※この記事は、
2月23日【内容起こし】IWJ百人百話 第42・43話 木幡仁・ますみ夫妻ロングインタビュー【その①】の続きです。

<43:00頃から>
(仁さん)原発反対運動については、私はそれなりに批判的な立場でおったんですけれども、私の頃は全日農の親分をはっていた岩本忠夫さんがおられて、その方が原発反対同盟の委員長としてやっておられて、私もときどきそこの集会に参加したりなんだりしていたというような形で居りました。
 原発賛成派・反対派ということでぶつかり合いということは、だから無かったろうというふうに考えております。
 私たちは原発反対とは言いながらも、原発そのものについて、じゃあ今無くしてどうするんだ?っていうような形で問題はたてられなかったので、それは黙ってみてるしかないのかなという形でいたのが事実でございます。
 原発反対同盟の人たちは、それなりに原発反対の署名をしたり、或いは集会をやったりデモをやったりという形でやっておりました。そのほか何をやったのかと言われれば、別にこれといって結びつくようなことは無かったんですけれども、ただやはりいろんな各地の原発反対運動をやってる方々と結びついた形でいろんな連帯行動はとっていただろうと考えています。私もその辺については・・・岩本忠夫さんのもとで動いていたので、それはあまりよく判らないといったのが事実だろうと思います。

 私はそれなりに最初のうちは、そういった原発に反対はしてたんですけれども、途中からは「もう原発反対もちょっと時代遅れかな」と見ていたところは私はこの間の事故にあって、「これ、原発反対っていうのは必要なことだったんだな」というふうに考えております。ただ、あの時点で反対したからってどうなるものでもなかったのかなという考えはありました。
 それは原発反対というのはどうにもなんないなという考えを持ったのは、今まで全国的に反対運動をやって来た方には失礼なんですけれども、やはり現実的にまぁ・・・私が考えるに事故を起こさない。尚且つ原子力発電所の不具合も起こらない。3.11みたいな津波も起こらないというような形で、何事もなくきたものですから、やっぱり自然と原発に対する不安は取り除かれていったというのが正直なところだろうと思います。
 尚且つそういった形で原発全盛期っていうのは、やはり1990年代、2000年代がそういったことだったのかなという気はしています。
 私の家は7.5㎞のところにあります。原発からの距離は、7.5㎞のところにおります。ちょうど私のところから原発の煙突が見渡せるような距離になっておりますので、非常にどこがどうなってるかというのは、なかなか判りやすいところだろうと考えております。
【2011.3.11】47:00頃~
(ますみさん)3.11は私は友達の家に居たんですね。本当は、私は仕事のはずだったんですよ。モノを配達したりするんですけども、請負ですね。ちょっと私はいつもサボる癖がありまして、午後の仕事を午前中のうちにやっておこうと思いまして、午前中のうちにちょっと配達して来ようと思ってやったので、午後からは友達の家が喫茶店なので、みんなでおしゃべりをしてたんです。お茶を飲んで。その時は友達とおばあさんとか4人居たんです。
 急にグラグラ―っときて、
「え!?」
と思って、後ろのピアノとか倒れそうになって、おばあさんを支えて、90歳近くなるおばあさんだったんで、おばあさんを支えて、テレビも倒れそうだったので友達もテレビを。そのうち壁がバリバリとなって抜け落ちたり、天井が壊れてきたり、そのうちすごい頃後ゴロゴロって転がってきてぶつかる音がしたんで、しばらく揺れるのをみんなで我慢して待ってたら、そのうち揺れが収まったので、外に出たら、もう・・・近くの塀が壊れて、それが石ころが友達の喫茶店に転がってちょうどぶつかったり、道路が起伏が激しくなったり、家が壊れたり、新築途中の家があったんですけど、それが壊れて全部落ちてたり、
「とんでもないことだな」
と思って。
 揺れが収まらない時はずっと友達の家に居たんですね。揺れが収まって、みんなで「さぁ家に帰ろう。家がどうなってるか心配なので、すぐ家に帰ろう」となって、揺れが収まってからみんなそれぞれ車に乗って家に帰り始めたんです。
 私も家に帰る途中に、どこから通ったらいいか判らないから、道路がまず安全なところを通っていこうと思いまして、ずっと商店街を通って郵便局のとおりを通って、夫の保育所の前を通って帰ろうとした矢先に、もう揺れは無かったんですけど、いきなり一軒の家が、古い家なんですけど崩れ始めて、一瞬のうちに落ちたんですね。
「誰か居ないかー!」
って言われたんですけど、誰も居ないので、家だけで良かったなぁと。
 それで、ずっと家まで帰るときに、なかなか普通は10分かそのくらいで帰れる家の距離だったんですけども、30分以上かかったんですね。やっぱりね。
 やっと家に着いたんですけど、野上は全く家自体はみんなどこの家も壊れてない。それで
「あぁ、良かったな」
と思って家に帰ってきたんです。
 家の中に入っても、あまり崩れてるものは何もなかったので、安心したんですけど、ただ電話はつながらなくなったし、電気はつかなくなったし。
「あら、どうしましょ。」
って感じ。
(仁さん)3.11の時はですね、私は大熊町の町議会議員として、ちょうど議会が始まって委員会の審議というのがあるんですけれども、委員会の審議をやっていた最中でした。
 それは、大熊町役場の3階の総合文教委員会というところでやっておりました。その当時はものすごい揺れと揺れが長く続くということで、非常にちょうど私どもの委員会は隣の委員会はどうだったか判んなかったんですけども、私どもの委員会は約半数近くが煙草を吸いに外の部屋に出て、外の部屋の一室にこもって煙草を吸っておりました。私と委員長は煙草を吸わないので、二人で残って「あーでもない、こうでもねぇな」って雑談をしながらいたんですけども、その時にちょうど巨大な地震が襲ってきて、それでもう・・・その地震は役場の3階でしたから揺れも酷くて、いろんな建物が倒れて、私どもの背中にもロッカーが倒れこんだりなんだりしながら。私は机の下に潜り込んで揺れの収まるのをずっと見守っていたというような状態でした。
 揺れが収まった後はですね、まず家のことが心配でしたね。家。役場そのものは建物はがっちりしてて建てたばっかりですから当然なんですけども、建物地震は耐震性についてこういったことをやるという形でやっておりましたので、耐震性は大丈夫だろうというふうに考えておりました。
 しかしながら、家のことが心配でしたので、家の方に電話連絡をしたんですけれども、電話も通じなかったです。
「これはすぐに家に帰らなくちゃいけないな」
というふうに思いながら、当時は役場職員というのは全員役場の外に出て、役場の外から役場の様子を眺めてるというような状態だったので、役場の外に出た職員とか私たち関係者が、やはり100数十名おりまして、それが一段となって役場の揺れる様子を眺めていたり、或いはその中でも
「海の近くの人は今から津波が来るかもしれないから、俺は帰る」
というふうに帰っていく方も結構おりました。
 そういった形で、すぐに停電と電話が通じなくなったので、正直なことを言うと、
「もうこれはどこまでも被害が広がるのかな」
というような気がありました。
 家に向かいました。車で役場に来てたものですから、家に向かって。家に着いたところがなんでもなかったということで一安心したんですけれども、次に妻と二人であちこち「ちょっと心配なとこもあっから見てこよう」ということで、車に乗って二人で出かけたんです。ちょうど二番目の息子が大学の休みで帰ってきていて、次男坊が家に居りましたのでその二人を留守番にして、私と妻があちこち見てきたんですけれども、やはり道路はせり上がって陥没したりなんだりで、道路があちこち凸凹になっておりました。あと、今夜食べるものが無いので、いろんなものを探さなくちゃいけないということでコンビニに入ったら、コンビニはもういろんな揺れでめちゃめちゃになっていながらも、でもコンビニそのものは開けていて、店番の人がそれなりに・・・いろんな商品を、それでも全部売るんだということで、いろんな商品を来た人に一生懸命手分けしながら売っておったのを覚えております。
 「原発はどうなんだ」ということもあると思いますけれども、原発のところまではとても行きつかなくて、原発の方面からはどんどん人が歩いて帰ってくると。あれは東電職員だと思うんですけれども。東電職員が続々歩いて帰ってくるというような状態でしたので、原発そのものにも近寄れないという状態で。
 ぐるっと一回りしてまた家に帰ってきたというようなことでございます。
 原発そのものの地震については、私はあまり聞かなかったです。それで、息子がラジオを持っていてラジオをつけたところが、
「原子力発電所も危ないんだ」
という話で、3㎞圏内が最初避難というふうに出たんですね。3㎞圏内が5㎞圏内になって、10㎞圏内が避難というふうになりました。それは次の日の6時の段階です。その段階で10㎞圏内が避難ということで、大熊町は一斉に避難したんです。
 それまでは、要するに原子力発電所がどういうふうになってるかという話は全然なくて、「原子力発電所がただただ危ないんだ」という話だけで、それで現在のような状態であるということは、ラジオでもう全然判りませんでした。ラジオを聞きながら、次の日の朝方、菅直人がヘリコプターに乗ってこちらに来るんだという話になっていたものですから、
「あ、これ菅直人が来るんだったら、これは相当な事故になってきたんだな」
というような感覚は持って朝起きたわけなんです。
 次の日の朝は、いわゆる12日の朝なんですけれども、それなりに朝6時ころ起きたところ、もうほとんどの人が役場の公民館の前に集まっていて、大熊町全域の人も公民館、役場とかそういった主だったところにあちこち集まっておりまして、みんな避難する格好をしておりました。
 私も当該地区の野上一区の公民館に集まりまして、いろんな人と話をしながら、
「原発どうなっちまうんだべな・・・?」
という話の中で
「うーん。まぁ仕方ねぇからとりあえず逃げて様子見るしかねぇだろうな」
ということでおりました。
 原発そのものは、そういった形で推移していったんですけれども、私は現在というか、以前にいた避難所に着く前に車でひととおり、私も町会議員ですので、町の様子がどんなであるか見に行かなくちゃいけないということで見てきたんです。
 ところが役場とかいろんなとこに黒集りの人が集まって、そこからバスに乗ってずーっと数珠つなぎになって私の家の前をとおって288号線に乗っかって、郡山に向かっていくというような形でしたので、私は帰ってくるときには一番後ろにくっつくという形で自分の家を戻ってきたんです。
 ところが、私が家に着いたところ、もう部落の人は誰一人居なくなっていて、「みんな避難したんだよ」ということを聞きまして、「私も避難しなくちゃなんないな」と考えて避難しました。
【避難。】01:00:30頃~
(ますみさん)車には私一人で乗って、田村地区の船引にあるスポーツセンター、田村体育館に移動しました。
 3月12日が東北大の入試時期だったんですけれども、これは私は「こんなだから明日は入試はねぇぞ」なんていう話をしてたんですけど、妻は「明日はある」というふうに言ってまして、それで長男を補助員回りにのせて、次男坊を東北大受験に連れて行くということで仙台に向かいました。それは前の日の11時か12時ころだったと思います。
 受験は結果として無かったので、帰ってきたようです。それで私はその時に避難所におりましたので、帰ってきたときには12日頃だったと思いますけれども、避難所から連絡を取りたくても連絡は取れない、つまり電話はつうじないですから、何の手さぐりもなくて。
(ますみさん)先ほども主人が言ったんですけれども、一番下の息子が受験・・・多分ならないかもしれないけど、なんかその後の対処もあるから、受験あるかもしれないしと思って、強引に仙台に行ったんですよね。それで帰ってきたのが12日の午後、夕方頃なんですけど。
 それで帰ってきて、誰も居ないから。
「どこ行ったのかな」
と思って、それで私は車に乗ってまず大野に行ったんですよ。町の中の方に。そこは原子力センターの前を通ったんです。そしたら原子力センターの前に人がいっぱいいまして、なんか皆外に出ていたんですね。タバコ吸ったりなんかしてる人も居たので、
「大熊の皆さんはどこに行きましたか?」
って聞いたんです。
「誰も知りません」
って言われて。そしたらあの時原子力センターの人たちは何も、何が起きてるのかわかんない状態で、外でジョギングをしたり、煙草を吸ってる方も居たので、
「これはどういう状態なんだろうな?」
と思ったんですね。
 だから、一瞬それを見ると、ジョギングしたり原子力センターの前でやってる人の姿を見ると、大したこと無いんじゃないかなと思っちゃったりもするんですね。それで、とりあえずずっと車で大熊町を走ってたんですけど誰も居ないんですよ。
 役場にも行ったんですけど、誰も居ない。
「これはどっか行ったな」
と思ったんですけど、まずガソリンスタンドを探そうと思って、ガソリンあんまり使えないし。ガソリンスタンドに向けて行ったんですけど、まず大熊町の農協のスタンドに行ったんですけど誰も居ないから、これはまずいなと思って。そしたら道路が国道6号線なんですけど、かなり起伏が激しくなって、穴が開いたり酷かったので、そこの6号線をずっと走って、浪江のガソリンスタンドで入れようと思って行ったら、浪江のガソリンスタンドは一生懸命皆入れてる状態で、私も入れようと思って、おじいさんが私の車にガソリンを入れてくれたんですけど、みんなが
「津波が酷かったから。だから浪江の町はダメだわ・・・」
 それでじゃあガソリンを入れたから良い気分になって、浪江とか行ったんですよ。
 もう・・・水がここにないはずの水が・・・道が無いんです。そこに水がいっぱい・・・近寄れなくて、危ないから。
「あぁ、これは酷いわ」
と思って、今度これは家に帰ろうと思って双葉を通ってきたんですけど、双葉がもう道がすごい穴が開いたりなんかして、双葉が酷かったですね。双葉の町の中、石田医者とかあるんですけど、私の夫の叔母がいるところが近くにあるんですけど、その家も近所は皆崩れ落ちてて、酷い状態だったんで、
「あぁ、これは酷いな」
と思って、やっとの思いで帰ってきて、次の朝どうなってるのかわからないから、またちょっと昼間の朝のうちに富岡でも見てこようと思って富岡行ったんですね。そしたら、6号線の近くにTomTomっていうところをふっと見たら、水がすごかったんですよ。
「うわー、水だ。水で溢れてるな」
 それで、ちょっと行きの方にいこうかと思ったけど行けないんです。すごい状態だったんで、こんなところまで水が来てるの?って。なんか動物がちょっと向こうの方で流されてて、
「うわー、これちょっとダメだ。帰ろう」
と思って、でもあちこちがすごい状態なんで、津波もきっとものすごい状態だったんだなと思って、
「これ、津波でかなり酷いよな・・・」
 そしたら6号線を通って、原発はどうしてるかなと思って、原発の方に行こうとしたら、
「ダメダメダメ!」
って。
「そりゃ、駄目っていわれるわな」
と思ったんですけど、今考えればね。かなりの人がいっぱい原発の人たちが封鎖してて、「行っちゃいけないよ!」って言われて、
「あ、これは何かあったんだな」
と思って、それで家に帰ってきて。
 それで、家で皆どこかに逃げたんだなと思ったんですけど、家には犬がいるし、猫がいるし、これどうすっかなと思って。うちの主人が「行くぞ!行くぞ!」って迎えに来たんですけど、犬と猫どうしましょう。
 もうなんかうちの子供、犬と猫連れて行きたいんだけど、連れていけないから。それで
「ちょっと待って。明日行くから。明日行くから。」
って14日に朝こっちを10時頃出て。大熊の家を10時ちょっとすぎに子供二人と私と3人で車に乗って出て行ったんです。
 それで、玉の湯ってちょっと上の方に行きますとあれなんですけど、その辺から上がすごい道路が壊れていまして、
「これ、酷いな・・・」
と思ったんですけどもね。
 夜帰ってきたので、私たちはそこを通ってもあまり判らなかったんですね。よくあんなところ帰って来たなと自分でも思ったんですけど。
 田村市に着いたのが今でも覚えてるんですけど、10時45分だったんですよ。なんでかというとセブンイレブンがあるんですよ。田村市の総合体育館の近くだったんですけど、そこでお腹が空いたから子供らにおにぎりを買って食べさせようと思って、それでセブンイレブンに入ったら、
「なんでますみちゃん、こんなとこに居るの?」
って言われて、
「あんたとこのじいちゃん、待っておいでよ」
と言われて、
「そうですか」
 私の近所の人が、私のことを呼んだので、
「体育館に居るんだよ。田村市の総合体育館に居るんだよ。近くだからね」
って言われて、私たちは体育館に行ったんです。
 体育館に言ったら、うちの主人は非常に顔色が悪く、なんか体もかなり色が衰弱してるような状態で、
「あ、これはかなり酷いな」
と思ったんですけど、そこに居る人みんな、すごいワイワイというような感じで、騒然とした感じだったですね。体育館の中まで。
 なんか私たちは10時45分にセブンイレブンについて、それから体育館に行ってから2,3分かしたら、
「爆発が起きたぞ!」
と皆言ったもので、その前に来たから「これは良かったなぁ・・・」と思ったんですね。
(仁さん)14日に妻と子供を迎えに行って、妻や子供は家に居りましたので、私は乗せて田村の避難所にやってきました。
 いや、身体は調子は悪くなかったといいますか、それなりに役場の議会もやっていたので、そんなに悪いというほどではなかったんですけど、2,3日したらやっぱりガクッと・・・。避難所での生活が・・・やはり・・・ロクな食べ物も食べれなかったので、その辺でどんどん悪くなっていったんじゃないかなというふうに考えております。
【避難生活で得た原発の情報。】01:10:50頃~
(ますみさん)原発作業員の私の友達にいらっしゃって、その方が逐一情報を教えてくれて、私が14日に来て、???さんにお会いしたのはその後だったんですけど、もう18日くらいかな。???さんとほかの友達も。原発で働いてる人が、
「もうダメだよ。二度と帰れないよ」
って言われていたんで、
「原発の中は・・・もうぐちゃぐちゃ・・・。爆発で全部壊れたよ。とてもひどい状態だ。」
って。
「そこからどんどん放射線が全部噴煙となって全部舞い上がってるよ。酷い状態だよ。二度とあそこは帰れないよ」
って。
 みんな、原発で働いてた何人かも、
「もう俺も行きたくねぇ」
とか。だけどにげまって行った人も、にげまっていうのは、「自分の働いてた原発の会社から呼び出されるのが嫌だ」、下請けとかにいそうですね。それで、寝たふりしてるとか顔隠してるとか、布団で隠したり毛布で顔隠したりしてた人が一杯居たんですね。
 体育館の中で、私は一緒にご飯を出したりいろんな仕事をやってたんですね。その時に
「こういう人居ないか?知らないか?」
とかって来た人が居たんですよ。結構。
 それで私は知らないし、他の人が「知らない、知らない」って言っても、あとで聞いたら、
「俺、知ってるけども絶対言っちゃいけない」
って、なかヒソヒソ秘密のことは、奥の玄関から入って下駄箱が隔離された様な状態であるんですけど、そこに入ってヒソヒソ電話をしてるんですね。
「もう二度と行かない」
「原発に行かない」
「あそこはもう行かない」
 あと、
「みんなどこどこに行こう。こうここには居られないから。」
「危ないから」
とか、そういう電話はあの原発で働いていた方がかなりやってたんで、
「あぁ。これは酷いなぁ・・・」
って。でも、なんかその人たちが何で行かないかなんて言うと、自分たちもそこで働かされるから、行きたくない。奥さんたちも「行かないで」って。原発で働いてる人たちを車で迎えにきたり。こちらから自分で車に乗って原発に働きに行ったり。そういう人がいっぱいだったですね。
 あるお父さん、津波で家が流されたんですけれども、それでもその方はやはり原発に働きに行かなくちゃいけないから、おばあちゃんが止めてたんですけど「行かないで」って。だけど「働きに行かないとダメだ」って言って、その人は大熊町の人じゃないんですけど、あの時田村市の総合体育館に居たのは大熊ばっかりじゃないんですね。双葉の方もいっぱいいらっしゃったので、双葉の方が「絶対行くな」とか親御さんが言ってたんですけども、息子さんは奥さんも子供も居るから働きに行かなくちゃいけないっていって、不眠不休みたいな形で。
 居ても体育館の中は、夜は寒いんですよね。だからなかなか寝られないんですよね。みんなね。やっぱり考えるとなかなか寝られなくて、
「ほとんど寝られないような状態で原発に働きに行ってた」
ってみんな言ってたんですけど。
 原発で働いてた人が体育館に来て、ご飯とかお味噌汁を渡したりしていくですけど、震えが止まらなくて、手がパーキンソンみたいに震えてるんです。
「どうしたんですか?」
って聞くと、
「いやー・・・」
って口も震えてるんですね。
 あとからその人の親族に聞くと、もうショックで・・・。
「まぁしょっくだわな・・・」
ってもうずーっと震えが止まらないんだって。
「仕事に行けないんじゃないですか?それじゃあ。」
っていうと、
「いや、仕事に行かなくちゃいけない」
 それで迎えが来るとその震えが止まっていく・・・。でも帰ってくると、また震えが止まらなくなって。それがずーっと、なか交互に続いてたみたいなんですけどね
。そういう人も居て、なんかもう・・・。中は大変だろうなって思った。
 1階と2階があるんですね。体育館の中はね。それで、体育館は広い部屋と狭い部屋がありまして、広い部屋のの上には2階がありまして、大体原発で働いてる方は2階の方に寝るんですよ。それで、2階の隅っこの方でなるだけ時間を寝る時間を当てて、ある時間は寝てそして仕事に行く。もうみんなそれを繰り返していました。
 今は全然あまり話もしないんですけども、あの当時、体育館の中ではそういうこと全部いろいろ話をしてくれましたね。メルトダウンから、今原発の中は多分こうなってるとか、酷い状態だとかそういうのはよく話してました。
「まず地震で壊れてる」
って。
「津波が来る前に地震で全部、あちこちが壊れてかなり煙を出したり酷い状態になってる。それで今度津波も来て余計酷くなってる。もう原発は仕事は出来ないよ」
って形で。
「ただもう今後どうなるかな・・・ただもう中では働けないよ」
っていう形で。
「原発で前みたいな仕事はできない」
ってみんな口々に言ってた。
 下請けの人が、後から今度会津若松のホテルに私たちが今度避難してきたんですね。ホテルの中に居た方々で何人かは下請け労働者の方が一緒にいらっしゃったんですね。その方々がそれぞれのところにまた職場に戻っていったんですけども、みんな
「あれは津波のせいじゃない。最初に地震があって、地震で排水管から何かが壊れてしまった。だからそれでバルブも壊れて、それがまず原因だ。地震だ」
ってみんなおっしゃって。
「津波のせいでなったんじゃない。まず最初に地震があったからだ。地震で耐震なんて無いよ」
て、みんな言ってたですね。
「結局は東電職員が最初に逃げてしまった」
とかって下請けの人たちはおっしゃってまして、
「地震によってまず壊れて、東電職員は逃げた」
とか言うんですね。それで
「中に入ってたのは東電職員でも若者とか、下請けの人たちが居た。だけど、ほとんどの上の人たちは最初に逃げた」
ってよく言ってらした。
「だから東電とか上の人たちとか、みんな政府は嘘ついてる。完全にあれは津波じゃない。地震だ。地震に耐えきれなかったんだ。だから、それに津波も来て余計酷くなったんだ。津波なんて昔から来たらもうダメだって言われてたのに。電源は下にあって上にないし。」
 東電の中でも原発の中でも、下請けの労働者の人たちはみんなおっしゃってたんですけども、体育館であった人も言ってたんですけれども、あとホテルであった人たちも言われてたんですけども、
「津波があったら、もう電源は上にないから、下だから、絶対ダメだとは言われてたのに、ひとつもそれを変えようとしなかった。上に持ってこようともしなかった。(前から言われてたのに)それに対して何の答えも出さなかった。」
って皆さんおっしゃってました。体育館でもおっしゃってましたね。
 最近、この仮設にも自分のお母さんというか、お母さんの子供さん3人おられるんですけども、
「そのうちの一人はもう働いてない。だけど二人は完全に原発で働いてるんだ。私は戦争に取られた様なものだ。もうダメだな。あの二人は。もう結婚もできないし子供もできないよ。というか途中で病気になる可能性は十分だな・・・。
吉田所長はいいよねー。上だから。ガンになったからって。でもあの人甲状腺ガンなんだよ、ほんとは。あれは絶対発表しないからねー。ガンになったって、ガンじゃないとか言い合ってるし。その下で働いてる人はもう完全にガンかもしれないけども、そんなの関係なくお構いなく皆働かされて・・・っていうか、しょうがないね。これって原発で働いた分だけやんなくちゃいけない」
っていうふうに思ってる。そのお母さんは息子さんに辞めろって言ったらしいんですけど、けど息子さんは「いやだ」って言って・・・。
「失業したら働く場所が無い」
「けどお前、命が無くなったら終わりなんだかんな?」
っておっしゃったんですけど。息子さんに言ってたらしいんですけど、息子さんは黙って仕事に行ったって。
 でも、そのお母さんのおっしゃるには、
「今中で働いてる人は、みんな福島県内の人だ。東京電力の社員で東京から来た課長から上の人は、こうなって逃げてしまったよ。」
 本当だったら東京の本社がみんなおっしゃるには、この辺の働いてた人たちのお母さんとかも働いてる人たち本人も言うんですけど、
「できるならば本社をこっち大熊とか富岡に移してほしい。実際にこっちに来てちゃんと中身見てそれから話せ」
 だけど「実際に言ったら?」っていうんですけど、なかなか言えないですね、やっぱり。言えばいいんですけど。
 だけど、本当に中は酷いらしい。もう働く人が限られてるから。
「やくざの人お断りっていうけども、やくざの人が居なかったら困る」
って。やくざ、つまり
「暴力団の人が働いてるって中ですごい問題になってるけど、暴力団の人も居なかったら、働く人が居ない」
って。原発労働者が自分たちのいろんなことに対してちゃんと話せばいいんですけど、なんかずーっと昔から、頭からそういうこと「話しちゃいけない、話しちゃいけない」っていうふうに植えつけられてきて、
「もうそれで自分たちはそのおかげでお金を貰って、給料をもらって働いてきたから」
ということで、もうね・・・植えつけられて、もう洗脳されて言えない。自分はそれは正しくないと思ってるのね。吉田所長が東電原発から去っていって、「実は僕も吉田所長と同じだよ」っていう人がいっぱいいるけれども、
「吉田所長みたいに上の人だったらいいよ。金ももらえるし、給料ももらえるし。けど俺ら若手弱者はやっぱり若輩者はそういうことが言える状態じゃない。原発に訴えるまではいけない」
とか。
「結局どこかで潰されてしまう。原発を訴えようとしたら、途中で必ず何か潰されてしまう」
っていうような意識が結構強いですね。
「お金が高額なお金を貰って口止め料、原発の中の状態とか労働状態とか会社の中身をこんな訴えようとして、お金で潰された人も居るし、あとは完全に・・・お金も関係なく潰されてる人も居る」
って言ってました。それが怖い。働いてる人たちが言ってました。あの家族も言ってました。
<前半終了>

【その③】に続きます。

失礼します。
にほんブログ村 環境ブログ 原発・放射能へ
にほんブログ村

人気ブログランキング