※この記事は、2月14日 【内容起こし】IWJ百人百話 第36話 渡辺杏里さん【長生きではなく、毎日をしっかり生き抜く】に関連しています。
8月29日 【動画あり】福島県:19~39歳の健康診断を全額補助検討へ【負げねど飯舘をご紹介】
2011年10月4日 【内容起こしUP】飯舘村の「今」と「これから」~村民にとっての復興とは~@福島県文化センター【その①】にも関連しています。

2月15日 百人百話 第三十七話 渡辺富士男さん
http://www.ustream.tv/recorded/20460181 (61:56)

【以下、お時間の無い方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2012年1月5日収録
【自己紹介をお願いします。】
 渡辺富士男、昭和28年生まれ。58歳です。
 福島県福島市松川町に今住んでいます。
 もともとは飯舘村の、相馬郡の小っちゃい村の飯舘村っていうところに住んでました。ご存じのとおり、3月11日の事故があったので、今ここで避難生活をしてます。
 家族は母親と女房と3人家族なんですが、たまたまここ、松川町に一軒家が空いてる空き家があったものですから、今ここに住むことになりました。

 家族は息子が3人居て、孫が二人。今はもともと就職して二人は神奈川、あと一人は名古屋に住んでます。生まれは福島県、さきほど言いました福島県相馬郡飯舘村です。ちっちゃな村です。3月11日前までの人口は6500人くらいでした。それから世帯数としては1700くらいです。それで、そこで私は生まれたんですが、高校を卒業して、それから47年から東京に就職しました。東京には普通の集団就職みたいにして、5人で就職したんですが、途中でそれぞれになってしまったわけですが、最初は高校卒業してからトラックの部品を作る旋盤工として働きました。1972年の頃です。そこで4年間くらい旋盤工として働いて、その時にどうしても高校の時に憧れてたオートバイがあって、オートバイに乗りたくってオートバイを買うために、そこの仕事、職場を辞めて、それから今でいう建設業、土方をしました。
 本当にそこではバイクのために一生懸命働きました。それで、ちょっと働いてオートバイ、あの当時CBの7半っていうと憧れでしたので、そのオートバイを手に入れることができて、それから東京からずっと南の方へ旅行しました。
 オートバイの旅行が1年かけて終わってから、それからやっぱり家へ帰んなくちゃなんないなという気持ちがあったので、気持ちがあったということは、私、長男なものですから、生まれた時からばあちゃん、それから母親に「長男は家へ帰ってくるものだ」そんなことをずっと言われ続けてきたものですから、いつかは帰んなくちゃなんない、そのためには、帰るためには何か家に帰ってできる仕事を見つけなくちゃなんない。そんなふうに思ったものですから、その時たまたまおじさんが飯舘村の我が家、家で洗濯屋をやってたんです。それで、「あ、じゃあ俺も家に帰って洗濯屋をやろう。」飯舘村なんですが、本当に今思えば懐かしくって、帰りたいとこです。いつでも帰れるって思ってるんですが、なかなか帰れないのが現状です。
 飯舘村は、先ほど言いました海からは40分から1時間くらいかかります。また福島市と南相馬の原町地区のちょうど中間地点になります。
 冬は雪があると飯舘から福島市へ行くのに1時間、下り坂が大変です。反対に相馬、海の方に行くにも1時間くらいかかって大変なとこなんです。でも、その大変なとこだからこそ、自分の故郷・・・育ったところはいいなって思います。
 この間っていうか、休みの日に何日かあるんですが、その時に帰ります。飯舘に。そうすると、今避難してるんで家の周りが草ぼうぼうなんです。自分の家の草刈りをして、隣を見ると隣も誰も居ない。それで、草刈り隣もやってきます。そうするとまたその周りの小さな路地が草ぼうぼうなんで、その辺も草刈りをやってきます。本当に故郷っていうのは、今まではずっと飯舘に育って飯舘に住んでたものですから、故郷っていうのはおじさんとかおばさんとか、それから息子、孫たちが盆や正月に帰ってくるところだと思ってました。
 というのは、いつも受け身でいたんです。帰ってきて酒「飲みしよう。」、それが楽しみだったんです。それが出来なくなった。
 私は長男なものですから、そういう意味では皆が帰ってきて自分の家のように台所にいって「これ飲もうな」とか言って、呑んでくれるのがうんとありがたかったんです。
 息子たちも自分の家ですから、我が物顔でなんでもやってました。それが少しずつ文句を言いながらも、そういうふうにやってくれるのが、本当に嬉しかったんです。孫なんかが来ても、孫の後ろからどーんとぶつかってこられたり、そんなのがうるさいなんて言いながらも、こう・・・嬉しくて・・・いました。
 それが・・・飯舘からまた自分の職場へ帰っていくときに、
「またいつ会えるのかな、今度は盆かな、正月かな?」
と皆が思うように俺も思ってました。
 なかなか今はそれが出来ないのが現状です。
 飯舘村で洗濯屋を始めた時に、結構おもしろいこと、まぁ苦労っていえば苦労、面白い話もありました。
 というのはね、飯舘村は人口が少ない割には、ものすごい広いところなんですよ。福島県でも一番目か二番目くらい。まぁ定かではないんですが、広さとして面積としてはすごい広いんで、そこで洗濯屋、御用聞きで一軒一軒回るんです。それからあと、夕方になると、
「洗濯屋さん一杯飲んでったら?」
なんていうふうに言われたこともあります。
 そういうのは結構楽しかったり嬉しかったりしたことです。
【飯舘村の人の気質】
 それから洗濯屋で家で自営してますと、いろんなことがあって、いっつも家にいるものですから、もともと野球が好きだったんで、子供たちと野球を始めたんです。スポーツ少年団を何年かやって、楽しいことも結構ありました。やってて思うんですが、飯舘村の子供達っていうのは、良い言葉でいえば素直なんですが、野球をやってるとヒットを打ってもファーストまでなんです。次の塁を狙おうっていうのがなんか少ないような、他のチームはワンヒットは必ず。でもそこから次の塁、次のベース、次の目標へ向かう意欲があるように感じるんですが、飯舘村の子供たちは意外とヒット打ったらワンべース。それで一塁で「もう俺はヒット打ったから留まる」そんな感じが見えました。その辺が東北人かなっていうふうな感じは今でもしてますね。
 今チームメイトとかから言われてるのは、もう少しこの原発問題に対しても
「自分たちの言いたいこと、それから自分たちが困ってること、不安に思ってることをなぜもっと大きい声で言わないんだ?なぜ行政なり国なりに訴えないのか?」
って言われます。
 自分たちも訴えなくちゃ、訴える権利はあるんだよなと思いつつも、訴えるすべを知らないというか、そういうところが自分にもあるし、仲間同士にもまだまだ弱いんじゃないかななんていうふうに思ってます。
 子供の野球の話とこの今の原発の問題を結びつけるには、ちょっと語弊があるかと思うんですが、ちっちゃいうちから我慢する力とか、そういうのを俺個人で思うんですが、東北人・・・福島県飯舘村の人たちは、昔からここは寒い地域なんですよ。まして飯舘村っていうのは、標高は450mくらいなんですが、寒いのはうんと寒いんです。ですから、そういう中で生まれた時から寒さに対して我慢しなくちゃなんないとか、そういう気持ちが自然と身体の中に入り込んでるので、そんなのが今こういう問題でも、我慢しなくちゃなんない力になってるんじゃないかななんていうふうにも感じてはいます。
「我慢する時期が違うんじゃないか、今は我慢する時ではないんじゃないか」
まげねど飯館 そんなことをいっぱい言われてるんです。あとでちょっと触れたいんですが、チームでかわら版っていう壁新聞、『負げねど飯館!!』っていうのを・・・これなんですが、チームで『負げねど飯舘』と名前を付けましてかわら版、壁新聞を作っています。
 この中には、皆さんの村民の不平とか不満とか、それから憤りとか目標とか、そんなのも全部紙面にのっけられたらいいなというふうに感じています。
【震災が起こるまでの生活】
 洗濯屋は子供たちの野球を見ながら25年くらい続けたんですが、やっぱりその時分は大手の洗濯屋さんが入ってきまして、なかなか価格で勝てなくって、そん時も「じゃあサービスで」っていうことで一軒一軒回る御用聞きのほうを大事にしたわけなんですが、それも大手の企業さんでもそういうことをやるんで、どうしても廃業せざるを得なくて、その時に廃業しました。
 廃業してすぐ、飯舘村では第三セクターで宿泊施設を作ってたんですね。その時のバスの運転手、送迎者がいないというので、そこに使っていただきました。俺がそのバスの送迎をする、その時に福島とか南相馬、原町、それから郡山とか仙台のほうまで迎えに行くわけなんですが、俺ができることっていうのは、じゃあバスの中で飯舘村の良さをアピールしよう。アピールっていうのは誇張して言うのではなくて、福島とか仙台とか郡山から来る人たちは何を求めてるかというと、自然を求めてるので、別に
「この山は飯舘村の花塚山は、こんな感じで5月には子供たちが登山してます」
とか、それから
「ここの地域にはゆまえばしっていう地域なんですが、そこには水芭蕉がきれいに咲く」
とか、そんなこと、それから飯舘村を走れば判るんですが、5月頃農家の人が田植えして、大体1か月くらいまでは道路を走ったそばに田んぼがあって、田んぼの苗が夕方当たり走るとお月様が出てて、お月様が苗の間をずーっと通ってくるんですよ。そういうとこを教えてやるっていうか、知らせてやると結構単純なことでもみんな感動してくれました。
 保健衛生協会というとこに努めることになりまして、その保健衛生協会っていうのは、皆さんがご存じのとおり胸のレントゲンを撮ったり、心電図をとったり、あとバリウム、胃の検査をする仕事ですね。それのバスの運転。そして、バスを設置したら、そこで今度は受診録を見ながら項目によって、受信者によって胃の検査をしない人とか胸のレントゲンだけで終わる人とか、そういう人がいますんで、受診録をみて誘導する仕事なんかが多かったです。
 それから視力検査にも時々入りました。身長・体重を測る検査なんていうのもあります。
 そんなことをしてたんですが、その地域なんですが、南は広野、それから大熊、浪江、双葉、小高、北の方は新地、鹿島、南相馬ですね、その辺を仕事としてはその辺を歩いてました。それがこんな地震になってしまったんですね。
Q.震災当日はどちらにいらっしゃいましたか?
 3.11の地震のときには、検診が午前中だったものですから、バスを駐車場において駐車場の中でバスの手入れをしてました。たまたまバスの中に乗ってたものですから、その時に携帯電話がご存じのとおりなりまして、
「あ、これはすごい地震だな」
って想って駐車場に出ました。
 そして周りを見たら、すごい揺れてるんで、これは事務所のほうに帰んなくちゃなんないと思って、走って帰ったんです。その時に民家のブロック塀が倒れる瞬間を見ました。それから、屋根のかわら、一番上のが落っこってきて、二段目の屋根にあたってそのかわらが横に飛ぶのを見た時に、「あ、こわいな」っていうふうに感じました。
 地震があって、すぐにこれは家にも連絡をとんなくちゃなんないなというふうに感じたわけです。それで携帯電話で女房がどうしてるのか、母親どうしてるのかなと連絡をとろうとしたんですが、その時は全然通じませんでした。あと、名古屋にいる息子、それから神奈川に居る息子二人にも連絡を取ろうとしたんですが、全然届かなかったんで、名古屋の息子にだけは、たまたまちょっとだけ届いたんです。その時に
「皆には届いてないんで息子の知る限り、ばあちゃん、それから女房にも名古屋のほうから連絡してほしい」
っていうふうなメールを送ったんです。それで、俺のほうからよりも名古屋の息子から逆に福島の飯舘の母親のところなんかにはメールで届きました。
 家族はおかげさまで、誰も怪我することなく無事でした。
 その看護婦さん達なんですが、海辺の町、請戸とか大森とか、海に面したとこに住んでる看護婦さんたちが多かったんです。それでその時に、やっぱりその時に聞いたんです。
「あ、私の家、海に近いものですから・・・」
「海に近いっていうのはどれくらい近いんですか?」
「100mくらいなんですよ」
って言うんですよ、その看護婦さんは。
「じゃあ心配だね」
ってまだその時は、津波が来るっていうふうな思いはなかったものですから、地震だけ。地震でものすごい揺れだったんで、看護婦さんが心配して
「私帰らなくちゃなんない」
 所長がそこに居たんで、所長も
「あ、どうぞ。もう仕事はこれでいいですから。そのかわり安全にだけは注意して帰ってください」
ということだったんです。
 そのスタンドの女の人、店員さんなんですが、自分の車うしろブロック塀一枚の後ろに置いたもので、
「そこへ取りに行って、私は自分の車で逃げます」
って言ったそうなんですね。ブロック塀一枚で、前の人はそのまま真っ直ぐ急発進して波と競争するようにして助かったそうなんですが、その女の方は、その時にはもうそこで亡くなったみたいです。
Q.津波の情報は何で得ましたか?
 それを聞いたのは、テレビですね。
 原町の保健衛生協会の駐車場にけっこう居たわけなんですが、ものすごい津波が来てるっていうふうに聞いたのは、駐車場を出てすぐ。その時には、もう自分たちは何をしたらいいのかわかんなかったものですから、それと同時に携帯で連絡を取ろうと思った家族にも連絡がつかなかったものですから、とりあえずは家に帰ろうと思いました。その時原町の市内は、結構渋滞になってましたね。
 川俣町の体育館に避難した人たち、その人たちのところへ友達が避難してるっていうのを聞いて、そこへ向かったわけなんですが、体育館の中、それから小学校の駐車場、ものすごいごった返してました。友達を探すのにも、張り紙を何十枚、何百枚ですね。何百枚めくりながら探したのを覚えてます。
 でも、その時あまりにいっぱいで見つけることはできませんでした。
 浜通り、特に浪江とか双葉の人たちが川俣町の小学校、南小学校に多く居ましたね。その時に津波が起こったわけなんですが、その時点では次の日あたりまでは、放射能が降るとかっていう話は聞いてませんでしたね。後になって3日後くらいですか、飯館村の飯樋小学校の体育館が避難所になったんです。その時は、結構雪が降りまして、雪の中を駐車場がちょっと遠かったものですから、今考えればあの時に放射能を現実的には浴びてたなと思います。飯舘村の飯樋小学校には約400人くらいの人たちが小高、浪江、双葉の人たちが避難所にして体育館に避難したわけなんです。
 その時、私もボランティアとして飯舘村の体育館に寝た覚えがあります。
Q.事故以前、原発が危険だという認識はありましたか?
 原発っていうのは、新聞や何かに言われてるように、飯舘村は30㎞、40㎞圏内ですが、絶対安心だっていうふうに言われてたし、安全・・・なはずだっていうふうな意識はしてました。
 それが飯舘村は標高450mくらいなんですが、そこまで降り注ぐはずがないっていうふうに教えられてましたし、伝えられてましたし、自分でもそんな放射能の影響はあるはずがないっていうふうに思ってました。
Q.原発が安全だと思った理由は?
 安全だっていうのは、仕事柄そこの原発の中にも検診に行くときがあるんです。大熊の中へ。入るときはバスの中から何人看護婦さんが乗って、もちろん私の免許証を調べてもらって、それで機材もテロ用かもしれないですが、機材もどんなのを積んでるか、いちいち書類にして確認をもらって、それで原発の中に入って検診を行う業務なものですから、その中で周りの建物とか入る方法とか見た時に、
「あ、これは厳重にされてる、警備されてるものだな。これだけ警備されているんだから、大丈夫かな」
っていうふうに思ってましたね。
 それから看護婦さんの旦那さんなんかも、原発勤めてる人がいるんです。そういう人たちも原発の話なんか時々なった時もあるんです。その時も、
「原発は大丈夫だよ」
っていうふうに聞いてたものですから、それで
「原発は大丈夫なんだ、俺たちにお金とか税金とかいろんな面で潤わせてくれる」
 そんなふうに思ってました。
Q.原発交付金の恩恵を感じることはありましたか?
 恩恵っていうふうには飯舘村の人たちは絶対思ってません。そんなことはなかったんですが、ただ学校の双葉町の検診とか大熊町の検診とか行くと、学校の教材、教材は無料ですが、そのほかに副読本とかいろんな付随したものがありますよね。それは大熊辺りはみんな無償で提供されたものを使っているなんていうことは聞いたこともありますね。
 『原発が安全だ』とか書いてある副読本っていうわけではなくて、単純に教科の副読本が無償だとかって、そういうことですね。
 仕事も例えばよその学校であれば、小学校1年生、中学校1年生くらいしかやらないんですが、大熊辺りは全学年無償で検診を受けられるとか、そんなこともそこの地域によっては利点だったと思います。

「大熊町に土地を買いたいね」
とか、
「あそこは税金が安いからね」
っていうふうに言ってた看護婦さんもいますね。
「あそこはそんなに安いの?」
って聞いたら、確かに税金とかいろんな面で優遇されてた、そんな話はよく聞きました。
Q.佐藤栄佐久元知事が原発に反対した時は、どのように感じていましたか?
 佐藤栄佐久さんが原発に反対されてるっていうのを聞いた時には、そんなに私自身が知識もないし、認識も無かったんで、原発・・・はそんなに意識的には自分の中には、原発っていうのは意識はありませんでした。県知事さんが問いかけしてるほど、自分たちにはピンと来るものは無かったですね。
 14日の3号機が爆発したっていうのを聞いた時には、本当にびっくりしました。どの辺まで・・・っていうのは、自分にどの辺までの影響があるのか、飯舘村にはどの辺まで影響があるのかなっていうのは、ものすごい心配しました。
 でも、やっぱしその時点で、さきほどちょっと言ったんですが、看護婦さんの兄弟が兄弟が亡くなったとか、それから両親が亡くなったとかっていう話を聞いてましたので、そっちのほうが結構気になって・・・。
 津波の話で、それの方が気になって、放射能は目に見えないものですから、「俺は大丈夫だろう」くらいの簡単な思いしか無かったです。
 川俣町っていうところに避難してる友達を探しに行ったときに、その友達から聞いたんですが、
「爆発するのをアパートから見た」
って言ってました。
「アパートから見て、ドーンっという音がして後ろを振り向いたら、爆発して煙が炎上してる、それが見えた」
って言ってました。それで何がなくともいいから逃げなくちゃって感じたそうです。それで、結果的に携帯電話、大事な携帯電話さえも忘れて、西の114号線、そこを川俣町に避難していったみたいですね。
【原発事故直後の飯舘村】
 体育館の中で避難生活をしてた人の世話を多少はしました。その時にももちろん雪が降って、あとで考えてみれば放射能一杯受けてたはずなんです。東大の中川教授が講演の中で、
「飯舘村の放射能、これくらいだったら大丈夫だ」
っていうふうにおっしゃったそうなんですよ。それを聞いて村民の、私もそうなんですが、村民の人たちも、
「あ、大丈夫なんだ」
っていうふうな意識でいました。それで飯舘村っていうか、みんながそんなに避難をすぐしなくちゃなんないというふうには感じてなかったと思います。私自身も今度は飯舘村から皆さんが川俣町とかそれぞれに避難していったものですから、飯舘村でも栃木県の鹿沼っていうところに避難所として体育館が解放されたので、村民の何人かは、第一団としてそちらの方へ避難しました。うちの母親なんかもそこに、飯舘村でチャーターしてくれたスクールバスを利用して、そこへ避難したわけなんです。
 それからその後になってですが、それぞれに親戚を頼って避難したり、村の方でも後になってですが、妊婦さん、子供さん、そういう人たちが避難できるようなところを作っていただいて、そこに避難したわけです。
Q.危険だと思い始めたのはいつ頃ですか?
 放射能が危険だっていうふうに自分で思ったのは、4月の多分後半ごろだったと思います。
 放射能が危険だっていうのは、自分たちの仲間の『まげねど飯舘』っていうとこが新聞を作ってるんですが、その中で放射能が飯舘村にはすごい量降り注いでるっていうふうなのを聞いたのは、仲間からですね。テレビでも言ってたのはなんとなく覚えてるんですが、そんなに危険っていうふうには、さっきも言ったように思ってなかったので、それが仲間の口から
「放射能がこれくらいあって、それをずっと浴び続けると危ないよ」
っていうふうに聞いたのは、そこからですね。
 そこからは、これからどうすればいいのか、家族と俺たちはどうすればいいのかというふうに考えました。
 その時にやっぱり周りでも避難、それから仮設住宅っていうのは少しずつ聞こえてきましたので、早くアパートなり借り上げ住宅を見つけなくちゃなんないなっていうふうには感じました。
 うちの近所で測った時には、3.0くらい・・・っていうふうに役場の前で放射能検査してるんですが、その時の発表あたりは、3.0くらいでしたね。
 それから飯舘村の中でも広い土地、面積なもので、飯舘村長瀞っていう地域、蕨平っていう地域は、20くらいあるっていうふうに言ってましたんで、
「あ、向こうは同じ飯舘村なのに、随分差がある。怖いな」
というふうには感じてました。
 飯舘村は30㎞から40㎞圏内。最初に妊婦さんたちとか避難したわけなんですが、村でやっぱり全村避難しなくちゃなんないっていうふうに言われた時点から、すぐに仮設がこれからできるとは聞いてましたが、仮設よりも自分で早く借り上げアパートを見つけようと思ったので、借り上げアパートを探しました。
 友達が早く見つけていたので、その隣が空いてるっていうことで、隣のアパートに一番最初に住むことになりました。
 ですが、周りも俺たちと一緒にいろんな人たちがいろんなアパートを借りたりしてました。最初にアパートに6月1日あたりに入ったんですが、2DKで母親と三人で入ったわけなんですが、母親が本当はうんとおしゃべりなんですが・・・、いつもずっと家にアパートに居るもので、なんとなく鬱まではいかないんですが、帰っていってもあんまり反応をしない。そんな感じでいて、あの当時は母親が村民と出会えるっていうのは、スーパーか美容院、コンビニ、それくらいしか出歩く場所がなかったし、それくらいでしか自分の知り合いの人と会うチャンスが無かったんです。その時は、今は携帯持ってますが、当時は携帯もってなかったので、誰かと話すというのもできなかったんです。自分の息子ともなかなか話すこともできなくて、鬱まではいかないんですが、一人静かにしてました。
 そんなんで、やっぱこれではまずいなと思って、ここ、今現在の福島市の松川町に移ったわけですが、ここですと隣2㎞くらいのところに飯舘村の村民が住んでる仮設住宅があるんです。そこは200軒くらいありまして、けっこうな人数が住んでます。またこの近くにも、やっぱり仮設住宅がありまして、ここから1㎞くらいなんですが、そこにも時間をかけて車がないんで歩いていって、遊び友達と話したりしてます。
 その仮設住宅の人たちなんですが、年配の方はやはり最初はこっちへ移ってきた当初は、
「帰りたい」
 もちろん帰れるって思ってましたから、本当の仮設の仮の住まいだなっていうふうに感じてたみたいです。
 ところが、だんだん今現在になってみると、
「帰りたいけども、もう帰っても・・・もう帰れない」
っていうふうに思ってます。
 なんでかというと、若い人たちがこっちへ福島なり相馬なり、郡山なり、いろんなとこへ住んで、そこで少しずつでも自分たちの仕事を見つけてるんです。そうした時に、若い夫婦がこっちへ福島あたりへ出てきて仕事みつけたとなれば、年配の人、年寄り夫婦が帰っても、除染はして帰ってもいいよ、帰りましょうってなったときに、若い人たちは仕事に就いてるものですから、なかなか帰れないと思います。そうした時に、年寄りだけで帰っても何の生きがいもないし、目的も無いんで、やっぱり帰りたいけど帰らないっていう人たちも中には居ると思います。
 「6月になるときに避難をしなくちゃなんない、放射能がこれほどあるんなら、やっぱり避難しなくちゃなんない」、周りもそういうふうに感じてたんで、避難することに決めました。
 ところがうちの親戚になるわけなんですが、母親の従妹なんですが、もう80いくつになります。その夫婦は
「絶対、俺は飯舘村に残る」
 そういうふうに言って、今現在も飯舘村に住んでます。なぜかといいますと、そこのおばあちゃんは痴呆なんです。茶の間から縁側に来て、縁側で道路が見えるんです。車の走るのが見えますし、昔は子供たちが歩いてるのが見えました。それに手を振ったり頷いたりしてるのが、その人の日課だったんです。その人の旦那さんにすれば、
「俺は避難はしない。うちのやつはこうやって茶の間からここまでは歩いてこれるけど、避難所へ行ったら絶対にもっと病状が悪くなる」
っていうんで、今もそこに留まっています。
 それから、そういう人たちを残して、俺は避難してもいいのか?っていう自分の中でありました。まして親戚ですから。母親の従妹ですから。そういうのはありましたが、やっぱり・・・うーーん、避難は放射能を考えると避難はすべきだって思って避難することに決めました。
【避難を決意した理由。】
 みんなが避難するからっていうのは理由になんないのかもしれないけど、一人ずつ避難していくんですよね。
 そうした時に、従妹が居るっていうわりには自分も避難しなくちゃなんない。でも、そこを何があったから避難っていうのではないんですよ。一人一人居なくなって、友達も一人ずつ、やっぱり避難していくし、テレビなんかでも『避難したほうがいい、全村避難だ』っていうふうにもなったんで、そこんとこはあんまりはっきりしませんね。
 先ほどはさっきも言ったんですが、何があったから避難っていうのではなくて、一人ずつ、ひとりずつっていうか、避難しようっていったときに、皆でやっぱり避難する・・・俺だけが残れない。やっぱりみんなとなんでも一緒にやってきたんですよ。一人ずつ欠けていくときに、やっぱり・・・みんなと同じにしたいなっていうのを思ったわけなんですが・・・、田舎同士の俺たち昔から「みんなで」っていう言葉、それから「ゆい」っていう言葉もあるんですが、「ゆい」って「結ぶ」って書くんですが、
「今日は俺があんたの家の仕事を手伝うから、あんたも明日俺んちの手伝いしてくれ」
っていうのが「結」なんですが、そうやってお互いがお互いを庇いあうっていうか、そういうことをやってきたものですから、やっぱり『みんな』っていうのは大事にしたいし、『みんな』っていうのが俺たちのどこか力になってるんですね。自分だけがっていうのは、ちょっと無いんです。
 じゃあ個人が無いのか?って言われると、そういうふうにも聞こえるかもしれないですが、やっぱり『みんな』っていう言葉を自分たちの力にしてる。それが今までの俺たちのやり方、こういう生き方だったなと思ってますね。
【隣組】
 地域の集団で30軒???があるんですが、そこを組って呼んでるんです。その組の中で集まって、これからみんないろんなところに親戚のところへ行ったり、避難所へ行ったりすることになるわけですが、その時にみんなで組で集まって、30軒集まって、
「これから避難はするけども、いつかもちろん飯舘に帰ってくる」
って思ってましたので、
「今は放射能が一杯だろうけど、いつか除染っていうか無くなるはずで帰ってきましょうね。」
 だから、その時に小さい話ですが、組の中に積立金とかそういうのがあるわけなんです。今現在もあります。それはじゃあ、これから避難するんだから、皆にお金を分けましょうか?っていう話にもなったんですが、そうではなくて、
「これからまた帰ってくるんだから、そんときに帰ってきたときに花見をやりましょう、飲み会をやりましょう、その時の一番最初の金にしようね」
っていうんで、今現在も組長さんがお金を預かってるはずです。隣組っていうのは本当に大事で、何をするにもうちの母親なんかは、隣組で・・・いろんな心配を結構するんですよ。例えばさっき言った法事に誰と誰を呼ぶかななんていう時も、「あ、組長さんは呼ばなくちゃなんないよね」とか「班長だけは呼ばなくちゃなんない」とかって、それくらい隣組っていうか組は大事にしてました。
 ですから、その時に組が無くなるっていうか、組のメンバーが居なくなる、一人ずついなくなるということは、組が無くなることですから、それだけは絶対無くなるはずはないっていう、もちろん願望から始まってるんですが、いつか飯舘村に除染されて帰ってくるっていうふうに本当に思ってました。
【負げねど飯舘】
 『負げねど飯館』っていうチームで会を持つようになってから、6月の後半頃かな。その頃から除染っていうのが、飯舘村から放射能を無くしてほしいっていうのを強く思ったのが・・・。
 『負げねど飯舘』っていうのは、地震直後に若い連中4,5人で酒を飲んだらしいんですね。酒を飲んでいて、
「俺らなんかしなくちゃなんないよな?」
「今みんなが飯舘村から避難しなくちゃなんない。この時に何かしなくちゃなんないよな」
っていう話を何人か集まった時にしたそうなんです。その話を別なグループ、年寄りっていうか、俺らのグループ、
「若い連中がそういうふうに飯舘村のことを思ってるんだったら、俺たちも何か手伝おう」
っていって、『負げねど飯舘』っていう名前で何かをしよう。何かをしようっていうときに、何をするっていったときに、子供達を早く避難させる、それから会議、定例会を開いてその中で、
健康手帳「今現在飯舘村から避難するときに、3月から現在に至るまでの日記を作ろう」
 その日記っていうのは、健康手帳なんですが、健康手帳を作ろう。健康手帳っていうのは、これが現在できた健康手帳なんですが、3月11日に事故があった。12日にはじゃあどこに居たか。飯舘村に居たっていえば、飯舘村のどこに居たかは、あとで調べれば放射能がどれくらいあったかが判るので、それをこういうふうに日記を書いてもらおうっていうことになったんです。
 この日記の中には、例えば3月11日事故があり、3月12日には1号機爆発とか、こういうことを書いてあるんですよ。そして、これを書いてもらうことによって、あとあともし、国とか東電とかに訴えるときに、
「3月15日に私は飯舘村に居たから放射能をどれくらい浴びてるから、こういう病気になったんじゃないの?」
っていう訴えかけの健康医療に関しても、そのための証拠っていっていいのかどうか、そういうのを残しておけばこそ、医療にしても何にしても、戦うっていうんではないんですが、証拠として認めてもらえるんじゃないかと思ったんで、こういうのも作りました。

健康手帳2


Q.除染についてどう思いますか?
 最近ですが、除染モデル地区、飯舘村の草野地区っていうとこがモデル地区になって、今除染を始めてるんですよ。車で行ってときどきそれを見たりするんですが、確かに土をいくらか掘ったりして、草の根を採ったりしてるのを見ます。でも、それで除染が全部できたのかな?って思うと、そうではなくて、行ったとこの放射能をどこかに持っていっただけでそこがすべて綺麗になった、無くなったわけではないので、やっぱりみんな・・・みんなっていうか私の知ってる限りの人たちは、それで除染ができたとは判断しないと思うんです。
 除染ができないのに、帰ることもできない。
 それから報道で知ったのですが、飯舘村の中でも広いので、この地区は放射能が少ない、この地区は多いというのはあるんですよ。そうした時に、放射能の少ないとこは
「大丈夫ですよ。帰ってもいいですよ」
って言われても、さきほど言ったように、強いとこもある、弱いとこもある、それが飯舘村なんで、やっぱり少ないとこの人たちだけ早く帰ってどうぞって言われても、飯舘村の人たちは帰れないと思います。やっぱり帰るんだったら『みんな』が、さっき言った『みんな』と言葉一緒になりますが、帰るんだったらみんな一緒に帰る。帰らないんだったらみんな一緒に帰らない。そういう思いは、これは現実的にその地区の人たちにも聞いたりしてますので、本当にそんな感じだと思います。
『若い人たちが帰らないところに、村は存在しないと思います。』
というふうに年配の方、年寄りの人たちも思ってるはずです。年寄りの人たちは、若い人たちが帰っても、自分たちでできることが無いんですよね。孫がいて、やっぱり孫と一緒に暮らすのが・・・目標だったり、それが普通の、飯舘村の普通の生活だと思うんです。俺もある時言われたんですが、余談ですが、
「渡辺さんの夢は?」
って聞かれたことがあるんです。その時に、
「俺、おじいちゃんになることだよ」
って言った覚えがあるんです。おじいちゃんっていうのは、ここは縁側ですが、飯舘村に帰って縁側にでも座って、おじいちゃんになるっていうことは、孫がいるっていうことですかね。だから、孫がいる生活をしてみたいなって思ってますよ。孫っていうのは、どこの家でも必ず飯舘村で普通の生活だったんです。
 それが・・・無くなってしまったっていうのは、本当に・・・うーん、言葉で寂しいって言えばそれだけですが、4,5日前飯舘村に帰って、自分の家に行って中を開けて、今も猫がいるんですが、その猫がすごい聞かない猫で、すごい小さいときから捨てられてた猫だったんで、それが自分のとこへうんと近寄ってくるんですよ。それを見た時は、
「あれ?こいつも変わったな。寂しいんだな。」
って本当に思いました。
 飯舘村の年寄りの人たちも、「帰るか?」っていって、飯舘村は普通に帰ることはできるので、1時間とか2時間でしたら。
「いや、帰らない。帰るんだったらずーっと帰るし、今は帰っても何もすることないし、見たくもない」
 その気持ちの中には、いっぱい複雑な思いがあるとは思いますが、確かに仮設に住んでる人たちなんかは、何が生きがいかなって一人一人聞いてみたくなる時ありますよ。
 飯舘村の今までの暮らしなんですが、農家の人、結構兼業農家が多いんです。兼業農家の中でも若い人たちが土日にトラクター、大型機を使って耕してくれて、肝心なところを仕事してくれて、その後残った年寄りの人たちがそれを管理・維持するっていうのが、一般的な飯舘村の農業でしたね。
 確かに花とかブロッコリーとか、畜産とか、肥育とかそういう大型にやってる人たちもいます。でも、その人たちを除けば、一般の農家っていうのはそんな感じですね。
 そうやって仕事柄、そういう良い面、若い人たちに手伝ってやる。それが年寄りの人たちの生きがいでもあるし、そこに孫もいるし、目標でもあると思うんです。
 それが飯舘村の今までも暮らしなんです。
 ですから、若い人たちがいないとこで、年寄りの人たちだけでは住めないと思うし、年寄りの居ないところで若い人たちも病院もない、それからスーパーも銀行も無ければ、飯舘村としては成り立たないと思います。
 ですからやっぱり帰るんだったら『みんな』一緒。
 そこを考えれば、帰れないのが現実かなというふうにも思ってます。
【今後のこと。】
 ・・・そこがまだ判んないね・・・。
 うーん、帰りたいけど帰れないっていうのを知ってるんで、じゃあここで何をするかっていうのも・・・わかんないです・・・。うーん・・・。
 それを考えると・・・多分、俺だけではなくって、夜中に2時とか3時とかに目が覚めるんですよ。明日仕事だから、早く寝なくっちゃと思うんですが、ここ、???に寝てるんだよねってもう一回目をつぶって、飯舘の俺のあの部屋だったら、こっちにテレビがあったよな・・・こっちに本棚あったよなって思って・・・うーーん・・・。そんなことばっかり考えてますね。
 明日の、これからどういうふうに生きようとかって、うーん・・・。金持ちになりたいなっていうくらいは思うんですが、本当に明日、これからどうすればいいのかは、ほんっとに正直な話、俺はわかんないです。
 もし、飯舘の自分の家、自分の土地、家が買い上げしてもらったら、そのお金を糧にして、土台にして、何かをしようという気にはなるとは思いますが、なにせ明日食うにも仕事をきちっとやってないと、今やってる仕事もアルバイトなんですね。ですから、仕事がはっきりしないうちは、家、土地の買い上げが決まんないうちには、多分家・土地の買い上げは飯舘村は無いと思います。それが決まんないとそれを土台にすると言いましたが、それさえもできないんで、今本当に何をしたらいいのかは判んないのが正直な答えです。
【以上】

失礼します。
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