※この記事は、12月22日 【内容起こし】IWJ 百人百話 第30話 大塚愛さん 【前半】の続きです。

<35:40頃まで>
 私は彼の死自体がショックでしたし、親方とはまた違う大工さんと私の夫がその方の死について立ち話をしたときに、
「原発行ってたからね。なんかやっちゃったんだ。」
「どんな?」
って言って、
「実は俺も大工だけども、昔そっちの現場にも行ったことあるから心配なんだ」
っていう話をしたんですけども、たかゆきさんが亡くなったことが、例えば原発で被曝して亡くなったなんてニュースになることはまずなかったんですけど、私も村の人たちも、受け止める原発で被曝して亡くなったって受け止める人は多かったと思います。
 亡くなった直後大変なんだけども、息子さんがお父さんがやっていたいろいろな仕事を受け継いでやっていたんですけども、やはり原発に人を派遣する仕事も彼が継いで続けてるわけですね。うーん・・・、その断ち切れない構造とか放射能の害が恐らくあるのに、全然見えないっていうか、怪我をして亡くなるとかじゃなくって、本当に見えないところで間接的にその人の身体に入って、時間かかって亡くなっちゃってる・・・、そのなんだろう・・・。害が見えにくいっていう構造に対しても、全く補償がされない。それが繰り返されてしまってるということに対して、非常に残念に思いました。
Q.3月11日地震発生の時
 3月11日の午後2時46分でしたけど、その時はちょうど自宅で子供二人と3人一緒におやつを食べて、そろそろ上のぼけさんとこに行ってこようかと話してる時でした。
 ちょうど私が二日前に風邪を引いたので、上の息子も保育園を休ませて、一緒に居た時でした。突然大きな揺れが始まって、恐らく震度6強くらいだったと思うんですけども、すごい初めての揺れでした。家の茶の間でテーブルの前に座ってるような状態だたtんですけども、子供がそばに居たので、上のその時は5歳の息子は、怖がって抱きついてきました。
「怖い!怖い!」
っていうことで泣いて、5分くらい長い地震だったんですね。もう「まだか」というような大きな。
 そのうち、ガシャン!ガシャン!ガシャン!ってものが壊れる音がしました。
 家の大黒柱を見た時に、全くそれはビクともしてない感じがしたので、
「あ、家は大丈夫そうだ」といって思って、最初の数分間は過ごしました。
 収まってもまたすぐ大きな余震が続くような感じだったので、しばらくは動けない感じだったんですけども、やっと動けるようになって、家の中を確認したときに、ガラスが戸棚から落ちて割れてたんですね。でも、それだけだったんですね。結果としてはガラスコップが二つ割れて、額が二枚落ちて割れた。結婚式の写真を2枚入れてた額なんですけども。
 最初は本当に余震が続いたから、子供が泣いてたんですけど、だんだん落ち着いてきて、いつの時点だったかな・・・。動けるようになって・・・ちょっとしてからぼけさんちに。唯一の隣人だったので。かつては4軒だったんですけど、この数年はうち2軒だけだったので。
Q.他の2軒はどうなったんですか?
 数年前によその場所に出ていかれました。
 なので居ませんでした。
 それで、ぼけさんちに行ったら、まさいさんは配達で居ない日だったので、行ったらもう家の中がぐっちゃぐちゃになっていて、呆然としながらテレビをぼけさんは見ていて、家は、そんとき気が付いたんですけども、ぼけさんちもほかの家も家の中ひっちゃかめっちゃかだったんですけど、私の家は、本当にガラス、ちょっとだったんです。結果的に枕木、鉄の枕木を地面に埋めて、コンクリートも何も使わずに。その上に木造の家が乗っかってるっていう構造だったので、うまく免震になっていたようで、ほんとそ震度6強なのに、家は整然としていました。
 そうこうしてたら、雪がバーッと急に舞ってきたんですけど、地震の後で。一番最初に感じた心配は、
「あ、岡山に連絡しなきゃ」
だったんですよ。絶対こんな地震、心配してると。でも不通になって、うちは電話線はきていなかったので、ぼけさんちまで歩いていって、線をつなげると携帯電話がつなげるっていう環境だったんですけど、ぼけさんちももちろん不通になって。
Q.携帯がつながんないっていうのは、無線が???ですか?どうしてですか?線をつなぐと携帯が使える・・・
 あ、電波が飛んできていなくて、うちは電波が全く来てなくて、ぼけさんちはうっすら電波が来てるので、特殊なにかアンテナをつけていて、その線に繋げると電波が通じる状態でした。ただ、地震の直後から携帯の電波は使えなくなっていたので、連絡が誰ともできなくなっていたので、最初に感じたのは、
「あ、連絡しなくて心配してるだろうな」
というくらいの、それだけ落ち着いてたんでしょうね。
 夕方になって、夫が川内村の中心部に事務所を借りて仕事をしていたので、そこから車に乗って帰ってきました。普段は2,30分でいける道中なんですけども、家までの4㎞
の山道の途中に、大きな石がゴロゴロ転がっていて、道をふさいでいたり、立ち木が倒れていたり、地滑りしていたりっていう、山道が酷い状態だったので、そういう石をどかしながら、道を開きながら1時間以上かけて自宅に帰ってきて、彼の事務所も地震の時すごい状態だったから、さぞ家も、私も体調悪かったときでもあったから、どうなってるだろうかって心配して帰ってきて、逆に帰ってきたら家も全く整然としてて、逆に拍子抜けするくらいだったそうです。
 夕方ずっと余震が続いていたけど、夕方にきて・・・生活を再開させるというか、夕食準備、お風呂をたくっていう時間になったんですけども、何の・・・。電気は自家発電していて、ソーラーパネル、畳1枚の3分の2くらいの大きさのソーラーパネルを7枚畑に置いて、それの電気をバッテリーに溜めて、その電気を使うっていう暮らしをしていたので、停電することはなかったですね。電気がありました。水も新居を建てて2年目に井戸掘りをして井戸水を使っていたので、水も電気を使ったポンプで汲み上げて、全く問題がなかったですね。
 ガスが止まるということもなく、薪をくべればご飯が炊きはじめられる、薪をくべればお風呂が焚きはじめられるということで、そのライフラインが何かなるっていうのは、すっとクリアできた状態でした。
 その時点では、地震自体すごかったけど、そこまで原発のことを大きく気になってなかったので、
「すごかったけど、あぁ無事に乗り越えられた」
という気持ちに、私も夫もなっていて、
「道崩れていたところを明日の直さなきゃね」
とかいう会話をしてました。
 夕方になって、ニュースは聞いていて、津波が海の方にすごい来たみたいだっていうこともわかって、最初はIAEAが『原発は非常停止した』っていうのを早い時間に言ってたんですね。それも聞いていたんですけど、
Q.聞くっていうのはラジオですか?
 ラジオだったと思います。NHKのラジオだったと思います。
 それで、夫がぼけさんちまで行って、衛星テレビ、衛星放送のテレビがついているのを見にいったときに、帰ってきて・・・。
 うちでも見れたんですけど、なぜか付けてなかったんですね。最初はつけてたと思うんですけど。なんでだろう?なんかぼけさんち行って見てたんですよね。そしたらそのコメンテーターの一人が、
『冷却水が止まった』って言ってたって。『このままいくとメルトダウンですね』なんていう話を聞いてきたんですね。
 その時点で夫は、
「ちょっと動いた方がいいんじゃないか」
って言い始めたんです。その時点では、私は、
「えー!えー!まさか!?」
という、そこまでだったんですね。
 段々暗くなって、夜になった時に・・・、どっちが先だったのか、3㎞圏内避難指示を聞いた時か、その前後なんですけど、夫が
「やっぱりとしおさんが言ってたことが本当になったんだよ」
って言ったんですね。としおさんっていうのは、私たちの友達、木村としおさんで富岡町の出身だったと思いますけど、若い頃から東電の職員として勤めていて、技術にも携わってた人だったんです。その人が、地震の確か半年くらい前に会ったときに、もうちょっと前に、
「自分が東京電力に勤めていた時に、もしここに大きな津波がきたらば、冷却装置が冷却できなくなって、メルトダウンするんじゃないか」
っていう警告の話をしたんですね。彼自身は10年ほど前に勤めていた時に、それに気が付いて、上司にもそれを言って、でも上司も知っていながらとりあわなかった。会社としてその問題をなおざりにしている、隠してるということに疑問を感じて、自分から仕事を、社員を辞めてた人なんですけど、獏原人村によく遊びに来る友達だったので、そのやり取りの中で話を聞いていたんですね。
 夫が「そのとしおさんがあの時言ってたことが本当なんだよ。」
 3㎞圏内避難っていうのが出た時点で、私も
「なんか深刻なことが起きてるんだ」
って思って、とりあえず何が起こるかわからないから、何か起こったら20㎞の距離ってすぐなので、今日から2,3日西に動いて、ちょっと離れてみようって決めて、夜8時か9時くらいから準備を始めて、とりあえず着替え・食料を入れて、多分2,3日車で過ごすかもしれないから絵本とかも入れて、子供達は
「どうしたの?どうしたの?」
って言うんですよね。
「なんでそんな準備するの?」
って言うから、
「ちょっと原発が心配だから、ちょっと家を離れよう」
「どれくらい?」
「ちょっと2,3日」
って言いながら、ついついいろんなものを鞄に詰め込もうとしてる自分がいて、それを見て子供がきっと心配したんですよね。
Q.避難を始める
 家を出たのは、11日の夜9時くらいだったと思います。
 そこから普段だったら1時間半で行ける道なので、11時くらいには着いてたと思います。地震の後だったせいか、普段はガソリンスタンドは夜の8時には閉まっちゃうんですけど、夜遅いのにスタンドに電気が付いていました。動いてる人がもっといるかと思いましたけど、国道399はガランとしてて、誰も走ってないような静かな町でした。
 その翌日には、国道399号、それから富岡から川内村に通じる県道36号は渋滞していたって聞いたので、1日前だったので本当にガランとしていました。
 役場まで行って、公衆電話がそこにBOXがあるですけど、公衆電話は通じるっていうのは聞いたので、そこからようやく岡山に『無事だから』と初めての電話をしました。
 確か2日目12日に起きた時だったと思うんですけども、大賀あやこさんっていう大熊町に住んでいる友人から携帯メールが来て、携帯のメールだけやりとりできる状態だったので、
「どうしてる?」
というようなことを聞いたら、
「まだまだ原発、全然危ないから、早く、早く西に逃げて」
っていうメールがびっくりマークが3つくらい付いてるようなメールが来まして、私はその辺で様子を見るくらいのつもりでいたんですけど、そのメールを見た時に夫が、
「じゃあもっと遠くに行こう」
って言って、朝西に向かって、まず猪苗代湖まで行きました。
 夫はもう恐らく三春を出た頃から『もう帰れない』って判断していて、どんどんもっともっと遠くに、気持ちがどんどん前に夫は向いてたんですね。それを感じて、私はなんか自分が住んでいた場所から引きはがされるような気持ちがして、それは実はなんか夫はだいぶこの7年一緒に住んできて、川内村の場所も好きになっていたけど、最初は大っ嫌いでイヤイヤ住んでいて、今でこそ言わない。そういう夫がどんどん前に行こうとすることで、それまでの過去も重なって、自分の好きな場所から引きはがされてるような感じがしました。
 夫もなんていうのかな、その時は客観的に事実が判断できるという、彼がわき目もふらずというか、後も見ずに全然未練もないような状態で言ってることに対して、私はそこから身を切られるような思いで離れなければいけないという状況で、
「これ以上離れたくないんだ。これ以上移動したくないんだ」
って言ったんですね。
 まだ爆発の前でした。
 夫はそれに対して、
「じゃあどうすんだ?」
ってしばらくラーメン屋の脇の駐車場で車を止めて、そこで
「どうすんだ?どうしても戻りたいっていうんだったら・・・」
 私、『戻りたい』とすら言ったんですよね。
 川内村に避難して海から避難してる人たちが来て、炊き出しも始まったっていうのを聞いていて、なんかこういうことが起こった時は助け合わなきゃっていう気持ちにもなったし、とにかく離れる気になれなかった。でも、
「じゃあどうしても戻るっていうなら、子供を置いて一人で行ってくれ」
って夫が行って、
「俺たちここで待ってるから」
って・・・。
 その時、例えば携帯電話が繋がったらば、自分が信頼できる友達とかほかの人に話して相談することもできたんだけど、会津若松のその地点は、その時は、メールもできなくなっちゃってて、そういう交信もできない状態で、どうしたらいいんだろうかって思ってたら、ちょっとその辺が記憶があいまいになってるですけど、多分その頃に、それから1,2時間したときに、最初の爆発が起こったんですね。『爆発した』っていうのがニュースで聞こえてきて・・・。
 多分その時だったんですね。
 認めた瞬間がやってきたんですね。
『昨日までは、自分が居たあの私たちの場所に、放射能が来てしまうってことが起こったんだ』
って、認めた瞬間があって、もう辛くて辛くて、駐車場の路地裏でしばらく泣いて・・・<涙されてます。>泣いて・・・、認めて、
「じゃあ帰れないんだから、どこかしばらく避難するしかないな」
って考えて。
 行くとしたら実家なんですけども、夫の実家が横浜にあります。
 でも横浜はもう前日の地震で電気止まったり、電車止まったりっていうのが判っていたし、余震も続いてる中で、首都圏に行くのが怖いと思ったので、地理的にも会津若松なら新潟に抜けて北陸道からずっと岡山に向かう道っていうのは、割とスムーズに走れる道だったので、
「行くとしたら岡山だな。岡山にいくしかない」
っていう選択がぼんやり出て、動き出しました。
 車の中のテレビのニュースをずっとつけてたんですけど・・・、夫と交代ごうたいで運転しながら行ったんだけど、なんかニュース聞きながら、涙流しながら、運転してるような状態で、暗くなった時間に相次いだ爆発について、原子力委員会が記者会見のニュースをやってるのをずーっと繰り返されていて、合間合間説明をしてるようなニュースを聞きながら、
「なんてことをしてくれたんだ・・・」
っていう怒りとも悲しみともつかないような想いが、くううううううって腹から手まで届くような気持ちを、ほんと一度感じました。
Q.福島から遠く離れて
 なんだろう。
 気持ちとしては、もう・・・なんだろう。
 あの・・・体は無事なんですけれども、人っていろんなものと繋がって生きてるじゃないですか。見えない身体があるとしたら、その見えない身体の血管っていうのは、そこの土地とか家族のような人たちとか、すっごいたくさんの血管みたいな糸でつながってると思うんですけども、それがもうブチーっ!て自分が住んでた世界ひっくりかえされて、心の身体の血管から血を流し続けてるような、ボロボロでしたね。精神的には。
もうどんだけ涙したかわかんないくらい毎日泣いてたし、<涙されています>本当・・・、本当に人ってこんなに涙出るのかなっていうくらい、何かにつけて辛くって泣いてたんですけども・・・。
 4月の中旬だったと思うんですけど、その頃・・・今まで住んでたとこに放射能が来てしまって汚染されてしまったって感じて、なんでしょう、そういう考えることで、自分はもうそこに以前のように安心して住めない、そこにきっと子供達と帰ることを選べないというのが分かりながら、わかるっていうか、そういう考えがあるんですが、自分の気持ち・・・は、それについていかないわけですよ。とってもそんなふうには思えないという・・・。
 どうしたらいいんだろうという時に、4月15日に田中優さんという方が岡山で講演会に来られまして、そこにその時にまーちゃんっていう沖縄音楽を演奏する人も居っしょに来てライブをされたんですね。その時、私もあわせて体験談を話してほしいと頼まれたので、講演会の一コマで話させていただいたんですけど、リハーサルに行ったときに、まーちゃんが歌ってるのを聞いて、すごい心がグーッと動き出して、いっぱいまた涙が出て、本番始まって1曲目に彼が歌ったときに、それを聞いてる時に、また心がぐっと動き出して、その時に、
「あ、そっか。繋がってるままでいいんだ」
と思ったんです。
 事実として帰れない事実があるけども、とっても気持ちはだからといって切り跳ねるんじゃないんだから、これからも繋がっていきてればいいんだって、そん時やっと思えて、また次の一歩が踏み出せるようになった・・・。
 あと、最近、なんかふっと一日1回くらい、立ち入り禁止になった地域の風景があちこちが、ぽっぽっと頭に出てくるんですね。川内村は一部立ち入り禁止なんですけど、その海側の富岡町に週に1度行ったりしていて、買い物行くならそことか、子供と図書館いくならそこ。海に行くならそこ、みたいな生活圏内の町だったんですけども。
 そこに行くまでにすごく山がきれいなポイントがあって、いつも山に対して心の中で挨拶していたりとか、去年の夏は海辺によく子供連れて行って、本当に原発のすぐ隣の海辺だったんですけど、去年おとといに本当に海に行って、愛する場所になっていたんですけども、ふと岡山の生活でなんでもないときに、ふっと図書館に行く道であったり、海辺のとこであったり、ふっといろんなとこがぽつっぽツッとふっと出てくる。
 その時に、
「私はなんであそこに行けなくなっちゃったのかな?」
ってすごく素朴な思いがその度にふって沸きあがってきますね。
Q.福島に戻りますか?
 決断としては、うーん・・・。
 生活の場として戻ることはできないと思います。
 ときどきは帰りたいですけども、もう子供を連れて再びそこで生活することは・・・、今は親としての責任というか、それはできないだろうなと思います。
Q.除染について
 そこから出て行かさないための名目を作るために、意味のない除染をやろうとしてるところもあるっていうのを聞いたので、解決していこうとすることは大事だと思うんですけども、やはり実質、それやってみてうまくなかったら、その事実をまたちゃんとフィードバックして次を考えられるというような動きであってほしいなと思います。
Q.伝えること
 今自分にできる役割として、自分が体験したことを通じて、福島で起こった原発災害のこと、言葉で伝えるっていうことをさせていただいていて、うーんと・・・、それはこれからの自分の役目の一つだと思っているので、機会がある限り伝えていきたいと思います。
 広島や長崎で被爆した人も、66年経った今でも、フレッシュに語り続けていますけど、その気持ちはすごくわかって、今まで40回以上各地で講演をしたんですけど、全く色あせないんですね。この話の原動力みたいなものが。
 やはりそういうのは、今回体験したいろんな人が、特に西日本というのは関心が薄いので、伝えることでこの問題を共有するということは、大事だと思うので続けていきたいなと思っています。
 それが本当に福島でずっと生きてきた、福島が本当に根っことしてる場所であって、今回起きたことというのは、辛さも多いと思うし、なんか受け入れざるを得ない覚悟というか、動こうにも動けない事情だって多いと思いますし、あと、地元として、やっぱり福島の県知事さんも、結局はプルサーマルも受け入れて・・・、受け入れてしまっていたっていう過去もあると思います。お金を得ていた人だっていたと思いますし、そういう意味でも・・・、なんでしょう・・・、なんか、怒るだけできないっていうような、『どうしてくれるんだ!?』って言いきれないような気持ちがあるんじゃないかなって思うし、そういって放射能の害も認めれば認めるほど・・・、認めるほど、自分がそこの場所に居られなくなる・・・っていう気持ちもあると思います。
 汚染された場所からなるべく子供や若い人を出さなければいけないというのと、町として復興していかなければいけないという・・・。もし例えば食品のことだったらば、子供たちを守るためには、基準を厳しくした方が良い。でも、地元で作れたものをどんどん売って復興するためには、基準は緩い方が良いっていう・・・、そういう矛盾した課題を抱えてると思うんですけども・・・。
 やっぱりチェルノブイリで病気になった子供たちの話を聞いたり、映像を見たりしたときに、やっぱり親の悲しみっていうのは本当に辛いし、子供を守ってやんなきゃいけないって思う。
 でも、福島には復興してほしいっていう想いっていうか、復興してほしいっていう想いもあって・・・。 
 本当に答えなんかとても出せるものじゃないし、一人一人が選んでいかなきゃいけない選択だと思うんです。
 ただ、選択するにあたっての情報なんですが、やはり今福島県に住んでいながら普通に生活しているとマスメディアとか国からくる情報だけを元に判断すると、やはりそこに偏りがあると、私は思っているので、もっとちゃんと偏りなく、まずいこともちゃんと知らせてっていう状態で、福島に住む人たちがその上で残るって決めるのは、もちろん大事な選択だと思いますし、それで出ていく、よその場所でしばらく住んでみよって思うことも大事な選択だと思いますけれども、そういうなるべく正しいことをちゃんと知った上で、選んでいってもらえたらいいなと思います。
【以上】

失礼します。
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