※この記事は、12月22日 【内容起こし】IWJ 百人百話 第30話 大塚愛さん 【前半】の続きです。

【動画】
2月6日 百人百話 第三十一話 ヒロタカさん
http://www.ustream.tv/recorded/20283610 (76:42)

【以下、お時間の無い方のための内容を起こしています。ご参考まで】
2011年10月15日収録
Q.自己紹介をお願いします。
 私の名前はヒロタカと申します。
 出身は横浜です。仕事は建設関係で、仕事で北海道から東北、東京都にでてきています。
 家族構成は、私と妻と3歳の娘、お腹の中に胎児がいるという状態です。
 今、妻も仕事はしてるんですが、今月から産休に入っている状態です。
Q.苗字を控えたいということですが、それはどういう理由から?
 苗字を出したくないって言うのはですね、妻も仕事をやってるものですから、妻の仕事仲間の人間関係もありますので、やっぱり名前を出してしまうと人間関係が崩れるのは嫌なので、そこは控えさせてもらいました。

Q.奥さんの仕事には、どういった差し障りがあるのですか?
 私の妻の仕事は福祉関係をやってるんですけど、やはり妻の仕事の仲間たちは、これからもずっと福祉関係の施設で働いていこうとしているわけですから、そこでみんな子供が居ないわけなんですね。やっぱり子供居る人は少ないので、どうしてもごく少数派の子供がいる妻の立場の人間は、避難とか考えるんですけど、子供が居ない人は全く避難というよりも、自分たちの生活の糧を如何に守るかというのが重要なわけですから、やはりそこでちょっと言いたいことも職場内で言えないというところもあるので、妻の旦那が批判的なことを言ってるというのが知れわたると、やっぱり妻の職場での立場が脅かされるっていうのがあると思います。
Q.その”空気”についてお話いただけますか?
 福島県全体そうだと思うんですけど、放射能の話、放射能で汚染されてるっていうことが大きくなるんですね。自分たち、みんなが避難しなきゃなんないんじゃないかということになると、みんなその仕事もできなくなってしまうわけですね。みんなはそれは嫌なんです。やっぱりここの土地に生まれて育ってるわけですから、この土地を離れたくない。仕事もずっと続けていきたい。
 そうなるとやっぱり、「放射能はあるにしても大したことは無いんだ」とみんな思いたいという部分があるわけですね。
 ただ、子供が居る我々は、大丈夫だと思いたいでは済まないので、駄目なら対処しなきゃなんないっていうところがある。それはそう思おうとしてる職場の人たちに言っても、受け入れてもらえないという感覚で、どうしてもこちらは口をつぐむしかなくなるみたいな状態にあるわけですね。
 そういうところでこういう本音を職場の人に言ってしまうと、
「何なの?俺たちの職場を危うくするようなことをするんじゃないよ」
と思われてしまうので、そこが・・・空気の差があるというのかな・・・、そういうのがあります。
Q.福島に来られた経緯をお話しください。
 私はこの福島県に来たのは、大体13年くらい前、仕事できたんですけど、そこで妻と知り合いまして、結婚して11年くらい経つんですね。
 3年前にやっと子供ができまして、今3歳くらいになってる状態です。
Q.お仕事で別の場所に行く機会はなかったのですか?
 本社は東京で、今までも転勤は北海道の方から東北、東京の本社のほうに転勤はあったんですけれども、会社に希望をすれば関西でも九州でも、叶えられるか判らないですけど、希望は出すことはできるという状態ではありました。
Q.福島に根を下ろそうという気持ちはあったのですか?
 結婚を機に福島にずっと永住したいという考えかどうかっていうのは、それは会社には希望としては伝えはしましたけど、それは叶う話でもないなというのは最初からわかってまして、最悪単身赴任でもいいかなということで、妻も仕事してますから、子供は福島において、いざ転勤とかになれば、私だけ動こうかなと思ってたんですが、今回のこういう状態で、逆に子供をここに残して私だけ転勤しても何もなりませんので、行くなら家族を連れて行きたいなと今思っているんですけど。
Q.3.11の時は、どこでどのように地震に遭われたのですか?
 3.11の地震の時に、福島駅付近で会社の支店に居たんですが、もう何分もずっと揺れる中で、ビルの2階だったんですけど、机の下にもぐるなんて初めてのことでしたし、あんな長い時間続く地震、もう潰れるかと思うくらいの揺れでしたね。
Q.その後どういう状態でしたか?
 地震の後は電話も何も通じない状態だったんですが、ただ職場の人が携帯でテレビは見られる、携帯はつながらないんですけど、インターネットもつながらないんだけど、テレビは見れたんじゃなかったかなと思います。そのテレビを見ると、NHKのニュース速報とかで、『津波予報が6m』だとかは見ました。
 ただ、誰かと連絡はつけようがなかったですけど。
 近くに福島駅があったんで、そこに歩いていったんですけど、バスも止まってるし、信号も電気ついてない。駅にはどんどん人が集まってくる。駅の中には入れない状態。みんなはどうやって帰ろうかっていうような状態が続いてました。
Q.ご家族の避難は、どのようにされたのでしょうか?
 会社の同僚の車で送ってもらいまして、福島から郡山まで大体1時間半くらい。その間、道路も信号、全部ついてないわけですね。ただ、そういう場合っていうのは、優先の国道が必ず優先になるので、結局信号がないので、全部青信号をつっきるような形で、結構車の量は多かったんですけど渋滞も無く家に着いたんです。
 そこで初めてやっと無事が確認できたという感じですね。家族の。
Q.お子さんたちも無事に帰られたのですか?
 子供も無事に妻が迎えにいって、地震の直後に、それで家に帰ってきた。
Q.原発の事故はどのようにお知りになったのでしょうか?
 原発の事故ははテレビです。テレビで知りました。
 事故というか爆発は判らなかったんですね。確か、ニュースでは爆発した後の骨組みは映像で出てたんですけど、12日の4時半とかですかね。ただ、コメンテーターも学者も、「爆発のように見える」と誰かが言っても、
「そうとも見えるけども、わからない」
 どのテレビを回してみても、
「よくわからない」
という話だったので、でも私はどうみても、これは爆発があってそれをみんなで意図的に隠そうとしてると思ったんですね。隠そうという意図がわかったんで、わかったというか思ったので、
「これは相当なことが起きてるんだろうな」
と思って、もうその場でとりあえず逃げるだけ、走るだけ走って逃げちゃおう。走ってる間にラジオで聞いて、大丈夫なら引き返して帰ろうということで、一応とりあえず車に荷物を積んで、12日夕方には南下しようとしました。
Q.12日は何をしていたのですか?
 12日は、朝から断水してましたので、朝からずっと水汲みに並んでまして、夕方やっと4時ころ帰ってきて、ソファに横になっててテレビをつけた時に、もう1号機が骨組みになっていたという状態ですね。
Q.震災以前は、原発に関してどのくらいの知識・関心をお持ちでしたか?
 私、ここの郡山の家を買うに当たっては、今まで起きたことも無いような大洪水や異常気象が続いてましたから、竜巻とかいろんな要素を考えて、土地を考えて家を建てたんですね。
 だから、どんな天変地異が起きても大丈夫だと思って買ったんです。
 原発があるってことも、うすうすは知ってたんですけど、海沿いにあるので、気流はどうしても西に東回りに吹きますから、まさか80㎞も西の方に吹くなんて思ってなかったので、原発は安全だろうと思っていました。それが原発にやられちゃったという感じですね。
Q.土地を選んだ理由は、具体的に何だったのですか?
 家の土地を選ぶ基準は、やはりその周辺で低い場所に無いこと。どんなに大雨が降っても水が溜まらないところ、流されないところということをまず第一に考えました。原発のほうも少しは考えたんですけど、気流の流れからしても西に流れることはまずないだろうと、どう考えてもジェット気流というか偏西風が向こう流れてますから、東の方ですから・・・と思ってたんですね。
 だから、原発・・・でまさか漏れが、漏れが、そんな漏れがあったとは思わなかった・・・
Q.地震については対策をしていたのですか?
 地震について今の土地を選んだのは、もともと山を削り取った土地なので、埋め立てた土地じゃない。そういうのは知ってましたので、地震についても関心があってというのは確認はしました。地盤が強固な土地を選んでました。
Q.何年前にローンはいくらくらいで購入されたんですか?
 家を買ったのは、3年前くらいだと思います。ローンは35年組んでますので、今私43、40歳くらいの時に買いましたので、75歳までのローン。だから、今でも75歳までのローンが残っています。
Q.地震で家に影響は出なかったのですか?
 外壁のヒビっていうか、基礎にちょこっとひび割れが入った程度でした。ですから、今の家を建てるにあたって考えた大雨とか地震とか、そういう自然災害、どんな自然災害があっても大丈夫だろうと考えに考えて決めた土地だったんですよ。
 原発・・・の放射能がまさか、こんな形で来るなんて、全く予想ができなかったですね。
Q.3.11の時、原発に対してどの程度の知識をお持ちだったのですか?
 私は放射能の対する危険性の認識っていうのは、まずほぼ一般人と同じでして、ただ放射能は危険に決まってるということ。だから、危険に決まってるので、今以上に危ないものだと思ってましたね。
Q.12日の避難の様子を教えてください。
 3月12日の夕方5時ころから車に乗って国道の方を南下し始めたんですけど、その時にふっと思ったのは、私と同じ考えの人は何十万と居るだろうと思ったんです。だから、1秒でも早く南下を始めないと、道路が渋滞して南下できなくなって放射能のまみれてしまうと思ったんですね。
 でも、周り近所を見ても、何も動いてる気配がないんですけども・・・ただ4号に出ればすごい車があるんだろうという覚悟で、1秒でも早くということで行きました。
 やっぱり渋滞してたんですね。
「あ、やっぱり」
と思ったんですけど、それは地震で国道がただ陥没とかしてて、復旧工事中だったんです。それのちょっとした渋滞でそれを抜けたら全然混まない。だから、普通の人の感覚と私の感覚と違うのかなと思いながら、南下をずっとしてたんですけど、そのころって、ガソリンスタンドも??ってて、ガソリン売ってなかったんですけど、たまたま宇都宮まで出て宇都宮のスタンドがちょうど3000円分入れられるということで、30分くらい待って入れられたんです。それで、何とか南下がスムーズにいったという感じですね。
Q.どちらまで行かれたのですか?
 実家の横浜まで行きました。途中、ラジオを聞きながら、戻る選択肢もありましたので、大丈夫であれば戻るつもりだったんですけど、確かラジオの情報を聞くとどんどん悪い情報ばっかりになっていったような気がするんですね。放射能の値が上がってないという報道もあったんですけど、そんなものはなから当てにならないだろうと思ってましたので、とりあえずこれは横浜まで行って、2,3日、こういう時だから会社休んでも大丈夫だろうということで、とりあえず横浜まで行っちゃえということで行っちゃいました。
Q.その時のご家族の様子はいかがでしたか?
 私はテレビの科学者だとかコメンテーターの対応、あたふたしてる対応を見ていて、もうこの人たちもコメンテータの人たちも騙されてるんだろうなと思って、というような画面なんですね。科学者は知ってるくせして知らないふりしてるっていうのは、もう素人が見てもわかるような状態だったんで、もう「30分以内に逃げるぞ」って言ったんで、言われた妻の方からすれば、もう何が起きてるかわからないけど、とりあえず準備しなきゃということで、妻の方は考えてる余裕がなくて、とりあえず車に乗って横浜に向かう中で状況は・・・。
 私も説明できないんですよ。何が起こってるのか判らない。ただ、とんでもないことが起きてるらしいとしかわからないで、そういうことは話しながらラジオ聞きながら、横浜に向かったんですけど、妻はだから、その日の夜も考える余裕もなく、とりあえず避難をしようという形でいいかなという程度のことだったと思います。
Q.横浜に着いてから、1号機の爆発のことはお知りになったのですか?
 私はインターネットってあんまり詳しくなくて、映像とかも見たこと無かったので、そういう情報の入手の仕方が判らなかったんですね。避難する直前も、インターネットの環境あったんで、ネットで繋いで調べたんですけど、でもそういうサイトに、検索の仕方がわからないので辿りつかず、情報がやっぱりテレビしかない状態。
 横浜に着いたら着いたで、まさか横浜に来るとは思ってないので、ニュースとかもそんなに気にしないっていうか、もうとりあえず安全地帯に居るからということで安心しきっちゃって、数日を過ごしました。2,3日。
 15日の爆発も知らなかったかもしれ・・・14日の爆発ですか?も、知らなかったような気がします。
Q.では、横浜で過ごしている間は帰省という感じだった?

 私は、やっぱり久しぶりに横浜に帰省しましたので、久々の我が家ということで、しかも会社も再開してなかったので、家でゴロゴロして数日間過ごしてるっていう感じだったんですよね。
Q.お戻りになったのはいつ頃ですか?
 3月の・・・下旬には戻ったんですね。
 戻るにしても、私は横浜から本社の通えばよかったんで、避難をずっと継続したかったんですけど・・・。
Q.福島ではなく、東京本社に変えてくれと?
 会社とすれば福島は大変なことになってるので、「このまま本社にいればいいじゃないか」というのは会社のほうから言ってもらってたので、私とすればこのまま東京で暮らすのも安心なので、そのつもりでいたんですけど、やはり妻のずっと続けてきた仕事も、同僚ももうとっくの昔から同僚は復帰してたので、福島県も政府も、爆発があっても30㎞圏外は問題ないってずっと言ってましたから、仕事も普通に再開されましたし、同僚も。
 その中で復帰してないのはうちの妻だけなので、妻とすれば「早く戻らなけいと皆に申し訳ない」という状態だったんですね。
 それで、妻がどうしてももう、もう帰らなければいけないということで、3月の下旬に1度というか、それで帰ったというか、福島の郡山のほうに。
Q.政府・メディアのプロパガンダについて、この時どのように感じておられましたか?
 3月下旬の時点でも私は真実はよく判ってませんでして、その時点で唯一の情報源が中部大学の武田教授のブログっていうんですか。その3月下旬の頃にそういうのがあるっていうのがわかったくらいで、どうもその人が言うには、
「危険だったんだけど、これからどんどん危険じゃなくなるだろう」
みたいなことが書いてあったんですね。だから、政府は大丈夫だって言った中で、大丈夫じゃないと言ってた武田さんが「これからどんどん大丈夫になる」って言ってるんだから、大丈夫にはなっていくんだろうけれども、でも念には念を入れて戻らないに越したことはないと思ってたんですけど、妻の強い、同僚に対する・・・同僚に悪いと思うということで押し切られて、という話になったんですけど。
Q.戻られた時は、一時的なつもりだったのか、それとも完全に戻るつもりだったのですか?
 私は郡山に戻るにあたっては、政府がもしウソであれば、ウソがそんなに長く続かないだろうと思ったんです。ウソであれば、どうせウソをついてるっていうのは、最初のパニックさえ収めてしまえば、どうせ人間動かないだろうと思ってるだろうから、もう4月に入ると本当のことを徐々に言ってくるだろうから、本当のことが出てきた時点で、もう一回避難すればいいやと思ってたんです。そうすれば妻も納得するという気持ちだったんですけど、でもいつまでも「大丈夫だ、大丈夫だ」って生活を始めるっていう流れだったんで、
「これは本当のことを言わないで、ずっと続けていくつもりなんだろうか?」
と思ったんで、もうそれで怖くなったんで、うちの妻も通える範囲の猪苗代の方に・・・妻も「そこだったら避難してもいいよ」って最終的には言ってくれたので、とりあえず猪苗代の宿泊施設に避難したんです。
Q.奥さんとは具体的にどういう話し合いをされたのですか?
 私の妻は、もともと最初から真実を知るつもりはない。ただ、普通に暮らしたいだけ。どうも福島県の人たちをみんな見てると・・・みんなもそうな気がする。
 みんなそんなこと考えて暮らしていない。『今までと同じ暮らしがなんでできないんだ?』っていう考えがあるのか、私にはちょっと理解できないですけど、そういうのがあって、うちの妻も真実がどうなんだ?っていうのはどうでもよくて、周りの人間がどうしてるかっていうことなんですね。周りが気を付けてれば、私も平等に気を付けなけくてはいけない。みんなが気を付けてれば、私も平等に気を付ける。周りと同じことやっていけば、大きく間違うことはないだろうという考えで。
Q.具体的にどういう言い方だったのですか?
 妻の考えは、私にはしゃべってはくれないので、妻の言動から自分なりに噛み砕いて判断するとそうなんだろうなと、今思えば・・・。
Q.ヒロタカさん自身は、その時点で危険だとお考えだったのですね?
 ・・・そうですね。
 避難をしたのは4月の1日だかちょっと忘れましたけど、郡山に戻って1週間は郡山で普通に生活をしたんです。その後、1週間生活してる中で、政府が本当のことをどうも言わないなと思ったので、これは長期戦になるなと思ったんです。長期的に隠すつもりなんだなと思ったんで、であれば、本当のことが出るまでは身を隠すしかないと思ったんで、避難をしようと思ったんですね。
 その時点で知識は武田教授の知識だけで、15日くらいにはものすごい放射能があったんだけども、今は要素も半減期、半減期でどんどん少なくなってるから、問題はヨウ素なんだな、ヨウ素はもうそろそろ大丈夫だよっていう考えも、妻はそこの知識までは判っていたので、だから妻もその時点で「もう心配ない。大丈夫なんだから」と思っちゃってから考えてない。
 だから、私は、ならそれを政府が説明すればいいのに、政府はずっとなんか細かいことを説明せずにずっと来てるので、まだいろいろあるんじゃないかなと思って・・・、避難というか郡山に長期的に戻れないであろうということは、その時から思っていました。
Q.周りの人と同じなら良いという考えについて、少し詳しくお話しください。
 3月下旬の郡山に戻った時ですね、隣の家の住民も、後から聞いたら
「実は私も避難した次の日には、二日後くらいには千葉の方に避難したんだよ」
っていう話は、3月下旬に帰ったらちょうどそちらの家も帰ってきて、そういう話をしたんですよ。そっちの家の人も、なぜ帰ってきたのかっていうと、やはり
「仕事が始まっちゃったから。学校も始まっちゃうでしょ?」
っていうことで、
「でも、本当は帰ってきたくないよね」
って、多分隣の家もそうだったんで、みんなその時点ではそうだったんでしょう。どうやら危なそうだっていうのは、みんなわかってる。でも、仕事が始まっちゃうのに仕事やらないと、これから食っていけない。学校始まったら学校に戻らないと、子供が仲間外れにされちゃう。最初いかないと、やっぱり4月ですから仲間外れにされちゃうっていうお母さん同士の想いみたいで。
 しょうがなく皆戻ってきたっていうのが現実だと思うんですけど。
 いざ避難はしないんだと皆もそこで決めちゃってるわけですね。『ここで暮らしていくしかない』と自分の気持ちに整理を、多分そこでつけたんだと思うんですね。そうすると、もう選択肢がそれから避難するっていうのはあまり考えたくないっていうのがあったんだと思うんです。
 妻の考えは、周りと平等ならいいという考え。
 私はいろいろ話したんですけど、
「でもガンになる可能性だってかなり高くなるんだよ。みんながガンになって、子供がガンになるんじゃ、赤信号みんなで渡ったら、みんなダンプカーに引かれて信者う、そんな状態なのにそれでも親としていいの?」
っていう話をしたんですけど、
「みんながそうならそれでいい。郡山の市民がみんな平等に危険性があるなら、私はそれでもいい」
という返事を聞いて・・・私もそれを聞いた時には、
「あ、だから避難を今嫌がるっていうか、嫌がるのかな・・・」
ってなんとなくわかるような気もしたんですけど・・・。
Q.猪苗代に避難しようとなった時の様子は?
 今回避難する・しないの話になった時には、どうしても妻の実家が郡山ですから、もう近所に妻の両親もいますので、やっぱり相談をするんですね。
 やっぱり妻の両親は、自分に小さい子がいるわけでもないですし、そんなに心配してない。その中で「自分の娘がここまで頑なに避難は嫌だ、自分の仕事も続けたい」って言ってるんだから、とりあえず皆も避難してないんだし、このまま居たらどうだろうっていうことだったんですよ。
 でも、私は現実はそうじゃない。
 その頃は、大体4月上旬くらいには、いろんな人の意見をネットで見られるようになってたので、小出さんの言ってることとか、ゴフマンさんの言ってることだとか、いろんな世界中の危険警鐘を鳴らしてる人たちのコメントがなんとなく入ってきてたんで、
「これはもう大阪、関西方面に避難するしかないので、全部捨てて逃げよう」
っていうのが私の考え。
 多分仕事は転勤して続けられるだろうと思ってたので。
Q.家のローンについては、どのようにお考えですか?
 実際避難をしようとして妻の両親に相談した時、一番ネックになったのは、やっぱり
「家のローンをどうするんだ?今は二人で働いてるから払える。これ、片一方の仕事を妻が辞めて、私の今の仕事だけでいった場合に、避難した先で雇ってもらえるかもまだわからない。それでローンが払っていけるのか?」
って言われたときに、恐らく払えない。だから、もう売るしかないって話をしたときに、
「売れればの話だろ」
って言われて、確かに売れなければその間ずっとローンを払わなきゃなんないので、そう考えた時に・・・でもそうなったときには、そんなのは自己破産でもなんでもすればいいんだと私は当時思ってたんです。
『とにかく子供の命が最優先だ』
と思ってたんですね。
 そういう話もあって、妻もどうしてもやめたくないということもあったので、いつまでたっても両方とも、私は避難したい、向こうは絶対避難しない。もう平行線。
 そんなことがずっと続いても、子供にとって良いわけないので、とりあえず最大の妥協ということで、じゃあ猪苗代なら仕事辞めずに避難もできるでしょう。線量もすくないですし。
 ということで猪苗代に避難することになったんですけど。
Q.猪苗代までの距離について教えてください。
 それで猪苗代っていうのは、郡山から大体20㎞くらいなんですけど、郡山は大体第一原発から60㎞くらいだと思うんです。猪苗代のところで大体80㎞くらいだと思うんですよ。20㎞くらい離れたところになるんですけど。
Q.家、それからお子さんの学校はどうされたのですか?
 避難した後の家は、避難するにしても妻は承認した条件っていうのは、
「1か月だからね」
 とりあえず1か月して、私はまた1か月もすれば、また新たな情報が出てくるだろうと思ったので、そうすればその情報で妻を説得できると思ってたので、とりあえず1か月様子見だということになりました。だから家はそのまま。電気も冷蔵庫もつけっぱなしで出てきた状態ですね。
 そのころは、まだ子供の保育園も通えましたので、妻の仕事に行くときに連れていけたので保育園はそのまま・・・通わせたままの状態でした。
Q.猪苗代での1か月はどのような感じでしたか?
 あ、間違えました!
 えーっと、娘の保育園はですね、休ませたんですね。保育園に籍は残したまま、郡山に娘を通わせたら同じことなので、同じ空気吸っちゃうんで、通わすことはできないということで、猪苗代の宿泊施設に妻の母親に来てもらって、一緒に住んでもらって、妻の母親に子供を見てもらって、私と妻が仕事に行く。でまたそこに帰って、おばあちゃんと娘4人でご飯を食べて、家の妻の母親は、土日うちらパパ・ママが休みの時に家に帰ってもらって、休みじゃないけど帰ってもらってまた月曜日にきて面倒を見てもらうということで生活をしてましたね。
Q.1か月経った時はどのような感じだったのですか?
 1か月経ったときに、政府からの情報っていうのは、まったく変わってなかったと思うんですね。
 政府はもう学校も始めさせましたし、なにしろ何か野菜に放射能があるとかなんとかいっても、全部風評被害という言葉で片付けてしまって、結局危なくないんだっていうことばかりを宣伝してるような状態なんで、それにまんまとはまったじゃないですけど、どうしても学校があって戻らざるを得なかった人たちも、戻ってしまった以上、そこで政府の皆が大丈夫だっていうので、もう『大丈夫』を信じるしか、もう街全体が『大丈夫、大丈夫』と言いだすような状態になって、避難する人に電話とかすると、
「みんな普通に暮らしてるから、帰ってきなよ」
ってみんながみんなで言いあうような空気になってたんですね。
 だから、その状態っていうのは、4月の避難を始めるときから何も変わってない状態で、私にとっては情報が・・・。
 そのくらいたってると、更に情報を隠ぺいしてるっていうのは、もっと確信に近づいてきてましたから、この状態で郡山に戻るっていうのは絶対有り得ないので、とりあえずまた1か月すれば新しい情報、また一か月更新、一か月更新っていうのが続いたわけです。
 6月いっぱい、そこの宿泊施設が7月になるとオンシーズンになってしまうので、忙しくなるから出てほしいということになったので、どこかアパート探さなきゃなんないなと思ってたんですね。もう私は帰るっていう選択肢は、6月末の時点で・・・一応あったんですけどね、皆が『大丈夫、大丈夫』っていう話は、いろんな人に話を聞いて『大丈夫』っていう人たちの話で、大丈夫な根拠があっていってるのかどうかを知りたかったので、いろんな人に意見を聞いて回ったんです。
 そうすると、大丈夫な根拠は無い。みんな無い。
<39:00頃まで>

【後半】に続きます。
人気ブログランキング

にほんブログ村 環境ブログ 原発・放射能へ
にほんブログ村