※この記事は、2月13日 【内容起こし】IWJ百人百話 第35話 裏澤利夫さん『政治は国民を守ってくれない』【渡利地区に住み続けて・・・】に関連しています。

【動画】2月14日 百人百話 第三十六話 渡辺杏里さん
http://www.ustream.tv/recorded/20441166 (45:01)

【以下、お時間の無い方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2012年1月8日収録
Q.自己紹介をお願いします。
 渡辺杏里、30歳です。
 出身は、福島県の中心部、中通りから北に30分ほどいったところの今、本宮市になります。今は、郡山市に住んでいます。
 家族構成は、今は一人暮らしなんですけれども、実家のほうに父と母と、あとは妹が二人いるんですけど、下の妹が結婚してまして福島県の西の方に行った磐梯熱海に一人と、あとは郡山市に住んでる妹です。 
 仕事は情報誌の広告営業をやっています。

 今は本宮市という名前に変わったんですけど、数年前までは白沢村というところでして、信号が無くて道路に牛が歩いているくらいの、すごい田舎なんですけど、緑が豊かな土地です。
 父の仕事は、兼業農家だったんですけれども、お米を作ってるのと後は建設業でした。会社員です。父がほとんど一人でやっているような形で、平日は会社員なので仕事をして、土日を中心の稲作であったりとか、あとは小さいんですけど畑もあったので、畑で野菜を育ててたりっていうこともしてました。それは母も手伝っているような感じでした。
 父の出身は、白沢村。現在本宮市というところになるんですけど、母は本宮市から更に福島市の方になるんですけれども、北に行ったところの安達町というところになります。
 父方も母方も、どちらも福島の出身になります。親戚は。
【東京での生活、故郷の人々】
 高校を卒業してからすぐに、東京に行ってまして、その時就職が決まっていたわけではなくて、ただ単に福島ってやっぱり田舎なので、都会にあこがれを持って東京に行ったっていうのがあったんですけれども、ちょっと空気が合わないっていうのがありまして、半年くらいで帰ってきて、自分の住む家っていうものを決めずに行ったっていうのが一番大きかったんですけれども、それで友達の家を転々としていて、最終的に公園で寝泊まりとかしてた時期がありまして、だいぶ鍛えられたなっていうのはあったんですけど、やっぱりどこに行っても人が居るっていう環境が、結構自分の中では辛かったんですね。こっちでは当たり前のように見えていた星も見えないですし、どうしても緑・・・公園とか行けば芝生があったり木があったりとかっていうのもあるんですけど、どうしてもなんか人工的なように感じがしていて、なんだかいつもやっぱり思いだすのは、自分が育った福島の環境でした。
 若さっていうのもあったんですけれども、住所をちゃんと決めないと仕事が出来ないっていうことをその時判らずに勢いで行ってしまった感があったので、でも、行けば何とかなるという自分の気持ちもあって、あの頃確か派遣のアルバイトが出たしたころで、それでなんとか食いつないでいて、お金を貯めて家を借りるっていうふうにも思っていたんですけど、やっぱ家を借りるまでの金額だったりとかが判らずに行ってしまったので、結局公園で寝泊まりとかっていう感じになってしまいました。
 その時、今から思ってみればあの頃が反抗期だったのかなと思うんですけど、両親には「東京に行く」って言わずに出たんですね。その時は、「新潟の旅館に住み込みで働く」っていうことで行きました。
 なんで東京に行くって言えなかったかというと、両親が東京に対していいイメージを持ってないというのを知っていて、なにか事件に巻き込まれるかもしれないだったりとか、どうしても危ないところっていうのが強かったんです。
 両親も東京に行ったの、多分2回くらいしかなかったんですね、確かその時点で。私が東京に行ったのは、18歳、高校を卒業するまでの間で、2回ほどでした。
 その時は、1回目は修学旅行ですね。中学3年生の頃だったんですけど、修学旅行で一回と、あともう1回は、一時は専門学校に入りたいっていう思いもあったので、それの体験入学で2回目です。
 ウソついてまで東京に行ったっていうのは、やっぱり自分が行きたいって思っていた専門学校にも反対されて、その時洋服のことにすごい興味があって、結構奇抜な格好をしてたので、それで怒られたりっていうものもしょっちゅうありまして、そこからですね。反抗期だったんだと思います。
 その頃、雑誌などで東京のスナップ写真を見ていても、自分がしてるよりもより派手な格好の方がいっぱい載ってましたし、福島に居ると浮いてみられるんですけど、東京に行ったらそれが自然だったりとか、そういった華やかな世界にあこがれていたっていうのがありました。
 結局、東京に行った後も、自分が想像してたものよりも全く違くて、自由っていうところは無かったような気がします。
 その日暮らしていくのでいっぱいいっぱいになってしまっていて、でも自分が好きなファッションっていうのも楽しめなかったですし、結局は友達もそんなにすぐにできるものではないので・・・そうですね、孤独感だけが強く残って終わったような感じでした。
 郡山に、福島に帰ってきてからは、そうですね、やっぱりホッとしました。ホッとしましたし、あと両親には、結局東京に行っていたことを話したんですけれども、ものすごく最初怒られて、でもやっぱり心配だったみたいで、すごい・・・泣いてしまったりというのを見て、すっごい悪いことしたなって反省しました。
 東京に対するイメージっていうのは、もちろん個人で異なるものだっていうのはあるとは思うんですけど、私がもともとの出身地である本宮市から郡山のほうに出てきたのは高校の時なんですけど、中学時代の友達と高校時代の友達でも、結構考え方って変わっているなっていうふうに思ったことがありまして、中学時代の友達は、やっぱり内に内に行くようなタイプで、地元意識が強いっていうんじゃないんですけれども、やっぱり・・・本宮市、本宮市というか白沢村の人たちにとっては、結構、東京だったり都会っていうのは怖いっていうイメージを持ってる方が多かったような気がします。友達もそうですし、親戚も、例えばお正月とか集まって会話する機会があるんですけど、その時にも、やっぱり「知り合いが今東京で働いてる」っていう話が出たりすると、
「大丈夫なのか?」
とか<苦笑>、なんか遊んでるんじゃないかっていうイメージが強いですよね・・・。
 郡山に来てからは、結構もともと郡山に住んでる方なんかは、中学生のころから一人で東京に遊びに行ってるっていう人にも会いましたし、もうちょっと開けたイメージな気がします。
 白沢村の人たちにとっては、今はそれほどはないとは思うんですけれども、私が幼かった20年前くらいは、結構郡山に対しても都会だっていうイメージは強かったと思います。
 そうですね、白沢村の人たちって、結構村同志、もしくは近くの町であったり村であったり、隣村とか隣町の人たちと結婚するという方が、私の感覚だととても多い気がするんです。なので・・・多分郡山市だったり、福島市っていうふうな規模になると、ちょっと街中っていうような、街中というか都会というイメージを抱くような気がします。
 村の人たちの考えとしては、私の予想にはなってしまうんですけど、自分の目の届く範囲内に居てほしいっていう思いもあるんだと思います。
 やっぱりそれぞれの家庭で畑を持っていたり田んぼを持っていたりというのもあるので、その跡継ぎの問題だったりとか、その辺りも関わってくるので、遠くに行かれるよりは、一番多分いいのは同じ村。自分の家を引き継いでくれるということ。あとは、せめて目の届く隣町であったりとか隣村であったりとか、そこで結婚してほしいっていう気持ちは多分強いんだと思います。
 とてもご近所づきあいだったりとか、親戚づきあいもそうなですけど、横のつながりを大事にする印象が、小さなころからあります。
 例えば、一番それがわかりやすいのが、葬式だったり結婚式のときだったりするんですけど、お葬式の時なんかは、朝方の3時くらいから炊き出しに行く母の姿を小さいころから見てて、そのまま夜までずっと亡くなった方をみんなで偲ぶんですけど、暖かい人柄ですね。
【3.11震災当日】
 3.11の時には、会社で仕事をしていました。
 会社が11階建てのビルなんですけど、そこの7階に会社がありまして、そこでパソコン作業をしてました。
 あの震災の時には、最初は結構福島県、他の地域も多分そうだと思うんですけど、地震が結構多かったんですよね。ただ、どこから聞いたのか覚えてないんですけど、福島の特に中通りは、周りが山に囲まれてるというのもあるので、大きい地震は来ないというふうに聞いたことがあって、「またいつもの」みたいな感じだったんですね。だったんですけど、途中から揺れがすごく大きくなっていって、その時点でも多分まだ大丈夫みたいなのはあったんですけど、長かったので机の下に隠れて、いろんなものが落ちてきて、その直前にニュージーランドの地震でビルが崩壊する映像を見てたので、ビルが壊れるんじゃないかと思って、すごい怖かったです。
 揺れが収まってからは停電してしまったので、そのまま階段で一気に下まで駆け下りて外に出ました。
 そこから結構やっぱり余震があったりして、その時には電話も通じない、メールも通じないという状況だったので、ツイッターで情報収集をして、「どこで火事が起きてる」であったりとか、「どこどこの建物が崩壊したらしい」という情報だったりとか、あとは本社の人ともツイッターで連絡を取ったりして、余震がすごかったのでそこからちょっと広めの駐車場のほうに皆で移動して、揺れが収まるのを待ちました。
 そこからは帰宅指示が出たんですけど、ただ町がどうなってるのかっていうのをちょっと見たかったので、その時は会社の車で郡山の市内をぐるぐる回って、大体何キロだろう。ここから駅前・・・会社が駅前にあるんですけど、駅前から大体、半径何キロくらいだろ・・・。6,7㎞くらい西の方に進んで1周して、そこから隣に須賀川市というところがあるんですけれども、そちらの方にも行って、町の状況を見ました。
 結構、車がつぶれていたりとか、あとはコンビニだったりスーパーに人が殺到している姿を見たりして・・・結構驚きました。あとは、ナビがついてたのでテレビとかも見れたんですけど、その時に津波の映像を見て、「大変なことになったな」と思いました。
 実家のほうについては、妹から両親が無事だっていうことを聞いていたので安心して、あとは家の中がお皿割れたりとかっていうのがあったので、それを片づけたりっていうのをしてました。
 震災の直後は、ちょうどその3月11日が原稿の締め切りの日だったので、どちらかというとその原稿がどうなるのかっていうほうに意識がいってまして、結局その時はその号は発行されなくなったっていうのを大体2,3日後くらいに聞いたので、あとは自宅待機という形になって・・・そうでした、14日に原発が爆発したんですよね、水素爆発起こして、あの辺から一気に「ちょっと死ぬんじゃないかな」っていう・・・恐怖感は覚えました。
 津波の映像を見て、大変だなとか怖いなっていうふうには思ったんですけど、郡山市自体海からだいぶ離れてるっていうのもあって、ちょっとあの時は、すごい申し訳ないんですけど、ホントに『他人事』みたいな気持ちで見てました。あと親戚も海沿いにいたんですけれども、無事も確認できたので、そうですね・・・他人事のような感覚でした。
 で、水素爆発を起こした時に、テレビの情報であったりとか、あとはネットの情報を見ていて、「郡山市も危ない」っていうことを見たので、あそこで一気にネットだったりテレビの情報を取り入れすぎて、恐怖心が増したような気がします。
【原発について】
 原発についての知識であったりとか、放射線・放射能とかに関する知識は、全くありませんでした。
 なんとなく、なんとなく「爆発したらまずいんじゃないか」みたいなことであったりとか、爆発の映像が結構インパクトがあったというか衝撃的すぎたので、それでなんとなく・・・「ヤバいんじゃないか」っていうくらいでした。
 原発から郡山は遠いんですけど、その時点・・・、爆発する前までは、どうだっただろう・・・。ネットだったりテレビで調べてからですね。テレビで聞くコメンテーターの方が話してたりとか、確かあの方なんだったっけかな・・・。Youtubeかなんかで何隆さんだろう?
Q.広瀬隆さん?
 あ、そうです、そうです!広瀬隆さんの言ってることを聞いて、すごい怖くなった覚えがあるんですね。
 インターネットに関しては、結構前から動画を見たり、あとは仕事柄っていうのもあるんですけど、ネットで情報収集っていうのはよくやってました。
 テレビの情報とネットの情報がごっちゃになっているんだと思います。あの当時、テレビもずっと原発の内容ばかりでしたし、それと同時にネットでも情報収集してたっていうのもあるので、あんまり自分の中で整理しながら情報収集してたっていうのは無いんですよね。となると、若干ちょっとパニック状態だったのかもしれないです。
 その時点での行動は、とりあえずマスクをつけなさいっていう指示があったので、マスクをつけて過ごすのと、あとは換気しないっていうのをやってました。
 ただ、結構短い期間、3,4日、1週間くらい続けたのかな・・・1週間くらいでだんだん意識が薄れてきて・・・薄れていきましたね。
 あとその1週間くらいの間で、結局被曝すると、寿命が短くなってガンになって死ぬっていうことだと思うんですけど、「そんなに私長生きしたいかな?」って思った瞬間があったんですね。そこまで、そこまで長く生きたいのかといったら、そうでもなくて、25年後くらいにそういうふうに症状が現れるんだとしたら、それはそれでいいのかなってなんかちょっとおかしくなっちゃったんだと思います。
 私は今独身なんですけれども、今のところ結婚願望も子供を産みたいっていう気持ちも無くは無いんですけれども、さほど強くなくて・・・なので、あまりそこに対する不安は薄いような、薄いです。
 特に今もし結婚して出産したとしても、多分福島に居ていいのかということも考えるようになるでしょうし・・・うーーん、そうですね。今のところ自分は福島から出たいっていう考えって、全く無いんですね。
 最初原発が爆発した時には、大量に被曝するとすぐに死んじゃうということを聞いたので、このまま体に異常が出て、1年2年くらいの間で死んじゃうんじゃないかっていう恐怖があったんですけど、ゆくゆく実際に身体の方にガンになったりとかっていうのが25年後だっていう話を聞いて、で、「25年後だったらちょうどいい」って言ったら言い方おかしいんですけど、「それだけ時間があるんだったらいいんじゃないか」っていうのはありました。
 『25年後』っていう数字は、ソースはどこなのかっていうのは覚えてないんですけど、なんかネットかなんかで見たような気がします。
 結構何人かがそういうことを言ってたような気がします。
 情報を収集することで、結構自分が不安になったりとかパニックもそうなんですけど、そういうふうに陥りやすいというのを知ったので、もう今は調べないようにしてます。
 私にとっての『パニック状態』っていうのは、あれですね、知り合いだったりとか兄弟とかに電話をして「こうらしいよ、ああらしいよ」っていうのを興奮した状態で話してたのがあって、特に涙が出るであったりとか、夜寝られない・・・あ、でも寝付きは悪かったですね。ただ寝付きが悪かったのは、パニック状態のせいではなくて、多分余震だったりとかそちらのほうの影響が強かったんだと思うんですけれども。
 落ち着いた状態っていうのは、『気にしなくなるっていう状態』だと思います。
 仕事に戻ったのは、震災が起こってから12日後くらいだったと思います。
 会社が休みになった12日間の間は、ほとんど郡山の自宅に居ました。
 本宮市に住んでる両親が、私が住んでる郡山市の自宅の方に来たりはしました。
 両親や本宮市に居る親戚については、放射能のことについては、ほとんど話題には出なかったような気がします。親戚には私、ちょっと会ってないのでなんとも言えないんですけれども、両親の口からも「親戚も心配してる」みたいなことも聞かなかったですし、ただ心配したことといえば、私の妹が子供がいるんですけど、今5歳なんですが、そこについて大丈夫なのか?っていうことは言ってました。
「どうせもう老い先短いから、良いんだ、死んでも」
くらいのことを言ってましたね、両親は。
 甥っ子に対しては、その時点では、妹も県外に出ることをちょっとは考えたみたいなんですけれども、なんか大学教授かなんかに結構メールして質問したりとか、あとママネットワークじゃないですけど、そこからの情報だったりとかを収集して、妹なりの判断で今は居るっていうことを決めたんですけど、安全・・・100%安全だとは判断はしてないんですけど、今の状況を見て、またこれから何か変化があったら多分考えるんだと思うんですけど、今の状況で判断して、「居ても遠くに居ても変わらないんじゃないかな」っていうふうには言ってました。
「出るとしたら、県外ではなくて国外とかまでいかないと、多分変わらないんじゃないか」
っていうふうに言ってました。
 おばとして、子供が危ないっていうことで騒がれたときは、気になったっていうのはあるんですけど、今は特に気になってないですね。
 騒ぎになったっていうのは、子供の方が被曝しやすいっていう情報が流れ始めた時。子供の方が被曝しやすいっていう情報が流れたのは、どれくらいだったか覚えてないんですけど・・・3月、4月くらいの話だったと思います。
 多分、今でもテレビだったりネットとかを見ると同じような情報が載ってるとは思うんですけど、なんか子供が危ないっていうふうな話をテレビなりネットなりで見た時って「あぁそうなんだ」って思うんですけど、そういう情報が多すぎて、だんだんマヒしてくるんですよね。マヒしてきますし、あと周りからも言われすぎるとだんだん聞きたくなくなるというか、話を聞きたくなくなるというのは、結局のところ、正しい情報が何なのかっていうのが判らなくて、似たようなことを言ってるんですけど微妙に違ったりするんですよね。それを自分で判断もできないですし、これが正しいって言ってくれる人も居ないですし、そこを気にしてても、なんか仕方ないんじゃないかっていうふうになってきて、どちらかというと諦めの心が強いんだと思います。
 生活は、今自分の中では結構元通りになったような気がしてます。
 完全にではないんですけれども、それが何時頃なのかっていうといつ頃だろう・・・。結構・・・仕事が忙しくなったタイミングが、確か5月の下旬くらいからだったんですけど、それくらいからは、割と震災前の気持ちくらいに戻りつつありました。
 私のような気にしてない人が3で、気にしてる方が7くらいの割合なんだと思います。
 ただ、私の周りっていうのはほとんど気にしてない、その3の人たちが多いんですね。全体的な目で見ると、多分3:7なんだろうなと。
 ただテレビの情報であったりとか、人伝いに聞く話であったりとか、そこを踏まえた上でですね。
 自分たちのような気にしてない人たちのほうが、少数派だと感じる理由は、やっぱり営業なので、私郡山市をグルグル回ってるんですけど、その中で除染してる方々の姿を見かけたりとか、あとは公園に看板が「近々除染する予定です」っていうことであったりとか、というのを見かけたり・・・。
 営業の仕事ということもあって、人と接する機会も多いので、その中で出てくる話題っていうのは、やっぱり放射線の話なんですよね。今回の放射線のことで小さいお子さんを持ってるお店のオーナーさんなんかは、やっぱり県外だったり国外に出た方というのもいらっしゃいますし、そういうのを見てると多分気にしてない人たちのほうが、私のように気にしてない人のほうが少数派なんだろうなと思います。
 少数派だといっても、『気にしないようにしてる』っていうのもあるんですよ。もう県外にも避難しないですし、この福島で仕事をして暮らしていくっていうふうに決めたっていうのもあるので、そこから、『気にしないようにしてる』っていう気持ちが多分強いんだと思います。
 福島で生きていこうと決めたのは、仕事柄っていうのが強いんですけど、私が今してる仕事っていうのは、情報誌の広告の営業というのもあるので、郡山の町を元気にするっていうことでやってる仕事でもあるんですよね。その仕事に対する愛着もあったりとか、あとは何だろうな。どのタイミングでってなると難しいんですけども、事業が撤退する・しないっていう話もやっぱり中にはあって、でも撤退はしないっていうことで決定したっていうものあって、会社が全国展開しているので、
「もし県外のほうに出たいのであれば、違う事業所の方に移動の希望も出すこともできるけど、どうする?」
っていうことを聞いてくれたんですけども、その時にやっぱり福島でこの仕事を続けたいっていうふうに思ったので、移動はしないことにしました。
 県外に出ないと決めたのは、18の時には確かに違う土地、東京に行って、自分の好きなファッションの仕事をしたいというふうに思って出て、憧れっていうものがあったんですけれども、今は・・・そうですね。居ると決めた理由・・・。
 両親も妹も県外から出ないっていう話もしてましたし、あとは友達もほとんど出てない状態なんです。福島県から。
 18歳のころ東京に出た時、友達も誰も居ないっていう寂しさもあって戻ってきたのもあったので、ただあの頃に比べたら、今の方がある程度うまく世渡りもできるようになってるんじゃないかなというのはあるんですけど、今のタイミングで福島を出ることが、友達とか家族とかの周りに対して、裏ぎりっぽい感じになるような・・・なんか後ろめたさも多分あるんですね。
 あとまぁ、長いものの巻かれろじゃないですけど、皆が出ないんだったら自分は出ないっていう・・・意識だと思います。
 チャンスではあったんですけど、妹が言うように、日本に居たら大して変わらないような気もしていて、大して変わらないんだったら福島でもいいんじゃないっていう気持ちもありました。
 西日本でも東・・・、福島に居ても、県外に出ても変わらないっていうのは、日本全国に原発もあるわけですし、しかも今度は静岡のほうで地震来るとかっていう話もありましたよね。あの辺とかで来て、また同じことになれば大して変わらないんじゃないかなっていうのもありました。
 今の時点では、もちろん西日本って安全な場所ではあるんでしょうけど・・・うーん。地震が来たら変わらないっていうのと、結構どこでも今セシウムだとかっていう話してたりもするので、変わらないんじゃないかと思います。
 海に流したことによって、結局それがうまく言えないんですけど、結局雲になって雨が降ってってなったら、大して変わんないのかなと思ってました。
 完全に自分の考えなんですけど、多分長寿だったりとか長生きするっていうことに・・・なんかこう・・・長生きって、長生きするってことが良しとされているような気がしていて、もっと昔って寿命が短かったはずだし、そこを人工的に伸ばしてきたんじゃないかっていう感じがするんですね。今の政治とかも見てて、そんなに長生きすることってほんとにいいことなのかなって考えるようになって。
 なので、すごく言い方悪いんですけど、ちょっと短くなったくらいがちょうどいいんじゃないかと思ってます。
 これからもし、恋愛して結婚して出産っていうのがあったとしても、多分この考え方ってそんなに変わらないような気がします。
 理由は・・・理由は・・・、うーん・・・理由はなんて言ったらいいんでしょうね・・・。よぼよぼになって・・・なんか老けるのが自分の中で怖いっていうのがあって、できたら定年後ゆったり過ごすとかっていうのも、自分の中で想像がつかなくて、仕事ができる体のうちに死ねるっていうのが自分の中では一番いいんじゃないかと思った時があったんですね。それも原発事故があって、長生きってそんなに良いことなのかなって考えた時に思ったことだったんですけど、今30なので、35くらいで子供を産んだとしても、55の時点で子供は二十歳になってるわけですし、独り立ちできるくらいになってるので、それくらいのタイミングで死ねたら一番理想的だなってちょっと思ってはいました。
 放射線について気にしてる7割の人たちを、3割の私から見ると、長生きしたいとか死にたくないっていう気持ちとかって、個人の自由だと思うので、私みたいな考えの方もいれば、やっぱ長生きしたいっていう考えの方もいて、長生きしたいという方に対しては・・・
その方達に対して私が何かできることがあるんだったら、手助けだったりとかはしたいと思いますし、特に全く違うものとして見てるということではないです。
 結局のところは、やっぱり個人個人で決めることだと思うんですよね。避難っていう道を選ぶにしても、除染するっていうことに対しても。
 それで除染作業をやるから手伝ってって言われたら、私手伝う気全然あるんです。一緒にやろうとも思うんですよ。
【これから】
 今回の原発事故で、恐らく被曝してるでしょうし、私は恐らく被曝してるでしょうし、それによって今平均寿命が80歳だっていうふうに言われてると思うですけど、それが多分20年くらい、60くらいになる可能性も高くなったと思ってます。
 その短くなった分、毎日毎日を全力で過ごしていきたいっていうふうにも思いましたし、あとは今まで時間ってなんかいつまでも続いていくような気がしていて、ついついダラダラと無意味に過ごしてきたっていうのもあるんですけれども、そこをしっかり生き抜こうというふうにも思いました。
【以上】

にほんブログ村 環境ブログ 原発・放射能へ
にほんブログ村

人気ブログランキング