※この記事は、2月22日【内容起こし】IWJ百人百話 第41話 尾形紀泰さん【本当にやりたいことは福島の方々に『本当のこと』を知ってもらうこと】に関連しています。

【動画】
2月23日 百人百話 第四十二・四十三話 木幡仁・ますみ夫妻 前編
http://www.ustream.tv/recorded/20640725 (85:56)
2月24日 百人百話 第四十二・四十三話 木幡仁・ますみ夫妻 後編
http://www.ustream.tv/recorded/20661157 (70:25)

【以下、お時間のない方のために内容を起こしています。ご参考まで】

2012年2月1日収録
大熊町から会津若松市への仮設住宅への避難
第一夜
(ますみさん)私は木幡ますみといいます。出身は郡山です。今敏は56歳です。家族構成は5人で、私と夫と長女、娘と長男と次男の三人、子供です。
 娘は34歳で、長男は32歳で、次男一番下なんですけどそれは26歳です。
 父は一応教員で、郡山であちこち転勤をして育ったんですけども。私は一緒になって引っ越したんですけど、私は兄弟3人で、私が長女で下に妹と弟がいます。家族は5人でした。
 今もみんな健在です。
 父はほとんど家に居ない人で、帰ってきて会うのは1か月に1回、2回くらいかな。夜中遅く酔っぱらって帰ってくるので、その間に私たちは寝てるので、ほとんど会ってないですね。朝は早く学校に行ってしまうので。
 母は、身体がものすごくすこぶる病気で、私が覚えてる限りはよく入退院を繰り返してたので、私はよく父と二人で居たり、母のところに行ったり、母は働きながらよくいろんな人に教えたりはしてたんですけども、やはり裁縫を教えたりいろんなことを教えたりしてたんですけど、やっぱり体が弱くって・・・っていうか病気だったんですけど。それでやっぱり寝たり起きたりの生活で、私は父と母が一度入院して、私が結局妹、弟を母の実家に預けたりして、私は私なりに楽しんでたような??でしたね。
 よくテレビに出てくるような「ちびまるこ」みたいな、子供の時はよくパトカーに乗せられて・・・っていうか、あちこちいろんなとこに行って迷子になってくるんで、帰りはよくパトカーに乗せられてきましたね。父がいる学校に遊びに行くんですけど、まだ幼稚園とか覚えてるんですけど、なか郡山市を駆け巡ってたような感じでしたね。
 東京の学校を一応受けたんですけど、親が知らないうちに受けたんで、金を払ってもらえないしね、だから、その前に大学も入ってたんですけど、大学はとても私に遭わなかったので。
Q.東京の?
 いえ、地元で。母親とか父親の知ってるっていうか、母親も縫い物とかの先生やってたんで、その関係もあって父の友達の、今いわゆる郡山女子大の高校とか大学とか行かされたんです。
 ・・・合わないから辞めたんですけどね。
 それから、いろいろ自分で勉強したりして受けてきたんですけど。
 ちょっと怪我をして、怪我をして、やっぱり首の方をやられてしまったんで、その時ちょうど栄養状態も良くなかった・・・栄養失調も重なってたので、やっぱ体が付いていけない状態になって、うちの帰ってきたんですよね。地元、郡山なんですけど、実家に帰ってきたんです。
(仁さん)私の名前は木幡仁(じん)と申します。私は、大熊町に生まれまして、昭和26年に生まれました。現在61歳になっております。
 地元の大熊の大野中学校というところを卒業しまして、双葉高校に行って、それから東北大に行って、故あって途中で中退して家に帰ってきました。
 それで、家に帰ってきたあとは養豚業をやりまして、養豚業をやってそのほか養豚がなかなかうまくいかなかったものですから、田んぼを増やして、そのつい最近ですけど町会議員を一期やって、途中で辞めて現在に至ると。
 3月11日時点で何をやっていたかというと、田んぼと町会議員を一期4年目の最後の年でした。
 家族は私と妻と、あと子供が3人おります。うちには私の母親と私の兄がおりました。兄は現在ちょっと精神病院に入っております。おふくろは、去年、おととしの12月に亡くなっております。
 出身は大熊町の野上山上前というところです。
 大熊町というのは、福島県というのは浜通りと中通りと会津地方と3つの地域に分かれておりまして、浜通り地方っていうのがいわゆるいわき、双葉、相馬、この三つのところを合わせて双葉町というふうに言うんですけれども、その真ん中のところの双葉地方の大熊町というところに住んでおりました。
 私は実家の三男なんですけど、一番上が私が生まれる前に亡くなっていて、二番目が私の兄貴なんですけれども、その二番目がちょっと途中で精神的におかしくなりまして、今精神病院に入院してるということでございます。私は三番目です。
 私はそれで長男の役割を担うということで、兄貴の面倒を見て、しかも家の家業を継いでいるというような形でやってきました。
 私は、東北大に入ったのは、昭和44年で大学闘争の最中のことだったですよね。その頃、東北大に入りまして、それでそれなりにやろうとは思ってたんですけども、私はそれなりに勉強もしたんですけども、うちの方がなかなか続かなくて、うちというのは私の実家の方のことなんですけども、やはり・・・教科書とか或いは授業料そのものもなかなかままならぬということで、アルバイトばっかりやってたような青春時代でしたね。そのアルバイトばっかりやってる中で、なかなか・・・学校に通うということもなかったんですけども、学校に通うということがなかなか苦労、苦学したような形になっていて、3年目、4年目頃、実家の兄貴がその当時実家を継いでいたのは私の兄貴だったんですけれども、
「兄貴がちょっとおかしいから帰ってこいよ」
というふうにおふくろに言われまして帰っていったところが、やはり・・・そういった・・・精神的におかしいということで、精神病院に私が連れて行って入れまして、福島にある精神病院なんですけど。それで私がおふくろも一人でも大変だろうからということで、私が帰ってきたというようなことになっています。
 私は工学部の資源科というところに入ったんですけども、それは・・・早い話がつるはし一つで世界中の山を歩いて山師とは言わないですけれども、そういった形でいろんな資源とか或いは鉱物的な資源とかそういったものを掘り当てたりなんだりして、開発に勤しみたいなというふうに考えておりました。
 それは私の父が、やはり東京農大卒業して家に帰ってきたんですけども、私の父が「世界中は良いところだぞ」というような形で私に小さい時から耳に吹き込んだものですから、私も世界中の山を歩いて、「それじゃあいろんなことをやってみようかな」というような気がありまして、そういった方面に進もうと考えておりました。
 私は、世のためとかエネルギー資源のためとかっていう考えは当時は無かったです。私自身は、自分自身がおもしろおかしく人生を送れたらいいなと思っていましたので。
 そういった世界中の資源をいろんな形で掘り当てるというような山師的な発想がありまして、そういったことが・・・私自身も性に合ってるなというふうに考えておりました。ですから、それほど世のため人のためとか、或いは日本の経済のためとかそういうことは全く考えておりませんでした。
 私が大学を辞める時の想いというのは・・・そうですね。それほど重大なことではなくて、淡々としていて、「どこに居ても人間の一生は一生だな」という考えがありました。
 ですから、大学を辞める時も淡々と辞めてこられて、ずっと当時農家やってましたから、農家の仕事にも入れました。
 自分の父は中学校1年の時に亡くしておりました。私の家は母一人で育てられてきたわけなんですけれども、母一人なものですから兄貴が家を継ぐというような形を予想しておったわけです。予定しておったわけなんですけれども、兄貴が調子が悪いということで、私が大学を辞めて急きょ帰ってきて、私が後を継ぐことになりました。
 私が家に戻ってからは、田んぼを一丁五反あって、あと山が結構ありましたので、田んぼと山をやって1日中過ごしていくという形で過ごしてました。
 しかしながら、私どもは、それほど経済的には恵まれなかったので、例えば一丁五反という田んぼそのものをいじっていても、それほど農業の収入が入るわけではないし、あと山をいじっていても、すぐに売れるというようなことは無かったものですから、それはそれで非常に経済的にはなかなか困窮してた生活が続いていました。朝から晩まで農作業はやっておりました。
【ふるさと。】16:20~
(ますみさん)ふるさとの郡山は、私の住んだ頃は、そうですね、田んぼあり。駅前の方はかなり昔はやくざが結構いましてにぎやかだったですね。
 そうですね、飲み屋がすごいたくさんありまして、夜になるとにぎやかですね。昼間も一応デパートがいっぱいありましてお客さんがいっぱい来るんですけど、夜は夜の街で、かなり泥酔してるお客さんとか、あとは一番覚えてるのは非常に子供の時なんですけど、やくざさんが・・・捕えられた留置所から帰ってくるんですね。それでみんな、黒い服着た、背広来た人たちがずーっとお出迎えなんですね。それで傍らにはずっと警察官がいて、あと私が見た時は、バンバンと打ちあいがあって、結構そういうかなり激しい街だったかな・・・。
 東北のシカゴって郡山は言われていますね。やくざさんが結構いろんな店を経営したり、大麻とか薬とかそういうのが結構横行してて。でもみんながみんなじゃないです。反対に裏通りはそうですけど、表通りは結構にぎやかで、やっぱ福島県では・・・というか東北地方では一番先に仙台と郡山が流行の先端を行くような感じだったんですね。
 郡山は福島県で大体真ん中へんで、大熊はそれからちょうど真っ直ぐ浜の方に東ですね。東側でそれでうちの私の今の家は、大熊でも西側なんですね。山の方なんですけど、田村市のほうに近い側なんですね。
 だから、東電課から原発からは7.5㎞くらいで、私のところから車で行きますと1時間半くらいですかね。私の実家が郡山なんですけど、私の実家から約1時間半で今の大熊町の家までかかりますね。1時間半です。だいたい。
(仁さん)大熊町はですね・・・、気候はまず温暖ですね。気候はまず温暖で、あとは海あり山あり、全ての自然がそこに集約されているようなところなんですけれども、いかんせん、大熊町というのは昔から産業の無いところで、出稼ぎっていうと語弊はありますけれども、出稼ぎというのが多くなされてました。私のところばっかりでもないんですけれども、出稼ぎというのは。大熊町ばかりではないんですけれども、出稼ぎ中心の町でしたね。
 農業は、それなりに発達しておりました。それは私たちの先人は梨、果実の梨を栽培して、私どもはその田んぼの耕作をして、そういった形で非常に・・・農業とあとは漁業というのはそんなには無かったんですけど、漁業というのは港もありませんしそれほどのことは無かったんですけど、それであとは原子力発電所ですね。これが来て、そういったところにこれが来て、原子力発電所関係の勤め人が多くなったということですか。
 地形は、山が半分の平地が半分くらいで、ちょうど大体・・・海に面した形で細長く、細長くて海に面して・・・海に突き刺さるような感じで細長くなってます。その後ろ半分が山になっていて、あと前半分は平地になってます。
 私の子供時代は、その頃のどこの子供さんもあったろうと思うんですけれども、山あり川あり海ありで、一生懸命外を遊びまわって、夕暮れになってくると家に帰ってくるというような、そういった普通のやんちゃな子供の青春でしたね。自然にはとても恵まれていて、夏には前の川に行って鰍とか、あるいはいろんなアカハラとかそういう魚をいっぱい獲って、ヤマメとかそういった魚をいっぱい獲って。冬は冬で野鳥の罠をかけて野鳥を獲って焼いて食べたりするという、ごく普通の自然な農家の子供でした。
【結婚。】23:00~
(ますみさん)私がバイトで認証検査センターで働いてる最中に、私の友達が主人を連れてきたんですね。それで、ちょうどたまたまうちの父も酒飲みなので、お酒を飲んだりしてとても息が合ったというか、うちの父は「もういつでも行け―!」というか、私と父がかなりいつも喧嘩ばかりしてたんだよね。私も早くこの家を出ていきたいなと思っている矢先にきてて、一応一度行ったんですよね。大熊町に、主人の家に行ったんですけれども、私が。その時に、なんせやっぱり大熊町は山があって、海があって、本当に自然は豊かなんですね。私は農業は全然嫌いではないんですよ。母の実家も父の実家も農家だったんで、安易に簡単に考えて農業はいいなぁと勝手に思ってたんですけど、あともう一つはいろんな興味をそそるものがいっぱいあったんですね。原発のこともあったし、あとは行きましたらいろんな人が来たんですね、家に。周りのご近所の方とか、なんていいますか、「ちょっともっと近くにいれっか」っていう返しがあったんですけど、その人たちが来たり、
「なんせこの家にはいろんな人が来るんだな。すごく面白そうな家だな」
と思ったり。
 それで、兄も母も行ったんですけど、兄がちょっと面白かったなと思いまして、それで私も行ってるうちに
「あ、じゃあここに来ようかな」
と。母はちょっと反対したんですけど。ここっていうのは大熊町の??なんですけどね。私の郡山の実家の母は反対はしたんですけど、家に実家にはあまり居たくなかったので、どこかに行こうかなと思っている矢先に、うちの夫ははっきりいって見た感じもそんなに綺麗じゃないしね、靴下がぼろぼろの靴下履いてたんですよ。半纏なんか着てまして、
「いやー、この人はどういう生活をしてるのかな」
と思って。
 うちの主人の友達から聞くと、
「あいつはおもしろい男だぞ」
みたいな感じで言われたので、
「さて、行ってみようかな」
と思って行ってるうちに、
「あそこもいいな、大熊もいいな。大熊に行こうか」
と思って来たんですけどね。
(仁さん)結婚はですね、27歳の頃結婚しました。いきさつは、友達の紹介で私、全日農という農民組合をこしらえて、私どもに5,6人活動している農民グループがおりまして、それでそういった全日農の一つの催しが郡山とか会津若松で開かれたときにちょっと来て、それで知り合いました。
 まぁ、5つ歳は違いますから、身体は小さいんですけど小回りの利く娘だなというふうに感心しておりました。
 私もそろそろ妻を持たなくちゃなんないだろうということで、そういった焦りはあったんでしょうね。それで妻の方も若干そういった焦りがあったのかどうか、その辺の話がうまく合って結婚したというのが正直なところじゃないかなと思います。
【仕事。】27:30~
(仁さん)それから、私はやはり田んぼだけでは食っていけないということで、養豚をやっていたわけなんです。養豚もなかなか軌道に乗らなくて、私もことごとく失敗しましたので。
 それで私は山仕事に入りました。もともとがそういった世界資源を探して歩くのが好きだといいますか、そういったタイプでしたので、山仕事もいいなと思って。山の切出し、というのは木を切って出すという一連の作業なんですけれども、これを一日2トン車に1台積んで出すというような生活をしていました。
 これが実質的に結構収入が良くて、私は月に40万なり30万なりの稼ぎがありました。1980年代の半ば頃からは、確かに材木の関税が低くなって外材の輸入というのが大きくなったんですよ。それまでは私らどもの国内の丸太の生産業の方がまだまだ優位であって、値段もかなり取れておりました。
 そういった形で私も値段的に割に合うような時代だけ、木の切出し、丸太の切出しというのをやっておりまして、私が辞めた後数年してからすぐに材料が安く入ってきて、国内産の丸太等はほとんど売れないというような状況がやってきました。
 そういったことで、私は次に何をしたのかというと、これもなかなか大変だったんですけれども、友達がおりまして、友達に
「おめぇは東北大出てるんだから、せっかくだから塾でもやったらいいんじゃないか」
というような相談を受けて、私は35,6の歳にそういった塾を始めたわけです。
 塾をしながらずっと百姓をし、そして子育てをしてきたというようなことでございまし。
 塾は、私は一人でやっておりまして、たまたま知人の子を見てくれというようなことが下にありましたので、その子供たちを見てずっとやっておりました。教える科目は、やはり中学生相手でございまして、中学生の数学、或いは理科系の科目、或いは英語等々を教えておりました。あとは高校まで手を伸ばすんですけれども、最初は私も思い出すのに時間がかかったもので、中学生くらいなら教えられるのかなと思って見てたんですけど、実に簡単な内容を教えるのでは「これだったら高校も教えられるわい」というような形で、どんどん子供を増やしていきました。
 えっと、人数はですね、最初7,8人くらいで始めてそれは家庭教師というような形をとっておりました。私の家に集めて教え始めたのは1,2年後で、それは10人、14,5人おりましたか、私のところに通ってきて、私に教えてもらって帰っていくというような生活を続けました。
【福島第一原子力発電所。】32:15頃~
(ますみさん)ザベリオ学園中学校に居た時に、中学校1年だと思うんですけれども、その時にまず父が朝新聞で、朝日新聞だったと思うんですけども、
「原発ができるんだって、福島県に。なんだろう、原発はどんなものかな?」
と言われて、それでその日朝学校に行きました。そしたら学校でもものすごい騒ぎになってて、私たちの先生たちも
「原子力発電所が大熊にできるんだ。怖いね」
 それが一番、第一声。私の友達もみんな、「怖いんじゃない?」っていうのが第一声で、学校に行く途中の郡山の人たちは「怖いね」って言ってたんです。それはものすごく覚えてる。だから、原子力発電所が大熊町?大熊町なんて今まで聞いたことないし、まずどこにあるかもわかんなかったので、
「えぇー!どこにできるの?」
という形で皆騒いでいた。特に郡山の方達。
 学校に行ってもみんなが騒いでた。すごく印象深かった。今でもはっきり、新聞の記事も覚えてる。
 郡山の人たちは、自分のところじゃないけども、同じ福島県だからみんな驚きと怖さみたいのがあった。だから、大熊町の人には無いかもしれないんですけども、私たちは郡山の方としては、なかこわいっていうイメージが強かったです。なんか、私は子供の時からあまり物事をすぐ信じる人間じゃないんですよね。だから、皆が「あれは大丈夫だよ」というと、はっきりいって反対にひねくれもので、「大丈夫じゃないんじゃないかな」と思うし、ましてやきゅうりょうじんは好きだったんですけれども、きゅうりょうじんも最後はガンで亡くなったんですよね。そうするとあの原発は確かにあれなんだけど、放射能を出すんで・・・その放射能を例えば原発に支障が起きた場合、放射能を出したら人間はどうなるの?と思ってたんで、よく私たちが子供の時にビキニとか中国の核実験とか、いろんなことが言われてきて、郡山で
「今日はビキニの実験があったから、今から放射能が飛んでくるよ」
って子供たちがみんな同級生とかで騒いだりして。私の育った中学校というのは、かなりみんなそういうことに非常に関心があって、あとはベトナム戦争で結局、アメリカがどんなことをやったかとか、そういうのをものすごくみんな興味があって、それによって子供がかなり奇形児が生まれてるとか、みんなベトナム戦争反対の立場だったんですね。
 だから原発も危ないんじゃないかっていうふうに中学校でよく話をして。
 同級生が集まっても、
「危ないんじゃない?そんな福島県に居たくないな」
っていう人も居て、福島県から出ていくという人も居たんですよね。やっぱりね。
 自分は郡山に東京から帰ってきまして、バイトで郡山の認証検査センターで血液とか検査するとこなんですけど、そこで働いて、
「これは絶対口外しちゃいけないよ」
って言われれば、人って口外しちゃいけないよって言われると、余計口外したくなっちゃうんですよ。でも、口外する相手がいないんですけど。毎日毎日マル秘文書を見せられるんですよ。『マル秘、マル秘』って判がおしてあって、
「これはどこに持っていくんですか?」
って聞いたんですよ。
「これは東京ですよ。東京の東京電力の研究所の方に持っていくんだ」
って。原子力発電所で日常働いている原発労働者の血液検査の結果だったんですね。それがみんなマル秘というハンコがペタペタと押されていまして、それを私たちはチェックして、それを送る準備をして、毎日いたんですけど。それが一番のお客様だったんですね、会社にとってはね。私の働いてる会社では。
 なんかすごいヘンテコなんですよね。私が郡山に居て「原発は危ないな」と思いながら、なんで大熊に行くの?って言ったら、それと裏腹で「人間は良いな」とか。うちの大熊町の野上以外の人は知らないんですけど、野上というのは大熊町でも山のほうで、田村市って今言われてるんですけど、宮小路の方に近いところなんですけども、まぁ仕事としてはほとんど山仕事とか農家の方が多いんですけども、非常に気持ち的には優しい人たちが多いですね。飾りっ気もなくて。
 私の父は先生だったんですけども、なんせ家にお金を入れてこない先生だったんですよ。いつも自分の教え子の借金を肩代わりしたり、なんか子供のために動いてて、家にとってはあまりいい先生というか父ではなかったって母は言うんですけど。
 だから子供の時から楽な暮らしは全く無かったので、食べるものに困ってた時がいっぱいあったんで、私は食べるものに困らない生活をしたい。それも多分一つは農家に行きたいなと思ったことだと思うんですけどね。
 つまり、ご飯をいっぱい食べたいとか、お餅をいっぱい食べたいとか、それが叶えれば一番いいなと思ったんですけど。
 野上に来たら、まずたてまやに行ったんですけど、一番先にお餅をいっぱい何個も食べられて、「うわー!嬉しいなぁ。こんなところに来られて良かったな」っていうような感じだったんですけどね。
(仁さん)原発が現れたのは、私が高校時代です。高校時代に原発の敷地、予定のところ、まだ杭も一本打ってないところ。いわゆる海っぱたの音沢の海難、崖っぷちなんですけども、それは音沢の飛行場の跡だったんです。その飛行場の跡に、私たち双校時代ですね、高校生の頃遠足だということで学校の先生に連れて行かれて
「ここに原発ができるんだぞ」
というようなことで私たちは、それで原発の存在を初めて知ったんです。
 原発というのは、そういった意味では私は高校時代だったので、それなりに放射性物質とか放射能というものについての理解を勉強してる過程だったので、どういった問題があるという形では教えられはしなかったんですけれども、ただとてつもなく大きいものだという形では私は教えらえたような気はします。あまり詳しいことは、その時高校時代も教えられなかったというふうに考えています。
 私の原子力発電所そのものに触れたのは、確かに高校時代の始めだったんですけれども。大学時代は私も学生運動等にいろいろ参加しまして、いろんなところに行ってまいりました。阿部宗悦さんのおられる女川原発反対同盟とかというようなところにも行ってきました。いろんな形で原子力発電所はとにかくあの当時の学生運動の雰囲気の中で、「危険なものである」まだまだトイレの無い便所みたいなもので、最終的にはどこに処理していいか判らないものを吐き出して作っていくというようなものという考えでおりましたから、私も家に帰ってきてからも原発そのものに対しては批判的な立場で、原発そのものはあまり好ましくないというような形で、原発とは一定の距離を持ったまま原発を見つめておりました。
 大熊町の中で原発賛成派というよりも、実際に動いてますので、それはどんどん毎日作られていて、原発決起といいますか、原発銀座といいますか、ものすごい夜の街あたりは賑やかで石ころぶつけても東京電力関係の野郎に石がぶつかるくらいの賑わいだったのを覚えてます。
 私は帰って来たばかりで、そんなに原子力発電所というのは意識してなかったんですけれども、友達と夜大熊町に飲みに行ったりしながら、ほとんどが原発関係の人が周りにおりますので、「なるほどな。こんなもんなんだな」という形で過ごしておりました。
<43:00頃まで>

【その②】に続きます。

失礼します。
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