※この記事は、2月17日 【内容起こし】IWJ百人百話 第40話 田中さん(仮名)<前半>【浪江町の発災時の様子】の続きです。

【動画】2月22日 百人百話 第四十一話 尾形紀泰さん
http://www.ustream.tv/recorded/20620155 (58:52)


【以下お時間のない方のために内容を起こしています。ご参考まで】

2011年12月21日収録
Q.自己紹介をお願いします。
 尾形紀泰、43歳です。家族は妻と子供が4人。一番上が中学2年生です、今。男の子。ほか小学生6年生、3年生、幼稚園の年長さんがいまして、すべてこちら女の子で家族6人です。
 以前は震災前っていいますか、震災後もサラリーマンをしていたのですが、震災によって止む無く小樽の方へ避難することになりまして、3月15日に福島を出て、それから3月18日から北海道の小樽で家族6人で避難生活をしております。
 その中で避難してるっていうふうなことだけではなくて、何かできることはないかということで、北海道はもとより本当に全国から支援物資を集めて、それを被災地、特に津波でやられた地区と、あとは原発事故で避難をされてる方々に直接物資と届けたりなんかをしています。
 私は福島市に生まれまして、高校までは福島に居たんですが、その後関西方面、大阪の方に行きまして、料理学校の方なんですけどそちらにいって、しばらく関西におりまして、その後また福島に戻りまして、その後にまた首都圏の方に行きたくなりまして、横浜に住んで都内に勤務してました。その後また福島に戻りまして、その後13年前くらいに結婚をしまして、それからずっと就職というものをしまして、サラリーマンで勤めてました。
 洋食、和食と勉強して、実家の方では中華のお店をやってましたので、中華の方をしなくてはいけないと。もともと私の母方の実家っていいますのが、福島市に現在もある野田町食道っていう、非常に崩れかけた、本当にまだやってるのかというような店が実家なんですよ。未だに震災後にラーメンの値段を20円上げたそうなんですけど、それでも一杯400円ですから。本当にずーっと歴史の古いしなそば屋さんですので、そこの一応孫にあたりますので、中華屋さんもありかということで手伝っておりました。
 奥さんの方の親父さんの強い要望もありまして、更に初めてサラリーマンとして就職をしまして。やはり「娘をしっかりと嫁がせるには、きちんと責任ある業種というか安心できるところに入って養ってくれないか」ということを言われまして、サラリーマンというのは一度もやったことが無かったものですから、一度くらい経験するのもいいかと思いまして、サラリーマンになってみました。
 ふるさとの良さといいますか、本当に当時は判らなかったと思います。自分で。単に
「都会の生活もあきたし、人もやはり多いし、もういいかなー」
って、やはりちょっと苦しくなってきたんですね。もともと田舎者なだけに、やはり都会で暮らすというのは、「そろそろ限界かな」と思いまして、福島市のほうに戻ったんですけど、やはり戻ってみると昔からの仲間がいたり、食べ物にしてもリンゴ一個にしても全然おいしさが違いますし、そういったことが段々と30くらいからわかるようになってきたんですね。それまでは全くそんな田舎になんてなかったんですけど。
Q.3.11当日
 一戸建ての借家の方に当時は住んでおりまして、そこでちょうど妻と当時幼稚園の年中だった娘と横になってまして、ミヤネヤを見てました。
 それで、寝てますので地鳴りが判りますね、音。
「ゴゴゴゴ―」
っときた。
「これはまずいから出ろ!ヤバい!」
っていうことで飛び起きまして、
「出ろ!」
っていうことで娘と嫁さんを表に出したんですよ。窓、ドアを開けたままでしたので、テレビを見てたんですよね。テレビを見てましたら、緊急地震速報なんて当時頭に無いですから、
「地震の速報出てる割に揺れないな。」
 緊急地震速報は、当時頭になかったものですから、なんだ?と思ってたら、横揺れが来まして庭の方もそんな広い庭ではないんですけど、
「あ、これは相当今まで感じたことない地震だ」
というのが直感でわかったものですから、電信柱が倒れてきても大丈夫な場所に嫁さんとうちのチビと三人で、とりあえず立って地震が収まるのを待っていたんですけれども、すごい揺れでずっと続いたものですから、音も電信柱の電線のヒュンヒュンっていう音しか聞こえなくなりまして、子供は当然泣くしかないですし。それに「大丈夫だ、大丈夫だ。大丈夫だ」って僕も言うしかないんですよね。
 本当はあんな長い地震初めてでしたし、あんな強い揺れも初めてでしたし。
 それから、一番やはり子供。
 中学校のお兄ちゃんは、その日は卒業式の練習とかなんかで、早めに帰ってたんです。それで友達の家に遊びに行ってたんです。娘二人は小学校に居たものですから、恐らく小学校は大丈夫だと。小学校は恐らく校庭に逃がしてるので、ちょっと待ってなさい。あなたもと。
 息子の方も友達の家に行ってて、そこに居るんだったら大丈夫だろうと。
 だから、とりあえず落ち着いて、
「何もするな。状況がわからないから」
 私のところ、実は電気が落ちなかったんですよ。幸運なことに私の地区だけ。ほかの地区は後から判ったことですけど、全て落ちてたんですね。
 ネット環境も生きてたんです。
 そうすると情報っていうのは、ある程度入ってきてたものですから、そこで情報を集めまして、
「なんか見たことあるな、この地区」
って思いましたら、ずっと私、サラリーマン時代、当時もサラリーマンでしたけど、今でもその時でも通っていた場所だったんですよ。それは宮城県の亘理地区。以前担当してたのが、名取地区とかあの地区の映像が映し出されたものですから、
「これ、ほんとか?」
と思ったんです。
「まさかこんなこと起きるわけない」
と。
 あの地区というかあそこの辺はずっと見てましたので、海岸からどれだけ離れてるか私も知ってるんですよ。それだけいつも歩いてる場所でしたので、その衝撃がもう何とも言えない・・・形で目に飛び込んできましたので・・・もう記憶ないですね。ただ見てた・・・。映像見てただけです・・・。
 宮城県に長いことサラリーマン時代に住んでましたから、非常に友人、知人が多く居まして、宮城県の七ヶ浜町、塩釜、松島、亘理、岩沼、名取と本当に友人・知人が多いんですよ。
 みんなに連絡したんですけど、安否が誰も取れないですよね。
 そんなことをやっていても、何をやってもつかまらないので、何していいか判らなくなったんです、私も。
 とりあえず、テレビを切って、「今自分がしなきゃなんないことは何なんだ?」
 次の日あけてからですね、私の家の目の前がコンビニエンスストアなんですよ。そこのコンビニのオーナーと、私は中学校からの付き合いで、非常に仲良くしてるオーナーだったんですけれども、当然売らないですよね。そこはただ電源が生きてたんですよ、そのコンビニも同じ地区にあるもんですから、そこで炊き出しをみんなで始めたんです。
 やはり、電気しかコンビニでも使えませんでしたので、農家から大根貰ってきて、おでんの出しはいくらでもありますんで、大根おでんしたりとか、あとは電気ポットでパスタ湯がいたりそうめん湯がいたりして炊き出しをして、それの手伝いとか買い出し、モノ集めを手伝ってました。
 やはり、余震がずーっと続くので、子供はやっぱり余震のたびに、緊急地震速報が鳴ると表に飛び出しちゃいますので、当然福島市は雪でしたので、寒い中表に出ると「風邪ひくよ」とか「危ないよ」とは言ってたんですね。
 うちの横でもサッシが閉まらなくなったので、雪が入ってきて積もってしまうんですよ。そういう寒い中に居たものですから、夜はやはり子供たちは家の中で寝るのが怖いということで、その日と次の日と、みんな車の中で寝てました。
 私は、情報がほしかったので、ずーっと家の中でツイッターやらグーグルでソートを掛けまして自分の欲しい情報だけ見るような形にしまして、それでどうなってるっていうような状況を事細かに見ていた、収集していて。
 そうですね、あとはもう、グーグルが一番先に安否確認を始めましたので、そこに
「うちは大丈夫だよ。」
「だれだれさん、安否確認お願いします」
というような書き込みとかそういったことをずっとやってましたね。
Q.原発について
 やはり福島県民として、県内に原発を持ってるということは、ある程度どういうものを持ってるか認識をしてなきゃいけないと思ってましたし、原発の情報っていうのは普通にありました。
 反面、大丈夫だというふうに信じてましたし、そうじゃなきゃ困ると思ってました。
「ヤバい、ヤバい」
というような書き込みが段々だんだん増えていきましたよね。
 12日、爆発が起きましたと。
 私実はその時、日本の情報じゃないんですよね。一番真っ先に。CNNかBBCでしたかね。
 そこで見たんですよ。爆発してる動画を。
 そこから全部、もう震災のことではなくて、原発でどういう状況かという情報収集するしかなくなりましたので、風向き・天候、そのチェックに入りました。
 IWJとかそういった情報源、原子力資料情報室、ああいうところが今度発信し始めてくれたんですね。
 当時、やってるところは全くなかったですよね。真実の情報っていうのは、ほかに得る手段が無かったんです。
 14日の情報集めている時点で、
「これは絶対避難しなきゃいけない事態だ」
と思ったのは、自分の中で思ったんです。それはやはり僕が書籍とかそういうもので読んだ知識も確かにありましたし、「チェルノブイリ、チェルノブイリ」って皆さんおっしゃいますけど、やはりそういったウクライナも含めた地域の現状とか状況というのをそういったものも自分で調べなきゃ判らなかったじゃないですか。そういったものを本が好きだった、活字とかに近いんですけど、そういった中で現状ある程度知っていたっていうのもあるんですよ。
 そこは一番まずかったことというのは、『風向きと雨』というのが検証結果で本当に判ってることなんですね。
 本当に当時福島県においては、僕のところは映像も見れたしテレビも見れたし、ネットも繋がりましたので、ある程度一方的な内容のことではなかったんです。ほかの人たちっていうのは、避難所に入ったりとか停電したりとか、その中で聞こえてくるのはラジオから流れる『大丈夫です』これしかなかったんです。
 僕も同じ状況下でいたら、恐らくそれにすがっていたでしょう。
 そんな中で、やはり今の状況はどうなのかっていうことで、僕は必至で探りました。
 その中でもUstでIWJも・・・あとは原子力資料情報室ですか。この二つが当時唯一・・・まともな報道っていいますか、僕の欲しい情報、そこしか無かったんですよ。本当にずーっと流しててほしかったですよ。
 毎日毎日それしか情報を得られない。
 そんな私もいくらも専門のことは判りませんので、今の状況を判りやすく後藤先生が説明してくれたように、
「こうなんだ。じゃあこうなるんだ。今後予測されるのはこうなんだ。」
と、それって他に無かったんですよ。
Q.避難の経緯
 15日になりまして、
「完璧雨だ、今回は降る。ダメだ。雨降る前に脱出しなきゃダメだ」
 当然ホットスポットという知識がありまして、
「雨が降った時点でダメだから、新しい人生をやり直す形で出ましょう」
と。
 持っていくものは何も持てなかったので、途中でガス欠が一番怖かったので。
 それで15日の午前中に出発しました。
 山形に着きまして、そこで久しぶりに布団の上で家族で寝られるかなというところだったんですが、その前に七ヶ浜の友人から電話がありまして、
「近所まで来てる。息子と息子の彼女と一緒だ」
「だったら合流しようよ」
と。その人も津波、七ヶ浜ってほとんど崖になったところなんですけど、そこから逃げてきた方なんで、
「じゃあホテル僕取るから、一緒にいましょう」
ということで誘いましたら、
「じゃあ行くからな」
ということで、合流したんです。
 その後どうする?という話になったんですよ。
 僕はもともと関西の方にいたものですから、関西行くか、それとも北海道に行くかも迷ったんです。
 関西に行くのは安易なんです。すごく楽なんですよ。友達も多いですし、その後の生活を考えれば関西だったら住んだこともありますし、行こうかなと思ったんですが、そこでやはり『食』のことを考えたんです。
 恐らく豚肉、牛肉含めて流通するだろうな。おもいっきり関西だったら。
 それはちょっと避けたい。どうしようか。
と考えた時に、七ヶ浜から逃げてきた方が
「北海道行こうよ。北海道行くんだったら、私に任せてくれ。北海道であれば一つ候補地がある。それは小樽という町だ。」
 小樽っていうのは、今まで地震、津波っていうのは記録で残ってない。今まで大きな地震とか大きな津波が来たことない。地盤はあそこはものすごい硬いんですよ。 
 私は高校時代も含めて何度か小樽にいってるものですから、そうやって自慢話を小樽の方から聞いたことがあったものですから、これは地盤も固いということで、子供がもうトラウマで嫌なんですよね。小樽は揺れない。じゃあ子供たちにとっても良い。
 あと、北海道は食料自給率が高いですから。
 あともう一つ、海洋汚染。
 恐らく下北半島の海流があるから、あそこに行くのは相当時間がかかる。汚染されたとしても、あそこが駄目なら多分アウトだろうと。
 ですので、小樽が良いかなと。
 もう一つの大きな理由が、もう一回大きな地震きて、もんじゅが逝ったらどこ行ってもだめだ。小樽っていうのはロシア船とか一番入ってますので、「難民です」と、難民救助法に則って、恐らく入ってる外国船は助けてくれるだろうと。
 一応そこまで考えて小樽にしたんです。
 秋田港から苫小牧に入るフェリーがありますので、それで七ヶ浜から来た方と私とで行こうかという話になったんです。
 フェリー会社に電話しましたら、
「いっぱいです。もう一日待ってください」
「判りました」
ということで、その2泊連泊することになったんです。
 ただ、1泊目ですね、山形からおじいちゃんと娘さんですね、小さいお子さん抱いて3人の方がいらしてたんです。同じホテルに泊まってらして、朝すごく話したそうにこっちを見てたんです。
「どうされたんですか?」
と声を掛けましたら、
「山形の方から逃げてきたんです。」
 福島にちょっと近いところなんですけど、
「あら、山形の方にしてはめずらしいですね。」
「実は、姉がニュージーランドに住んでまして、海外ではすごいニュースになってる。だから、あなた逃げなさい」
ということで、その女性がお父さんと子供を連れて、どこに避難していいか判んなくて、とりあえず海の方に来たんですね。その方達が
「これからどうしたらいの?どうしたらいいかわからない」
っていうことを話してたので、
「じゃあ僕ともう一組は北海道に行くから、もし一緒に来る気があるのであれば、明後日、秋田港からフェリーで行くから、それに乗ってくれば多分会えるから、もし決心がついたら一緒に北海道行きますか?」
というような話もしていたんですよ。
 それで、連泊して秋田の方に向かうんですけれども。
 18日フェリーに乗りましたら、やはりその三世代がいまして、「私たちも一緒にお願いします」ということで、当時受け入れ・宿泊ですね、当然民間借り上げも始まってませんし、住むのは市営住宅とか道営住宅しかなかったんですね。あとは避難所。
 その中で3月18日から開始だったんです、北海道は。
 小樽市の道営住宅、そこに是非住まわしてくれということで、3月18日受付開始時間を待ってフェリーの中から「お願いします」という形で道営住宅にお願いして、何とか受け入れていただいたんですけども、あちらに行きまして、3月の中旬、18日から入ったんですけれども、何かできることないかということで、地デジ化遅らせるというような活動もしてはいたんですが、いろんな方が小樽の方が気を使ってくれて、
「これを使ったらどう?」
と、子供服にしても、家庭用品にしても、皿にしても、そういうのを持ち寄ってくれるんですよ。
 正直、僕は「いいですよ」と断っていたんですよ。
「もし、僕のとこで使うのではなくて、それを津波で家を流された方に送っていいですか?」
という形でお願いするようになっていったんです。
 やはり、仕事をしている都合上、ずっと沿岸部に入ってましたので、少しでも何か役に立ちたいなと。僕は小樽に行った意味っていうのは、北海道すごく平和です。今回少し被災された地域もありますけど、それ以外本当に「地震あったの?」っていうくらいすごい平和なんですよ。
 そういう方達っていうのは、多分暖かい。
 僕らなんかにも「これ使って」という方が非常に多かったので、ここでそういったものを集めて、これを東北に送ったらどうかという思いが、どんどん大きくなってきたんです。
「僕が集めてるよ」って今度声が段々広がりまして、あっちでいうFM小樽さんとかナイスTVとかテレビなんかにも出させていただいて、それで「集めてます」という形で対外的にも正式に言うようになりました。
 どんどん物資が集まってきまして、最初は本当に、幼稚園とかそういったとこのお母さん、あとは近所のお母さんとかからモノを集めていただいて送るっていう形だったんですけど、3月31日に1回目、被災地の方に送りまして、その時点で実は、いわゆる被災地といわれる市町村は、全て物資を断っていたんですよ。物は入ってくるけども、中には使えないものであったりとか、仕分けを今度はしなきゃならないので、そういった作業をするボランティアの方も居ませんでしたし、そういった判ってる方もいなかったので、すべて断っていたんですね。
 私はたまたま、やはりこの方も酒飲みの友達で、元高校の教員の方。奥様は去年まで小学校の先生されていた方で、無事定年されて二人ともフリーになったんですけれども、そのご夫妻は塩釜という宮城県にありまして、ここも津波の被害は受けたんですよね。ただし、被害は他に比べて少なかったと言ったら誤解がありますけれども、ただ、そこの人も家も車が2台流されたりとか、本当に娘さんなんかも半死半生のところで助かってる方もいらっしゃいますし、その方に連絡しましたら、
「実はもう自分たちで支援を始めてる。3月12日から動いた」
とおっしゃってました。
 私が電話したのが3月22日、23か24くらいですね、電話したのは。その時点で、
「私の方で荷物を送ったら、受け取ってくれるかい?」
「いいよ。集めてくれ」
と、そこで宮城の塩釜とつながりが持てまして、私たちが北海道で小樽の方で集めてものを塩釜に送って支援活動といいますか、が始まったのが3月31日からです。
Q.『YaReRuKoTo実行委員会』
 当初はこの活動に何も名称も持たずに、私の携帯を番組でもどこでも言っていたものですからなにもなかったんですが、非常に小樽の方達が「私も一緒にします。させてください。是非やりたい」という方が増えてきまして、じゃあ名称をつけなきゃなんない、団体の名前を付けましょうということになりまして、自分たちのできることからやれること=『YaReRuKoTo実行委員会』という名前で活動を進めていこうということで、4月1日からYaReRuKoTo実行委員会という形で発足しまして、それ以来活動してます。
 この団体というのは、北海道で物資を集めて、北海道どころじゃなくて全国から集まってくるんですけれども、これは行政とは全く異なるもので、もちろん受け手も被災者です。ですので、本当に現状を判ってる方です。行政と一線して、全て自分たちの手で物資を手渡しして、必要なものを必要なところに渡すっていうふうな活動をしてます。
 活動していく中で、自分たちが送った物資がどうなっているのか。あとは、福島県がどうなってるのかっていうのが非常に見えない部分があるんですよ。どうしても北海道にいますと、やはりニュースの内容がちょっと若干違いますので・・・
Q.どのように違うのですか?
 ニュースの内容が若干、やはり被災地ではないというところで、東北の状況というのはあまり流れないんですよ。流れはしますけれども、細かいところまでどうしても流れない。じゃあ自分の眼で見てくる方が早いということで、東北に5月に1度戻ってまいりまして、そこで避難所を回って、津波のあったところを回って、あとは福島の状況を見て・・・これは・・・福島は福島。宮城と岩手は全然別だなというのを改めて認識しました。
Q.どういうことですか?
 やはり原発というのは、夢と希望も失くすものだと思いました。
 宮城県内、岩手県内、5月のすごいあの段階でも、皆前を向いて「復興しよう」とすごく力も入ってましたし、
「こんな時だからこそ前見てがんばらねば!」
って皆さんおっしゃって、がれき撤去もそうですし、避難所に入りながらも自分のため、皆のために一生懸命前を向いてやってました。
 私の自宅のある福島市の方に友達と酒も飲みたかったので、状況も聞きたかったので戻りまして、状況を聞きました。
 状況を聞いたら、やはり今後の不安を唱える方、「現状は全く判らない、何を信じていいか判らない」という方もいました。あとは「全然大丈夫」という方がいっぱいいました。
「全然大丈夫」っていう方々が一番多かったです。
 それで、私自身は全然大丈夫だと思っていなかったんですが、やはりそこで自分の意見はあまり言えませんので、皆がそう思ってる以上は強くいっても、もう・・・仕方がないと思ったんですよ。その時点では。皆がやっぱり思うべきところは違いますし。
 福島の原発の問題を私がもしやるとすれば、これは・・・今じゃない。
 まずは仕事をしてた時にお世話になった宮城沿岸部を始めとする・・・この先どうしていいか判らない人たちもたくさん居まして、やはり「まずそこにやれることをやっていこう」と。
 福島県はやりたかったんですけど、福島県でほかのところの方を入れてしまうと、被曝させる恐れがあったので、私は福島県にやらなかった理由の最大の理由はそこです。
 福島に入りまして、福島で自分が何ができるかということを考えたんですけども・・・、当時は「何もできないだろう」と。
 といいますのは、あまりにも当時は放射能に対する認識がまだ準備ができてなかったんですかね。それを受け入れる、福島に住んでる方たちが、まだ・・・まだ準備不足だったと思います。
 やはり、5月の段階で福島県庁前なんかは3マイクロシーベルトありましたし、今は1マイクロくらいに落ちてるっていっても1マイクロありますしね。目の前には第一小学校と、私の一番下の女の子が通ってた幼稚園があるんですけども、そこで・・・公園ですので噴水があったりとか、小さな公園ですけどもね、植え込みとか、そこで測ると4とか5とか今でもありますからね。
 そんな中では活動っていっても、他の方を入れたら他の方達が今度、被曝する恐れ。外部被爆ではなくて、そこで食べ物を食べてしまったりとかっていう。仮に僕がお願いしてボランティア入ってもらって、将来・・・責任持てませんので、これは僕はちょっと出来ないなと。
 外からできるんであれば、もし僕のように同じように避難してきたときに何か手助けできればなという思いしか、当時は無かったですし、それ以外多分出来ないと思いました。
 本来は・・・夏休みに母子避難とかをさせたいなとは思っていたんですけども、まだいっても5月の段階ですと1か月ちょっとしか小樽の方に住んでませんので、来年の夏とか来年の春にできればいいなというような思いでいました。
 そういう想いを抱えて小樽の方に戻りまして、まだ支援物資集めの活動にうまく拍車がかかりまして、本当に道内から何から。その時に実は宮城県の気仙沼のちょっと下に本吉町っていうのがあるんですけど、そこに蔵内浜という浜がありまして、そこも津波でおもいっきりやられたんですけど、死者が誰もいなかったんです。
 当時は、オイカワデニムという日本でも有数のジーンズを作ってる会社がありまして、そこが避難所になってたんですよ。そこの方達が
「船が流された。船が欲しい。どうにかして船を元通りにして・・・」
 漁を始めたいんじゃないんですよ。
「もしかするとこの被害で、僕たちは漁師をやめなきゃならないかもしれない。今後海の様子も変わってくるだろうし、放射能の問題も関わってくるかもしれない」
 5月の段階で漁師さんが言った言葉です、これ。
「判らない。ただし、俺らが引き継いだ海の状態に戻してあげたいから船がほしいんだ。なんとかならないか」
ということを言われまして、
「じゃあ何とかします」
って約束したんですよ。その想いもあって、本当にこれからモノの資源っていうのは必要な場所、必要なもの、必要な人によってさまざまに違うので、それをできるだけ準備できるような、用意できるような形にしていかなきゃなと思いまして、小樽に戻って船もそうですけども、いろんなものを集めるような活動を始めました。
Q.保養に来た方々の声
 実は私たちの団体、YaReRuKoTo実行委員会で福樽(ふくたる)プロジェクトというプロジェクトを立ち上げまして、夏に福島から母子84名小樽の方で実際に受け入れをやったんですよ。これは本当に全て、最後は寄付金で賄われましたので、本当に寄付していただいた方には感謝ですけれども、一か月以上長い方は小樽の方で夏を満喫できたかなと、日焼けもしたしと。
 やはりそれは少しの間でもできるんだったら除染できるかなという思いもありましたし、やったからではないんですけれども、やはり出てきてほしいです。それが本当に一番です。福島県から出て行った方、避難された方、母子避難でも含めた形で、そういう方たちがなんとか協力し合って県外である程度自分たちが食べる分くらい稼げるような共同体といいますか団体を作って、雇用もやっぱり作っていく。それをしないと、やはりなかなか福島県から出るということはできないと思うんですね。
 その間に避難してる間に、福島県が綺麗になれば一番いいんですけども、私も北海道に小樽の方に行きながらも、今実際は1か月のうち2週間は福島県、もしくは宮城、岩手に必ず居るような状況、ちょっと変則的なんですけど、支援活動をしながら、あとは福島の様子を伺いながら、大好きな福島に何度も足を運んでるんですけども、ただやっぱり他と比べて思うのは、本当に福島はプレッシャーが多いです。僕も今、言いたいことの10分の1も言ってません。言えないことも本当にある。これが福島の現状です
 あまり物事を多く、詳しく話してしまうと、非常に福島の行政の中でも本当に良い方もいらっしゃるんですよ。この状況を把握していて一生懸命活動されている方もいるんです、中には。そういう方も居るんですけども、詳しく話すことによって、やはり主流派の方がどうしても「福島県をこのまま現状で除染をしながら、復活をしていきたい、復興をしていきたい」という方が、どうしてもそれが主流になってしまいますので、本当に福島を考えてる方、本当に多いんですけど、なかなかどっちが抵抗勢力か判りませんけども、主流としては大多数を含める方たちの・・・言いなりではないですけどもね・・・。そういう流れになってますので、時期が来たらたくさんのことを言えるだろうと思いますけれども、本当に見えないところで福島のために一生懸命頑張ってる民間人、あとは行政の中にも本当にいます。
 まことに私も母子受け入れを援助していただいたくらいなので、本当にそういう方の声は大きく聞くんですよ。
 ただ、出ていけない理由としましては、経済的なものももちろんあります。ただやはり家庭内問題。これも家長がおじいちゃんだったりしますので、本当に田舎ですので農家、農業従事者っていうのは北海道に次いで二番目に多いんですよね。第一次産業については。やはりそれだけ農業従事者が多いところですので、非常に家長を大事にするみたいなことが強く起こってまして、やはり旦那さんは「行ってもいいよ」というんだけれども、家長であるおじいちゃんが「ダメだ」とかそういうこともやはりありますし、そういう方達っていうのは世間体も気にされますよね。
「あそこの嫁っ子、どっかいったど」
っていうふうになると、やはりそういったものがあって出ていかない方もいます。
 これホント、つまらない問題って思わないでほしいんです。やはりこれは、そういった地域で住んでるし、じゃなかったら本当に、普通だったら暴動を起こすくらいのことが起きてるんだけど、起きないっていうのは、やはりそういうような昔からの地域なんでしょうね。
 だから留まる方も非常に多いですし、ましてやそこの上に立つものは行政であったり、その考えがもっともっと大きくなってますよね。もっともっと強くもなってますよね。
 そういう問題っていいますか、問題なのかな?・・・そういう生き方で来てるのが福島なので、ですので、みんな「出ればいいのに」って簡単に言いますけども、結構出られない理由が大きかったりもします。
 私も「出ればいいのに」なんていうふうに思うんですけどもね。聞けば聞くほど、本当に様々な事情がおありで、なかなかね・・・言うとお互い苦しむんですよ。言ったほうも苦しむし、言われた方も苦しむし。
 だから、結構うーん・・・。辛い立場です・・・。
 皆さん、っていうか福島に留まってる方も出て行った方も、出ていったら出て行ったで・・・いろいろ言われますし、出てったら・・・まぁ・・・あまりよくは言われないみたいですね。出て行ったあとは、
「逃げだしたな」
とか
「福島を捨てた」
とか、いろんなことをやっぱり言われますし、私も実際言われました。実際出ていったら、本当に非国民的なことも言われましたし、私が本当にそのようなことを散々言われましたし
、また私に対してツイッターとかいろんなメールで誹謗・中傷もありましたしね。それはそれで、しょうがないなとは思ってますけど、でもほかの方に関しては、やっぱりそういうことをしないでほしいんでね。皆本当に福島で苦しんでますし、それこそ福島の電力っていうのは、福島で一切使われてなかったので、全て関東に送ってた電力ですので、それが福島にあったからという訳ではないですけれども、福島県も本当にみんな原発を持ってるということにもう少し早めに認識して、また行政も教育も、やぱり「原発を持つということはこういうことなんだよ」って、ある程度伝えなきゃいけなかったと思いますし、結果論で今になったからこんなことを言うんじゃなくて、でも、僕みたいに僕より早く逃げてる方も実際居るんですよ。やはりそれだけ危険性をわかってて逃げた方も数多くいますので、もう少し早く政府も発表するべきでしたし、これからできることっていうのも、正直限られてくるだろうと思うんですよ。その中で本当に有効なものを選択していって、
『ダメなものはダメ。良いものは良い。』
 その選択を僕ら国民にさせるんではなくて、県民にさせるんではなくて、ちゃんと『これはダメ』『ここは大丈夫』。勝手な基準で決めないでほしいですし、今更ベクレル下げたって・・・後手後手なんで・・・判ってた方、今まで食べてないですよ。基準値下げようが何しようが。だから本当にもう少し皆で、みんなで学習しましょう。この問題を。逃げちゃダメだと思うし、一回本当に考えなきゃいけないと思います。真剣に考えて、結果を出すのはご自身だと思うんですけれども。
 本当に資金なんかも当然働いてないですからお金入ってこないですよね。退職金っていうのもすぐ入るものではないので、親戚の方にちょっと頭を下げて、
「退職金いくら入るから」
という明細を見せて、ちょっと親戚からお金を借りまして、それを使って活動したり、こうやって福島来たりとか、他の宮城県や岩手県に行って活動をしてます。
 「お金お金」っていいますけど、余計なものに使わなければ結構いろいろできますんで、僕はできることなら仕事に戻りたかったです。仕事嫌いじゃなかったので。どちらかというと仕事は好きでしたので、仕事には戻りたかったですけれども、福島を出た段階で、まぁある程度覚悟はしてるといいますか、「もう無理だな」と。職場放棄ですからね。はっきり言えば・・・。
 それで、本当に長きにわたって面倒を見ていただいた会社を辞することになったんですけれども、後悔もしてませんし、今は悔いも無いです。
Q.本当にやりたいこと、やってほしいこと
 3月から行動を振り返りまして、9か月たったわけですけれども、僕がやってきた活動っていうのは、このままずっと続けていきたいんです。これは本当にお金が無くなったら終わりになりますけど、それまで続けていこうかと思います。そこからまた考えようかと思ってます。
 でも、僕が本当にやりたいのは、いかにして福島に福島の方々が本当のことを判ること。現在はもう福島の方では天気予報と一緒に、その日の放射線量といいますか<苦笑>、笑う話ですよね、有り得ないですよね。福島県では現在、天気予報と一緒に『本日の放射能度 0.何々マイクロシーベルト』みたいなのが出てきます。線量が出てきます。それは普通のテレビの天気予報と同じ時間帯に、天気予報、「今日は雨です、明日は雨です」みたいなので、「今日の線量はいくついくつです」って各地の線量がテレビの画面に流れてきます。「福島市のどこどこは、0.5とか0.33」とか出てきます。
 でもあれは正直、合ってませんから。
 そこに行って実際に測ってきた人間が言ってますし、私は本当に今回がれき撤去しなきゃならないということで、北海道の苫小牧に入れるという部分で、実際そこで瓦礫も測ってきてますし、じゃないと言えないと思うんですよ。実際に測ってきました。測ってきて瓦礫が0.・・・あの、ガイガーで測ってますけど、高くて0.13マイクロシーベルトでした。同じく、干してる昆布の上にもしばらく置きましたけど、0.09とかの数字でした。マイクロシーベルト。
 福島の線量・・・高速道路、二本松周辺で、普通に車の中で測っても、0.5普通に超えますからね。
 そんな中で生活するのは多分有り得ないと思うんですよ。
 地面に置いたらいくつになるか・・・。地面に生えてくるもの、食べざるを得ない、食べなきゃいけない。僕は来たら食べますけどもね。
 ただ、やはりできれば子供たちには食べさせたくない。そういった情報を本当に公開してほしいです。公開すれば皆気を付けると思うんです。
「食べるな」ということではなくて、僕は食べるよ。ただ、子供にあげるものと僕らが40以上超えてますから、そういう人たちが食べるものというのは分けたほうが良いと思いますし、僕は福島のために今回も、北海道で車をを買うんじゃなくて、地元で買うので戻ってきましたし、本当にできるならここに居たいですし、ただここに居ては僕の活動はできないので、残念ながらここに居ないんですけど、拠点は小樽にありますけども、モノを集めて北海道でしかできないことをやって、たまにこっちに戻ってくるっていう生活をできるだけ続けていきたいなと思ってるんです。
 だから、もう少し福島・・・情報を頼みますから正直に政府でも県でもいいんで、出してほしいです。
 将来、親父の評価ってなったときに、「あんたの親父よく逃げてくれたよ」ってそれだけでいいと思うんです。「あぁ・・・本当に大酒のみで、ろくでもない暮らしだ」って言われながらも、
「あの時に親父は逃がしてくれたんだ」
ってそれだけでもいいなと、それ以外無いです。
 僕の決断っていうのは、子供しか考えなかったからです。
【以上】

失礼します。
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