで毎日医者通いです。弟の連れ合いに毎日車に乗せてもらっていってました。都合悪いときはタクシーで通ってたんですけど。
 とにかく相模原は4月30日まで居ました。避難をしました。
 私の心象風景までは考えないで無我夢中で生きてきたのかなと思うんだけど、出たくない。外に。買い物に行きたくない。でも行かなきゃいけないから、世話になってる身だから、弟の連れ合いと一緒に車で買い物は一緒に行ってました。病院と買い物だけは。そうすると、外の空気と太陽にあたれば、少しは晴れるかなっていう思いでいたんですね。花も咲いてるのは変わらなかったんですよね。そんな具合しか思い出せない。とにかく傷を治さなきゃ動けないと思ってましたから、そのことでいっぱいだったから。
Q.ご主人はへこんでました?
 夫の心理も自分の心理も分析してないの<笑>夫の心理までわかんないけど、一つ変わらないことは、毎日飲んでましたね。はい。その手はずは全部私がしました。バカなんです<笑>連れ合いなんですね。だって動けないから買っていかなきゃいけないでしょ。あと水は必ず買ったんですが、1本しか買えませんでしたね。相模の方もね。
【ご主人は原発についてどのように考えていますか?】01:26:30頃
 それは普通の人よりあったと思いますし、いつも言ってるのは、『人間が作ったもので壊れないものはないから』ということは言ってました。
 夫はね、私が反原発やってるのは判ってたし、賛成ではないのは判ってましたけど、一緒に・・・集会に行くとかなんかはなかったですね。あのエリアが違ったんです。私は双葉郡勤務、夫は相馬郡に通ってましたから。そのエリアも違うし集会も別の場所ですかね、それぞれね。双葉郡で双葉のところ。相馬郡で相馬のところだから、そっちのほうの集会には出てたと思います。頻繁ではないと思いますけど。それぞれに関わってきてましたけど・・・
Q.温度差あったんですか?
 あったのかなと今思う。温度差は夫と私の反原発運動の温度差・・・、反対は反対だけど、私は個人的にいえば、「勉強しねぇからもうちょっとしろよ」って感じでおりました。私ほどは、今いってませんから、そういう面では違ってるのかなとは思ってますけどね。
 夫との会話交流を考えれば、まぁしゃべればね、衝突が多くなるから、あれもそれを考えてあんまり話しないし、飲んでた方が楽しいし、テレビを見てた方が良いから<笑>ね?静かにして。もちろん、妹のところも弟のところも気遣いあっていったと思います。私以上にね。私の方の兄弟だから、彼はやっぱり気を使う人で、そういう面では気遣いはあったと思っています。
 原発の避難に関しての語り合い、話し合いに関していえば、しなかったですね。全部私が決めてたんじゃないかな。今にして思うと思いますけど。
「だって素直にっていってもしょうがないから」
って、もう確認しないけども、全部一緒に行動したのも。だから、「こういう時は妻に従った方がいい」と思ったか、「いや俺の意見があるんだけど、お前が聞かねぇと思って言わなかった」かは確認しておりませんので、心の中は読めません・・・です。勝手に思いました。
Q.力関係がよく判りました。
 やめてください<笑>
 今避難の件はちょっと語ったんですが、彼が唯一言ったのは、
「役場が離れててはダメだ。」
といいましたね。避難途上も郵便局の手はずをやったとかっていうのは、彼がやってましたけど、ご飯は私ですけど。やっぱり役場がある近くに行かなきゃいけないということになったんですね。二本松に浪江の役場が開きましたので、その近くっていうことで本宮のさっき言った3日間お世話になった友達と相談をしようと思って、あんまり早くいっちゃ悪いから置いておいて。
 私ら職員の磐梯熱海というところに泊まるところがあるんですね。宿泊施設、温泉もあるんです。そこにね、傷もまだ治んなかったけど、私が疲れてたんですよね。心身もどこもかしこも。それで、じゃあ近いから役場に行きたいとなれば行けるからということで、浅香壮というところに1週間宿とったんです。
 それで、郡山駅まで友達迎えに来てくれて、車でそこまで行ったんですが、着いた次の日、1日二人ともご飯も食べないで寝てましたね。判んないくらいぐうぐうと。そこに居る間に福島県の避難してく手もいい地域の元先生3人集まってくれて話して、そのうちの一人の人が、
「娘たちが大玉村(二本松と本宮のちょうど間の辺り)っていうところに山荘があるからそこに住みなって娘たちが言ってくれたから」
で、そこい行って「あ、良い」っていうことで5月7日にそこに移動したんです。そこからまたそのところから行動起こして、医者通いと役場の用事をしましたね。メインがそれだけですね。5か月くらいはそこにいて生活しました。
【仮設住宅】01:31:45頃
 結局根無し草だからね、避難の身は。だから大玉村からここに来たのは簡単な理由。大玉村からここ本宮の仮設に移動したのはとっても簡単で、大玉村は雪が深いんですよね。買い物には20分くらいかかるとこだから冬は無理だと。仮設住宅の前に借り上げも検討したんですよね。探したけど、まぁ一か所しか同じとこに行ったから悪いのかもわかんないけど、建て主さんが借り上げを希望してませんということでダメだった。帰って良かったのかもしんないですけどね。ここ、本宮の仮設に入ったほうが良かったのかもしれません。
 というのは、県会議員とか国会議員は来て、1週間くらい泊まればいいんだー!とか大きいこと言ってた時、自分も泊まってなかった。うん。生活してなかったから、まぁ・・・橘はね、仮設に入ろうっていうことだったんで。その大玉村からここの仮設に・・・
「私も仮設に行くなら離婚すっかな」
と思ったくらいに、すっっっごい悩んだんだよ。でも「絶対仮設に行くなら離婚だ」って朝霞壮に来てた友達に話したのね。
Q.なんで嫌だったんですか?
 見てきたもん、四畳半二つだっていうことと、入ったとこ狭いでしょ?だから、戦後ね、苦労して自分で頑張って作った家がね・・・広いんです。でも、ここにきて
「あぁ、歳取ってからは狭い方がいいんだ」
って自分をそっとしてるから、それはそれでいいんだけど<笑>ほんっとに真剣に考えて友達に言ったら、
「やめなよ。もうね、ここまでいたんだから、まずとりあえず試しに仮設に住めば?それから次の段階に考えるべきでしょ」
って言われたんだけど、
「でも入るって話はないじゃないか」
 本人は言わないのよ、判んないけど<笑>無駄じゃん、相談しただけだから。それで「そっか。」ということで、福島に来るのもも賛成して、二つ賛成したから、すごいよね、譲歩したんだから。今までしなかった、ずっと<笑>
 それは突き詰めると「なんで仮設なのよ!?」っていうふうに橘には何回か聞いたんだけども、役場が近い・・・あ!あともう一つ。病院が近かった。現職の時倒れてますから、8分以内で搬送されたから助かった命なので、心筋梗塞で学校現場の・・・朝倒れてね。それで近くの病院で命拾いしたから、避難の途上も私、医者さがししたんです。戻ってきて最初にかかった足と心臓があるから、この本宮の病院だったので、それが動きたくなかった大きな理由だと思います。
 友達の3人のうちの一人は、「マンション買えばいいべ」と言ったから、「無理です!」って言ったの。無かったの、お金。そしたら黙っちゃったのよ、その彼女ね。
 橘は私よりお金持ってるんですけど、知らないんですけど、「まぁ無理だよな」っていうことで、今この年で土地を買ったり家を作るっていうことじゃなくて、良い風に残された人生を過ごすかを考えた方が良いよねっていうことで、うちは今のところは家も土地も要らないというふうな考えに至ってます。
【福島県外に避難して暮らす考えはありましたか?】01:35:50頃
 とってもEasyな考えなんですけど、なぜ相模原に行ったかっていうのも言わなかったんですが、たまたま妹が帰ってきてたんですよ。私の実家の、私がある家の浪江町のすぐそばに母の家があったんですが、そこに帰ってきてたのね。それで避難をするようになったので、居ただけ。
 私は福島を出たくはない・・・出たくないっていうか、
「どうせこの歳で30年で出るんだから、死ぬからいいや」
って言って戻ってきたんです。基本的には。福島に。「良い?」って聞いたら「うん」って言うから。
 それから、家のことさっきちょっと言いましたけど、家を最初建てたかったんですよ。根無し草でしょ?建てたいっていうか、このちゃんとしたとこを欲しいなと思ったから、考えたんですが、でも地震学者の人の資料を読むと、2年、または5年以内に起きるって言ってますよね。M7~9の間ね。そしたらどこにいてもいいなと思って、
「福島県に来たんだから、地震があったらしょうがないんだな、諦めの人生だ、私は今までの中でもずっと諦めてきたから、まぁいっか」
といって、仮設もOKだし、もういいということですね。
【92歳のお母様は現在どちらで暮らしているのですか?】01:37:20頃
 弟のところに行きまし・・・母はですが、認知だから、大熊町の特老に入ってたんですけど、テレビでも出たからわかると思うんですけど、避難途中に十何人亡くなった病院なんですよ。それで、自衛隊に救出されて、最初いわきのある高校の体育館に行って、それから会津の病院に運ばれて、その避難の途中はどこ探してもなかったんですけど、弟はインターネットあるから探しなよっていうことで探したら、どうも会津に行ってるよっていうのが判って、会津に行って私も2回くらい面会行きましたけど、この部屋に居たら死ぬなと思ったから・・・。
 話は前後しますけど、私、辞めてからずっと母を見てきましたので、父の年金が結構あったので、「全部弟にやるし母も引き取ってくれ」と。私はこの状況では見られないからということで、全部貯金も何も置いてきたし、再発行ですけどね。
 それで、こっちに来て面会に行って、ちょうど直してるとこだったんで、暗い部屋に8人くらい入ってたんですよ。あの・・・ごめんなさい。会津の病院に運ばれて、病院に面会に行った折に、その病室が・・・暗くて太陽の光が入らないとこだったから、
「あぁもうすぐ死んじゃうな」
と思って、弟に、
「とにかく交渉して、病院を変えるようにしなさい」
といった。姉に怒られるからってかずけたんだったけど、芦ノ牧というところの温泉病院の方に移れたんですね。そこはリハビリ専門ですっていうんですけど、武田病院とか運ばれたときは、車いすに座ってられなくて、こういうふうにひとりでになってたのが、もう2か月居て、ちゃんと車いすに座れて食事もできるようになったんですね。3か月しかおかないんですってね。後で友達に聞くと。それで、相模原のほうに移動して下さいって言われて、相模原の介護のタクシーを頼んで、弟のそばの病院に移動しまして、現在認知でありながら、92歳で「新聞をとれ」って言うようになったんだって。それまで復帰したって。環境がね。
「『俺は朝日しか読まねぇんだから、朝日をとれ』って言ったんだ」
って手紙をよこしました。元気だそうです。
 おかげさまでね。私も面会に行きたいんだけど、そういうわけで人ごみがとてもまだね、抵抗があって・・・まだダメだなってことでまだ行ってません。
【息子さんは現在どちらにいらっしゃいますか?】01:40:20頃
 息子は、要するに上司とけんかして浪江町に居たっていうのは後で判ったんですよ。辞めてきてたわけです。
Q.あの、息子さん埼玉にいるんじゃなかったでしたっけ?浪江にいたんですか?
 引っ張ってきたって言ったでしょ?さっき。もう東京では生活できないから、安月給で。だから浪江に来いよっていって来たんです。それで別のところに居たんです。私ら夫婦とは別のところに居て、それで柏崎に派遣の社員で行ったでしょ。そこで上司とけんかをして、3.11の1,2週間前かな。浪江に戻ってたんです。それが後になって判ったんですよ。うん。避難経路は全然別で動いてました。それで現在が埼玉県のこばとっていうところに居て。
 避難した時に古館さんの番組に出たんです。「なんか出てくれって言われたんだ」って、私は何も言わないで見てましたけど。
「??もやんねぇかな」
とか思ったんですけど、一応言って。それで見て元気なのは初めて見た。顔は。それまで全然電話もなく。埼玉県の県営住宅が借り上げで埼玉県の配慮と幸運によって、今のとこ無料で入れるって言ってました。そんな新しくないけど、息子の再就職とか人生、ちょっと電話でだけど、まずけんかしてきてるでしょ。だから上司からの声もかからないし、同じ双葉郡の雇用主さんも避難しちゃってるし、会社無いですよね。そういう意味ではなかったし、彼自身は
「こういうことあったから、人生の中で常に休んでるようなものかもしれないけど、俺もう少し考えてみる。だから、たいした貯金もないけど、ここ数年は大丈夫かもしんないから、このままでいるよ」
って。
「それでいい。人生はわかんないからこういうことあんだから、生きられるうちは楽しく生きたほうがいいよ」
っていうことで、判ったということになったんです。
【息子さんと一緒に暮らす考えはありましたか?】01:42:40頃
 家族一緒の生活って、家族ってどこまでかもあるけど、息子は気遣い、夫も気遣いでしょ。私間に入る立場になるでしょ。だからそもそも考えてませんね、私は。橘も考えてないと思うし、息子も考えてないと思うから、そういう面では暗黙の了解があるんじゃないかなと勝手に理解してるんですが。
【今後の暮らしについて】01:43:10頃
 あの・・・でも人生狂ったんでしょ。私やめて、そろそろちょっと外国にも行きましたけど、もうちょっとゆっくり滞在期間長くして外国行こうかななんて思ってたんですね。というのは、辞めた年、2012年に肝臓を悪くして3か月入院してたんですね。だから、命ももらったし、ちょっとゆっくりしようかななんて思ってたんですけど、できないままにこうきたから、もういいやと。時の流れに身を任せて、ここは2年くらい入れるんですよね。一応ね、国の決まりは。でもみんな浪江の町民ですから。114あって50数軒ですから、まだね。税金もったいない話ですけど、だから、その時に土地と家を考えられない。だから、まぁ見て、地震の状況もより判ると思うから、2年でね。3月で1年で、1年郡山で集会ありますから。それであと1年見てね、原発の状況もわかるでしょう。野田総理は収束宣言なんてして
「ふざけんなよ!」
ってテレビに向かっていってましたけど・・・。
 私がテレビに向かって、
「野田さん、来て見もしねぇで何言ってんだ!収束或いは冷温できるわけないんだから、そんなこと言って・・・なんだろなー」
って情けなくてね、それのみですから、新たに浪江町復興議論してます。浪江町も。私の同級生もその会議の一人として「こういうことになった」とかいってきてますけど、両方の意見。両方の意見っていうのは、
「帰りたい人は帰ってもらえばいい。線量低い所はあるから。私は帰る気ないから、それは言わないけど「帰りたくないよ。もう浪江はいいよ」っていう人のためと、その他の人とかいろいろな考えがあるはずだから、それを聞いて復興委員会で議論してもらわないとまずいよ」
って言ったの。うん。
「それなくして、ただただ復興は町に帰ることだけを言ってるような復興委員会は意味ないよ」
とは言っておきました。
【浪江町に帰りたいと思いますか?】01:45:30頃
 浪江町には、帰りたい、帰りたくないっていう思いがあるんですが、どうしても一回帰らないと置いてきたものがあるんですよね。大事なものっていうのは無いんだけど、持っていきたいなと思ったので、それでこの線量計をかけさせられて町に入りました。
 私は家の中だけの仕事で帰ってきたんですが、その時は3マイクロシーベルトですね。夫はちょっと外に出たのね。4ですね。4マイクロシーベルトあって、
「あぁ、やっぱり高いな」
と思いました。でも他よりは低いっていうのは皆ね、データとか一回帰った人とかは言う話。もちろんあんまり友達とか同級生とかいるけど、あんま話題にしないね。ただ同級生には、
「あんた帰ってなんぼあったん?」
「6あった!」
とか、こないだ2回目とか3回目帰ったら
「12あった」
とかいう数字だけで、あとの人たちはね、おおらか?良い表現でいうと。うーん・・・。だからそこが難しいな・・・。選挙にも負けるよ・・・。選挙に負ける。反原発の、脱原発の候補者立てたのね。でもダメだったけど。うーん・・・。
Q.町長選?
 議員。浪江じゃなくて県会議員。県会議員の選挙で、私の後輩教師だったんですけど、その人を・・・
Q.おけいさんっていう?
 NO<笑>あの人は福島市の在住。私の友達が県会に立候補するっていったのは、夜ノ森に居る人で、一緒に反原発やってきた人で、遠藤ようこっていう人ですが、結構頑張ったんですけど、3000票くらい、3800くらいでしたね。トップはやっぱり浪江の吉田議員さんですから、ダントツで・・・。
 変革は無い・・・あるのかもしんないけど、その数字だけ見たら、そんなに人間って変わらないよなっていう思いは強くしましたからね。おおがさんもそうでした。
Q.おおがさん?
 今日会った人。
 あ!おおがさんがね、ある本に私もその前書いてたんですけど、彼女もなんか選挙のこと書いてました。まだ着いたばっかりで読んでないんですけど。その後とかって書いてあったから、負けたこと書いてあるのかなとは思ってはいるんですけど、変革っていうのは、100年かかんないとダメだよね・・・。
 ただ不思議に思うのは、皆さんもそうかもしれないけど、戦争で三国同盟っていいますか、ドイツとイタリアと日本でしょ。二つの国は反原発宣言したでしょ、早々に。福島原発。日本は何もない。「なんなんだろう、この国民性は?」っていうふうに思ってますよね。それがどうしても理解できない。
 あとの歴史家が解くのかどうか分かんないですけど、故郷の言葉を考えるとき、やっぱ一応故郷はかけがえがないところだと思いますね。私が浪江に住むって決心した、終の棲家とすると決めたところですけど、そこは家を建てて30何年くらいになるんですけど、もともと親もその地域だったから、そこにしただけですけど、なんかそういうものって儚いんだなとは思ってますね。
【二度の棄民】01:49:30頃
 国にね、国策で二度棄民にされたと思ってますから。
 1回目はね、戦争でしょ。勝手に日本の国を広げたいということで人の国に入っていって、俺の国だと言って満州国という国を作ったわけでしょ。そして戦争が終わったら、私らの満人の屋敷人に、軍に勤めてた人だったかな、陸軍っていったかな。その人たちは終戦の1週間か10日くらい前に小さいながらも引っ越しをしたんだと思った印象があるんですけど、それこそゴミまで持って日本に帰ってきたのよ。わざわざ知らない民衆は、満州に行ったそれこそ国策で行った人たち、もちろん仕事もあったし農家の次男坊が多いって言われたんですけど、そういう人たちみんな置かれて、満蒙開拓団にもやられたわけですよ。私らは満蒙ではないからね、そういう意味では命があって帰って来たけど、そのあと何の手当もないでしょ。それがまず一回捨てられたでしょ。
 原発も同じですから。
 原子力発電所は皆さんお勉強なさってる方は判るように、中曽根さんと正力松太郎さんのお二人で進めてきて、現在に至ってるわけでしょ。この地震国に54基もの原発を作ったという、その政策をやってきて事故が起こった。なんかこんなぬぐっているように見えるのね、私はね。そうじゃないといわれたらそう・・・。
 そういう意味で原発政策っていうのは、国を豊かにするとか、国益だとかいう名のもとに、それからもう一つ、「安心、安全だ」ということでやってきたものだから、国策だって私はとってます。あれだけ作ったのは国策でしょ。54基も。
 というふうに捉えてますけど。
 いつも皆に言っても、なかなか理解してもらえないというか、してるのかどうかもわからないし、確認もしないできたことは、私が二度棄民にされたんだよって話をするんですが、その1度は戦争。満州から避難してというか、避難でなくて逃れてというか。酷い想いして生き残って帰ってきたとき、国は何も面倒見なかったですね。それが1回目の棄民体験者と思っています。
 2度目の棄民は、今度の福島第一原発事故によって、避難も教えられないままに浪江町民の一人として、避難の情報もないままに、避難の地を転々として現在に至るっていうことは、やっぱり2度目の棄民だろうというふう・・・国策でやった・・・生じた棄民だというふうに、常に思っていますし、言いたいと思ってます。何書く機会があったら書きたいと思ってるんです。
【以上】

失礼します。
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