※この記事は、2月7日 【内容起こし】IWJ百人百話 第32話 中田麻意さん【周囲との認識の違いを経て】に関連しています。

【動画】2月8日 百人百話 第三十三話 大山弘一さん
http://www.ustream.tv/recorded/20303432 (46:24)


【以下、お時間の無い方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2011年11月26日収録
 南相馬の大山弘一です。年齢49歳、子供は小学生二人。今、妻と三人で山形で疎開生活をしております。
 私は南相馬の市会議員をやっております。本業は相馬中之郷焼という陶芸家でもあります。昨年の夏休みまで地元の工業高校で教鞭もとっておりました。
 生まれは山形県です。
Q.山形のどちらですか?
 山形村山市ですね。山形は11歳まで、そして18歳までが南相馬です。
 うちの家系は近江商人の流れで父も商売をやってまして、営業所のひとつということで、旧原町市というところに引っ越してまいりました。
 親戚一同は山形にいまして、皆事業者でございまして、それぞれ営業所のあるところ、本社とか支店などに住んでいるようですね。
【山形から南相馬市に転居】
 小学6年生から中学、高校とここで友達を作りまして、そして大学進学とともに離れていたと。帰ってきたのが、30前くらいでしょうかね。
 山形に生まれましたけれども、旧原町市っていうところは相馬地方、大きくいえば浜通りなんですけどもね。この浜通り地方っていうのは、大変陶芸の産地であったと。その理由とすれば、この阿武隈山地といえば、御影石が岩盤でございまして、日本の中国地方と同じなんですね。ですから萩焼とか備前焼とか、御影石が風化して粘土がある。そういうことで古来から陶芸の産地だったみたいですね。

※平成18年に原町市・小高町・鹿島町が合併し、南相馬市となる。
 相馬焼というのは近世陶器といいまして、江戸時代の始めですね。桃山時代くらいから日本でも茶の湯の流行ということで、大名が争って釜を築いてですね、茶の湯を楽しんだ。そして、秀吉の朝鮮出兵などはですね、別名焼き物、または茶碗戦争といわれるように、朝鮮半島で焼きものとかそういった技術を盗んできた。そういう流れが相馬市の領地であったこの南相馬にも始まったということですね。
 そういう焼き物ブームっていうのが先ほど言ったいろんな意味があって、信長が世界一の茶碗、天目茶碗ですけど、私なんかもチャレンジしてるんですけども、そういう天下取りが持つべきものというか、あとは国の顔になるようなお墨付きとして信長が大名に上げる。そしてその談合っていったらなんでしょうけど、小さい茶室で刀を全部外して、そして毒が入ってないかとか回し飲みしたとか、そういった今でいえばゴルフみたいな意味もあるでしょうし、団結を強めて、そして密室で談合する。あらゆる意味があったと思いますけどもね。
 そこにそういう流行する中で、この相馬氏も社交ということもあって、窯をもって一つの大名でやったと。そこの特産品として、この相馬地方っていうのは馬をかいて他の大名とか公家とかそういうものが贈答品にしたんですね。のちにそれがある程度、民需っていいましょうかね、貨幣の流通だとか市場経済になってきて、販売できるようになりますと、江戸後期辺りには量産も始まった。それがこの相馬藩の江戸時期の歴史ですね。
【陶芸との出会い】
 小学校6年生でこの山形からこの南相馬に引っ越してきたときに、冬でもそれが青空、そして冬でも布団干しができていて、そして雪が降らない、大変珍しいとこだなということで、自転車に乗っていろんなところに行っていました。そうすると珍しいものがあるんですね。それは何かというと、粘土だったんですね。山形は岩山と黒い土くらいしか私は知らなかったんですけど、黄色い粘土、そして赤い粘土。いろんな色の粘土があるんですね。そして、砂のようなものもあったり、砂と粘土の中間のものがあったり、地層もむきだしになっていて、大変興味深い。それを手に取っているうちに自然とこのものを作ったりする。そして、ふと見ると、畑には縄文土器とか今と違って、当時あまり興味を持たれなかったのか、随分破片が落ちていたわけですね。その破片拾いそして、石器拾いがまず始めに趣味になりまして、冬になれば畑も作っていないところに行って、その石器を拾って、そして縄文土器を収集する。収集だけじゃ飽き足りませんで、発掘の手伝いに行ったりですね、できるだけカンピンを求めるようになったんですね。石器は自分で本で見よう見まねで作れるようになりました。今度は「土器を作ってみたい」と小学校6年生にしては、今考えるとちょっと変わった少年かなと思いましたけど、それでも中学、高校と運動部に入ったりいろんなことをやりながらも、大変山形で生まれた少年にとっては珍しい素材であり、珍しい縄文に触れたのが、今となればこの陶芸家になるルーツだと思います。
【学生時代】
 高校は進学校で、職を考えるよりも進学かなということで、美術大学にも行きたかったんですけどもね、その時はいろんなことに好奇心があったものですから、まさか自分が美術に向いているとは思いませんでしたけれどもね。普通の文系の経営学部というところで家業を継ぐような暗黙の、そういう動きがありまして。経営学部に行きました。
 私の世代は恐らく大学時代にバブルの絶頂を迎えてると思うんですね。土地が東京に居た時には本当に袋小路とか狭いような区画のところがどんどん開発されて、まさに日本がアメリカを買えるようなそんなような状況で、私も小さくまとまるよりは一つの人生ですからやりたいことを探しながら、勉強も遊びもやったわけですね。本当にご縁があって、たまたま鳩山由紀夫先生に統計学を習ったとかですね、あとはたまたまその大学には日本民芸運動の柳宗悦先生のゆかりだったとか、そういうご縁も今市会議員なんかやってますけども、陶芸家も続けていますけども、考えてみるといろんな縁があって、ここにいるんだなと思いますね。
【高校教員】
 地元の私立高校の工業高校の系統なんですけども、そこの総合学科というのがございまして、そこの陶芸の講師をやっておりました。地元の工業高校では15年以上、子供たちと焼き物を親しんできましたけども、昨年の夏に決心をして、学校を辞めて選挙戦に出て、昨年の12月から市会議員をやっております。
【2011年3月11日震災発生時】
 3月11日は、私の母校、原町第一中学校の卒業式でございました。その卒業式に午前中出席して、午後から市役所の4階の議会で3月議会、しかも私の一般質問の日だったんですね。私の一般質問の後、次の議員さんが数分しゃべった後に、大きな揺れが来まして、4階の議場ですので、天井が落ちるかと思ったんですけど、一部落ちたところがありますけど、全体的にねじの白いみたいなものが上からパラパラ落っこちてきて、私も足元ふらつきながら議場を出て、まず地震の大きさに驚いて、そして市内の屋根を見たり火事が起こっていないか煙のチェックはしましたけど、津波というのは私は山の手のほうに住んでいましたから、意識は全くありませんでした。
 私も地震が大きく揺れた後に外に出て、そして歩ける範囲で建物倒壊とか知り合いのうちに声を掛けて、大体この程度かということを見極めて、「さて浜のほうの親戚・・・」ってその時に津波を意識したんですよ。
 海の方に向かいました。
 ところが、海から引き揚げてくるって、逃げる・・・人が車の雰囲気もすごい圧力に感じたわけですね。これは何かとんでもないようなことが怒りそうだということで、みんな必死の形相で市街地に入ってきてましたので、
「あぁ、これは向かうべきじゃないな」
と退いて山手のほうに来ましたけれども、その後テレビで具体的にこういうことが起こっていたんだと。
 ですから、市街地にいれば、平面的にも見えませんし俯瞰することもできませんので、客観的に見たのはテレビですね。
【震災発生当初、原発への不安は?】
 私としては、南相馬市が旧原町市ですけどもね、そこの住民であったわけですよ。原発立地地域という認識は全くなかったんですね。まさに一言でいえば『安全神話の中にいた』と。遠くにはあったというのは判りますけども、それが私らまでに被害を及ぼすなんてことは考えずに、とにかく津波の地域を調べて何とかしなくちゃいけない。明日からどうしようかというのは頭にあったんですね。
 そこに、なんでしょうか、なんとなしにですよ、なんか違うような恐ろしいものが来てるという、なんとなしの中でテレビだとか数少ない情報の中のインターネットの情報とかですね、それが何なのかもわからずに、先ほどの大きい地震もそうでしたけど。ですから、二重三重の大きい恐怖に対して、何の具体的な方策も持たないままに始めは居ましたね。
 地震が来て、その地震の被害、そして火事どうだろう、ライフラインどうだろう。それで頭がいっぱいになって、声を掛けながらパッと閃いて、
「もしかすると津波かな」
というので、先ほども恐ろしい形相、雰囲気を感じた。そして、家に帰って夜、こういうことが起こっていたんだと。
 次の日は原発の事故ということで、全く予備知識が無いままに方法を持たないままに、「さて困ったことになったぞ」ということで、毎朝6時から市役所の中で対策会議が始まっていったわけですね。
「とにかく情報を持って来い。」と。
 全く情報が遮断されていましたので、何が起こっているかを把握するために警察・消防関連に連絡しましたんですけども、初めは皆さん手一杯で、来る人もまばらでしたね。ですから、情報を集めるまでに何日かかかっているということですね。
 放射能災害に疑いっていう不信感っていうのは、そうですね、情報が出てこないという段階でね、「おかしいな、どうしたんだろうな」と。そのうち計画節電、節電の話やら、それから爆発映像が見たとか見ないとか、とにかく事実が伝わってこない中で憶測だけが膨らみ、警察情報、消防情報、自衛隊情報それぞれ違うという中で、南相馬市としては衛星回線で県とのパイプはあるんですけども、その県からもSPEEDI情報含めて無かったという中で判断しようがない状況で、津波被害の被災者を助けなくちゃいけない。そちらが主流で、プルームがどうしたとか放射線が何マイクロシーベルトだとか、そんなのは本当に後になってからの話でしたね。その中で放射能については、全く皆目知識が無い。
【原発事故発生 状況がわからない】
 それで私が早い方だと思うんですよ。毎晩くらい余震がおいて、私とすればインターネットやってましたから、原子力の炉の具合をどういうダメージでどういう影響力があるのかと、唯一くらい情報収集係みたいな感じでプリントアウトして、議会議員の控え室に貼っておいたみたいな、そういう係員みたいなことをしてました。
 私も原爆と違いましてね、爆発するのは終わりじゃなかろうという情報もインターネットからとってまして、ところがどれだけのものが出たのか、どっちの方向に行ったのかっていうのは、本当に・・・どれくらいでしょうね。3月下旬、4月になってからくらいの話でしたよね。ですから、そこで核種がフォールアウトするというような、そういう認識というのは、普通の人は持ってませんでね、爆発して終わりだと思ってるわけですよ。
 恐らくうちの市長もそういう組だと思うんですけど、
「もう終わった。爆発は終わったから放射能災害は終わった」
という切り替えをいち早くした人なものですから、いや私としては、爆発は終わったにせよ、危険性も残っていて、その危険性の中で避難をさせなくちゃいけない。国としても野党の突き上げもあって、3月25日は実はこれは運命の分かれ道があったんですよ。
【2011年3月25日 何が起きていたのか?】
 3月25日の朝7時に、国、政務官だと思いますけれども、
『この20㎞から30㎞の当時、屋内退避指示の地区について、いよいよ避難指示の段階に来たので、避難指示が出されたら本庁の機能を30㎞圏外の鹿島の分庁舎に移すように』
と、そういう避難準備の指示が出たんですよ。それに対して、桜井市長は官邸に反対意見を言った。これは議会でも6月議会で私が一般質問して、桜井市長が答えてますけれども、
「官邸は現場のことが判らない。もう逃がすべき人は逃がしたし、逃げるべき人は逃げたのだから、これらかは経済復興です」
ということで、政府が手を差し伸べた、それを蹴ってしまったわけですね。そのために11時40分の官房長官記者会見で、我々議員もどういうことなのか判らないような指示が行われたんですよ。つまりは11時40分の、当時枝野官房長官の記者会見で、
『3月15日の首相の屋内退避指示は残しながらも、新しく(官房長官が)住民に自主避難を要請しなさい』
と。
 ですから、議員である我々が聞いてましたよね。「屋内退避で残れ、家の中にいろ」というのと、「自主避難を要請しろ」っていうのは、全く別物なんですよ。
 さて、もう市役所を離れて分庁舎に行く心の用意はできてました。だけれども、11時40分の官房長官の話では、逃げるのか留まるのかわからない。それを市民に聞かれても、
「屋内退避は首相である、官房長官の指示は自主避難の要請だよ」
と。市の態度は?って言っても、何とも右足と左足、重心が両方にかかってしまって動けなくなってしまったわけですね
。その中でずっと3月25日から4月22日まで、いよいよ4月22日は緊急時避難準備区域が設定されました。そのときの設定の内容とすれば、
『病人、子供、妊婦はこの区域にいてはいけません。入ってはいけません』
というような設定内容だったんですね。
 ところが、市長の判断、桜井市長は、
「今までいたのであるからここから逃がすことなく、小学生をスクールバスで30㎞圏外の学校に通わせたわけですよ」
 これは国の指示でもなくて、彼の判断だと思うんですけども、私は大変驚きました。国の緊急時避難準備区域は入ってはいけないというんだから、子供を避難させると思ったんですけど、そうさせなかったんですね。独自の判断で、ここに留まらせて、そしてここからスクールバス。今では1億円以上も、1日100万円かかったものですから、そういうスクールバスの費用、どこにも請求できません。彼の判断だったんです。
 そして何を言いだしたかといいますと、実は3月20日頃から、市内の事業者が来まして、
「30㎞圏のラインを取り消すように国に求めろ」
という話を市長としていまして、3月20日から市長の頭の中は変わってまして、3月25日は国の避難を蹴飛ばして、そして舵を経済の方に180℃転換したわけですよ。それまでは、危険な放射性物質が飛んでる中を5000人以上も逃がしておきながらですね、ところがやったことっていうのは、緊急時避難準備区域においては、子供をいさせるということは従業員を確保するということなんですよ。ですから、事業所のために従業員を確保するために、子供を言留まらせたと、ここまでの私の一般質問は6月議会にしまして、彼もですね、それは認めております。桜井市長は、実は命優先じゃなかったんでしょ。経済優先だったでしょ。

 それは、私は子供を持つ親としてはですね、一番の被害者が子供になってるんだということは、議場で訴えました。
 3月25日の政務官の指示ということについてですね、NHKとか大手マスコミではなかなか記事が残ってないってこともありますけども、私が手で持ってる唯一のものはこの雑誌なんですけどもね、AERAの別冊ですね。5月115日号。
 この中に時系列で指示とか避難とか載ってまして、
『3月25日、7時40分、避難官房長官指示。仮に20㎞~30㎞の区域に避難指示が出た場合、30㎞圏内にある南相馬市庁舎の機能を30㎞圏外の分庁舎に移転するなど、適切な処置を』
と、こういう指示が出されたんですね。これに対して、私が6月議会で桜井市長に一般質問をしました。桜井市長は、「断った」、つまり内閣に対して
「現場を知らない人の話だ。現場では逃げる人は逃げたし、逃がす人は逃がしてしまったので、これからは復旧なんです」
ということで、この政府の差し伸べる手を断ったということが、6月の議会中継でもわかると思います。
【内部被曝検査】
 鳥取県から移動式のバス型のホールボディカウンタ(WBC)をいち早く導入しまして、市民に先駆けて市の職員、特に小高区の職員さんが41人、全員が被曝していたという報道が河北新報から出ました。これも寝耳に水といいますか、市の執行部は慌てたわけですよね。その後同じようなことが10月にありまして、それは朝日新聞が
『南相馬の小中学生から半分、半数の児童生徒から出た』
という新聞記事なんですね。これによりますと、
2『古いWBCから新しいWBCにしたところ、半数以上が検出された』
そういうもの、やはり執行部が驚いた。当時私も区役所に行って、午後から部長級の会議だと、そのときに市長がいなかったものですから、恐らく3日遅れで記者会見をしたと思うんですね。その記者会見の内容がこちらになってますけれども、そのまとめ方、これも河北新報ですね。
『高い子供で45ベクレルから50ベクレルあった子がいた。』
まぁ30ベクレルだとしまして、このセシウム、子供の場合新陳代謝が激しいので30日くらいで、1か月くらいで半減するらしいんですね。ですから、これを計算しますと、これは9月の段階の測定ですから、3月に遡ればですね、4,5,6,7,8,9と半年ですね。ですから、半分・半分・半分・半分・・・ですから、累乗でいきますととてつもない大きい数字になってしまうんですよ。ですから、このセシウムがいつどこで入ったか。もし3月中に子供たちの身体に入っていたとすれば、大変な量だということなんですよ。
3 ところがどこから来たか追及してない。3月に入っていなかったが9月に食べ物から入ったのかもしれない。ね?
 ですから、そこで危険度が違うんです。その追跡調査もしないってわけですよ。
 私は大変、こういう方向性で良いのか?と、また古いWBCで出なかった子供達、もし新しいWBCで受ければ出るかもしれないですよね。その措置も取らないわけですよ。何か書いてあるのは、『定期的に引き続き同じ割合でやる』、そうじゃないような気がするんですよね。親とすれば。「古いWBCで引っ掛からなかった子供たちに再検査を受けさせてください、WBCだけじゃなくて、尿検査も血液検査も、やはり命優先、子供優先にしていただきたい」と。
11月14日 小出氏:WBC機種違いで検出6件→274件に[検出限界]、文科省の東日本の汚染地図[1万Bqの意味]と保安院のあるべき姿@たねまき
【ストロンチウム 再測定を求める】
 放出された31核種。これが6月6日の保安院の報告書ですけどもね、
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http://www.meti.go.jp/press/2011/06/20110606008/20110606008-2.pdf
ストロンチウムとセシウムの放出割合、大体100分の1くらいだと私は見るんです。ところが検出されたもの見ますと、これは大体1万分の1とかですね、1000分の1~1万分の1くらいになってるんです。つまり、セシウムは水溶性で水に溶けますけれども、すぐに土と結びついてしまう。溶けて粘土鉱物と化合してしまいますから、地表面にあるわけです。ところが、ストロンチウムは溶ければ溶けるほど地中深くに浸透してしまっている。文科省が調べたのが6月~7月に調べているんですね、このストロンチウム。その時には、まさに梅雨の時期でした。ですから、セシウム対比が1000分の1とか万分の1とかになるんじゃないかなと思うんです。
 ところが、量がたとえ100分の1の放出量だとしましても、その危険度については、セシウムは先ほども触れましたが、体内に入れば大人でも100日くらいで半減していくものなんです。ところがストロンチウムの場合は、身体に取り込まれますと、カルシウムと間違って骨に沈着するわけですね。50年で半減する、まさに一生ものなんですね。しかも骨癌とか危険度が高いわけですよ。ですから、量は100分の1かもしれませんけど、危険度はそれに匹敵する100倍くらいあるということにおいて、文科省の9月30日に発表されたプルトニウム及びストロンチウムのあの報告書のまとめ方、
『量が少ないので寄与する危険性は無い』
という発表はいかがなものかと私は思います。量は100分の1だとしても危険度は100倍ある。しかも水溶性で目に見えない形で、しかもベータ線で植物に吸収される移行率といいますけれども、これがストロンチウムが1000倍セシウムに対してある。セシウムは溶けても土と化合するから植物に取り入れられにくい。ところが、ストロンチウムはすぐに、これですけどもね、ちょっと小さくて判りませんけども、ひまわり。同じひまわりでセシウムとストロンチウムの移行比を表してるグラフです。ちょっと単位もちがうんですけども、大体これでいうと、まぁ50倍から100倍近くストロンチウムの方がひまわりに吸収されているというのがわかると思うんですね。
 ほかにも六ケ所村の原子力関係の研究所の資料なんかを見ますと、やはりストロンチウムの方が土壌から植物が吸収しやすいと、そういうデータが3年間にわたって載っていました。
 これはですね、福島第一原発の1号機から4号機の取水口、つまり海水中のストロンチウムとセシウム比なんですね。驚くことにストロンチウムのほうが高いんですよ。
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http://www.tepco.co.jp/cc/press/betu11_j/images/111104s.pdf 
 こちらがセシウム。86~88ベクレル。それに対して同じ水の中からストロンチウムが200~250ベクレル。普通、こういう対比は地上では考えられない。海水中でストロンチウムが高いというのはなぜか。先ほども言いましたけど、セシウムは溶けて土と結びついて下に沈殿する、沈み込む。ところがストロンチウムは水に浮いた状態になっている。これを波及して考えますと、私が住んでいるこの家は、地下水なんですね。地下水っていうのは、井戸水なんです。ところが、うちの変わってるところは、天水、雨水を??で濾して、そして地下の井戸枠に貯蔵して、そこからポンプで引っ張り上げてるんですけども、それを考えますと土と結びつくセシウムは、井戸の中で沈殿しているであろうと。ところが結びつかないストロンチウムは、水に浮いていて、それを汲み上げてるのではないかと。
 食品検査を水質検査もストロンチウムの項目が無いんです。文科省が発表したこれによりますと、やはり地面に広がっていることが予想されます。ストロンチウムでこれを調べて無ければ無いでいいんですよ。まずもっと調べることが大切です。この400平方㎞の南相馬において、4点しか調べない。しかも南相馬を飛び越えて、相馬市で1万ベクレルを超えている。こういう状況を見た時に、やはり再測というのは必要だと私は思います。
7 これは週刊フライデーですね。10月21日号でした。実は取材は9月中、10月・・・またいだかどうか、9月30日くらいでしたね。私も写真で載ってるんですけれども、記者さんがいらっしゃいまして、なぜいらっしゃったかというと、こちらの私の方からストロンチウムを7月から同位体研究所さんの所長に来ていただいて、ご案内しながら、この南相馬市を調べていただいてたと、そういう経緯の中で9月中旬頃でしたかね、研究所の方から検体について
「6つ調べた中で4ヵ所からストロンチウムが出てますよ」
と、ちょうど私も同行してその場所も地点も判っていたものですから、そこでこれくらいあるんだというのは、大変ショッキングなことでありましたから、それを友人に言ったところ、友人から講談社さんの記者につながったということで、取材にいらっしゃったわけですね。
 ストロンチウムに限ったことだけではなくて、ヨウ素、セシウム、いろんなものを協力的に7月からやっていただいていました。
 同位体研究所、所長さんにわざわざ来ていただきまして、その場所で土や水や植物を採取して持ち帰って測っていただきました。
 セシウムに関しては、所長曰く1000分の1から1000分の3くらいが今は検出されているところだと、私の認識とすれば放出されたと、これは予想、推定量ですけどもね、推定量について100分の1くらいのセシウム、そしてストロンチウムの対比であるから、1000分の1に下がるっていうことは、採取した時点でストロンチウムは溶出しまして他のところに移っているのではないかなと私なりには想像しております。
 もしストロンチウムが出ますと、やはり影響力ですね。つまり、今南相馬では除染が始まろうとしています。そこに表土を5㎝剥ぐ場合と10㎝剥ぐ場合とでは大変な影響力が後からかかってくるわけですね。中間貯蔵施設の容量にしても、そこにかかる経費でも、10㎝で済めばいいですよ。それが植物に移行してる。こうなってしまいますと、???も山も全部そういう汚染。 
 ですから、相当の影響が出てくるので、ストロンチウムこそ出てほしくない、東電側はですね、そういう物質なんだろうなと私は確信してるわけですよ。
 セシウムは、これはもう隠すこともできない、そして周知の事実であるけれども、実はストロンチウムの影響力っていうのは、これがすごく大きい。そのために報道を使って封殺をしてるというふうにも考えられないことは無いなと思います。
【これからの生活】
 私は一人の父親として、そして市議会議員として、そして今同時代に生きる国民として、問題はとてもシンプルだと思うんです。
『危険なところには居られない。ですけども、危険なものを排除することによって居られるんだったら居ればいいわけです。』
 単にそこだけなんです。除染で済むことができれば、除染している間は避難していただいて、除染が終わって安全になれば、そこで住めばいいわけですよ。
 ところが今、
「除染はするけれども、1ミリは目指すけれども、住めるかどうかについてはグレーだ。だれも安全宣言を出さない」
ということは危険なんですから住んじゃいけないんですよ。
 安全といえなければ危険なんですよ。親とすればそうとります。ですから、日本は1mSv、年間1ミリシーベルトの被曝量で法体系ができている以上、1ミリを超えたところについては、もちろん避難も移住も権利があって、それに対して補償も、これは司法判断によるかもしれませんけれども、当たり前に国民の命を一番に考えれば、価値観の問題だと思うんですね。
 私は、一に命、二に家庭生活、三に経済だと思ってるんですよ。
 ところがこれが逆転している向きがある。
 一に経済、そして二番目、三番目に人の命や家庭生活。そういうふうに思ってる人たちがいる。
 (そう)じゃないと思うんですよ。
 子供たちの命をもって、子供たちと一緒に暮らせない。今単身赴任で8か月。車で3時間以上ですので通うことできません。今、かわいいさかりの子供を抱くことも、そして姿を見せていろいろ???することもできない。一緒に居て何もしてやれませんけど、唯一一緒に居てやることだけでもできない。
 本当に人生の一番おいしい部分が切り取られている。それがいつまで続くか判らない。
 本音を言いますと、早く一緒に暮らしたい。そのためにはどうするか、そこに現実問題があるんですね。もし、除染で子供と一緒に暮らせる環境にならなかったらば、きっぱりと諦めるしかありません。今まで自分の人生で注ぎ込んできた、この南相馬の素材を取り入れた、この庭園や高校がありますけれども家庭生活と子供たちの命のため、捨てても惜しくないと思います。
 ですから、1ミリを目指すという希望を持たせるだけの嘘はやめてほしい。
 どれくらい下がるのか、まぁやってみた後でもいいですよ。ここは特定避難勧奨地点。地上50㎝で2.4マイクロシーベルトありました。地表面は5マイクロシーベルト。そして雨樋の排水口ではなんと45マイクロシーベルトなんですよ。<涙されています>
 そこが山に囲まれてますので、ガンマ線も飛んでくる山を背負っている。そういう中で、どれだけ除染が実効性があるものかどうか、目指す、目指すと言って、こういう生活が何年も続くようであれば、一つ見切るというのも限られた人生ですので、それはやむなしと思っております。
 この災害ですね、本当に救っていただきたくて、あらゆるところに署名も陳情も、そして直談判もしました。ですけれども、助けていただけていない現実。未だに戦い続けているんですよ、私は。命が危険にさらされているわけですよ。その危険なもの、線量なんて関係ない。危険なものはそこにある。そこに転がっている。そこに住んでいるっていう生き地獄じゃないですか。こんな生殺しの状態で国民を住ませているような国は、まぁ長いことはないと思いますよ。国民あって、若い命があって、若い人たちの就職も含めて家庭生活ができて、初めて国はやっていけるわけじゃないですか。
 それを自分の利権の方達は、危険も借金もつけ送りしてですよ、国が持たないと思いますよ。これを機に、改められればいいと思いますけれども、私は美術の分野にいましたけれども、美術などは何の役にも立たなかった。恐らく宗教も何の役にも立ってないでしょう。
 それだけすべてのものは形骸化してる。
 本当に安心な食べ物があって、それを囲む食卓があって、家庭生活がある。そこに日本人も立ち返らなくちゃいけないと思いますよ<涙されています>
 エネルギーを使いたいだけ使ってですよ、そして飽食の限りを尽くして、そこを改められるかどうかが反原発で、そして日本の国が再生できるかどうか、日本人一人ひとりが、自分を見つめなおして持続可能な社会に向かっていっていただきたいと思います。
【以上】

失礼します。
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