※この記事は、2月27日 【内容起こし】IWJ百人百話 第44話 菅野吉広さん~渡利の子供たちを守る会代表~『僕と妻に避難する勇気が足りない・・・』に関連しています。

【動画】2月28日 百人百話 第四十五話 橘柳子さん
http://www.ustream.tv/recorded/20753664 (114:46)


【以下、お時間の無い方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2012年2月2日収録
【自己紹介をお願いします。】
 名前は橘柳子、たちばなは一つの文字、りゅうこは柳の子です。なぜ柳の子かというと、生まれが満州、大連だったものですから、柳の多い町だったそうです。それをとって柳子にしたというふうに母から聞いております。
 年齢は1939年生まれです。ま、仕事は長く子供とともに生きてきた教師という仕事をしてました。現在は、年金生活をしております。こんな状況になったとき、変な言い方ですが仕事がなくて良かったのかなと。職場を気にしないで避難を続けられたからというふうに考えております。良いか悪いかは置いておいて。
 子供は一人です。埼玉のほうに避難をしています。
 現在は夫とともにこの本宮の仮設住宅に10月に来ましたので、3か月なんです。
 住まいは浪江町というところで、ここの仮設に来た時で9カ所目の避難を続けてきました。転々としました。

【生い立ち】
 生まれは大連、満州国の大連。引き上げの時には、ハルピンというところにおりました。それで終戦、1945年は小学校入る時だったんですが、終戦が8月で日本の大陸、内地っていうんですけど、着いたのは11月中旬くらいだったものですから、両親はそれまでの期間を学んでないので、小学校に入学させるかこのまま来年の4月を待つかと悩んだんですか、やっぱり待とうということで、皆さんより1年遅れで入学してます、1939年生まれですけど1940年、41年の人と同級になります。
【ご両親について】
 両親は福島県生まれです、どちらも。父は南相馬市の小高区というところの人間です。母はやっぱり小高区なんです、今でも。今でもかな?小高区の浦尻という浜のところで生まれました。やっぱりここも警戒区域です。でも、満州に行きましたので、結婚と同時に。20代にはもう満州に渡ってるということです。
 どちらも、父も母も実家は農家です。ただ、母のほうは海のそばだったから、母は小さいころよく魚が揚がるところは見て売ることのできない小魚等と食べたと。従って私は90になっても歯が丈夫だと言って認知になってますが現在生きております。92歳ですが。それで、結婚はあまり詳しくは聞かなかったんですが、とにかく20代で結婚して即満州に渡りました。
 というのは、あの時代は農家の次男坊は日本の貧しさゆえに財産を細かくしないということで、大陸に国策として渡るような政策だったので、大連のほうに行って、満鉄というところに勤めました。その・・・こういう言い方はいけないんですが、当時日本人は中国の人たちを満人と呼んだんですね。満州国だから満人の大家さんの広い敷地に住んでおりましたね。それは覚えてます。
 あと小学校入学の学校はまた別なんですが、その時の印象が一番強いのが、終戦の日。8月15日ですか。あのラジオ放送があるときに、うちの母がなんかね、
「大変大事な放送があるから、静かに聞かなきゃいけないんだ」
ということで、そのときラジオありましたからね。それで、みんな聞いて大人が泣いていたのを覚えてて、私はそんなん判らないというか、そんなね、どの時代のあれかもわかんないけど、外を開けてみたらすごい空が青くて、太陽が照ってたのを覚えてます。それくらいかな。
【満州】08:00頃
 寒かったですねー、もうだから寒いのが嫌なんです<涙されてます>。それで本宮の仮設もその寒さが似たような肌に刺さるような寒さと痛さがあるので、「また小さいときに戻ってしまうんだな、これ」というふうな考えで、今過ごしております。
 終戦の何日か後か判らないですけど、ある港に終結の命令が出たんです。終戦の時の何か月間か、満人の中国人の経営している貸家にね、何か月かおりました。その終戦のとき、父は会社に行くなといったのに行ったために抑留されました。ロシアに。それで、どのくらいいたのかな・・・。もう女だけでね、母と私と叔母も来てたんですよ。満州国にね。それで3人で行くしかないなと思ったら、ある朝帰って来たそうです。その酷い格好で。そして一緒に行って食事が違ったので、おいしいものを食べたので体全部にできものができたんですよね。それでそれをその時動かないで今思えば良かったのかもしれない。治るころに、何ていう港か忘れましたけど集結しろという指示が来て、それで港に行って。発行したものがあるんですね、日本国っていうこと、日本は侵略国で侵略した国から日本に帰るわけですけど、なんか証明書を皆持ってたみたいです。港に終結した時に、うちの母がそれを入れてたのを失くしたので大騒ぎしたんですが、再発行してもらったということで、無事にその船には乗ることができました。その前に船から集結したとこから船だったか何だか、私が覚えてるのは無蓋車に乗せられたんです。無蓋車っていうのは、一切なくて下の車輪も見える。ほろが無い。全部外側のほろも下の床も無いから、走ってる時は車輪がもろに見えて、落ちたら死ぬなって小っちゃいながらに記憶したのは覚えてます。
 やっとの思いでなんていう港かわかんないけど集結しました。その間も歩きましたから、とっても長い間荷物を背負って、「なんでこんな思いをしなきゃいけないのかな」っていうふうに思ったのだけ覚えてます。
 夕日はあんまり覚えてない。ただ終戦の時の太陽がただ輝いてたっていう日、太陽の光はそれくらいで、あとはどこまでいっても平原があるということだけは印象にある。列車に無蓋車にね、ほろの無い汽車に乗っているときも、ずーーーっとどこまでも。引き上げの時にやっぱり、私らは良い方ですから。でも、満蒙開拓団のような方たちは隠れたでしょ、襲われるから。「隠れるとこないな」って思いました。っていうのが、唯一その記憶ですけどね。
 満州に居た時は私だけです。内地に帰ってきて弟と妹。弟は8歳下。妹が10歳下のができまして、兄弟っていっていいのかな。あんまり離れすぎてるので、いろいろな経過があったので、私が親みたいにした部分もありますね。はい。
【引き上げ後の生活】12:10頃
 まずね、浪江に降り立ったのを覚えております。今まで住んでいた浪江というところの駅に降り立ったのは覚えてまして、そこからうーん、3,4㎞離れたところにうちの母の実家がありまして、リュックを背負って親子3人とプラス叔母で4人で歩いて、母の実家に行きました。その時の記憶は、田んぼでね、稲のなんていうのかな・・・稲わらみたいな細かいのを炊いていた煙が上ってたのを覚えてますね。
 母の実家は農家だったんですが、少しは手伝ったとは思うんですがそれでは生計というか家族は養えませんよね。それでラジオの・・・あの当時みんなそうだったんだかどうか分かんないですが、私の記憶の中では、塩焼って判りますか?海の塩を汲んで、大きなのを作ってそこに海の水を炊いて、塩田にしたのかな・・・?火をガンガン焚いて、そして頃合いを見て塩にして、その塩を売るんです。東京に持っていって売るんですよね。塩がよくいいんじゃないかって判断した理由は、統制はされてるけど、塩が足りなかった。それで飛ぶように売れたそうです。良いお金になったんだと。それで隠れて。列車の中も身体に隠すそうです。それを売って、利益を得たいくらかのものをラジオを買ってきたり食べ物おいしいもの買ってきたりしたと。
 そのラジオを買ってきたのは、私記憶ありますね。聞いてね、真空管のラジオが早い時期に私は聞いた記憶があります。
 うちの母のところに居たのは、小学校入学しました、1年遅れで入学したんですが、途中でね、小学校何年生、何学期?1年の時ですが夏休みの頃だったと思いますが、浪江小学校というところに転校しました。なぜならば塩やらなんやらで・・・うちを買いました。ちょっとした。そこに越したから、結局転校しました。
 浪江町は今、こうへいになっていろいろな区がありますが、旧浪江といわれてこんれんどうと呼ばれるとこで、我々が今回の原発事故で避難した114号線の沿線にあります。父も母もそういった洒落たといっていいかわかんないんですが、貧しいのにね、たまたま洒落た家を作った人が売りに出してたもので、それを購入したからそれで結構洒落たところに居たみたいです。それで私は子供ながら、良いのか悪いのか判らないけど、まぁ不便なく生活したのは記憶してます。
 平屋で木造で、瓦で。それで、ふーんと私が思ったのは、後ろに丸窓があったんです。普通四角い窓ですよね。だけどそこは丸窓があったり、あと・・・なんだろうな、ちょっと洒落てたような記憶があるんです。丸窓だけは鮮明に覚えてますけど。
 まぁそれで住まない状況また出てきたんですけどね。
【大陸気質】16:15頃
 私は幾世橋小学校入学ですが、その頃はね、大陸の気性がそのままですごく明るく元気な子だったんです。それで、私の名前をいえば判らない人は居ないくらいに聞かん坊だったようです。それでも今度は浪江に越してきて、まぁその時は大きいですから、幾世橋小学校というところは一クラスだったんですが、浪江小学校はあの頃は三つくらいあったのかな、四つくらいあったのかな。人数も多かったです。終戦後でしたから一クラスの人数が。そこに通ってた・・・でもだんだん暗くなった記憶があります。私が。うーん、なんか暗くなっちゃって、だんだん落ち込んでいったわけではないんだけど、変に目立つといじめられるじゃないですか。だからかな?とは思ってるんですが、まぁ・・・静かになっていったような気がします、浪江小学校の時から。
 幾何学の幾に、世の中の世で、橋、幾世橋小学校です。今はもうありません。
 詳しくっていうか大陸気質についてちょっとお話しておきたいかなと思うんですが、言葉ね。大陸気質って勝手に言ったんですが、日本と違って湿度が無いから、さわやかですよね。カラッとしてますし、それから当時恵まれてたと思います。私が大連に居た時はね。覚えてるのは、田舎からまた小学校上がるために大連に戻った時に、食事なんかとか観劇とかいろいろやってたんですが、両親は。食事はヨットクラブといって、フランス料理を食べたんですね。それを覚えてまして、すごいおいしかったんですが、田舎者だったから、こうやって食べられないでこんなんやって隠れてね。慣れるまでは食べていたので、うちの母に言わせると、
「お前は田舎の(今でいう小高区の)山の中から育って大陸にまた来たから、初めての味だったんだ。『あれ食う』って言ったんだ。『あれ食う』っていうのは、あれを食べたいっていうことで、魚の料理とかなんかを食べてたんだ、泣きながらも。」
とか顔隠しながらもっていうのは、よくしゃべってまして、その写真も母はすごく年取ってから、
「もうこれはアレだから」
っていって、私によこしましたけど。それは浪江に置いたままです。はい。
 そうですね・・・。
 大陸気質はそういったいろいろな条件と、それから慣れてきたから勝手に自分が言ってるということが一つ。二点目は、そういう苦労を内地に居た方の話ですが「苦労したから、強くて明るいのかな」っていうふうな言い方をされましたので、自分もそうかもしれないと思って今に至ってます。
【家族との生活】19:50
 うーんっと、私浪江小学校に小学1年の時転校して、4年の夏休みまで居ました。ところが、いろいろ生活している中で、うちの母が肺結核になってしまったんですね。「もう死ぬだろう」と言われまして・・・。
 話は前後しますが、母は死ぬだろうと言われたんですけど助かりました。当時ストマイ(ストレプトマイシン)という薬が出まして、一本打つのに米一俵だったそうです。両親が生きてたので出してくれたから生きたんですが、もう置けない、一緒に置けない。隔離しなきゃなんないから、それで私は4年生の夏休みを境に、私と弟と妹3人は父の実家、私が小さいときに育った父の実家に預けられることになったんです。それで、祖父も大変厳しい人だったんで、
「私の母は結婚したんだから、うちのものではない。従ってお前ら子供は、自分の父親の実家に行って生活しろ」
ということではのくらっていうところですが、そこの父の実家に夏休みを境に行きました。
 それで、そこの生活はやっぱり父の実家に長男が居て、長男の子供が4人いましたから、その長男の4人と私ら3人で子供だけ7人ですよね。そして、兄夫婦で9人。その両親がいたから11人ですね。その祖母が一人いた、曾祖母ですか。13人の生活になったので、
「お前ら兄弟は後で来たんだから、私の弟妹は、お前が見なさい」
ということだったと思うんです。はっきりは言わないですけどね。そこから苦難の生活が始まりました。
 まぁ、口で言えないようないろいろなことがありまして、気遣いがありますよね。人の家だから、幾世橋の母の実家の時はそんなに気遣いなかったし、私なんかちっちゃくていただけですし、私より一つ下の叔父がいたんですけど、それくらいであとはみんな大人だったから気遣いもなく、満州の生活をひきづったまま清々と生きてて、その後、いろいろな経過のあとであっちに行ったから、ちょっと・・・暗くなり始めましたよね。発言もしないでしょ、だんだんね。でも手伝いは一生懸命しましたよ。
 そんなことかな。それくらいかな・・・。
 浪江に来たあとはね、塩の頃はもう終わりますから、お店を開いたんです。で、昔の大名商売みたいに全然ダメな人なんでしょう、そういう利潤追求とかなんかなくて、お店は潰れました。
 店の中身は、食品。お菓子、雑貨は無かったのかな。お菓子とか調味料とか果物といった店を開いて、当初はね、とっても流行ったんですが、その辺は詳しくわかんないけど、夫婦の協力が欠けたのかもしれないし、だんだん廃れちゃいましてダメだということで、結局どういうふうな経過やったか、いろいろな仕事はしたようですけれども。それで、教員採用試験を受けるまでの間、引き取らなかったのか、私は幾世橋という母の実家に居たんですけど、やっぱり要因は病気だったんじゃないかしら・・・。
 父はすぐには引き取りたがったんでしょうけど、母が行ってからですね。引き取ったのは。だから小学校の6年までは私一人で、自分の希望でいたんで、あとの弟、妹は引き取りました。だから私だけが小学校を、今でいえば小高中学校金房分校みたいな名前を聞いた方は判る方もいると思うんですが、そういうところに通いました。4年生までは分校。5,6年は本校ということで、金房の学校に行ってたから、毎日4㎞歩いて通いました。下駄履いて。当時靴無いですから。あと雨の時は裸足で走って・・・。現代の2000年生まれの人はわからないんじゃないかな、というふうに私は考えますね。終戦のどさくさの大変な中できたということですよね。
 それが不思議なんだよね・・・。一緒になれたから本当は嬉しんですよね。でも親にも気を使ってね、私。
【気遣い】24:40
 ずっとだよ。両親に気遣うっていうのはすごい不思議だと思うんですけど、やっぱりそこは女と女の関係があるでしょ。だから、気遣いが優先しまして、はやくこの家から飛び出して大学行こうというふうに思いましたから、中学3年と高校3年の6年間だけ両親と一緒で、あとは大学行って就職をしましたね。
 うーん、女と女の気遣いと簡単に括ってしまったけど、私は祖母が好きなんですよ。母は知らないよ。聞かないからね。でも、柳子はばあちゃんに育てられたという愛情は、私が後で言ったんだけど、妹とは違う感じを受けるのね。僻んでみてるのかもしれないけども、そこの違いがあるから、しっくりしないと思ってますね。だから・・・あんまり言いたいことも言わない。ここまで我慢する。早く自分でこの自立できるようにしたいと、早く大学行けばね、仕事を得て自分で生きていけるかなって思いましたから。それだけ考えて勉強しましたね。
 結局ね、仕事の面で資格を取らなきゃどうしようもないというふうに思いましたね。何の資格っててっとり早くあの当時は教師の免許が一番ですよね。それをとるか、あとは貿易関係の仕事に就くかだったけど、どっちかわかんないけどとにかく免許だけはとっておこうということで、大学で教師の単位は獲得して免許取りました。
Q.貿易っていうのはどうして思ったんですか?
 外国行けるから貿易がいいかな?ってEasyな考えがあったのね。だからどうも大学卒業の時にじゃあ一生懸命探したかって、今のようにインターネットも何もないですけど、会社を訪問してね、「私に仕事をください」もしなかったから、それはダメな学生だったと私、反省はしますけど、でももしかしても英語がしゃべれないというか、自由にあの当時の大学に英語の入試はあったにしても田舎から行った高校生のハンディキャップの多いのには絶望したくらいにショックだったんですね。都会から来た大学の友達と本当に田舎から行った、そういっちゃ失礼なんだけど高校の英語の教師でも免許無くても教えましたからね。
 そういう形で習っても優秀ならできるんです。私は優秀じゃなかったから、やぱりきちっとした先生に教えてほしかったなって後で思いましたけど、そういった意味では大学に行って「英語がダメだから貿易関係は諦めよう。でも免許をとったから教師かな」というふうな、またどっかEasyなとこあったのかなと思って教師になりました。
【東京での生活】29:10頃
 東洋大学の英米文学科っていうところに行きました。
 バレバレだな。東洋大学も。今はね、柏原で有名になって騒いでますけど、東洋大学しかいけなかったの、多分。それで東洋大学の英米文学科に行って、東京の生活は、当時ほら、なんぼ教師でも賃金安いですよね、あの当時ね。上野動物園の馬鹿の給料って言われてたんですよ、当時。馬・・・バカの馬鹿のエサ代くらいしか先生っていう職業のお給料はもらえなかった。両親たち。我々勤めた頃も一万ならなかったですから。
 だから四畳半に二人で生活しましたね。東京に出て。同じ高校から行って、もう一人は東洋大学の国文科に行ってる彼女と二人で生活しました。途中、ちょっとわがままになってきて、3年くらいから別々の部屋で四畳半を一個ずつ借りられる仕送りも言って、親と交渉して、それで送ってもらえたので四畳半生活はできるようになった。隣同士ではありますけどね、本当、大学4年間で教員免許を取りましたので、田舎に帰ろうかなっていうのは、やっぱり合わなかったんですね、東京の人ごみが。だから、電車に乗ったのは常磐線を7時間かけて・・・田舎から行った場合、常磐線を7時間かけて上野について、上野から山手線に乗って駒込駅で下りて、駒込駅から都電に乗って下宿に帰った。それ以外はね、出なかったです、あんまり。近くは大学へは通って行きましたから。白山にありましたから、東洋大学ね。それで徒歩で行って。
 みんな「東京詳しいべ」とかいうけど、銀座も行かない、あんまりね。誰か友達が行きたいって言ったときは行くけど、服部時計店とかなんとかライオンのビルとかそういうとこは行かないんですが、ただ自動車の免許取りたくなって、サンアイっていうとこがあったんですが、あそこでバイトしたんです。時間給ね。そのバイト料で大学3年の時自動車免許取りましたね。それ以外はどこも出ないでおりました。
 山手線で駒込降りて、駒込から八重洲口っていう都電が走ってたんです。途中の駒込駅だったと思うんですけど、吉祥寺っていうお寺があって、八百屋お七のお墓があるんです。中央線の吉祥寺と別の吉祥寺ですね。その吉祥寺のお墓のある前の下宿に住んでおりましたから、環境は良かったんです。静かで良かったんですね。
 教師の採用試験を受けて受かって、最初学校はいわき市の四倉中学校というとこで働きましたね。でも、通えないし下宿も嫌だから転任させてもらって、記憶が途切れてるんですが、双葉郡の中学校にほとんど歩きました。あとはほとんど双葉なんですね。いわきに最初の学校行って、あとは双葉郡内の中学校にほとんどいました。
Q.お住まいは?
 浪江町。まるで結婚しなかったので、浪江町で両親と住むようにしました。四倉の学校から戻った時はね。下宿代かかる。
【結婚】33:30頃
 自分のことはしゃべりたくないよね。墓場まで持っていきたいこともあるからね。だからどうするかなと思ったけど、とにかく最初の夫とは合わなくて離婚しまして、息子は最初の夫の子供ですよね。その子を引き取って、仕事してたから、引き取っても生きていけるっていうか、生きてきましたよね。それで今の夫とは、やっぱり同じ仕事ですので、そういったことで知り合って一緒になりましたけどね。
 24くらいかな。23じゃない、4歳。25の時の子供だと思いますね。
Q.いくつの時に離婚されたんですか?
 離婚?えー・・・。2,3歳?うん。子供が2,3歳のときに性格の不一致だなー、うーん。同じ教科だったっていうのも悪いね。学校の教える教科が英語だから。私は中学校で相手は高校でしょ。そうすっと、「俺の方が偉い」みたいに感じるのよ、言い方が。そういうの、私嫌なの。差別つけてみるっていうのは、人間が出来てないんだなっていう判断をどうしてもしちゃいますので、「この野郎!」っていうふうに思ったのがいけなくて、ずっとその思いでいるのは、もうダメだということで、早めに28歳で離婚しましたから。
 まぁ、再婚するときは、うちの母は強烈に反対しましたよね。さっきも言ったように離婚の妨害も受けたくらいですから。だから、それは言ってることも判らないでもなかったけど、結局若いからね。勢いに乗って一緒になったけど、やっぱり子育ては課題ですよね。そういう歪みが息子の方にいったと今反省してますね。
 けど、私は仕事があるから、あんまり気にせずにバッバッと対応して仕事に行っちゃってたから、それで救われた面は大いにあるかなって、今思ってますけどね。
 2回目の結婚の時ももちろん仕事は継続してましたから、仕事で救われますよね、嫌なことがあってもね。子供たちの顔を見ると元気になれたから。子育てももちろんうまくはいかなかったと思います。反抗心抑えてたからあれで済んだのかなと思いますけど、息子はね。まぁなんとか成長しました。
 でも、やっぱり、ずーっと息子は楽器をやってましたから、双葉高校っていうところで楽器・・・なんとかっていうと叱られるだろうけど、サックスをやってて、そして部長やってて、ずーっとそれだけして生きてきたから、大学受からんないに決まってるじゃん、ねぇ?英語なんて全然0点くらいだから。だから、すごい長い期間、仙台に3年、東京に1年で4年浪人して、それで東京の大学行ったんですよね。
 そこの・・・要するにそれは私の立場の間の・・・敏感に感じ取ってたんじゃないかと思うんですね、あれはね。そういう意味では勉強に集中できなかったのかな。それは一言も言いませんよ、彼はね。だけど、私はそういう意味かなと思ってるんだけど。
Q.今はおいくつですか?
 46かな。
Q.どちらにお住まいで?
 やっぱりね、これもいろいろ経緯があって。
 3.11の前に柏崎行ってたんですよ。派遣しかなかったから。結局浪人4年して大学に8年いられるから、居る気でいたから。これは橘が職場で倒れたんですよね。それで
「もうダメだ、辞めてもらうようになっかもしれないから出てくれ」
って急きょ卒業したけど、それだけ柔軟でいるわけでしょ。だから、早めに出ればすっごい就職案内が山ほど送られてきましたけど、次の年になったから、「辞めろ」って言ったのが。病気で倒れたのが93年かな。その時急きょ卒業したので、就職は無いから転々としていろいろこれもあるんですが、3.11の前は柏崎に行ってたんですが上司とけんかをして。
【息子さんは原発で働いていたのですか?】38:30頃
Q.原発労働者?
 <深く頷かれて>息子の仕事は本当に全部は聞いてないんですけど、結局私が浪江に連れ戻したんですね。東京の生活はもう難しいし大変だし、地震があるはずだから、あそこで地震にあったら大変だからと無理やり引っ張って引き連れて帰ってきたんですが、どこも仕事ないですもん、だって。39歳くらいでしょ。その時。それで自分で探してあったのが、派遣労働者ですよね。従って、柏崎の原発の外回りの仕事をしてたって言ってましたけどね。
Q.外回りとはどういう?
 外回りの仕事っていうのは、柏崎の事故で崩れたり隆起したり火事になったりしましたでしょ。そういった外回りの地面を平らにするとか、配管の・・・詳しい配管はわかんないですが、「外の仕事だよ」としか言わなかったんですけどそれをやってて、
「放射能大丈夫?」
って言ったら、
「俺は大丈夫だとは思うけど、わかんないけど」
とは言ってましたけど。
【浪江町と原発】39:45頃
 福島原発はご存じのとおり、というか皆さんも今回のことでよくわかったと思うんで、10基ありますけど、浪江町の勤務になったときに棚塩という海方に原発を建てる予定だったんです。ところが、その棚塩に舛倉隆さんという反原発のほんっとに元を作った人なんです。本も出してるし、今再発行で結構読まれてる方の本なんですが。いろいろあるけど『原発に子孫の命は売れない』という本を出してまして、機会があったらお読みいただければいいですが、その人を中心に私らは若かったんだけど、原発の反対署名を集めた頃から関わってた。ただし、うちの母は当時の新聞には『平和利用』といったでしょ?今朝日にも出てますけど、『原子力の平和利用』ということで、
「原子力も平和利用する時代になった」
ってこう言ったんです。
 最初は、あんまり時間もなくていろいろ読まなかったんですけど、でも納得いかないんですよね。舛倉さんの話や講演を聞きに行ったり、もちろん署名もやって。当初から反原発のほうに私は踏み込んでますね。
 うーんと、浪江町がこのころは、まだ若かったんですが・・・1963年に就職ですから30ちょっと出たくらいの時から関わってますね。だから、1970年代頃からですかね。福島原発のをやり始めたのは。そこから舛倉さんをスタートに双葉郡内では教職員組合では反対でしたから、学習を積んでて。
 飛んでしまいますけど、市川さん、今年になってから亡くなったのかな。放射能を感知するっていうことで、ムラサキツユクサを植えてそのムラサキツユクサからピンクに反応するんですね、花弁が。それをやろうということで、反原発やってた人の家はみんな植えましたね。うちも浪江の方の家にはムラサキツユクサがいっぱい植えてたんですね。でも毎日観察しなきゃいけないから、そこまではできないです。終わっちゃったんですが、市川をはじめ高木仁三郎さんも何回も双葉郡に来ていただいたし、私が印象的だったのは、もちろん高木さんもですが、槌田敦(つちだあつし)さんという方講演をいっぱい聞いたんですが、あの方の講演だったと思うんですが、講演の後で質問は?って聞いた時に、何十年も前ですよ。辞めてから12年になりますから。現場の教師を去って12年になるんですが、槌田敦さんの講演の時に質問したんですね。
「もしも原発がメルトダウンになったらば、どうなりますか?」
って質問したら、
「あぁ、もう終わりですね」
って彼は言ったんです。
「終わりっていうことは?」
「もう放射能も排出するし、メルトダウンした炉を解体するなんていうのはできないでしょう」
ってこう言われたのがすっごいショックで、これは大変なものなんだっていうことで。それからずーーーっと、仕事もってるから深くは関われなかったんですが、とりあえず反原発運動にはずーっと関わって、今もやってます。
 もういっぱい思い出すことがありすぎるくらいあるんですけど、結局はね、各地の人間にとっては権力とお金はおいしいですね。だからそれが何よりも大きかったんじゃないかしら。それから、東電さんは宣伝費・情報費、億でしょ?使ってるの。だからいらないくらいに各回覧板、首長に渡しますからね。それくらい読む・読まないは別として、とにかくすごい金を使って『原発は安心・安全ですからね』っていうことをずーーっとやってきてるっていうことが、まずいくら労働者で反対運動したって、時間は限られてるでしょ。それはきつかったし、情けないことばっかりですよ。
 3.11起きた時、私もちょっと鬱みたいになったんで。
「運動はダメだったんだ・・・」
って、大した運動もやってこないくせに、そういうふうになって、誰とも会いたくない、出たくないってなりましたけど。
 1986年、私、福島県教職員組合の双葉支部の書記長になったんですけど、1986年代で日教組でも女性の書記長は初めてなんですよね。その時に取材も来ましたけど、同じ町の社民党の議員に「失望するなよ」って言われましたよ。うーん。
「労働組合ていっても進歩的じゃないから。女性も下だし、まだまだ運動はだめだよ」
っていう意味だったっていうのがあとで判ったんですけど、「何を言ってるのかな」と思ったらそうだったんですけどね。そういうこともあったし。
 あと、富岡に書記長として行った、富岡に事務所があるのでそこに行ったとき、富岡町で地元になんかを返す・・・詳しくは忘れちゃったけど、住民投票をやる運動をしたんですね。これは大変なんですよ。うん。あんなに苦労して集めて何万人かじゃないとできないでしょ。1週間だか10日探すんですよね、署名をね。そしてそれを判断する。一言でダメですから。あの苦労は何だったんだろうというふうな・・・もうずっと昔で、四半世紀も前のことだから、1986年に書記長になって、その次の年くらいになったのかな。そのときやったから、多分条例制定じゃないかと。地元っていう、地元って返すのはどこだっていうとこから始まって議論してやったんですけど、条例つくりだったかな・・・、ごめんなさい。石丸さんっていう方はよく判ってるんですけど、富岡に居た方で、この方も避難してますけど。
 とにかく集めることで夢中になって条例を作って、そしてそれを議会に提案してってことだったと思うんですけどね。
Q.それは原発は反対ですっていう手続きかもしれないですね。
 条例にしていってね。だって議員さん皆賛成だもん、原発。無理だよ。社民党の一人だけだもの、反対したの。当時は社会党ですけどね。
【チェルノブイリ原発事故】
 ちょうど私が1986年に書記長になって事務所、組合の事務所を組合表を出して作ってましたから、夜の森というところにありまして、そこへ勤務になった後ですからね。1986年4月26日ですよね。
 あぁ、やっぱり来たなぁと思ってね。学習してたから、放射能の新聞には雲とか放射能が流れる気流とか、当時も出してましたけど、隠してるなと思ったんです。当時から。
「まだ広がってるはずだな、こんなもんじゃ済まないな」
って思ったのだけは覚えてます。だからどこまで事故が起こったら解明できるかどうか、国はどういうふうにしてくれるのかっていうところが、あの頃から疑義をもってましたね。
 ただ、情けないの。それのジャムだかね、やっぱ支援しなきゃいけないからってジャムが来たんですよね。こんな大きい瓶で600mlくらいだったかな。それを買ったんですね、やっぱり。でも食べたくない。だから風評被害なんて当たり前だと思うのね。
 もう一旦事故が起きちゃえば、起こせば、当然だと思う。
 それをきちっとね、放射能の流れや被害や、これだけ大自然を破壊するっていうことをもうちょっと私たちが深くね、やれればっていうことが、もちろん責められます。心で。それを理解する県民が、全部理解してれば、こうはなんなかったろうなと。如何にこの勉強を深めてよんで、反対運動までいかないにしても行動を起こすかっていうことは、どんなに大事なんだろうなっていうふうには思ってます、現在。
【原発関係者の話】48:50頃
 地域はやっぱり過疎でしょ。だから日々の生活に追われますから、原発に入って一万円もらったほうがいいでしょ。ちょっとくらい危険でも。見えないんだもん、だって。放射線ね。だからそこへ行くでしょ。
 F1っていうんですか、福島第一原発のとこは双葉町ですからね。双葉・大熊にかかって6基でしょ。それで富岡楢葉で4基ある。そこに勤める労働者は増えました。東電の職員が来まして、学校現場をメインに見てきたからですが、東電の建物は高台に全部建ってるんですよね。職員のは。地場の労働者は自分の家からですけど。学校の中での、「あぁ、これも差別かな」って思ったのは、みんな優秀ですよ。東電から来た子。地元の子ももちろん優秀な子もいますし、頑張ってきてる子もいるんですが、やっぱ優秀ですよね。そこにまた差が出るでしょ。それから学校に与えた影響から話せば、習字、絵の展覧会の商品がいいんだって、だからみんな出します。「やめなよ」って言ったって駄目です。
Q.「出します」っていうのは?
 東電主催の展覧会に出品をします。習字も絵も。それでいただける商品が立派だからいいよなって。それだけね。親はどう思ったかまでは聞かないけど、子供たちもまぁ・・・そういう気持ちがあったかもしれませんけど。
Q.商品っていうのはどういうもの?
 見せられないんだけど、普通ならノートとか鉛筆くらいじゃないですか。「違うんだ」って言ってましたよ。だから当時貰った人によく聞けばいいけど、気兼ねがあった。「あら、おめでとう」で終わってたからよくなかったと思います。あとは言わないしね。
 だから絵の先生と習字を教えた先生は判ってると思います。『原子力の火』っていう習字を書きますから。あと、絵はまたなんていうの・・・『平和利用』の絵を書くような指導ですよね。きちっと考えを持ってる方はそれをやらなかったというと語弊があるけど。隠された話の部分になるけど、やらなかったと私は思ってます。結構みんなやってましたからね。
 子供たちの状況を話すとすればね、今だから言ってもいいかもしれないけど、ひとり避難経路にあった津島というところの生徒は、炉について海中に沈んでる部分の貝をはがすんですよ。ねばった貝。それをやる仕事してたんですが・・・
Q.仕事っていうのは海の中に潜水してですか?
 潜水してこの貝を剥がす仕事だったそうです。あとで聞いたんだけど。その子はどこの辺まで入ったか詳しくは言わないけど亡くなったんですね。それが賠償でてどうなるっていうのも判らないんですけど、話、ちょっと今日ごめんね。私当初、ほら、アパートに居ましたでしょ。その時同じやっぱり下請けだと思うんですけど、労働者の方が居て入院するようになったんですね。斑点が出て、ポツポツと。それで多分放射能の影響かなって勝手に思ったんですけど、即居なくなりますから。全部そういう人は。
 そのアパートの人もそれは聞いてたから、すぐ運ばれて東大のどこかにやるんらしいみたいな話は噂ですから、私はそれを突き詰めて調べるなんてことはしなかったですけど、「すぐ病院に行くから」ということで挨拶もなく行きました。
 それは大人の、私のアパートの人。
 それで亡くなった教え子のほかに・・・
Q.教え子は何歳くらいだったんですか?
 30歳になる前だと思いますよ。「誰々が亡くなったんだ」って連絡くれた子が居てね・・・。
Q.症状は?
 なんか起き上がれなくなったんじゃない?
Q.???といわれてますけど、白血病ですか?
 それは心臓の方でしょう。白血病のほうまでいかなかったと思いますね。
 あとはね、ちょっとこういうことを言うとやっぱり差別的なあれになると思うんだけど、優秀でも高校は無理だよっていう子は中には居るでしょ。高校進学が。貧しい、まぁでも高校進学無理っていうのは、貧しいまでもいかないけど大変な状況の時もあったんですよね。私らがずーっと2000年のまだ1970年代だね。それこそ原発が入ったころの時に、東電学園っていうのがあるんです。そこへ行くととてもいいんですよね。就職は絶対だし、そこを出れば東電に勤められる。どんな職種かは別ですけど、でもその子たちは一人か二人かな・・・言ったのは「おら戻んねもん」
 「おら戻んねもん」っていうのは、東電学園を出てこの地に第一原発やったって、浪江町には帰ってきて住まないよっていうことですよね。「地元に戻んねぇよ」ってこと。
 差別に見られるでしょ。判ってるのよ、子供の方が鮮明に。原発は全部が賛成ではないよって、危険だよっていうことを彼らは優秀だから判ってる。言葉には出さないけどね。
「あぁ、そう」っていうだけでね、「せっかく就職するのに戻らないんだ?」って言った。まぁ戻らなかったですね。
 そういうのが浪江中学校時代の教え子に二人くらい居た。あとは一般の自宅から通えるとこの下請け労働でしょ。賃金はいいのかどうか、ピンハネされても地元で親と暮らしていけるということが魅力だったんじゃないかなって思ってますけどね。
Q.浪江の人たちの空気・・・
 ちょっと難しいね・・・。私の前でしゃべんないもん。反原発運動してるんだもん、だって。それは会わないようにもするし、
「しゃべんないほうがいいぞ。あいつしゃべると危ないぞ」
ってなるでしょ。だからほとんど直には来てませんけど、勤めてるとかなんかって。もう21世紀ですけど、大体なんていうのかな・・・日本の民衆、そういうとこあんのかなと思うんですけど、そういうのを見ると・・・見るっていうか、今岩上さんの話聞いてもだけど、今回の事故でもそれは以前も考えたんだけど、ドイツでね、ナチスの時のお家に星のマークを付けていったでしょ。ナチスの人の。その時は、つけられたのは「なだろ、これ?」って日々の忙しさにそんなに気にしないでいたでしょ。そしたらヒトラーにやられたでしょ、そういう人を中心に全部ひっぱってったでしょ。それと同じかなって思う時あるのね。
 それを言っちゃうと勤められない。首になるかもしんない。生計が成り立たない。生きていくためには、「目に見えないんだから、どうせ放射能は」っていう思いで自分を克服するっていうか、言い聞かせる、慰める。そんな思いで勤めたのかなってこっちは想像するだけです。
 だからそういう方からの直の話はないですけど、民宿とかそういうとこは潤ったっていう話だけはバンバン入ってきてましたしね。「家建てた」「車新車だ」なんだって。マネーが良いですもん。判らないでもないけど、人間の弱い部分・・・だけど、沈黙はやっぱり自分の生きていく、今必要なことと思ってたのかなって思いますけどもね。どうなんでしょう・・・。
<57:30頃まで>

【後半】に続きます。
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