今日は、朝からすばらしいインタビューを見ることができました。
私はヨアヒム氏という方を全く知らずに、大島賢一先生がインタビュアーって珍しいなと思って、IWJを見だしたのですが、ドイツではものすごい方のようです。勉強不足ですいません。
調べられた分だけ注釈で飛べるようにしてありますが、『ドイツから学ぶ』というのは、今や日本の脱原発運動をされている方なら多かれ少なかれ思っていらっしゃるのではないでしょうか。
また、京都市長選についても触れられています。
それにしても、朴先生の通訳がすばらしい!あんな長い回答をメモ書きであそこまでまとめられるとは、本当に素晴らしいの一言に尽きます。

希望や力が湧いてくるような、そんなインタビューです。

どうぞ。

【動画】IWJ ch1より
2月2日 ヨアヒム・ラートカウ氏×大島堅一教授、通訳:朴勝俊教授
http://www.ustream.tv/recorded/20161038 (65:47)
ヨアヒム・ラートカウ氏(Joachm Radkau)⇒http://en.wikipedia.org/wiki/Joachim_Radkau

【以下、お時間の無い方のために内容を起こしています。ご参考まで】
31(大島氏)簡単にご紹介しますと、ヨアヒム・ラートカウ先生は、ドイツ内外で環境史研究の第一人者として知られている先生で、2000年の『自然と権力』、環境の世界史。これは日本でも刊行されておりますが、非常に高い評価を得ました。また最近では、福島の原発事故を受けて、原子力の問題や日本のこれからについて、ドイツではよく取材を受けているというふうに聞いています。
 ラートカウ先生がいらっしゃっていますので、日本の状況について簡単にお話いただきたいというふうに思います。


1(ヨアヒム氏)私はもちろん歴史家なんですけれども、1970年にフリッツ・フィッシャー(Fritz Fischer)教授の下で論文を出しました。そのフリッツ・フィッシャーさんという人が、ドイツの伝統を否定するような立場に立っていて、非常に議論のあった方なんですけれども、その方のもとで当初ドイツの移民、ナチスの時代にアメリカに移民をしたような人たちの研究を始めたんですね。この私自身は、ハルガーテンGeorge W. F. Hallgartenという研究者が1933年にナチスに追われてアメリカに移民をした。その後で原子力の研究をされた方です。この方は日本にも縁がありまして、日本で長年教授をしていたことがありますが、このハルガーテンという人が広島の問題から、非常にショックを受けたということです。
 というのは、ドイツのアメリカに移民をした人というのは、実はマンハッタン計画に関わって、原爆を作った人たちというのが非常に多いわけです。ほかならぬナチスのホロコーストに追われて、アメリカに移民をした人たちというのが原爆を作るのに加担をしたということが、大変な歴史的なアイロニー、皮肉なわけですね。
 この問題を自分の一つの問題としまして、核技術に関する博士論文を1980年にビールフェルド(Bielefeld University)の大学で出すことになりました。
21(大島氏)今日はご紹介遅れましたが、通訳とインタビューもされますが、関西学院大学の朴先生です。ご紹介が遅れました。まだ続きがありますか?
(朴氏)いやいや、以上です。
(大島氏)では早速ですが、福島第一原発事故というのが不幸にして日本で起きて、非常に大きな被害をもたらしています。先生の研究者として、なぜ福島のような事故が日本で起きてしまったのかということに関して、ご見解があれば教えていただきたいのですが。
(ヨアヒム氏)私は外国の人間なので、日本のことに関してはあまり大きなことが言えない、気を付けて発言するようにしています。見聞きしていることも間接的なことなので、なるべく気を付けて発言するようにしているんですけれども、三つだけ、三点だけ言えることがあると思います。
 一つは、これは私の印象なんですけれども、非常にこれはパラドックス、逆説的なことだと思います。日本には当然ながら世界の最先端の科学があり、最先端の科学者がいるんですけれども、日本の最先端の科学者の人たちというのは、あまり原子力というものに希望と情熱というのは、それほど無かったのではないかという気がします。というのは、トップの科学者というのは、もっと違った分野に進んでいたんじゃないかというふうに考えられるからです。ですから、日本はアメリカから出来上がった原子力発電所を輸入したわけです。それも沸騰水型原子力発電所というのは、それはすでに様々な問題を抱えているということがわかっていまして、当時の最先端の技術とは言えなかったわけなんです。ですから、本当に最高の技術者、科学者という人たちがたくさん原子力に関わっていれば、こういうものを輸入するということは、もうすこし避けるようなことがあったのではないかということが一つです。
 二つ目は、地震の問題です。原発には、地震の有る・無しに関わらず、内在的な危険性の問題というのがあるんですけど、特に地震というのは避けることができない問題なんですね。この点に関しましては、アメリカは特に地震の問題を重要視していました。特に、当初、アメリカの初期の反原発運動で一番成功した運動の一つが、フディガペというところの来たサンフランシスコの原発が計画された時なんですけれども、その時には地震の危険性があるということを理由に規制当局も電力会社に「ここに立地をさせない」ということを決めました。これには、来たサンフランシスコには、1906年に大きな地震がありまして、その記憶があったのでここに建設するということは避けたということです。そして、それ以降もアメリカの原子力規制当局は、地震が起こりうる地域に原子力発電所を建設するということは認めてきていません。これが二つ目。
 そして三つ目は、日本の環境保護運動の問題なんですけれども、日本には運動が無いということは決して言えません。というのは、水俣の問題にしても、その他の公害問題にしても、大きな反対運動、或いは被害者の運動が様々な変化をもたらしてきたわけです。これは、ドイツに対しても高度成長時代、工業主義の時代から転換をしまして、公害対策を進めるという、その成功例として日本は伝えられているんです。ですから、日本の反公害運動が弱いということは、一般的に言えないですけれども、しかし反核運動というのはかなり抑え込まれたということが言えるんじゃないでしょうか。
 ドイツには、ヴォルフ・ヘーフェルという研究者、これは高速増殖炉、カルカーの高速増殖炉
を設計した人なんですけれども、この人が非常に興味深いことを言っています。
「1960年代に私がこの高速炉を設計した時代に、もっと激しい反原発運動がドイツにあったならば、私たちは経営者が『コストを削れ』と言うのに対抗して、コストがかかってももっと安全な原発を設計したのではないか」
と、そういうことを言っています。それくらい運動というのは大事なものなんです。
(大島氏)うーん、なるほど。
 先生が今、ドイツの運動の大事さと日本の環境問題、公害問題に関して、非常に運動が強くて、それが転換点、変化をもたらしてきたということなんですけど、今、まさに私も歴史的な転換点に日本はあるというふうに思ってるんですが、ドイツは私たち日本人にとっては、
『脱原発という社会を一歩踏み出して、私たちよりもずっと先に行ってる国だ』
という印象を持ってるんですね。
 それで、どうしてドイツで脱原発運動が成功していたのか、その秘訣といいますか理由がわかれば、教えていただきたいです。
(ヨアヒム氏)<朴教授:正確に訳せるかどうかわかりませんが>まずドイツが希望だということを言ってくださって、ドイツ人としては嬉しい。どうやって運動が成功したのかということはそう簡単には言えません。
 というのは、ドイツだけではなくて、スイスやオーストリア、ドイツ語をしゃべる国々そういうところのほうが、むしろ運動はドイツよりも早かった。1970年代頃から運動をやって、ドイツより早く原子力を止めてきた側面もあります。一般にドイツと言いますと、原子力の推進派はドイツ人というのはロマン主義的な考え方を持っていて、後ろ向きである、進歩や技術に対して懐疑的であり批判的であると。それはヒステリーのようなものであって、これも彼らは『ドイツ的な不安』というふうによく言うんですね。ドイツ人はそういうふうな性格を持っているというふうなことを推進派は言います。
 でも、必ずしもそうではない。それは歴史的な側面から反論ができます。
 というのは、1950年代に既にヌンツィンガーという研究者が標準的な出算となるような原発を設計をしたんですね。これはアメリカの当時の原発に比べても、高い安全性を追求していたものです。それがもう既にドイツは早くから、原子力という技術に対して懐疑的な考えを持つ人が、既に居た、多かったということなんですね。これは、アメリカ人から見ても「ドイツの方が原子力のリスク・危険性というものを把握してちゃんとやっている、アメリカの方がむしろナイーブ、浅はかだ」というような評価もあったくらいです。
 このドイツ方式の原発がなぜ高い安全水準を追及したりとか、或いは技術に対してそんな楽観的でないのかというもの、そういう理由は、一つには2回の世界大戦をドイツが起こしたことから、ドイツ人は簡単に危険なことに走らない、簡単にリスクを取らない、そういう理性的な側面を持つようになったんじゃないかというふうに考えます。
 もう一つは、空気というか雰囲気の問題なんですけれども、1970年代からドイツの反原発というものには、少しずつでも成功があったんですね。勝利があったわけです。
 というのは、1971年に実はドイツよりも早くフランスで反原発の大会が行われるなど、フランスの方が反原発が確かにあったんです。ですけど、フランスの反原発運動は、やがてやる気を無くしていきます。というのは、フランスの原子力政策は非常に中央集権的で、しかも抗議活動に対してフランスの警察の方が激しい弾圧をおこなった。ドイツの警察もかなり激しい弾圧をおこなったんですけれども、それ以上にフランスの方が酷かったわけなんですね。ですから、フランスではやがて反原発運動が下火になっていく。
 それに対して、ドイツで一つ1972年に獲得した成功というのは何かというと、それは連邦行政裁判所というのは、最高裁と言ってもいいんですけど、そこが原子力を進めていく上で、基本法、この裁判の判決が出るまでは
「安全性と経済性は同じく大事だ」
と言われていたのが、連邦行政裁判所の判決で、
「安全性の方が経済性よりも重要である」
と、そういうことが出たわけです。この判決の内容については、今も議論はあるんですけれども、しかしその時点でこういう判決が出たというのは大きかった。
 日本を見ますと、日本の最高裁はどちらかというと原子力推進だということで、その点では違いがあるんじゃないかと思います。
 ですから、運動が成功したというふうに考えられるかもしれませんけれども、運動だけで運動が成功するわけではなくて、政治、或いは国の制度、そういったものとの関わりで成功を勝ち取ってきた面があります。
 そのもう一つの例をあげますと、グルートラというテュービンゲンで教師をやっていた反原発の考えを持っていた方なんですけど、この人が当時の技術大臣のマットフェーファーという人に論争を挑んだことがあるんですけれども、ただ論争を挑む、そういう文章を公表したというだけではなくて、ある教会の前で自分の身体に火をつけたと、そういうようなこともやって非常に注目を浴びた、そんな事例もあります。
 いろんなことが絡み合って、ドイツが前に進んできたということです。
(大島氏)1972年に安全が最優先だということが判決として出たというのは、ちょうど日本で公害問題の時期に、経済優先ではなくて、環境保護優先というのに変わったというのに非常に大きな転換点だったので、似たところがあるなというふうに思いました。
 日本に関していうと、『安全である』ということが前提といいますか、『安全である』ということに疑いを差し挟む人に対して、常に意思決定から外してきたという歴史があったんですね。今触れられましたように裁判でも常に負け続けている。勝つ時もあるんですけども、最終的には・・・安全を取るのではなくて、行政の決定を追認するような判決が・・・朴先生もご存じだと思うんですけれども、そういう決定が日本の限界といいますか、確かに運動はすごくあるんですけど、そこをうまく繋げ切れてないというところが、ちょっと違うのかなというふうに思います。
 日本は非常に原子力産業がものすごく強いんですね。そこが阻んできたということが多いんです。
 ですから、ドイツでどういう文脈があったのかということと、もう一つ脱原発していくと、一番今心配しているっていうか原発がたくさん立地してるところで心配しているのは、原発が無くなるとそれで生活してる人が・・・生活といっても労働者のホテルとか飲み食いするところであったりとか、それに依拠しちゃってて、自立的なものではないんですけれども、ただそれで生活してる人が居て、原発抜きでは生活できない。もう一つは、日本は多分ドイツには無い制度だと思うんですけど、国からの交付金というものが原発を立地するだけで、多額の・・・税収の何倍ものお金が自治体に入ってくるということがあって、原発抜きではできなくなってしまうということが起こっています。
 ドイツでは、脱原発していく中でそういう地元経済はどういうふうに自立していったのかというか、そういう論争は無かったのか。そういうことがもし判りましたら、教えてください。
(ヨアヒム氏)日本で言われていたような産業界の力とか、或いは地元への補助というのは、ドイツにもないわけではない。原発が建つというところには、電力会社がいろんな約束をして「市民ホールを作りますよ」とか、そういうことはある。そして、政治の方からも様々な支援があるというのが、ドイツにもあります。多分他の国も同じようなことだと思います。
 ただそんな中で、一つは、ドイツの場合には原子力が始まる当初から、大企業は原子力に対しては、特に一枚岩ではありませんでした。
 例えば面白い例は、RWEというドイツで一番大きな電力会社の経営者、この人が実は1960年代の終わりに、原子力に対して懐疑的な立場をとっていたんですね
「もっと石炭とか褐炭とかそういうものを使った方が経済的に発電ができるのに、なぜ原子力なのか?」
 おもしろいのは、オイゲンローベという人がその企業に居たんですけれども、この人が一生懸命原子力推進派に対して反論を行っていたと、そういう事例があります。
 また、RWEのテオイプシロンという人は、当初から太陽エネルギーに関して積極的な立場をとっていました
 また、いろんな偶然があったんですけれども、ゴアレーベンという場所をご存じでしょうか。西ドイツと東ドイツのちょうど境目にありまして、今は核廃棄物の問題でよく名前を聞くと思いますが、当初はここに再処理工場が来ると言う話だったんですね。この再処理工場に対して反対運動が起こる。また有名なカール・ワイツゼッカーという核物理学者がいます。この人が批判的な立場をとるようになる。
 そういったことから、このゴアレーベンが立地している州のアルブレヒト首相がこれを白紙撤回するというようなことがありました。
 その後で産業界からの漏れてきたお話で、どういう人がしゃべったのかはよく判らないですけれども、コニャックを飲みながら、お酒を飲みながら語ったというふうに伝えられていることがすごく面白いんですけれども、
『反対運動にも感謝するべきだね。無駄な投資をしなくて済んだ』
というような、そいうことが漏れ聞こえてきたというふうなことがあります。
 一方、雇用の話ですけれども、地元の雇用に関しては、この答えはそんなに難しくありません。
 というのは、雇用を減らそうと思ったら一番いい方法が原発なんです。一番人が要らない発電方式ですから、原発を止めて再生可能エネルギーの向上などを立地することによって、実際ドイツでは雇用が増えています。そして、工業は再生可能エネルギーのおかげで活性化しています。もちろん、これは産業構造の転換ですから、こっちで雇用が増える上でもちろん原子力で食べていた人の一部は、負け組になるかもわかりませんけれども、全体としては再生可能エネルギーで雇用が増えるというふうに考えます。
(大島氏)そのとおり、そう思います。私もそう思います。
 今でも日本は一色です。原発、一色というのは、人々はだいぶ変わりました。原発に関して、どの世論調査をしても大半の人が「原発を減らしていきたい」と、一部、かなり大きな部分は「今すぐにでも止めましょう」という人も含めて、かなりの数の方たちが原発から脱却したいというふうに言っています。
 ただ他方でいわゆる古い産業ですね。鉄とか電力とか、あそこはすごく原発一色で・・・というのが今の日本の状況かなと。ただ、新しい動きは出てて、ソフトバンクっていうところの孫社長なんかは、「原発抜きでいこうじゃないか」というような動きも出てますので、これは新しい動きかなというふうに思っているところです。
 ちょっと話は変わりますが、昨日先生は京都知事選でいろんなところを見て回ったというふうに聞いています。京都はこの関西地域はそうなんですけど、私の故郷は福井というところにありまして、そこに14基の原発があります。すべて合わせると1157万キロワット、恐らく世界最大の原発密集地なわけですね。そこで京都市というのは、60㎞しか離れてないということで、京都市民、特に市民層を中心に非常に大きな反対運動があるんですが、昨日京都市長選をご覧になったということで、その印象と言いますか、もし感想なんかがあれば、本当にざっくばらんな印象でも構いませんので、思うところがありましたら教えてください。
(ヨアヒム氏)もちろん日本の特に地方政治に対しても、外国人として意見をいうというのは難しいですけれども、昨日訪問した広報の方には、幸運を祈ります
 京都に関しては、私は本当に京都が好きで、大好きなので、この京都が原発から近いということで、ここが福島のような未来を辿るようなことは考えたくもありません。それは、人類にとって大きな損失になると思います。
 他方、外国のメディアではよく日本では原発に対して何の批判もないようなことが言われていますけれども、それは全くの間違いだと私は思います。
 日本には長い長い、歴史的に見ても長い環境運動の伝統があります。それはさっきの1970年代の公害運動から環境政策に移ったことですけれども、アメリカから始まった環境保護運動が日本で花を開いて、それがドイツの手本に一時期なっていたことは事実です。ですから、一時期日本が環境保護という問題でトップに立って、また今はドイツの方がよく見られているかもわかりませんけれども、また再び日本の時代が来るというようなことがあるんじゃないかと思います。
(大島氏)今、おっしゃってたような話で、原発の問題と公害問題やってる方、あまり言いにくいんですけど、京都市長選でもそういう弁護士が候補になって頑張ってるというところに、非常に歴史を感じるなというふうに、今先生のお話を受けて、私自身も「まさにそうだな」というふうに思いました。
 最後に、もうお時間もありますので、だいぶお話いただいたような気がするんですが、日本が日本の市民がこれから取り組んでいくべき課題というか、もちろん先生非常に謙虚な方ですので、「外国人の私が言えない」という、私もそういうふうに答えそうです<笑>
 ただ、少なくとも日本がやっていくと、東アジアに対して何らかのインパクトがあるんじゃないか、或いは世界に対してインパクトがあるんじゃないかと思ってるんですが、日本がやっていくことがどういうふうな影響を他の国々に与えるというふうに考えられますか?もし、ご見解があれば教えてください。
(ヨアヒム氏)何度も何度も言いましたけれども、外国人として日本がどうすべきというのはなかなか言いにくいんですけれども、外から観察者として言えることは、二つくらいあると思います。
 一つは、日本の伝統って大事ですけど、日本の伝統というのは、常に最高の技術を持っているということではないかと思います。世界の電気・電子革命というのをリードしてきたのは日本なんですね。この日本というのは、エネルギーが実は少ない国である、石油のある国からは遠いし、国内にもほとんど石炭が無い。
 そういう中で過去、日本は、
「自分たちの成功の道は、エネルギーをたくさん使う産業ではなく、知識をたくさん使う産業、省エネ型の産業だ」
というふうな形で、実際に日本の産業は成功してきたと思うんですね。
 これと同じことで、将来もより知識集約的で省エネ型で、そして再生可能エネルギーを発展・普及させる産業、ここに懸けていくことが大事ではないかなというふうに思います。
 その中でソーラーの技術、そして電子工学の技術、これは世界最高のものを日本が持ってるわけですが、これをうまく活用することによって、より分散型のエネルギーというものをもっと活用していく道をとっていくことができると考えます。
 これまでは、エネルギーというものは巨大な集中型の発電所で供給をするということでやってきたんですけれども、分散型というのは技術の問題ですから、それは今すぐでも可能だと思います。
 これに関して言いたいことは、日本の問題は、『エネルギーが不足していること』ではないと思います。むしろ、『発想が不足している』のではないかと思うことがあります。
 電力会社にしても政府にしても、エネルギーに関しては、ひょっとしたら
「代替案はない。原子力が危ないのはわかるけれども、原子力に変わるものは無い」
というようなことを言うかもしれません。しかし、ただ技術の問題だけではなくて、代替案の実現を可能にするような新しい政治のスタイルというものを作っていく必要があると思います。
 これまでの原子力、例えばエリートたち、大企業がトップダウンで持ってきたらできるというものでなくて、代替エネルギー、再生可能エネルギーというか、これからのエネルギーは様々な技術を組み合わせていくことが必要です。それも地方がそれぞれ自分たちに合ったエネルギーを選んでいく。そこではトップダウンの方法は通用しませんから、円卓会議といいますか、話し合ってボトムアップで問題を解決していく。
 だから、外部から「これが正解です」というようなものは無いので、それぞれの立場のところからそれぞれの地元のところからボトムアップで解決策を出していくという政治スタイルをとっていく、その中で代替案を作り出していくというようなことが必要であると思います。
 最後になりますけれども、『日本はなかなか変わらない、保守的な国だ』と思われているかもしれませんが、歴史家から見ては、決してそういうことはありません。日本でも過去の大きな変化を成し遂げたことが何度も何度もあるんですね。たまたまこの原子力の問題で日本の人たちは、なぜか保守的になっているように見えますけれども、そんなことはありません。大きな変化というのは、日本は必ず成し遂げることができると思います。
 その点でドイツと日本というのは、お互いに協力し合えることがきっとあると思いますので、これからも協力関係を、連絡を続けていきたいというふうに思います。
(大島氏)大変長い間、本当に勉強になりました。本当はたくさんまだ個人的に聞きたいこともいっぱいあるんですけれども、今日はこれで終わりたいと思います。
 本当にまた朴先生も素晴らしい通訳でありがとうございました。
 今日はどうもありがとうございました。
 ダンケシェーン。
三人


【以上】

失礼します。
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