※この記事は、
2月16日【内容起こし】IWJ百人百話 第38・39話 本田貴之・直美夫妻【このまま子供たちを閉じ込めておくのであれば、もう福島に未来は無い・・・】に関連しています。

【動画】2月17日 百人百話 第四十話 田中さん(仮名)
http://www.ustream.tv/recorded/20502560 (74:35)

【以下、お時間の無い方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2011年10月24日収録
Q.自己紹介をお願いします。
 福島県浪江町の田中と申します。
 今27歳で、震災後もすこしちょっと働いてたんですけど、車屋で働いてまして、家族はあちこちにちょっと皆全員バラバラに避難してる形なんですけど、神奈川県内と新潟県で、僕は今仙台に今月引っ越ししたばかりです。
Q.家族構成を教えてください。
 福島の自宅では、僕と父、母、3人ですね。あとは、横浜のほうに姉が一人います。
Q.お父さんの仕事について判る範囲で教えてください。
 父親は原発の設備関係の仕事なんですけども、従業員が50年前後だと思うんですけど、ちょっと詳しくは把握はしてないんですけども、課長クラス、そういうポジションにいるので、責任がやっぱ僕の発言で、そこに地元の原発が立地してる周辺の自治体まで含めて縛られていて、それが息子まで心配するような感じなんで、少しその体質っていうのが、ちょっといろいろありますね。

Q.お父さんはいつ頃からそこで仕事をされていたのですか?
 うちの父親は、そうですね、僕が父親の職業を把握してる限りは幼稚園くらいの時からだと思うので、20年近くはそちらの会社で働いてると思います。
Q.仕事は現場での作業なのですか?
 オヤジの現場っていうのは、定期点検中の原子炉が止まった状態の時に、設備をばらしてその中を違う業者が点検するというような会社ですので、比較的放射線量は少ない方だという話は聞いています。放射線、どのくらい浴びるかっていうのは、震災前で原発事故が起きるまで、そんなにオヤジの職業が何やってるかとか、友達がどの原子力発電所の区域まで入っていて、どのくらいの線量を浴びるかっていうのは具体的には興味が無かったっていうか、知らなかったっていうのもあるので、実際オヤジの震災後、まだ数回しか会ってないんで、よく詳しくは判らないです。
Q.3.11の日はどちらにいらっしゃいましたか?
 3月11日は、福島県大熊町に職場がありまして、そこの職場で地震が来ましたね。中古自動車を販売してる会社でそちらの整備を担当してました。職場で車検整備をやってまして、地鳴りというかはっきり聞こえたわけじゃないですけど、なんか違和感とかそういうのを感じた直後に地震速報が携帯でなるやつが鳴って、最初は「ちょっと強い地震だな」とか思いながら、一応工具とかは倒れたら危ないものとかいっぱい置いてありますので、工場の外に出て、ちょっと車に手を置いて支えながら、「地震がいつ終わるんだろう」と思いながら、そこまで大きい地震がこれだけ長い時間・・・「終わったな」と思ったらまた大きいのっていうのが繰り返しだったので、置いてある車も左右にハンドルブレーキをかけたはずなのに左右にズレるというような揺れ方だったので、すごい怖かったですね。
 外に出たら出たで、電柱とか電線とか、明らかにおかしい揺れ方、見たことないような映画のような地盤、底が建てるときに、土とか土壌によって違うんでしょうけど、もう根元が数十センチ開くのが見えるんですね。どんどん穴が広がっていくる、どんどん倒れてくる。そういう様子が直に見える位置に立って、ここも危ないって逃げた先には倉庫があって、そこが気になったんです。
Q.気になるとは具体的に何を指してでしょうか?
 気になることは、やはり自分の身を守るっていうのが第一前提ですし、職場の社員も当然いるし、女の子の事務の子とかもいたので、どこが安全なのかっていうみんなの避難状況、揺れがすごい大きかったので、社員も誰がどこに居たのかっていうのが判らなくて、探してる間にみんなをどこに一番連れて行ったら大丈夫なんだろうっていうので。
 要は電柱ですとか水銀灯とかのカバーとか下に落下して破損とか、結構下に落ちて車の上に落ちたりそういうのもあったので、気になる点っていうのは、とりあえず身を守る一点においてですね。
 それから、その後は、余震がすごく長くて、1時間・・・1時間半くらい震度5とかそのくらいの揺れだったと思うんですけど、頻繁に来てるので、室内、当然中にガス溶接機のタンクとかアセチレンとか置いてあるので、そっちのほうを見に行ったりとかしてる間にも当然余震が来るので、余震の中で当然どんどん倒れていくし、それでここは入っていけるけど、注意して確認しながら・・・。
 その後、会社で高価な工具とかもあるので、とりあえずシャッターを締めなきゃいけないとか、停電も起きていましたので、そういうこと、そういうのが一番気になる。会社で働いている以上気になって。シャッターの具合とかの中で事務の子はどこに居たのかとか、そういうのを確認して回ってましたね、ほとんど。
Q.その状況でも皆さんのことを心配されていたのですね。
 車屋っていうのは、ガラスの構造物が多いっていうか、建物のガラスが大きかったり、自分の同級生くらいなんで、その子の姿が見当たらなかったんですね。そういうのもあって、一応店長とかは「中に入るな」とか「外にいろ」っていう指示は出てるんですけど、やっぱ各々危機管理っていうのは、誰かに指示されるとかではなくて、やっぱり個人個人で判断して、例えば上司にでも「そこは行かないでくれ」と言えるような状況でしたので、そこまで揺れが強いと、お互い、僕も店長に「そっちは水銀灯の落下してる跡があるから行かないほうがいい」とか、駐車場のアスファルトが地盤沈下して斜めになってたんですね。「そこが崩れるかもしれないから、そっちは行かない方が良い」というような感じで、お互い立場とか関係なく言い合ってるっていう状況でしたので。
Q.情報はどの様にして得られていたのですか?
 やっぱり停電もしてたし、津波が来たっていうことを僕たち知らなかったんですよ。防災放送がたまたま聞こえなかったのか、その地区が電線とか防災放送のトラブルかなんかで聞こえなかったのかそこは定かではないんですけど、何も知らなくて、携帯も通じないし、やっぱずっと情報を得ようと思ってもインターネットも全部繋がらない。電池が無くなってしまって、情報を得る手段が無くて。
 とりあえず仕事、シャッターをとりあえず直して帰る、じゃないと帰れないという、とりあえずシャッターを直そうというのでシャッターの復旧作業をやってまして、それが終わったころは夕方4時5時くらいに、地元の浪江町の請戸地区の海岸の地区があるんですけど、そこがほとんど何も無くなってるっていう情報がたまたま通じた電話から聞いて、全然そういう津波が来たとか知らなかったので、「何かの冗談だろう」という・・・何ていうんですか・・・全然信じてなかったっていうか、そういう状況が続いていて、地元に帰る途中の道路の状況とか見て、「やっぱり本当なんだな」ってだんだん確信に変わっていったっていう感じですかね。
Q.整備工場はどのあたりにあるのですか?
 私が働いてた工場は、海岸から4㎞くらい離れてるんですけれども、ちょうど海岸は砂浜ではなくて、少しちょっと絶壁になってるところでしたので、ちょうどそういうのもあって、波とか距離もあったってのもあるし、地形上の関係で津波の被害は全く無かったです。
Q.津波はかなり内陸の方まで入ってきたと思いますが、影響は無かったのですか。
 浪江町っていうのは、海岸から3㎞、ちょっと観測は多分未発表だと思うんですけど、10m位の津波が来てたという話を聞いてるので、約3.5㎞、国道6号線っていうところがあるんですけど、そこの手前に中学校が東手にあるんですけど、そこの手前まで津波が来てるっていう話は聞いてたので、3㎞位は内陸に入って来たんじゃないかと思います。
 すぐ近くまで来たっていうのを知らないでいたっていうのは、すごく怖いですね。
Q.道路はどのような状況だったのですか?
 自宅に帰るまでの道路の状況というのは、まず、渋滞がひどくてですね、対向車も止まってるし、お互い窓開けて「この先どうなってるの?」聞くと「この先道が無い」とか「海沿いは津波で湖のようになってて、瓦礫がいっぱいで通れない。」
 徐々に地元の近づくにつれて、浪江町に近づくにつれて自分の町の状況がどんどん入ってきて、そこから山道のほうに迂回しようと思ったら、山道も崩落して通れない。
「それだけ大きい地震が来たんだな」というのを改めてそこで再認識ではないんですけども、現実として受け止め始めたのは、その夕方帰り際ですね。
Q.地震が来てすぐに原発のことが頭に浮かびましたか?
 地震直後は、やっぱ上司と
「原発、今大変なことになってるだろうな」
という会話をした覚えがあります。
 やっぱりあれだけでかい、大きい地震だったのでタダでは済まないなというのはあって、働いてなくてもある程度の、断片的な知識として、
「今頃原子炉は止まってるだろうな」
っていう簡単な知識っていうんですか、構造とかは何となくは知ってるんですね。なので、
「今頃大変なことになってるだろうな」
という話はしてましたね。
Q.どの程度の知識を持っていたのか教えてください。
 浪江町のある程度の知識っていうのは、小学校低学年、ちょっと記憶が定かではないんですけど、低学年の時だったと思います。福島第一原子力発電所の正門の入口近くにサービスホールっていう原子力発電所はこういうことをやってますよとか、こういう構造になってますって説明する施設があるんですけども、そこに小学校の社会科見学の一種なんでしょうかね。そこに皆で行きまして、構造とか原子炉の小さい模型で動いて、こういうふうに運転するんだよっていう説明を受けた時に、下敷きと鉛筆をもらえるんですね。
下敷き 多分大多数の方が持っていたと思うんです。これが平成5年とか、そのくらいだと思うんですけども、その時に、発電所にはこういう、今の発電所の設備とはちょっと異なることが多いんですけど、こういう下敷きで後ろ側に原子力の仕組みっていう形で、やさしく低学年向けに説明してる下敷きなんですけど、やはりその時から原子力発電所の『安全』とか、『安全神話』とかよく言いますけど、そういう【刷り込み】ではないんですけど、安全なんだよって、子供の中にも原子力発電所はそこにあってどういう構造で動いてる。だけど、こういう安全対策・・・そこまでは幼少期の時なんで、そこまでは把握はしてなかったと思うんですけど、今思うとこういう教育を受けてた、どこが主催でど下敷き裏面ういう経緯でそこに小学生が行ったのかちょっとわからないですけど、そういう地元の教育っていうか、そういうものあったんだとは思いますけど。
Q.地震当日に皆さんとどのようは話をされていたのですか?
 地震当日は、店長とか社員の方とかと
「今頃原発は大変だろうね。止まってるだろう。」
っていう話はしてたんですけど、やっぱりそういった知識っていうのは、そこの地域に働いてるっていうより、住んでる人は、なんとなくやっぱりみんなは知ってる状況ですね。少し興味が無くても知ってる人が多いっていう環境なので、やっぱり友達が10人いたら7人は原子力発電所関係の仕事っていうような感じなんて、原発の安全性に関しては、やっぱりうちのオヤジとか親戚とかもそうなんですけど、『安全神話』っていうのがなんか絶対にあるっていうか、それを信じてる。年代にもよるでしょうけど、信じてる人も居て、
「原発は何が起きても二重、三重、四重、五重、(下手したら)そのくらいまでバックアップも組んであるから大丈夫なんだ」
っていう話は聞いてたんですけども、地震とはアレなんですけど、北朝鮮のミサイルの時でも、テポドンが北朝鮮から打ってきて日本列島を通過する際、
「福島に落とされたら終わりだって、皆死ぬんだろうな」
って冗談で言ったりするくらい、危機意識じゃないですけど、もしそこが標的になったらこの地域はもう人の下手したら死ぬレベルで出るっていう、そういう感覚は皆はあると思うんですね。
 なので今回爆発した時も、どこまで爆発したのかっていうのが判らなかったので、真っ先に高校とか社会史とかでロシアのチェルノブイリとか・・・知識としてはあったので、それは
「この地域も同じことが起きてしまうのかな、もう住めないんじゃないか。もう立ち入ることも出来ないんじゃないか」
っていう恐怖心は正直ありましたね。
Q.ご本人はその時点でもう大変なことになると思われていたのですか?
 地震直後もあれだけ強い揺れでしたので、内部がどうなってるかわからないので、原子力発電所はこれから大変だなと、怖い、今何が起きてるか判らないから、少し不安な面はありました。
Q.爆発すると思っていましたか?
 地震直後、不安はありましたけど、まさか原発が爆発まではするとは思ってなくて、地震が夜、11日の夜に親戚とか探しにちょっと外を移動してたんですね。その時に中で働いてる後輩とかから、結構「倒れちゃいけないものがいろいろ倒れた」っていう話を聞いたので、でも、そこまで聞いても、「倒れちゃいけないもの」っていっても、向こうも中にいて時間がなくて、結局詳しくは話してないんですけど、「倒れちゃいけないもの」が倒れてる、原発で「倒れちゃいけないもの」って何だろう?って全然見当つかなくて。
 恐らく発電機とかの・・・施設とかその辺のものが倒れたとか、その関係だとは思うんですけど、その時点で爆発するとは全然思ってもみませんでしたね。
Q.親戚の方も原発関連の仕事をされているのですか?
 親戚、うちのオヤジも含めて、おじさん二人とうちの親父と3人ですかね。勤務地は各々違うんですけど、おじさんの一人は原子力発電所内ではなくて、関係メーカーっていうんですかね、そっちのほうだったんですけど。
 やっぱり『安全』っていうのは、皆・・・取り決めのように「安全だ」っていうふうに、「絶対大丈夫だ。何が起きても大丈夫だ」とは言うんですけども、僕も働いたことあるんで、何が安全なのかピンときてないんですよね。何が起きたらどうなるとかっていうのは、判らないですけど、二重、三重、四重にもやってるっていうふうで、働いてる企業が言うんであれば、何も知らない僕たちは、
「それだけバックアップしてるんだから大丈夫だろうな」
っていう、何ていうんですかね・・・。『刷り込み』・・・。要はそういうことですよね。働いてない人もそういうふうに感じ取ってしまうような状況・・・っていうんですかね。
Q.ご家族とはすぐに連絡が取れましたか?
 職場から自宅に戻ったのは、6時前、5時過ぎくらいですかね。戻りながら、自宅に着いた時には、全然親と連絡が取れて、家で無事でいたのが確認できて、その後、確認できたのでちょっと心配だったおばあちゃんの家に行くっていって、
「おばあちゃん下手したら一人でいるかもしれない」
 それで、おばあちゃん家に行くと、叔母もおばあちゃん探しにずっと町中で、おばあちゃん家に「避難しました」名前が書いてあって、避難先、一緒に連れ出してくれた方の住所、場所が書いてあったんですけど、そこの家がまた再避難してて3時間くらい見つからなくて、町中の避難所を避難の名簿も手書きなので、何が何だかわからないような名簿を見ながら、判らないから一軒一軒しらみつぶしに探していて、途中で会った友達とか、「津波で家が無い」とか「親が今どこに居るか判らない」とかそういう人たちと情報交換しながら、「あそこの誰々はあそこにいる」っていう情報を交換しながら送っていったり、いろいろ夜はそういう活動をしてました。
Q.地震翌日以降の動きを教えてください。
 地震の翌朝、起きたら避難しろっていう情報を聞いて、うちのおばあちゃんがどういうふうに避難してるかも全く、住んでるところが違ったので、それでとりあえずおばあちゃんの状態がおばさんも一緒に住んでたんで、どういう状況か確認したら、おばあちゃんと叔母さんは町のバスで津島地区に逃げるっていうのがわかったので、自宅に戻って、まだ家にいたので、車は僕のと親のとで2台あったんですけど、自分は一人で自分の車で避難所に向かいまして、親は両親二人で自家用車で津島のほうに向かうっていう形ですね。
 避難所では、おじさんとおばさんは比較的最初の頃に見つかったんですけれども、父親の方が当然別に移動してて、母親はおばあちゃんのほうが心配でそっちに向かったということでそこで見つけて一緒に居たみたいなんですけど、そのあとうちのオヤジがどこにいるかっていうのがちょっと誰も把握してなくて、凄い数の人が避難してて飽和状態。駐車場も入れないくらい避難所はいっぱいだったので、移動しながら探してたっていう話なんですね。なので、どこにいるか判らない状態が数時間続いて、落ち合えたのが自宅を出て避難所に着くまでが3時間くらいかかったんで、それから2時間後、だから5時間後に落ち合えたんですけど。
 避難したときに、消防団の方に
「メルトダウンしてるかもしれないから、屋内に退避しろ」
っていうことを聞いて、途中でうちの親父に会いまして、下請けで働いてるので、
「何か情報ないか?」
って聞いたら、
「何も知らない」
っていうことで、そのまま情報が無いまま避難所に行ったんですね。
 12日の夜、避難所に着いて、ある程度落ち着いてきて、屋内に入れとは言われてたんですけど、気になって外を歩いてると、夕方ですね、数人の白い防護服を着た人が交番出張所、交番ですね、そこでものを降ろしてる姿を見てたんですね。
 防護服を着てるってことは、かなりの放射性物質がここに飛んできてるかもしれないっていう情報を確実に持ってる人じゃないと、そこにはそういう格好で来ないはずですよね。
 だから、どこの誰がどう指示してその人が来たのか、どういう事実を知ってて、どのくらいの線量があるのかっていうことを知ってる人じゃないと、ああいう格好では来ないし、ましてや警察に降ろしてるっていうことは、なんらかのどこかの省庁に関わる人だっていうふうには思います。
Q.その時は何か不自然だと感じられたのですね?
 今考えてみると、非常におかしいことだなと思いますね。
Q.13日の夜にお父さんと情報の確認はされたのですか?
 13日の夜は、情報を貰ってから一応避難所には向かうんですけど、体育館、電気がついてないので、足の踏み場もない、そういう状況だったので、とりあえず知り合いにだけ声を掛けて、とりあえず出て電波が届くところまで出ようという形で、一応親戚には声を掛けずに出たんですね。
Q.それはなぜですか?
 とりあえず状況が飲み込めないっていうのがあったので、とりあえず電波が届くところ。それとガソリンがほとんど僕の車もオヤジの車もほとんど入ってなかったので、ガソリンが優先という形で、まず友達と一緒に出たっていう・・・。
Q.どちらに向かわれたのですか?
 避難所から出て、福島市。西に1時間くらいなんですけど、福島市。そちらのほうに向かいました。
 親戚とたまたま連絡がとれて、「こういう事情で今移動してる。ガソリン調達しに行く」っていう形で、そこからそのまま埼玉まで親戚の家・・・東北はもうガソリンの調達は見込めないしっていうので、親戚の家に行って僕泊まったんですけど、そこで親戚の車とガソリンを調達して、また戻るっていう経緯になります。
Q.埼玉でガソリンを調達して避難所に戻るまで何時間くらいかかりましたか?
 あそこから埼玉までは、おそらく昼前くらいには着いたと思うんで、11時間とか。途中仮眠とか休憩とかとりながら行ったと思います。
 そこから親戚がまた川俣のほうにいまして、とりあえずそこにまず移動するという形で、そこから「どこまで行けるか判らないけれどもとりあえず南、僕の方に向かう」っていうことで、僕も北に向かう。途中でガソリンを給油するっていう形。
Q.その間、お父さんとは連絡は取られましたか?
 繋がらない状況なんですよね。震災後1週間くらい電話が不安定な時期が続いてまして、それでおじさんとかうちの姉とたまたま連絡が取れたとか、そういうのでどこかでワンクッション挟む形になってしまったんですけど。
 連絡は必死に何回もかけなおすんですけど、回線が混んでるっていうのでつながらなくて、しょうがなく「動けるときに動こう」っていう形で動きました。
Q.お父さんと落ち合った後はどうされたのですか?
 うちの親父と落ち合ってガソリンを給油した後に、神奈川県の川崎市に姉がいるので、そこでしばらく、1か月くらいお世話になる形で、そのほかにちょっと知り合いのマンションを貸してもらえるということになって、そちらのほうに継続して今もうちの母親はそちらのほうに住んでいる形になります。
Q.横浜に移られた後の状況を教えてください。
 横浜に避難してからは、ちょうど働いていた会社が横浜のほうに店舗がありまして、そちらのほうで働かせてはもらってたんですけれども、うちの親父っていうのはやっぱり下請けの社員なので、復旧作業員として招集されて、2カ月後、3カ月後とある程度経ってから復旧作業員として、第一原発に入っていく形ですね。
 うちの母親はもともと家事をやってましたので、横浜の方で情報、テレビとかで集めながら家事をする形ですね。
Q.ご自身の避難生活はどういう状況でしたか?
 まともな情報っていうのがなんだかわからないという状況で、それでも福島の片田舎から突然横浜に行って働き始めて、自動車の??業っていうことでそちらのほうでお世話になって、その間にはやっぱりメディア、新聞・ツイッターとかソーシャルメディアとかですね、情報を得ながらやってるんですけど、震災当時から、なんか俺らが知ってることとメディアのギャップがあって、どっからどうなのか、自分の持ってる情報とメディアの持ってる情報、どっちが正しいのか判らないくて、信用できないっていう状況で、それが半年間続いてて・・・今でも「メディアが言ってるのが本当なのか?」っていう疑心暗鬼・・・。
 事実って当事者から聞いたことしか信用してないっていう日々ですね。
Q.13日に原発が爆発したという情報を聞いた時、どのように思われましたか?
 3号機が爆発した時には、親戚の家の居間のテレビで見てたんですけど、なんて言うんですかね・・・聞いてた情報が「はずれてくれ」っていうのが大きいので、実際起きてしまって、1号機は???、3号機はどうなのか?それでまだ福島に戻ろうとしてる、それは大丈夫なのか?っていう不安は大きかったです。
 作業員の友達から電話が来て、1号機・3号機爆発して、僕の中ではどんどん悪い方向に考えていて、全然情報が・・・ほかの2号機とか4号機とか爆発する前に全然情報が入ってきてないのに、もしそういう情報が入ってきたら爆発してしまうんじゃないかっていう勝手な妄想っていうか、不安がものすごい大きかったです。
Q.情報のギャップに直面した時、どのように思われましたか?
 政府の発表に関しても、
「まだ大丈夫」
 当時の枝野官房長官ですか、が言ってて、その『大丈夫』の根拠は、震災当時爆発した時に数値の基準を知らないわけですよね。何に対して大丈夫なのか?っていうのもわからないし、でも作業員たちは、
「とても人が居てはいけない事故が起きてる」
っていうわけで、政府と作業員の友達、原子力発電所で働いてる人たちの言い方が真逆なので、すごい・・・政府を信じていいのか、友達なのかっていう折り合いがすごく難しかったですね。
 今はどっち・・・、政府の発表、メディアの発表、何を信じてるっていうと、基本的にまず何も信用しない状況でものを聞いて、大学の研究機関とかいろいろ発表してるのを見て、
「ここの大学は違うこと言ってるけど、なんで政府はあそこにはこの物質は飛んでないとかそこまで行ってないとか言えるんだろうな」
っていうので、大学とか研究者が動いてるわけなんで、とりあえず政府の発表は隣に置いておいて、ちゃんと現地で調査してる人の意見を信じるようにはしています。
<35:10頃まで>

<後半>に続きます。

失礼します。
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