※この記事は、2月23日【内容起こし】IWJ百人百話 第42・43話 木幡仁・ますみ夫妻『避難所の原発作業員の方々の様子』【その②】の続きです。

<後半スタート>
【避難所の生活、入院、仮設住宅。】
(仁さん)3月28日に病院に行くまでは、私はやっぱり避難所でそれなりの生活をしていました。カップラーメンとかおにぎりとかそういった町で配給になっているものを食べて、それなりに腹の足しになるものは配られてはいたんですけれども、栄養的にはとてもとても問題のある食べ物ばっかりで、とてもとても・・・それなりに病状が回復するとかそういったのは無くて、やっぱり体は悪化する一方でした。
 私は腎臓病を持っていたので、それまでは富岡クリニックというところに通って、月1回の治療を受けて薬を貰って飲んでおりました。それはそれなりになんとかもっていた状態だったんですけれども、決定的に悪くなったのが避難所での生活で決定的に悪くなったというふうになっております。
 一回腎臓病となって仙台の社会保険病院というところに入院したんです。3月28日。その後、3度の手術をして透析ができるようになって、一旦こっちにひと月くらい帰ってきまして、それが会津若松市に一旦帰ってきて、まるまる一か月こちらで透析をして、既に妻の腎臓をもらって私が腎移植するということに決まってたものですから、腎移植したのが6月2何日ですね。6月の二十何日に入院して、8月2日までいたということになっております。
 妻は会津若松市におりましたから、7月15日に入ってまして、私は2週間くらい遅れて8月2日に入ったと。退院と一緒の日に入ってます。
 やっぱり3.11以降急激に悪化したというのはありますね。
 それは3.11以降の食事状態がやっぱり・・・とても普通の人もそれなりにおかしくなるような状態でしたので、私も????おかしくなってしまったということだろうと思います。私の周りでも避難生活していた人も2,3人バタバタ倒れたりなんだりするのを目にしてますし、非常に・・・毎日テレビの映像を見ながら、いろんな偏った食べ物で過ごすというのは、やはり健康にはものすごく悪かったんじゃないかというふうに考えております。
(ますみさん)うちのお父さんの顔色が、始めから比べるとだんだん青黒くなって、体育館の電気の光も暗いからとも思ったんですけど、周りの人たちも、
「木幡さんね、ものすごく顔色が悪くなってきたよ」
ってみんながおっしゃるんですよ。そばに老人の人も寝てるんですけど、
「木幡さんの顔色、ものすごい悪いよ」
って皆に言われて、
「早く病院に連れて行きなさいよ」
って皆に言われたんですけど。それでだんだん目の色も、目も白いところが酷くなってきて、なんか黄土色、黄色になってきて。
「これは酷いね・・・。ただどこの医者に連れていったらいいもんだかな。」
 私の自分の親戚にも共立病院に従妹がいるんですけど相談したら、
「やっぱり社会保険病院が一番いいんじゃないか。こっちからも言っておくから。先生たちにも話をして共立病院の先生からも仙台の方に話をしておくから」
って皆から励まされて、それで仙台に連れて行ったんですけど、先生が
「あと2,3日遅かったら危なかったね」
って言われて、
「あぁ、連れてきて良かったな」
と思って。大体透析になるんだろうなと思ったんですけども、食べるものが体育館の中ではうちのお父さんが食べるものでは、塩分ダメなんですよね。それが塩分の入ったものばっかりなんですよね。カップヌードルとか、カップラーメンとかしょっぱいのばっかりで、食べるものが無くて、結局どんどん腎臓の機能が落ちていって、家に居ればそれでも保っていられたんですけど、これは透析やるしかないってなって、でも透析やるとなると大変ですよね。毎日、2日に1回となると何もできない状態になるので、いろいろ心配すると、「家のことはどうしよう」とか「家にも帰れないんだからな」と思って、迷いは全然ないです。私の腎臓を移植するということに対して、全然迷いが無い。
Q.なんで?
 自分の腎臓が丈夫だと思ったから。
 っていうか、大体検査を見れば、検査で明らかになるだろうと思ったから、検査でダメだったらダメだし、それでOKが出たらだいじょぶだろうし。昔からあまりそういったことで絶対それしかないとおもったら、私は昔から後は引かない。それしかないと思ったらそれをやるような人なんで、最近力も出てきましたね。前はちょっと重いもの持てなかったんですけど、最近は持てるようになってきたね。
Q.良かったですね。
 はい、良かったねぇ。
【除染。】09:40頃~
(ますみさん)絶対に言いたかったことがあるんですけど、私はずーっと4月から会津に来たんですよ。それでうちの主人が入院して、私が新聞を作ったりして、新聞を自分で作ることから始まったんですけど、情報を交換したいというか、情報のやりとりが全然なかったんですよ。誰がどこに居るとか役場でどういうことやってるのかとか、そういうことは全然判らなかったので、情報を得るために私が自分で新聞を作ったんですけど、外の時に役場に来ていますと、なぜかずーっと鹿島組とか熊谷組とか、そういったゼネコン関係の車にいつも出会ったんですよね。
「なんじゃこれ?」
と思って、ふと思ったのは『除染』。 
 なんで除染って判ったかというと、役場を歩いてたんですよ。役場の中なんかいい記事ないかなって。言葉が聞こえてきたんですよ、『除染』って。
「なんだ?」
 そうして言ってる矢先に役場から出てくるんですよ。その人たちがどこの人たちかな?とつい興味で、その人たちの後を追って行ったんですよ。新聞の記事になるかなと思って。そうすると、鹿島組とか熊谷組の車に乗って行くんですよ。
「え?あの人たち『除染』?」
 それで今度、だんだん新聞を作ってる間に仲良くなった人たちで『女性の会』って作ったんですけど、それでその時に『除染』っていう話がやっぱりみんな出てきて、
「除染はやってもらうべー」
みたいにみんな言ってたんですけど、役場に行く度に何とか組っていうゼネコンがだんだん車が多くなってきたんですよ。
「あれ~?おかしいな?」
と思って、町長さんに一回お聞きしたんですね。
「除染って何ですか?」
「なんだ、木幡さん、そんなこともわからないのか?」
とかって言われて、
「はい、わかんないです!」
って町長に聞こうと思って言ったんですけど。
「いや、除染はね、放射線を洗ってくれるんだよ。」
 どうやって洗うんだ?って思ったんですけど、
「どこでやられるんですか?」
って聞いたら、
「大きな会社が来て、全部放射線を取っ払ってくれるんだ」
みたいなこと言われて、「へー」と思って、記事にする前に一塊調べないといけないなと思って、毎日役場に通ってるのと毎日鹿島組とかそういう人たちに合うんですよね。
 なんかね、大出を切ったように役場の中を歩いてるんですよ。
「いつの間にあの人たちは歩くようになったんだ?」
と思って、でも、そこに三井とか、よく私、いろんな仕事をやってたんですけど、原発に弁当屋さんで入ったこともいっぱいあるので、原発に入ってた会社の関係の人が一杯居るんですよ、なんか。役場に入ってきたんですよ。
「これは原発で入ってきた会社と、今度の除染も同じじゃね?」
と思って、そうやってそのうちみんながそれぞれ除染し始まったとか、だんだん月日が経つにつれて。
 最近は町会議員さんも除染の会社を立ち上げたとか。ほんで除染は???から聞くと「儲かるよ」とか。
「除染やると雇用になるから、あんたも働け」
 誰がって私の友達の旦那さんが会津の人なんですよね。会津の友達が居るんですけど、その旦那さんが失業してるんですよ。それで、
「除染会社に入ると良い」
って。
Q.除染会社?
 除染会社。そして、そのうち役場の高田の方にお住まいなんですけど、
「信用してるから役場の方で除染の方をやってくれないか」
って友達の奥さんが言われて、彼女が、
「あんたは失業してるんだから、働いてきな!」
って言われて、それで除染という本人は
「あっちに、大熊町とか行きたくない。双葉郡には行きたくない。郡山とか福島にも行きたくない。怖いから。どうなるか判んないから。」
「何言ってんだ?」
って友達は「あんたいつでもどこでも行きな」って言われたんですけど、会津若松の除染をしたらしいんですよ。で、日当を貰ってきて、かなりいい給料だから、
「あんた、このままずっと続けてな」
って言われてたんですけど、
「郡山でも福島でもどこでも行って除染してきなさい」
って言われたんですけど、なんかね、やる人が一杯だっていう・・・。
【新聞発行と女性の会。】14:15頃~
(ますみさん)自分でちょっと文章も忘れたけど、大熊とか自分の名前だったりして、結局、4月に会津若松に来たんですよ。その時に、それぞれが体育館で「あなたはどこどこ」ってホテルとか旅館言われて、それぞれに避難した、避難というか行ったんですけど。
 ある人は、会津からずっと奥の大和ってあるんですけど、飯豊山のふもとの旅館とか、本当に人里離れたところに行かされたとか。それで大熊町の役場の人が誰も来ないとか。
 みんなかなりいろんな話が耳に入ってくるので。
 私も是非行って、どういうところに皆が行かされたのかを知りたいと思って、自分で新聞を作って大熊町で聞いたいろんな情報を新聞に書いて、そして、自分たちの意見も書いて、それで新聞を出して。放射線っていうのはみんな全然わからないから、私も判らないから、その線量をパソコンに・・・うちにはパソコンは無いんです。今持ってきてない。敬光堂っていう会津若松の図書館なんですけど、そこでパソコンを借りられるんですね。それで開くと放射線量が出てくるんですよね。
 それで放射線量が出てくるとかなり酷いんですね。それをみんなに教えたりなんかするためにも、新聞っていう手段を使ってみんなに教えたりして。
 結構・・・なんか大熊町にとっては大した新聞じゃないんだけどメジャーになって、送ったりなんかしたんですけど、でもそれもそのうち『女性の会』が忙しくなってくると、新聞で知り合った女の人たちが、
「毎日の気持ちの拠り所となるものが欲しいから、このまままじゃいられない、居ても経ってもいられないから、なにかみんなで話し合う機会がほしい」
って言われて、それで、新聞を通じて知り合った人たちと『女性の会』を立ち上げたんです。
 そうすると、うっぷんばっかりしか出ない。それをどこにぶつけるかというと役場なんです。大熊町から会津若松市に仮庁舎みたいに、もとの若松銚子高校っていうのがあるんですけど、そこに若松銚子高校の校舎を借りて、今は高校やってないんですけど、その校舎を借りて、仮庁舎を立ち上げたんですね、大熊町役場をね。
 いろんなうっぷん、不満とか、自分たちがこうしてほしいとか要望を町長とか副町長さんですね。あと役場の職員とか総務課とか保健師さんの方とかにぶつけたり、なんか要望を言ってみたり。新聞を書いたのを実際に役場職員に見せたりしたんですけど。
 それと遠くに逃げた方たちが、
「是非、会津若松の役場の状態とか知りたいから、新聞を送ってくれないか」
とか言われて、
「みんなの状態、どこに誰が居るか判らないから、新聞を送ってくれないか」
とか言われて、役場の方に言ったら役場の方で送ってくれたりなんかしたり。
 新聞は私が手書きで書いて、それを役場のコピー機を借りてコピーして、それを自分が私の車で配達するんですよ。あちこちのホテルとか旅館に。
 初めはね、最初は200部だったんですけど、そのうち500部。何号出したかというと、1,2,3,5号くらい出したんでしょうか。もうあとは忙しくてやめたんですけど。自分も腎臓を移植しなくちゃいけなくなったんで、それで時間が無いし。書いてるうちに私も疲れてきて。
 なんだっけな・・・?
Q.本当に忘れちゃったんですか?
 本当に自分でやったの忘れたわ・・・。なんだっけね・・・?自分で書いた新聞を忘れてしまった・・・。なんか・・・『大熊』だっけな。『大熊』か『ますみ』かどっちか。最初は名前・・・『木幡ますみ』で出したんですよ。そのうちこれではちょっとあまり皆が「格好着かないんじゃない?」って言われて、『大熊』とか・・・『大熊新聞』で発行者は木幡ますみで出したんですけど。
 それで二人の仲間と一緒に、おおたさんとかあかいさんという方なんですけど、これは体育館で隣同士寝た方なんですよ。その方と知り合って、その人たち、前から知ってる人も居たんですけど、3人であちこち私の車で配達して回ったんですけど。あの頃は、私の新聞を作ってるところは、私たちと非常にいい感じだったんですね。
「木幡さん、がんばれな~」
とか
「新聞、がんばってつくってな」
とか、毎日の生活の要望とか言ってたもので、非常に関係は良かったんですよね。役場の人も非常に丁寧、親切にいろんなこと教えてくれたり。つまり私たちが情報を、役場がやらない代わりに私たちが情報を教えてあげてる、皆に伝えてるっていう形だったんで、多分それが良かったんじゃないかなとは思うんですけど、だんだんなんか・・・役場に入っていけばいくほど、いろんな様子ですね。
 例えばなんでここにゼネコンっていうか、鹿島組と建設会社がいっぱいきたりしてるのかな?って思ったり、だんだん8月になって『中間貯蔵施設』の話が出てきましたね。
【中間貯蔵施設…。】20:20頃~
(ますみさん)始めはみんな反対してたんですよ。だけど、だんだん考えてみると、除染をしてあれは消えてなくなるものじゃないし、それを置くところが無い。除染は蒸発するはずもないし、それで私の実家が郡山にある。私の『女性の会のメンバー』はみんな大熊出身ばっかりじゃないんですよね。いろんなところから、福島から来たりとか、いろんなところから来てるので、そうするとみんな一様に
「除染して消えてなくなるものじゃないから、どこかに集めなくちゃいけない。そしたら、これは『中間貯蔵施設』っていうのはなくちゃいけないんじゃねぇか?」
っていう話になって。
 始めは「そんなの作らないでください」っていう要望を国に言いにいこうかなと。あと「私たち避難民というか県民に対しての補償、例えば医療費についても県民全体、全部を無料にしてくれ」とか、「これから何年の先にどんな子供ができるか判らないから、医療体制をきちんとしてくれ」とか、そんないろんなことを要望しに国に行こうと思って、それを役場に行ったんですよ。8月なんですけど。役場ではすぐに
「はい、わかりました」
って答えてくれたんですけど、いつまでたっても国にこの要望書を届けてくださいっていうあれがなくて、私たちはもう「終わったんだなー」と思ってたんですよ。「どうせ行けないんだなー」と思ってたら、10月終りに突然、
「明後日行ってください」
って言われて、「え!?」ってびっくりして、町長選挙の前なんですけど。
「えー!もうだってなぁ、私たちの考えも変わってきたし」
って。最初に要望書としては「中間貯蔵施設は作らないで」と言ってた出してはおいたんですけど、それはもう国に行ってるんですね。
 でも、私たちはだんだん考えが変わってきて、8月からもう9,10と月日が経ってきたので、私たちは
「中間貯蔵施設は作らないといけない。除染してもあそこには帰れないでしょ。」
 なんでかというと、一時帰宅するたびに、みんな
「帰れない。線量が高くなってる。」
 家の中も、最初は2とか3とかだったんですけど、だんだん5.2とか上がってきて。例えば私は大熊町でも山の方に住んでるんですけど、田村市の近くの宮小路の近くの。だけど他の人はもっと原発に近い方に住んでるんですね。そうすると60とか、家の中も。家の中も60とか。「えー!?」って。多分地震で壊れてるので、隙間から放射線が入ってくるんですね。そこから
「家の中が60ではとても住めないんじゃね?」
ってなって、だんだん原発は恐ろしいよって。やっぱ放射線は怖い。30名くらいいるんですけど、みんなそれぞれ会津若松に居る間に病気で入院したりとか、柏崎に行ったりしてる人も多いので、実際に活動してる人は20数名なんですけど、その人たちがみんなで
「もうこれ以上は大熊町には住めないね」
となって、
「中間貯蔵施設も必要だね。」
って女性の会で話になって、いきなり私たちが東京に行って、「要望書持ってきなさい」って言われて、「もう出してますよ」って言われて。
「あれ、どうすっぺな?」
なんてみんなで話になって、
「中間貯蔵施設、本当は初め反対だったけど、そう説明すっか」
ってみんなで話になって、国に行ってから
「私たちは中間貯蔵施設は作らないといけないねっていう話もしなくちゃいけないな」
と国に言ったんですけど。細野さんに
「中間貯蔵施設、私たちは最初は反対でいたんですけども。」
って細野さんに話したんですね。
「だけど除染したものを捨てるところが無かったら、とても福島県は郡山も福島も、人が出入りしませんよね。もうダメになってしまいますよね。だからやはり福島県内の除染したゴミ・・・」
「ゴミではないんですよ」
って言われたんですけども、
「その核のゴミを、放射線のゴミをどこに捨てますか?」
「いやー・・・」
って細野さんが、
「どこに持っていこうかな」
って言われたんですよ。私たちも
「車で持っていきますか?電車で持っていきますか?飛行機で持っていきますか?船で持っていきますか?」
って言って、
「いや、持っていきようね・・・。」
「それは持っていく途中で皆に反対されて、駄目になるでしょうね。」
「そうですよねー」
「だから大熊町で結局出た放射線のゴミ、福島県内に出た放射線のゴミは、あれはやっぱり福島県内から外に出すことはできないですよね。」
って私たちは話したんです。
「だったら、大熊町は帰る度にもう放射線でかなり汚染されてるから、チェルノブイリを見たって26年帰れない。だったらもう大熊町も30年帰れないでしょ?そのうち死んでしまいますよね。今の年寄りは、結局今の仮設には置けない。」
って私たちがみんなで話したんですよ。
 子供さんも仮設にそのまま置けない。私たちはやはりこのまま仮設にいてこんな生活をしたら、どうしようもない人間になってしまう。集団になってしまう。だから、やはり私たちはきちんとしたところに定住先を見つけて、それから
「大熊町として存在しますか?」
ってましこさんにも聞かれたんですよ。ほかの方にも細野さんに。
「いや、存在しないかもしれませんね」
って私は言ったんです。
「このまま大熊町に帰ったとしたら、それはまず帰る人は少しでしょう。帰る人はほとんどいないんじゃないですか。だったらいつまでもそれに拘っていたら、私たちはどうしようもない人間になってしまう。どうしようもない集団になってしまう。あの人たちは要らないみたいになって、中には自殺する人もいっぱい出てくるでしょう。
 だったら、どこかに定住先を見つけて、どこかに住んで、やっぱりチェルノブイリみたいに封じ込めて、そこから核を出さないほうがいんじゃないですか?」
って。
 ましこさんとか文科省とか行ったときは誰も居なかったんですよ。細野さんのところに行ったら、あの人たち誰なんだ?みたいなこと言われた。
「あなたたち誰ですか?」
「いや、福島の大熊町から来たんです」
って言った。細野さんが「入るな!入るな!」って言われて、中に入ってったんですけど、新聞記者には入るなって。だけど、いつも二人くらい入るメンバーが居るんですね。新聞記者がいるらしいんですけど、その人たちが二人居て。会談してるところを取る人が、ただ「この人たちが来ました」みたいにして写真を撮って新聞に載せるみたいな感じで。
 私たちが「中間貯蔵施設は作らなきゃいけないんじゃないですか」と言ったら、その新聞記者のお二人が、
「え!?中間貯蔵施設に賛成なんですねー?」
って言われたら、部屋の外からたくさんの記者の方達が10名くらいかな、入ってきまして、
「中間貯蔵施設、賛成なんですねー?」
って聞かれて、
「賛成するしかないでしょ。」
ってみんなで言ったんですよ。それでみんなで写真を撮られたり、意見を述べさせられたりして、そして私たちは・・・
「あ、言っちゃったー・・・」
って思ったんですけど、
皆も道々タクシーに乗せられて、ずーっと東京駅のバス停まで来てバスに乗って、車掌さんが「静かにしてください」とかバスの中で言われたんですけど、皆興奮してて、
「いいよね。帰ったら文句言われるけど、しょうがないよね」
ってみんなで帰ってきたんですね。
 帰ってきて次の日になったら、電話がみんなあちこちから、やっぱり役場から怒りの電話がいっぱい来て・・・。私の方に
「木幡さん、みんなで町長のところに一応挨拶に行こう。東京に行かせてもらってありがとうございましたって挨拶に行こうよ」
ってみんなで集まって町長室に挨拶に行ったんですよ。
 そしたら、役場の人たちは、もう不機嫌極まりない顔をして中にいれたんですけど、町長さんがね、
「俺だってそう思ったんだよ」
って言うの。
「え!?なんだ?この町長さんは!?」
と思って、
「町長さん、賛成なんですか?」
って言ったら、賛成だとは言わないで、
「自分もそう思った」
ってもう一回言ったんですよ。あとから「あれ録音しておけば良かったな」と思ったんですけど、確かに2回言ったんですね。
みんなで「はぁ・・・」って思ったんですけど、でもその後からは、もう魔女狩りみたいに
「(私たち)女性の会は何なんだ?あの人たちは町を売る気か?町を死なす気か?」
とか面と向かって言われた。
会うたびに例えばリオンドールで買い物に行って、会津若松のスーパーなんですけど、そこで買い物に行くと、
「あなた木幡さんでしょ?あなたなんで中間貯蔵施設作るとか言ってるの!?」

とか、大熊町なんだろうけど私は会ったことないような・・・会ったんだろうけど顔とか名前も知らない人たちとか。それで、私の女性の会の仲間たちはみんな電話が来たり、家族に「お前は出ていけ」とか言われたり、なんかされたみたいなんですけども。
 でもみんな一応我慢して。
 女性の会は、あとは「もうちょっと大人しくするかな」とは言いながら、毎週1回必ず開いてたんですけど。
「絶対今の時期、我慢しようね。」
みたいな感じで。
(仁さん)『中間貯蔵施設』については、やはりもう認めざるを得ないんじゃないかというようなことでございます。それはどうしてかといえば、中間貯蔵施設が出来ない限りは、福島県内の除染というのが一向に進まない。まず大熊町の原子力発電所が事故を起こしたが故に汚染された地域が、福島とか川俣、飯舘、或いは二本松、郡山、白河等々いっぱいあるわけですよね。ですから、この地域については、やはり大熊町或いは双葉町が責任を持って放射性物質を、低レベルではございますけれども放射能に汚染された土壌とか落ち葉とかそういったものは引き受けなくてはならないだろうと考えております
 じゃあどこにやればいいのかというと、非常に問題があって、大熊町の一連の地域の中でもやはり線量の高いところっていうふうに皆さん思うかもしれないですけども、線量の高いところっていうのは、作業するのも困難な地域で、やはり貯蔵施設を作れるのかというような話にもなってくるので、作業のしやすい地域・・・比較的レベルの低い地域になるんではないかということで大熊町周辺の地域かなという気はあるんですけども、ただそれは政府の考え方もあるので。ただ私は大熊町は貯蔵施設は引き受けるべきだろうというふうに考えております
 最終処分場も尚且つ引き受けるべきだというふうに考えております。
 町長さんが細野大臣の中間貯蔵施設という発言に対して反発したという話なんですけれども、私は町長というのは一つの心情的な拠り所によって方針を出すべきではないだろうというふうに考えております。あくまでも冷静に現実を見ながら理性的な方針をもって町民の前に提起するのが町長さんのお仕事だろうというふうに考えておりますので、非常に町長さんが「どうしても戻るんだ」と、或いは「町民との話し合いが無いのになんですか?この話は。」っていうような言い方で物申すのは、ちょっと私は納得がいきません。尚且つ、やはりその一つの帰還は帰還運動としては認めるんですけど、例えば津波で流された場合の帰還運動だったら私は話はわかるんです。放射能で汚染されたところに帰還運動するっていうのは、実はこれ、犯罪に近い仕業ではないかというふうに考えております。
 ですから、ちょっと町長さんの言い方に対しては、私も納得がいきません。
【震災後の町長選に立候補。】34:30頃~
(ますみさん)町長選にうちの夫が出た時に、始めは結構みんなちょっと反対っていう人が多かったんですけど。だんだん話をあちこちしていくと、
「原発、やっぱりあれだけ被害合って放射線があるんだから住めないよね」
っていう若い人もだんだん出てきて。
 ただ途中の段階で、10日に告知になって10日の夜に大熊町役場から手紙が届いたんですよ。『一人3万円お金が入るよ』と。
「なにそれ?」
って思って、ちょっとよくわかんないですけど、水道の前の還付金とかあとはちょっとなんかの手当みたいな感じで、支援金っていうかそれが一人3万円で、冬のボーナスみたいな感じでね。
「なんで今頃、告示になってから・・・」
 それが「すぐ入るお金かな?」と思って見てみたら、すぐ入るお金じゃなくて、12月20日以降に入るお金なんですね。それが一か月も前倒して手紙で来たんですよ。普通は大熊町っていうのはそういうの遅いんですよ。
「今回早いんだな・・・あ、これやられたな」
と思ったんです。そしたら、あちこち聞くのは、
「やっぱり町長さんだな!金も入るんだわな」
っていって、みんな金が無くなってきて。だからお父さんに町長になったら皆の支援をするようにしてくれっていう話はあったし、お金の支援とか。だけど、告示になってから一人3万円というお金が入ってくると、ちょうどその時は冬タイヤ、スノータイヤにしたい。ストーブを買いたい、だけどお金が無い。そういう時に一人3万円というお金はでっかいから、皆で、年寄りなんかは、
「やっぱり町長さんだべな~。やっぱ力あるな~」
「あ、してやられたな・・・これは持っていかれるな・・・」
って思ったんですけど、でも一生懸命周りで応援してくださる方がいっぱいいらっしゃったので、ある若い人が言ったんですけど、今までは東電に勤めてた下請けの方なんですけど、前ホテルで一緒だったんですけど、その方が
「いろいろ大熊町の東電に対しては何も言えなかった。役場に対しても何も言えなかった。だけど、この選挙でこういう話が出るということは、原発に批判的で放射線に対しても批判的で、帰れないって言ってくれるのはものすごくありがたい。自分もこれで言える。温泉みたいなところがあるんですね。そこはかなりいろんなお風呂があって、男女は確かに入るときは分かれるんですけど、その方に待合室で会ったんですよ。
「俺はこれから勉強する。もうこんな役場にいつまでも大熊町に居られない。『除染して帰ろう』ばっかり言ってる町に。」
 若い一人の男の人は、町役場で臨時でバスの補助員で働いてたんですけど、遂には首になって切り替えの時に働けなかったんですよね。結局働く人っていうのは、町長さんがいる地域の方々がなっていった。後は、もともと役場の人とか。その若い人は憤慨して。でもその若い子っていうのは、もともとそんなにいろんなこと言える人じゃなかったんです。お父さんお母さんも前にホテル近くに居たんで、いろいろ話したんですけど、
「あの子は、この震災になってからだんだん町長選強になった時、ものすごく一人でいろんなことが言えるようになった。」
って。お父さんっていうのは、東電職員なんです。で、そのお父さんとお母さんはどこか違う場所に行かれたんですけど、息子に非常にびっくりしたんですね。
「あんなにものをいう子だとは思わなかった」
って。だから、親はある意味で頼りないって思ってたらしかったんですけど、子供一人で行かせた方が良いなと思って。だけど、なんかね、今回最近いろんな人から聞くんですけど、
「町長選挙のおかげで、俺らはものが言えるようになった。口火を切ってくれたんだ、木幡先生は。」
って。塾やってたんでうちのお父さんのこと、「木幡先生」って言うんですけど。
「木幡先生のおかげで、俺らも言えるようになった。」
 前は、少しは若い人も「家に帰りたい」って言ってる人が居たんですけど、最近はもう若い人は子供に言われたって。
「行きたくない。塾の先生が言うのは絶対だ。塾の先生は知ってるからそういうこと言ってるんだからな」
って子供が言ったとか。そうすると親は考え込んでしまって、お父さんそんなの知らないで、子供に怒られたっていう人もいたんですよね。
(仁さん)町長選挙はですね、私が10月の町議会の中で、一つは町長さんが最長老議員の質問に答えて、どういうふうな質問をしたかというと、
「町長さんは、こういった事故を起こしてしまったんだから、もう原発はいらないと脱原発を標榜すべきでないか」
という意見がございまして、町長さんは
「いや、それは私はできない」
というような返答をしたということで。あとはやはり原子力発電所の立地町として、このままでいいのか?このままの行政のまんまでいいのか?ということで、反対派というかアンチテーゼはないのか?ということで、非常にこの町長選挙に対して無競争でいってしまったら、大熊町はどうなるんだという危機感がありまして、それでその二つのことを考慮して、私は町長選挙に打って出ました。
 それで、この町長選挙そのものは、帰還しないというようなことになってはおりますけれども、私もそれは一つの争点だろうというふうには考えておりました。しかも尚且つ、帰還する・しないということだけじゃなくて、むしろこの大熊町の住民の生活をどういうふうにしていくんだというようなことで問題を考えた場合に、私たちは仮設の中でそれなりに仮設の中でのお年寄りが体調を壊していかれる方が結構いらっしゃった。或いは、若者が日々なんの仕事もなくここで無意味に日にちを過ごしていくというようなことが、非常に問題になってきたので、私はその辺も問題にしようというふうに考えておりました。
 町長選挙の結果は、一方が3400、私の方が2300というような結果で、私の方が敗れたんですけれども。
 それは、いろんな方に言われたんですけれども、町長選挙の時期が悪かった。半年くらい早すぎたんじゃないかということでございましたけれども、ただ、私は早い・早くないということはむしろ無いんだと。これだけ鬱積した不満はそれなりにぶつけるべきであって、こういった投票をした約4割近くが私に票を入れてくれたので、それはそれで一つの意思表示であるということから、私はその辺を狙ってといいますか受け止めて、これからも行きたいなというふうに考えております。
 原子力発電所は収束していないということで、収束をしていないところに私たち大熊町町民が戻るというのは、非常に危険な話であるということが第一点と、また放射能の線量が高い、非常に高い地域に戻るっていうのが除染という効果があり得るのかということで、この辺がまず第二点の疑問としてあったというふうなことだろうと思います。
 私は、除染しても戻れないという結論に至ってますので、それで「除染しても戻れないというならば、じゃあどうすればいいんだ」ということで、いわき地区とか田村地区の土地を見つけて集団定住生活をすべきではないかということで方針を出しました
 それなりに一定程度の効果はあったろうというふうに考えております。そういったことが今の町長さんの方も、やはり無視できないので、そういう方向に流れつつあるのかなというふうに考えております。
 定住先はいわきとか田村という地域がなぜそうなのかということは、やはり大熊町に似たような気候で、しかも大熊町に近い。昔からの人の行ったり来たりも交流も盛んであるということから、田村とかいわき地区というふうなことになるだろうと考えております。
 田村地区っていうのは、いわゆる三春とか船引、常盤というような地域なんですけれども、いわき地区はやはりいわき地区の久ノ浜までは昔の双葉郡で、今はいわきに編入されていますけれども。いわきも結構国有林が多くて、我々に分けてくれる土地も多いだろうということで、いわき地区ということになっております。
 田村といわきということになってきました。
【会津と浜通り。】47:40頃~
(仁さん)会津地方は、どういうふうに過ごしたらいいか、非常に問題だろうと思います。というのは、この雪で閉ざされた毎日というのは、普段の私たちからすると非常に面食らう話なので、毎日土の顔を見ながら作物の顔を見ながら私たちは生活してきましたので、毎日が雪に閉ざされた生活というのは、とにかくそれは慣れない限り、いろんなことに執着しない方はそれなりに結構だろうと思うんですけれども、私どもにとっては非常に辛いような日々だろうと思いますね。
 ですから、会津地方は気候がそれなりに似てれば、まぁまぁいいとは思うんですけれども、多少離れていても。浜通りと会津地方で、いわゆる間に中通りというのがあって、それを飛び越しての話ですので、多少の違いはあるだろうというふうに考えてはおりますけれども、そんなに大した人間的にどうのこうのってやろうという違いは無いだろうというふうに考えております。
 ですから、会津自身がちょっと住みづらいっていうのは正直なところ、私どもの感覚であって、それが会津地方の特有の気候でなくて、もうちょっと浜のような気候であれば、会津でもかまわないだろうというふうに考えております。
 浜通りも会津も、それなりの文化とか歴史は存在します。会津は特に白虎隊に代表されるように、日本の政治の江戸時代から、或いは室町時代あたりから会津地方っていうのはやっぱり一つの政治の中心地でしたので、それなりの歴史は重く続いているだろうというふうに考えます。
 私どもの方は、特別大きな藩もなくて、相馬藩といわき藩に挟まれた地域でございますので、あっても相馬の馬追い等々、あとは伝統民族文化っていうのは、それなりにぞんざいするんですけども、それはそれで一つの特徴だろうとは思うんですけれども、ただ会津ほどの歴史は無いというのが私どもの浜通りの印象です。浜通りはただ歴史は無くても、浜通りは浜通りの文化というのがあるので、それはそれで大事にしていこうというふうに考えております。
【町全体で新たな土地へ?】51:00頃~
(仁さん)いわき地区とか田村地区に集団定住地を見つけてもらいたいというのは、一つの部落ごとの手段移転というふうなことを考えれば、それはそれで十分だろうと思いますけれども、それはそれで、ただここから出た場合に、私は全国に散らばっていくんだというような方も中にはおられると思うんですよ。それはそれで、皆さんにはそれなりの手当てをして出していく、或いは賠償請求をそれなりに補償してもらって出ていくというような形をとらないとまずいのではないかと考えております。
 どうしてかというと、私の友達も埼玉に土地を見つけて屋敷を見つけて買ったという方もおりますので、そういった流れを見た時に、やはり定住しなくちゃなんない、或いは拠点になったところに移動しなくちゃなんないという方は、特にお年寄りの方中心になるとは思うんですけども、そういった方はそういったことを目指さないとどこにも行きようがないという形はあるだろうと思います。
 私は両面でやるべきだろうと考えております。
 それで田村とかいわき地区に拠点を設けて、拠点では部落ごとに移住して、後は全国に散らばっていく人は全国に散らばっていってもらうということしか、それは現実に大熊には戻れないことを前提にすれば、そういったことしかないだろうと考えております。
【住民の意識の変化。】53:00頃~
(仁さん)現実には、私に投票してくださった方は4割の方がいらっしゃいますけども、現実に戻れないというふうに思ってる方は、6割、7割は居るんじゃないかというふうに考えております。そういったことというのは、何かの拍子にそういう数字というのは出てきやすくなっているのではないかと考えております。
 現実には、私どもの住んでる仮設とかの中でも反対一本やりだったんですよね、中間貯蔵施設は。「いや俺はどうしても帰るんだ!」というような方が結構いらっしゃったんですよ。それが私どもの話も出来ないような方が結構あちこちに居りまして、非常に問題ではあったんですけれども、そういった方が半分元気を無くしちゃっているというか、この会津若松の長い雪の生活というか、そういうものに疲れ果て、そして毎日の日々の報道の中で除染がうまくいかないと。放射線量が下がらないという現実の中で、非常にみんな落胆しているということが一つあります。
 あと、また他町村の人たちが、或いは東京都民も含めての話なんですけれども、中間貯蔵施設をどこに置くかというのは、タブー視されててアンタッチャブルな世界だということではございますけれども、しかしながら、私はいろんな席で話は出すべきだろうと考えております。
 どうしてかといえば、やはり大熊町の原発推進自体が、多大な交付金漬けの生活であり、そして東京電力の原子力の町として、それなりの予算を使い放題の生活をしてきたわけですので、それはそれで他の町村にしてみれば、「大熊町は責任があるんじゃないか」というような言い分は、実に当然な話で、私はそれは通ると思います。
 ですから、そういったことに対しては、やはり他の町村の方が、或いは東京都民とか千葉県民とか、いろんな多県民の方もそれはそれで「中間貯蔵施設は大熊に持っていくべきじゃないか」ということは、声を挙げて言っていいだろうと考えております
 核の墓場になるということについては、非常に私どもも痛恨の極みであって、非常に長い間培ってきたもの、或いは先祖伝来伝わってきたものが抹殺されるわけですから、非常に・・・悔恨の思いでいっぱいではございますけれども、しかしながら私はそれなりに自分の人生をどういうふうに捉えるかということを考えれば、そんなに物事を残すとか、或いは受け継ぐとかということにはあまりこだわらないタチなものですから、そういったいろんな面での伝統とか文化とかといったものに関しては、新しくまた作ればいいじゃないかという考えを持っておりますので、それはそれで非常にこだわるつもりはありません。 ただ、やはりそういったのに対してこだわる方も多いので、それはそれで一つはやはり話し合いというのをよくよく地元住民と進めていって、「ここはどうしても残したいんだ」とか、「ここの文化はどうしても伝承させたい」ということがあれば、それはそれで残していただけるように政府に取り計らっていくというふうなことは、やはりすべきだろうと考えております。
【高まる線量。】58:40頃~
(ますみさん)だんだん帰る度に線量が落ちない・・・。一時帰宅のたびに線量を測るんです。役場から借りてきて測るので、あと空間線量とか積算かな。自分でもみんな持ち歩くようになったので、積算を測ると、やっぱり高くなってきたんで、これはもう家に帰れないなって。
 役場の人に、この間町会議員の人が来て誰かが質問したんですよ。
「なんで高くなってるんだ?」
「いや、そんなことは無い。高くなってない」
って言われたんですけど、みんな帰る度に測ると、前に逃げてきた後の最初の一時帰宅が6月とか7月にあったんですけど、その時に測った線量よりも高くなってる。それを最初に一時帰宅した時のことをまずみんな基本にして、そこから比べてるんですね。そうすると、2回目の方が高くなってる。風向きによっても違くなってるって、みんなが言い始めてきて。だから若い人は子供を連れていけない、というか子供も行きたくない。原発の周りは大した山もないので、そこはフレッシュな放射線量が出て、それでそれが各家に入ってきて放射線量が高くなってる。あとは山沿いの方は、山に落ちてきた放射線が下に風に飛ばされて落ちてきて、家とかに入ってきて、結局線量が高くなってるんだろうって。それは原発労働者のほかに、やっぱり一般の科学者とかテレビなんかでもよく言ってたんですけど、実際には私たちが測ってみると、前居た時よりも線量が高くなってるから、やっぱりそれは風によって山から運ばれて来たりなんかしてるんだろうなとは思うんですけど。
【原発政策】01:01:00頃~
(仁さん)原子力発電所はこれから推進して、尚且つベトナム等に輸出するっていうのは有り得ない話だろうとは思いますけれども、これも現実なのかなという気はしております。ただ、自分の姿勢としては、これほどの被害を与え、しかも尚且つ他町村、多県民に対して影響を与え、被害を及ぼした原子力発電所というのは、この世から抹殺すべきだろうと考えております。
 尚且つ、代替エネルギーはどうするのかといえば、一部の科学者においては代替エネルギーは無くても十分に間に合うんだという学者もおられますけれども、新しいエネルギーという開発をして、それは新エネルギーといいますか太陽光発電、或いは風力発電、或いはバイオマス発電等々のいろんな発電方法があると思います。それはそれでそちらの方を補充しながら転換していくべきだろうと考えております。
【これから。】01:02:30頃~
(仁さん)まずは東京電力の賠償請求の問題をきちっとしないことにはどうにもならないので、賠償請求の問題、特にいろいろ財物補償の問題をどうするのかということで、まだ東京電力も方針というか、第三者委員会も方針を出してないので、それで方針に向けて私はそれなりの補償を勝ち取っていくということが、まずとりあえずは必要なことだろうと思います。補償を勝ち取れれば、まず財政的な裏付けがあればそれなりに私どもも動けるわけですので、それが無い限りはハッキリ言って、いろんな財政的な補償が無いままにこのまま野垂れ死にさせられるようなことがあると、私たちはどうしようもなくなってしまうので、この辺についてはやはりきちっとやっていきたいなと考えております。
 そういった面に留意しながら、やはり今のままでは非常に我々住民もこのままの状態で置かれていいのかというようなことで、必要以上に文句というかいろんな不満が出ております。私はやはりそういった不満に対しては、やはり何かしら機会があれば、それなりに言っていきたいなとも思うし、町長選挙が再度あれば、それにも打って出たいなと考えております。
 私は腎臓移植手術を受けまして、非常に朝晩の薬を飲むだけで、普通の人と変わらない生活を続けることができます。それで、移植した国会議員の方も十数人おられるんです。私もその移植手術をしておりますので、そういった立場でいろんな活動するのも一つの私の権利だろうと考えております。
 ですから、肉体的には自信があります。しかも尚且つそういった人たちの声もやはり住民の声として届けるべきだろうと思うので、私はこのままの形で、もちろん隊長は崩さない程度に頑張りたいと考えております。
 体調は今、すこぶる調子はいいので、これからの仕事にも耐えられるのではないかと考えております。

(ますみさん)大熊町の『明日を考える女性の会』。長いですけど、名前はね。だけど、女性の会はここだけじゃなくて、最近の話では、やっぱりいろんな人と富岡とかいろんな人と輪を広げていこうと。いわきに移る人もあちらでも女性の会を作ってほしいと。みんなの話で。
 目標はですね、やはり「あそこは住めない。大熊町には住めない」ということを皆にわかってもらって、やっぱ定住先を求めて、そして補償の自分らがこれから生きていかなきゃいけないので、先ほどうちのお父さんが言ったんですけど、財物補償、家とか土地に対しての補償を勝ち取る。あとはやはり自分たちがこれから生きていく中で、女性の会の中には、若い人もいますけども、お年を召された方もたくさんいらっしゃるんですよ。その人たちが本当に生きてきて良かったなっていうような生き方をしようというのが、女性の会の目標です。はい。
【妻への感謝。】01:07:25頃~
(仁さん)妻に対しては非常に感謝しております。
 私がこうやって生き延びておられるのも、妻の腎臓があったからこそゆえでございますので、非常に感謝しております。それに今、妻も私に腎臓を一個貰ったうえで非常に健康であるということでございますので、それも何よりじゃないかなというふうに考えております。
【以上】

失礼します。
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