※この記事は、2月10日 【内容起こし】IWJ百人百話 第34話 吉田さん(仮名)【原発マネーで育って・・・】に関連しています。

【動画】2月13日 百人百話 第三十五話 裏澤利夫さん
http://www.ustream.tv/recorded/20422938 (58:30)

【以下、お時間の無い方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2012年1月7日収録
Q.自己紹介をお願いします。
 私は裏澤利夫と申します。
 現在、78歳になります。
 1933年生まれです。私が住んでいる場所は、福島県福島市渡利字薬師町です。今この家には、三世代住んでおりまして、私と私の家内、それから二男夫婦が同居していまして、あと私にとっては孫になりますが現在小学校4年生の女の子、それから4歳の幼児。合計6人家族でここに住んでます。
 だいたいここで生活しているのは、もう50年っていうふうな長さになっていますけれど、福島の生まれで私の父は仙台なんですが、ここで生まれてここに育って、県外で住んだっていう経験が全くありません。

 大体、50年ここに、渡利に住んでおりますので、その良さは家内と機会あるごとに話は話題になります。
 自然がやっぱり身近に感じるというふうなことで、ここに弁天山っていう山が直線距離にして約200mのところにあるんですが、桜の時期には非常に多くの人々がいわゆるハイキングの場所として親しまれてきているところです。
 でも残念ながら、今度の原発の災害で、この非常に優れた自然の山がそこに降り積もった放射能が雨が降るたびに、私のすぐそばの側溝に流れる。その関係で私のうちの庭は、一番高いときで43マイクロシーベルトという非常に高い線量になってしまってる。
 11月28日に市の環境課にようやく来てもらいまして、その時は環境課の人が30まで測れる計測器を持ってきたんですが、当然30オーバーで振り切れてしまった。
 この渡利は、いわゆる都会でいうベットタウンというかそういうふうな地域だと私は認識してるんです。県庁は、約2㎞・・・まで離れてないですね、1.5㎞くらいのところに、当然川を隔てていますけれども、阿武隈川を隔てたところに県庁が所在していますし、それからあと、すぐそばにスーパーがある、銀行がある、郵便局がある、コンビニがある、それから病院はいわゆる渡利病院っていいまして、一応総合的な病院でベッド数も多くあり、それからいわゆる専門医、歯医者さんから整形外科、そうした医療の機関もある。
 それから福島の場合は県庁所在地の関係で、東北新幹線、山形新幹線が通っている。高速道路、東北道がある。4号線、13号線が基幹の道路がありますし、そういうところで約1.5㎞離れたところが渡利というふうなこと。
 ここには大体6500くらいの世帯の人たちが住んでいるというふうなことで、日本的に有名な花見山っていう場所もございまして、そういうところでありながら、今回の3.11でとんでもない状態になってしまって、私の今住んでいる薬師町は、世界的に注目される場所になってしまったというふうなことで、非常にその点は残念に思っています。
 なんで世界的に注目されてしまったかということは、11月4日にドイツのテレビ局が取材においでになったわけですよ。それで、ドイツ・・・のテレビ局が取材に来たっていうふうなことは、私ももう本当にびっくりするよりはですね、こんなに注目されたっていうふうなことについては、ある意味では呆然としてしまって、非常に・・・その落胆したっていうか、いわゆる危機意識が非常に強くなったし、それから不安が高まったというふうなことです。
Q.3.11当日。どこで何をされていましたか?
 3月11日はですね、今振り返ってみますと、私は市立図書館に居ました。家内はここ、当然自宅にいたんですけど、当然あの時は立っていられなくて、市立図書館の下にくぐって四つん這いになっていました。なんていうか、天井が落ちてくるんでないかっていうふうな、そういう恐怖感に慄いてはいたわけですけど、外に出るにも出られないということで、何はともあれ、本当に四つん這いで、ある程度収まるまで、そこに居たわけです。
 それで、うちに電話・・・図書館のすぐ外に公衆電話がありますので、当然その時は私は携帯電話は持っていませんので、公衆電話から電話をしたんですが、
「うちは何ともなかったよ」
というふうなことで、
「そんなに無理して急いで帰って来なくてもいいから」
といううちの家内の話、連絡が取れましたので。
 すぐに車に乗り込んで、うちに帰ろうとしたわけですが、あの当時は図書館からうちまでは2㎞までないんですけれど、もう4号線に出た途端に車は全く、ほとんど動かない。それでうちに着いたのは、約1時間後くらいでなかったかっていうふうに思います。
 それでうちに帰ってきたんですが、このうちは先ほどからお話したように50年も建っているんですが、被害が漆喰壁がひび割れて剥がれているという程度で、あとはこの棚も全然倒れも何もしなかった。ただ、お茶碗が少し二つか三つ、壊れた程度というふうなことで、あの福島の場合は8.5だったんですけれど、震度でいうと6弱。その状態が瓦は被害が無くて、こういう状態で、パソコンも倒れない、これも倒れない。我ながら、
「随分・・・柔軟性のあったうちなんだな」
っていうふうに思いまして、家族ともどもそこで安心はしたというふうな実情です。
Q.家族の皆さん、ご無事だったんですね。
 おかげさまで、誰も怪我をしたりとか行方不明になったとかそういうふうなことはなくて、家族は本当に無事だったわけです。
 ただですね、その後はなかなか大変だったです。
 12日からは、これ、私の手帳なんですが、そこに記録があることはですね、「もう水が出ない」と書いてあるんです。水が出なかったけれども、電気は繋がっていた。それから・・・電気は繋がっていたので、その点は私らは助かったんです。ただ、水が出ないということは、やっぱり生活する上では非常に致命的なことで、でも、これはどこの場所でもそうですけど、いわゆる助け合いっていうか絆っていうか、すぐそばに井戸水を持っている方が居て、わざわざ私の家に来て、
「私の家は井戸水だから、いつでもいいから汲みに来ていいですよ」
と、そういうふうな申し出をいただいたというふうなことですね。
 それからあと、原発のことについては、これを今見ると、あまり私自身が印象に残っていないんですね。
 といいますのは、実は昨年の3月31日まで仕事を持っていましたので、夜勤の仕事に携わっていたものですから、当然そういうふうな状態で仕事を優先するという考えがありまして、原発の関係については記録が無いんです。
 さきほど言ったように、14日にですが、これ(手帳)今見ますと、今一緒に住んでいる次男ですが、次男の友人の方、友達が親子7人で私の家に避難しておいでになったわけです。それは相馬の方なんですが、一泊なさったんです。それはどういう事情かということになると、東電に勤めていたというふうなことですが、いずれにしろ、
「逃げろ」
というふうなことで、避難してきたという話をしていました。
 だから、もう既にあの現地、福島原発の当事者は、大変な状況になったということを・・・下請け、孫請けの人に対しても「逃げろ」というふうな指示を出していたということだったわけです。
 それで、私の次男と孫と私の家内は、これは避難の先の西の方ですが、あづま運動公園っていうところがありまして、これは体育館とか運動施設の場所ですが、そこに避難して、確か3日間くらい避難していきました。当然、息子は
「家に居ないで、私にも避難しろ、こっちに一緒に来るように」
と再三再四言われたのですが、私は仕事を持っていたということで、避難先から仕事に通うということは、ちょっとやっぱり私としては不本意な面もあって、ここに残っていたわけですけれど。
 当時はですね、今振り返ってみると、「なんでそんなに大げさだったんだろう」っていうふうに当時は思ったんです。けれども、それはやっぱり今、正しい選択だったというふうにつくづく思うことと、東電に関係の方が会社の上層部から「逃げろ」という指示のもとにこちらに私の次男を頼って親子7人ですから、おいでになったということは、それはやっぱり深く認識しなかった、その恥ずかしさっていうか、そのことが非常に私にとっては悔やまれるということと、これからお話はしますが、一番不備だったのは、『放射能に対してたかを括っていた』ということは、間違いのない私の馬鹿さ加減っていうふうなことを、今つくづく私は思うんですよ。
 これは、福島市の二本松っていう市がありますが、そこの特農家が
「餅をついたからどうだ?」
っていう話がありまして、3月のその時期に餅を提供してもらったわけです。これもやっぱりね、飛び上がるくらい私は嬉しかった。だから、その方とはずっと長年いろいろと食べ物を分けていただいたんですけれど、その方から「餅をついたから
いかがですか」というふうなことをあちらからお話をしていただいたということがありがたく、でもその方が
「23年はコメはもう耕作を放棄した」
 それは何かというと、田んぼに山から沢水として引いて稲作をしていたんですが、当然放射能にまみれた水が引かなくちゃならないというのを前もってわかったもので、今年、23年は米は耕作はしないというふうなことになって、非常に有機栽培で大変おいしいお米を生産していた方が、そんな憂き目にあったということは、非常に残念だし、大変悔しいという思いを私は強くしています。
Q.3月14日、3号機爆発当時。放射能の危険性についてどの程度認識されていましたか?
 テレビで水素爆発をした、それからあと、当然双葉とか大熊とか富岡とかっていう地域の方々が避難しているということだったんですが、今思うに、本音で言うと、『他人事』っていうふうにしか捉えていなかったです。
 というのは、こちらに放射能が降り注いでいるということが認識としては無かったんですね。で、あにはからいや、SPEEDIというようなことが後から発表になって、12日時点でこちらは非常に線量が高いということになってしまっていたとのことですから、いかに情報を・・・いろいろな言い訳的なことなどもあるだろうけども、政府が情報を隠ぺいしていた。今になってね、
「パニックを起こすからうんぬん」
なんていうのは、なにをかいわんや!というふうに私は思います。
 それと、あの時にアメリカの方々は80㎞圏外に出ろということで、それでアメリカ国籍の方は避難した。それから中国の人たちも即バスを仕立てて新潟まで避難しているということだった。
 私らのその当時の会話は、
「アメリカの人たちは、80㎞圏外に出るだって」
「なんでそんなに大げさに捉えてるんだろう?」
っていうふうに話したし、私自身も思っていたことは事実。けれども、それが全く妥当な処置っていうことを今になって思い知らされたということで。
Q.危険に気が付いたのは、いつ頃どんな経緯でしたか?
 あくまでもそういうふうな意識の変化っていうのは、切り替わったわけではないですが、なんとなく胡散臭くなってしまったっていうことは事実なんですね。
 それは、ある意味ではカッコいいことでいうならば、本能的だったのか、それから・・・周りがそういうことで日和見的な感覚で捉えたのかということかもわからないけど・・・
Q.いつ頃考えが変わってきましたか?
 ・・・私の手帳の記録ですと、4月24日に福島の有機米に福島の東口の駅前にたつみやっていうホテルがあるんですけど、そこで『放射能汚染について』っていう講演会があったんです。それを聞きに行ったという記憶があるんです。だから、このあたりから、やっぱり目にし、耳にし、直接聞くということで、
「これはなかなか大変なことになった」
という認識が徐々に出てきたということで、それから、例年東のほうに小倉寺観音っていう国宝を奉っているお寺があるんですが、そこで5月のタケノコの時期は、タケノコをいつも買いに行くんですけど、そこに行ったときに
「放射能は大丈夫なんでしょうか?汚染されていないんでしょうか?」
という話をしてタケノコを買ってきたということだったわけです。
 ただ、そうは言ってもですね、結構この時点に特に私、家内と3泊4日ということで車で出かけてるんですね。今振り返って。だから、片一方では放射能に汚染されているのではないかという認識は持っていても、ある意味では物見遊山に行った。
 それから新聞・テレビでは、避難した人たちが避難で困窮している生活をテレビで見ている。けれども、
「あぁ、大変だな」
ということで他人事的に捉えていた。だから、私自身にとっては、いろいろな複雑だし、ある意味ではまだまだ・・・自分の身辺にはそういう放射能の被曝については及ばないだろうという認識は、やっぱりどちらかというと強かったのではないかと思うんですよ。
 この5月29日ですが、先ほどお話した二本松の特農家の方から連絡をいただいて、
「『放射能から身を守る方法』ということで講演会があるから是非聞いたほうがいいんじゃないですか」
という連絡がありまして、私と家内の二人でここに行きました。
 でも、実質、その時は今思うと、「自然食を食べなさい」ということが強く打ち出されて、私の考えと違ったお話だったんですね。ですから、私は自分で記憶があるんですが発言しまして、
「私は福島から放射能のことについて聞きに来た。そのことについて話をしてくれ」
というふうにお話したんですが、
「はい、わかりました」
ということでしたけど、まだ自然食のことにしか話が繋がらない。それで
「この話を聞いても意味が無いから」
ということで中座して帰ってきてしまったんです。
 山崎道場っていう剣道の道場があるんですが、そこの道路沿いのところに、グリーンピースによる放射線量の表示があったんです。それがなんと19.6マイクロシーベルトっていって、グリーンピースということで、放射線の菱形のマークありますよね。
 市役所に電話したんですよ。
「今、私の家の近くには、グリーンピースの団体が19.6マイクロシーベルトという表示がありますよ。だからこれは大変なことになったんじゃないでしょうか?」
という話をしたんです。だけど、その電話に出た方は、そんなに驚いたというふうな、驚いて聞いたという印象は無くて、淡々と・・・っていうかそういうことで、
「あーそうですか」
っていう感じ。
 翌日、その表示は無くなってしまってる。
 それで、私は「なんで無くなったんだろう」と思ったんですが、それは行政で外したのか、それともグリーンピースのほうで外したのか、そのことで無くなってしまった原因は判りませんけれども、そんないきさつがあったということで、それからですね、やっぱり。これは大変なことだと。
 これは、ようやく福島市の環境課に連絡をして、行政の要請で測ってくれたのがこの11月28日なんですよ。それで、私の柿の木の下ということで、30まで測れる行政の測った秘書が記入して私のところに置いていってくれたんですけど、これが30オーバー。地表1㎝。50センチで5.45。2.96。
 原さんがお座りいただいているわけですけど、ここが50㎝で0.47。2階でこの上が子供たちが居る部屋ですが、これが50㎝の高さで0.36ということなんです。
 この側溝は、そこのすぐそばが弁天山から流れてくる雨水がそこに集中するんですが、地表27ということです。
 ですが、こういうことを自分の立場で記入してるんだけど、非常に驚くとかいうことはなくて、大変『事務的』なわけです。
 それで、その結果は結局NGOのみつたさん、それから老朽原発を考える会のさかがみさん、それから今言ったようにかんのさん、その人たちの支援で・・・
【2011年12月7日 裏澤さんは、福島市および政府の現地対策本部に対して渡利地区を特定避難勧奨地区に指定することを求める要望書を手渡しました。】
 この人に手渡したわけです。それで県の方はおいでにならなくて、別の代わりの方にお話を聞いていただいて、当然市でも県でもこの文章を私は読み上げて渡したわけですけど、自主避難をしている人がおりますけど、何の支援もないんですね。そのためには、やはり声高に言いますけれども、避難勧奨地区に指定をしていただくことによって、いろいろな助成とか支援ということを行政からあるわけです。ですから、そういうことがあることによって、経済的にも避難する目的地もやみくもでなくて、行政の指示のもとにできることがあります。
 けれども、それを要望しているんだけれども、渡利地区は行政の方では何らそういうことをしようとする考えは持っていない。この渡利の子供たちを守る会のしまだいつこさんの話もここに出ているんですけど、
「国はこれで安全と言い張るんだろうか?」 
と疑問を呈しているパートで、
「子供の命に関わることなので、だから国は除染だけでなく避難する権利、自由も与えてほしい。それだけなんだ」
ということをここで言ってるわけです。
 ただ、非常に私が愕然としたっていうか・・・それは資源エネルギー庁勤務の経験がある経済産業のキャリアが囁く。
「国も福島県も福島市も、渡利地区を避難勧奨地域に指定する気はないでしょう。渡利地区は県庁から2㎞弱。6700世帯、1万6400人が暮らすセレブな住宅街です。そんなところを避難させて死の町にしたら大変なことになる。市内には県庁もある。東北新幹線もある。東北自動車道もある。市だけでなく県の行政、経済活動がストップしかねません。県とだけに福島市内は避難指定が決して許されないのです」
というふうなことを言ってるということで、これは噂とかということではなくて、この雑誌がプレイボーイでナンパ的な雑誌ですけど、そこに載っているということは全くの真実や本音の話だと思うんです。
 私は国策で原発っていうのは進めてきたわけで、だからそれゆえに、国と東電はやっぱり後始末はしっかりと責任をもってやってもらわなくちゃなんない。その後始末は何かということになると、原発でこういうふうに汚染されたところに住んでいる人たちの生活を守ることは、やっぱり一番責任を取るすべてじゃないかということですが、なんで私は行政は動きが鈍いのかということは、一般の庶民的なものの考え方ですけれど、やっぱり物事っていうのは上意下達だから、だから上からの指図というか指示というか方針が無ければ、末端の行政は絶対動かないということであるがために、行政というのは全て鈍いのではないか。
 私は思うんですけどね、これは私ばっかりではないんだけれど、政治に携わる人とか行政の人は、ここに自分の親や子供や孫を一緒に住まわせてみたらどうだ?そうすることによって、現実っていうことがはっきりわかる。そうでないと、先ほど来から申し上げた通り、私は本当に他人事ということで捉えていたことは、非常に不名なわけだけど、誰しも痛みを感じなければやはり全て他人事なんですよ。
 それにしても、非常に現在の私らの不安と・・・憤りと・・・それから焦り、我々世代はいいけども小さい子供たちの将来ということを考えると、非常に暗澹とした生活を続けざるを得ない。だから、
「それじゃあ避難すればいいのではないか?受け入れ先はいっぱいあるんだろう?」
ということは明らかに判ってはいるんだけど、我々現役を引退した者は、焦りでも他所に行って住むことはできるけども、若い世代は職業、仕事を持ってますから、だから、
「はい、わかった。健康を守るために避難をしましょう」
ということは、即失業につながってしまうわけですね。そのことで非常にジレンマを感じているし、「これでいいんだろうか。」ということの不安感と疑問と不信感がないまぜになって、私自身の優柔不断が明らかにあるわけですけども、そういうことでこれから2012年の生活をいつまで続けているんだろうか・・・ということで・・・やりきれない思いをしますね・・・。
Q.同居しているご次男は避難することを考えていますか?
 会話的に間接的に聞くわけですけど、茨城県に次男の知人がおりまして、
「仕事を紹介するから、すぐにでも逃げてこい。部屋も大丈夫。確保する。」
という話もあったということなんです。ただ、なかなか「そうですか、それじゃあ」ということで踏ん切りもつかない。住み慣れた土地、それと私にとっては孫ですが、小学校4年生、9歳、間もなく10歳になるの女の子が転校ということになると
「転校はしたくない」
という強い意思表示があるわけです。あと、テレビ・新聞などで私自身が見たり聞いたりすることで、転校することで不登校の児童生徒が非常に増えているということを見たり聞いたりすると、自分の4年生の孫が言うのが、やっぱり当然正当性があるという認識がしていまして、だから、そういうふうなことも考えて、次男もなかなか決断がつかないという状況。
 長男は、長男夫婦と子供二人で4人で生活してるんです。それぞれ仕事を持ってるんですが、その家も部屋の中が0.9ということ。福島市の仲間町に住んでいるんですけど、0.9という線量の場所なものですから、我々が小さい子供、孫も引き連れてそこに避難して同居するという選択肢には当てはまらないということなんです。
1 私、ある意味では不思議に思うのは、同じ渡利、同じ薬師町でも、放射線量というかいわゆる放射能の被曝に対しての認識の温度差っていうことは、非常に違うんですよ。
 いろいろな集会にも出てくる顔ぶれは、もう決まっている。あとは関心はあるんだろうけれども、そうした集会にも出てこないし、当然そうした日常的な話題も耳にはしないということで、それはある意味では自分の家とか周りが放射線量が当然低いということだと、いわゆる他人事になるし、それから私のように43もあるところに住んでいることになると、当然危機意識を持っているし、避難指定地域にしてほしいとか、要望書を出したり、ここに、これは毎日新聞ですけど、要望書を提出した記事ですけどね。掲載していただいたとか、そんなことですから、やっぱり自分の身の周りによって、いろいろと判断なさる、それが温度差につながるということだと思うんですよ。
Q.戦争体験のある世代として、今回の原発をどのように受け止めていらっしゃいますか?
 識者の方が
「今度の原発の事故っていうのは、第三の敗戦だ」
ということをいみじくもおっしゃってましたけど、私は全くそのとおりだと思うんですね。それで、いろいろと今までお話はしてきましたけど、やっぱり政治は国民を守ってくれない・・・というふうなことを私はつくづく思います。
 それは、大袈裟に言うならば、一番身近に感じるし、やっぱりそのことについて非常に冷淡だというふうな、『冷淡』といった方がいいと思うんですが、いわゆる『他人事』ですよね。それで、10月8日に市民集会があったんですけど、そこに来た行政の人たちは、我々の質問とかについては、明確な答えは一言も無し、はぐらかしっていうことで、責任のある応答は全く無しということ。
【集まった住民400人は納得せず、話し合いは5時間に及ぶが決着はつかず。その後も交渉は続いている・・・。】
10月8日 【動画・内容まとめ】福島市渡利地区・小倉寺地区の住民説明会
 1月11で10カ月になるわけですけど、まもなく1年になりますね。1年になるについても、未だにその具体的な対応が取られていない。ただ、時間が過ぎて、我々がある意味では右往左往している。そのことについての対応をとってくれないということにして、やっぱり信用ができないということ。
 結局は、いろいろな方々の例えばNPOの方、NGOの方、それから市民団体の方、そういう方々の支援とか、それから知恵を授けていただいて、ある意味自分は自分自身は自分で守るということにしかならないのではないかと、開沼博さんが出た番組だったんですが、その中で二つ印象に残ってるのがあるんです。
 一つは、『沖縄も福島も、日本の中での植民地だ』ということをおっしゃってた。全く私はその通りだと思う。
 沖縄うんぬんということは、私は何も言うことはありません。結局は、地域振興とかそういうことで受け入れざるを得ない状態のところに持ってきて、それでいろいろ交付金とかをつぎ込んで、それから雇用の機会を与えて、20年間にわたって400億のいろいろな寄付とか与えて、それで逆に地域の人、いわゆる首長がおねだりをしてその寄付を獲得していたっていう側面もあるわけですけど、その400億ものお金をつぎ込んだり電源3交付金とか、大変な金額をつぎ込んで。それから雇用で、それのいいところは皆持っていく。沖縄もその通り。
 だから、全くそれは植民地になっているということ。そうならざるを得ない状態を作ってしまったということですよね。
 それから今一つは、『忘却への抗い』という表現があったのですが、今どちらかというとこの放射能のことについては、風化されつつあるっていうふうに私は思ってるんですよ。
 それはいろいろ今政治的に、非常に消費税のこととかTPPのこととか沖縄基地の問題とか、それから自民党とかが足の引っ張り合いをしてるとか、いわゆる市民をそっちのけで政局に動いていて、自民党なんていうのは、自分らが国策で進めてきたにもかかわらず、それの後始末を協力してやろうなんていうことは、全く爪の垢ほどにも持ち合わせていない。
 政局に明け暮れている・・・。
 どんな考えなのか?!ということは、我々庶民では本当に考えがつかない。
 だから、そういうふうに風化されてしまいつつあるんですけど、やっぱり『忘却の抗い』ということで、やっぱり大変なことっていうのは、忘れずにいろいろと突き詰めて良い方向に導きだそうとすることが大変だいじではないかということをおっしゃっていましたけど、その二つは非常に私は認識として残っていましてね、機会があれば、「こういうふうなことを開沼博さんが話してるんだ」ということを理解していただく人にお話をしたりもしているんですけど、そんなふうなことがあります。
 だから、今は非常にちょっと声高にいろいろとお話はしましたが、やっぱり・・・苛立ちと、不安と、悔しさと、それから責任を誰も取ろうとしない、そういうふうな不条理の世の中になって、それを不思議と思わない政治家。それが国、県、市、末端まで・・・責任を誰も取ろうとしない。いわゆるはぐらかし、逃げている、後出しじゃんけんのように後から後から、「この時はああだった、こうだった」ということで、皆後出しじゃんけんをしてくる。
 でも、その中でやっぱり地域の人たちっていうのは、いろいろ助け合って生きていくっていうふうなことがあることは、非常に私、こういう土地で住んでいるが故にありがたく感じます。
【以上】

失礼します。
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