※この記事は、
12月16日 【内容起こし】IWJ 百人百話 第28話 黒田節子さん【『360℃の困難』】
12月8日 【内容起こし】百人百話 第23話 佐藤幸子さん 【その①】に関連しています。

【動画】12月22日 百人百話 第三十話 大塚愛さん
http://www.ustream.tv/recorded/19316008 (72:13)

【以下、お時間のない方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2011年11月5日収録
 名前は大塚愛といいます。
 年齢は今37歳です。
 家族は夫と6歳の息子、2歳の娘がいます。
 もともと生まれたのは岡山県福山市です。育ったのは岡山県岡山市、99年から農業研修で福島県に行ったのがきっかけで、12年間福島県の双葉郡川内村というところで暮らしていました。
Q.震災以後の生活
 3月13日に着いた時は実家に到着しまして、それから5カ月くらい、8月の下旬くらいまでは、岡山市内の実家にいました。
 それで、4カ月くらい経った時点で、三つくらい理由が生じて、ちょっとよそに動くことを考えて、岡山県の一番北の端の建部というところに、雇用促進住宅があって、そこは避難者が入れる住宅なんですけど、そこに住みながら建部のまわりで新たな農地とか家を探しているところです。
 実家を動く三つの理由というのは、一つはとりあえず息子を入れてもらった保育園がすごいマンモス保育園で。なんかもうそこに行きたくないって息子が言うのが増えてきたことが一つと、後は私自身が実家は割と町に近い環境なので、もっともと居た場所に近い田舎に行きたいなと思ったのが一つ。もう一つは、夫と私の父が仲良く無くなって、仲違いしちゃったこと<苦笑>です。
 私は岡山で育って、学校も岡山大学に行ってました。福島に行くまでは、東というのは東京に一度だけ行ったくらいなので、それ以北というのは全く未知のところで遠かったし、本当に地理も、福島、東北の5県がどのように並んでるかもわからないような感じでした。

Q.福島で生活を始めた理由
 福島に行ったのは、25歳の春でした。
 その20代前半に自給自足の暮らしをしたい。あとは、大工になりたいという夢を持っていまして、その当時、大工になる入口というのが全く見当もつかなかったので、まずは農業からだと思いまして。私は実家も農家ではないし、おじいちゃん、おばあちゃんちも農家でないということで、どこかに行って、生活ごと入って学ぶしかないなと思いまして、本や資料で全国でそういう農業研修を受け入れてる場所を探しました。
 その時に、ここがいいなと思ったのが二つありまして、そのどちらもが福島県の農場でした。それで、その二つのうちの一つ、福島県川俣町のやまなみ農場に研修に行かせていただくことが決まり、25歳の春に、当時は本当に初めて福島県っていうのを本で見た時は、福井県と間違えているくらい岡山からは遠い場所だったんですけれども、とても心が惹かれていたので、春からはるばる行きまして、半年間そこで生活しながら、田んぼと畑を作るというのを始めました。
Q.岡山から福島へ
 一番最初は、若かったしこれから農業をやっていくんだということで、体力もつけたかったので、自分の身体で動いていきたいっていうことで、自転車で出発しましたが、たね蒔きの時期に間に合いそうになかったので、途中電車に乗ったり、また降りて自転車で動いたり、あっちこっち・・・大阪、名古屋、長野、群馬、水戸の辺を通ってずっと北上していきました。2週間くらいかけて北上していきました。
 最後、いよいよ福島県に入るという時に、いわき駅まで電車で行って、いわき駅で降りました。そこで自転車を組み立てて、タクシーの運転手さんがいたので、
「私これから川内村っていうところに行きたいんですけど」
って言ったら、
「川内村だとここからいけないぞ。山ばっかりでとんでもない」
って言われたんです。
「行くなら、海の富岡まで電車で行って、そこから上がっていけ」
と言われたんですけど、私はここで降りるって決めて、自転車も組み立ててしまっていたので、止められたけどまぁいいやと思って、「えいや!」って出発しました。
 それがもうお昼くらいだったので、ずーっといわき市から川内村を目指していくと、地図で見ると直線距離は意外と短いんです。「行けるや」と思ってたんですけど、でもいきなり山なんですね。すごいそびえてるいわきの山が。
 山を登り始めて、ちょっとしたくらいで、もう夕方が来てしまったんですね。そこの地元のおばちゃんたちが夕方集まっていて、
「これから川内村目指してるんですけど」
って言ったら、
「あんなとこ、今から車でも行かんよ」
って言われて、
「あ、とんでもないことをしてしまった」
と思って、とぼとぼ暗くなっていく山道を行ってたんです。でも、この先多分集落もないし、野宿といってもどこに寝ようって引いてたら、ぽつんと子供を連れた女性がそこに立っていて、
「私、こうこうで初めてきて、今川内村目指してるんですけど、獏っていうとこ目指してるんですけど」
「あぁ、獏?」
って言われたんですね。
「でも、もう行けそうにないから泊まれるとこ探してるんですけど」
って言ったら、
「じゃあ近くのおばあちゃんの倉庫に寝られるかどうか聞いてあげるよ」
って言ってくれて、一緒に居た女の子がおばあちゃんとこまで走っていったんですね。 待っていたら、向こうから軽自動車に乗った女性が来たんです。
「何してんの?」
って止まってくれて、
「実はこれから獏に行くんだ」
「あー、獏行くの?乗せてあげるよ」
って、小さな軽自動車だったんですけど、自転車をボタンでぎゅうぎゅう詰めに乗って、乗せてもらったんです。
 彼女は、私が行こうとしていた川内の獏原人村の一つ手前の集落に住んでいる、やはり数十年前から移住してきてた人だったんですけども、
「今日は家まで来て寝なよ」
って言われて、でも命拾いしたような気持ちで「あー良かった!」って行ったのが、それが初めて自分の身体が福島県射入った1日目でした。
 ちょっとそれから1か月ほど前の話になるんですけど、岡山から福島に出発する前に定期購読をしていた雑誌を読んでいたんですね。その時に橋本ちあきさんという方の文章が載っていまして、その方の文章を初めてその時読んだんですけど、非常にその人の文章に魅かれたものを感じたんです。ちょっとふっとその人のプロフィールを読むと、福島県在住って書いてたんですね。
「この人、これから私が行こうとしてる福島県に住んでる人なんだ」
って思って、いつか会えたらいいなって思ってたんですね。
 その日、その軽自動車で拾われて、あったかいお家についてご飯食べさせてもらって、ふっとくつろいで本棚を見ると、本が並んでいて、橋本ちあきっていう彼女の本が何冊も並んでるんです。
「あれ?」
って思ったんですね。
「さっきの人、確か橋本って言ったな・・・?」
と思って。そこで気が付いたんですけど、1か月前に初めて読んで会いたいと思った人に、山の中で拾われて泊めてもらっちゃったということに気が付きまして、その時はもうワー!ってなんでしょう。感動しまして、しかもそれが私が福島県に初めて、はるばる心細い思いもしながら辿りついたその日にその出来事があって、なんかとても迎え入れられたような、「よく来たね、ちゃんとあなたは来るべき場所に来たんだよ」っていうような思いを感じて、印象的な一日目でした。
 ようやく研修を願っていたやまなみ農場に到着しまして、そこから半年間、農業研修の生活が始まりました。
 着いたその日でした。山並み農場に着いたその日に、ご家族の方と晩御飯を囲んで、旦那さん、奥さん、それから5人の子供が居る家庭だったんですけど、おしゃべりしていた時に、神戸の地震の時の話になりまして、私は神戸の地震が起きた時は、大学の3年生だったので、春休みになってすぐ神戸に行って、ボランティアグループに参加して、そこのテント村で生活しながら、しばらく支援活動に入らせてもらってました。
 やまなみ農場の旦那さんも、
「実はあのとき神戸に居たんだよ」
っていう話になって、ふっとよく思い出したら、
「あれ?どこかで会ってませんか?」
ってお互いの顔を見た時に、同じテント村に来ていたんですね。それが自身が起こったのが、95年なので、私が福島に行ったのは99年なので、4年前の話でした。
 そこでも偶然を感じまして、
「あら!奇遇ですね。これからお世話になります」
ということで、そこでの研修仲間と、やまなみのご家族と一緒に生活が始まりました。
 やまなみ農場のご家族は、川俣町在住の方で、おじいちゃん、おばあちゃんが近くにかやぶき屋根のお家に住んでおられまして、そのすぐ近くにやまなみ農場がありました。
 旦那さんが佐藤かずおさん、奥さんは佐藤幸子さんという方で、5人の子供達と暮らしているお家でした。
 私の農業研修は、私とほかに2人、3人仲間が居ました。14日ほどはやまなみ農場の方達とやまなみの畑を一緒にお世話する。あと何か自分がお借りした田畑を作りながら。
 夜に地元のバス会社のバス掃除の仕事もしたりして、そんな感じでやってましたね。
 ラッキーなことに、やまなみ農場のご実家が、佐藤さん家がかやぶきの葺き替えをするっていうのがありまして、お仕事を手伝わせてもらって、一緒に茅刈りから始まって、それもやらせてもらって、おじいちゃんの70代くらいの茅職人だったんですけど、その方と一緒に作業させてもらったり、終わった後一緒にお酒飲んだりっていうこともありましたし、また、ちょうど町議選、選挙が始まっていて、『ウグイス嬢が足りないから、そのバイトをしてくれ』っていうのもありました。
 もう本当に初めてきた川俣町。一人車に乗って、源太郎さんっていう方のウグイス嬢をやりました。いろんなイベントがありましたね。そんなに寂しくはなかったですね。
 ただ、不安とか迷いがあるとしたら、今、そこの農場に来て、自分のやりたいことを身に着けていろんな人とつながってくらしているけど、この研修が終わったらどうしよう。次はどんなふうに展開していこう、どこに住もうっていう想いがあって、まだそれが決められなくって、それの迷いがすごくありました。
 獏原人村の地主にあたる人に、
「今こんな状態なんだけども、1年くらいここで暮らしてみたいんですけど」
って言ったんですね。思い切って。そしたらば、それが99年の12月だったんですけど、
「あー、いいよー。空いてるとこに小屋作って住んだらいいよ~」
って言われたんですね。
 私はそれを聞いた時は、飛び上がるくらい嬉しくって、願ってもないと思って、そこに住むことを許可してくれて、自分で小屋作っていいよって言われたことを喜んだのをよく覚えています。山の中でライフラインが全く無いところに住むわけですから、そこに小屋を作って住むとなると、生活できる場所。まず水を引いて来れる場所ではないといけない。ある程度日当たりも欲しいっていうので、その広い4畳分くらいの広さの空間で、この辺かなっていう場所を選びまして、そこに小屋を作ろうって決めました。
 その時に全くのド素人ですけれども、小屋を作る気でいました。
 というのが、その近くに移住してきたファミリーが何軒も居て、彼らは大工でもないのに自分で家を作っていた。そういう人たちを見ていたので、自分でもできるって思ってました。
 どれくらいの大きさを最小限作ったらいいかなと考えた時に、知り合いが3畳の小屋を持っていて、以前「そこに住んでみたい」っていう話を聞いたので、
「じゃあ、私も3畳作ってみようと思いまして決めました。
 小屋を作るのは、全く一人でやりました。土台を組んでっていうのも全く判んなかったので、じゃあホッタテならできると思って、丸太。丸太といってもこれくらいの太さのもの、手ノコで切って軽トラに積んできて、穴を掘るのは穴掘り器っていう、ずぼってやってどっとでる、すぼってやって、ぐっと開くと土がつかめるやつなんです。それで「えいや!」って、これくらいの穴が1mくらい掘れる便利な道具。それを地主にあたるまさいさんに借りてきて、穴を掘って建てました。
 やはり木は腐りにくいかなと考えて、自分でたき火で下の部分を焦がして、腐りにくいような格好もやって、4本の柱を建てました。その上にケタの部分、廃材をもらってきたものを乗っけました。今考えるとものすごく細い、恐ろしく強度のないケタを使ってるんですけども、そういうのでケタが出来て、垂木とかトタン、屋根の材料が無かったので、ホームセンターで買ってきてという、本当にひとつひとつ、「次はどうかな、どれ使おうかな、何買ってこようかな」って、ひとつひとつ考えながらやっていきました。
 結局、そんな感じで考える時間の方が長いような小屋づくりだったんですけど、トータルで1か月くらいで3畳の小屋が完成しまして、そこの中に一角に薪ストーブを置くスペースをつくって、薪ストーブを置いて煙突を出して、反対側にたたみ1畳分のベッドのスペースを作って小屋が完成しました。
 総工費は2万5千円でした。
 ちょうど2000年の7月から正式に始まったので、2004年の7月、ちょうど4年間経ったときに、年季明けということで、年季明けの式をしていただきまして、本当に親方も奥さんも「続くのかな、女の子が」っていうのを思っていましたし、地元の人たちもよりみちさんのとこに女の私が入ったというのが、じわじわ噂で伝わっていって、ほとんどの人が『ほんまに続くんかいな』っていう気持ちだったと思うんですけど、私自身も親方が女の弟子をとって、現場に連れていっておかしく思われないかっていうことも気になっていて。
 でも、どこに行っても一生懸命仕事してればそれでいいというような感じで、何でしょう、それに対して悪く言う人は居なかったですし、私が帽子をかぶっていなかったら、
「この帽子を使いなさい。この手ふき使いなさい。野菜持って帰りなさい」
って皆が受け入れてくれてる、よくわかんないけど、とりあえず頑張ってるぞみたいな感じで、受け止めてくれていって、それが1年、2年と積み重なっていって、「まだやってんだな、ちゃんと」っていうような感じで。
 そのうち『大工の愛ちゃん』っていう名前も皆覚えてくれるようになって、知らない村で例えば温泉とかで知らない人にあっても、
「あー、あなたがあの愛ちゃんなのね、大工の愛ちゃんね」
って言ってもらうことも覚えていきました。
 ただ本当に田舎によそから人が来る、岡山のわざわざ遠くから来ている、しかも女性で大工をやっているというので、なんでしょうね。変なやつではあったと思うんですけど、でも、でも何だろう、それで傷つけられたことは無かったですし、本当に受け入れていただいていたと思います。
Q.旦那さんとの出会い
 夫とは、2003年の秋に会津で会った講演会でバッタリ知り合いまして、その当時夫は横浜市で一級建築士として、建築事務所を一人でやっていました。
 お互い恋におちまして、一緒に暮らそうというか、結婚しようという言葉を一言も使わずに、結婚しようという言葉の代わりに、
『一緒に家を作ろう。新居を作ろう』
というのが最初の言葉だったと思います。
Q.建築士と大工の付きあいだから、「家を作る」って話?
 はい。
 夫は建築士だったけれども、大工仕事にも連動的な大工仕事にも興味持ってる人だったので、一緒に家を作りたいと。
 家ができるまでは、彼自身まだ横浜の事務所で受けた仕事が各地にあったので、あっちこっち行きながら、半分くらいは川内村に居るというようなスタイルでやってたんですけれども、住むとこはその3畳の小屋しかありませんので、たたみ1畳分のベットじゃ狭いので、寝る場所もないような状態だったので、東側にぽこっとまたベットを増築しまして、彼が来た分小屋がポコッと大きくなりまして、その小屋で本当に都会で育って、都会の感覚を持った彼が、そんなあばら家のような小さな小屋で電気もなくランプの明かりでっていう暮らしでしたので、非常に大変だったし、今でもそのことを愚痴っていますけども、なんとか家が建つまでは、そこで寝起きしながら一緒に家の作業をしてました。
Q.旦那さんは村に溶け込めましたか?
 職業柄、設計士だったので、仕事の絡みも出てきて、彼が請け負った仕事を親方が施工するっていうのが、いつだったかな・・・。翌年くらいに実現したんですね。なので、その辺で私の夫と親方との直接の関係とか、彼と地元の業者さんとの関係っていうのも、同時にできてきたので、ともに4、5年遅れてですけど、彼もそこに馴染んでいったというか、川内村の村民の一員になっていったという感じですね。
Q.新居の土地は?
 3畳の小屋を建てていたすぐ後ろのスペースをまた切り開いて、そこに建てました。土地はその地主にあたるまさいさん後家のものでそのままで、無償でお借りするという形でお借りしてました。
 ただ、新居を建ててからは、流石に無償は申し訳ないと思って、何かお礼のお金を払いたいんだけどって言ったんですが、まさいさんが現金を関係の中に介すことに抵抗を感じていたので、
「じゃあ地域通貨にしましょうか」
って言って、2軒のやりとりの地域通貨を作って、年3万円分地域通貨を払います。その後、まさいさんたちが出かけるときに、にわとりを飼われていたので、餌やりを頼まれていたんですね。それも1回700円というのも決めて、その3万円から差し引いていって、3年間経ったときに残ったお金を現金で払うっていう形にして、関係をしてました。

Q.原発を感じる生活
 99年の冬に川内村に住み始めたんですが、住み始めて恐らく数か月後くらい、しばらくして、近くに原発があるっていうことを知って、意識するようになりました。
 第二原発から十数キロなので、意外と海は全く見えない山の中なんですけど、直線距離は近かったです。
 同じ場所に住んでいたまさいさんの家には、チェルノブイリの事故の後から、放射能の測定器が買ってあって、いつもテレビの上にカウンターが置いてありました。
 それで・・・
 彼自身、まさいさんは、原発に対して反対という立場でしたし、そういうまさいさんたちの仲間たちでいわき市の町でデモをやる、勉強会をやるつながりがあることも知りました。誘われたときには、私も小さな太鼓を持って、いわき市のパレードに1年目くらいだったと思うんですけど、参加したりしました。
 最初に福島県で入った時にお世話になった、橋本ちあきさんもチェルノブイリの事故の後、向こうのチェルノブイリの子供たちを保養させる活動をしてたので、関心を持っている人で。そこの家に本があって、『私たちの涙で雪だるまがとけた』っていうチェルノブイリの報告集があって、それをもらって読んで、本当に雪だるまがとけるほど涙が流れるような悲しい事件が起こったというのがすごく感じまして、原発が起こした罪というのを感じましたし、地元の勉強会とか講演会に少しずつ行く中で、トラブルを隠す体質であったりとか、東電のそういう体質のことを知ったり、廃棄物が処理できないっていうことを知ったり、少しずつ問題もわかるようになって・・・、知っていってできれば無くなってほしいっていうか、という気持ちを持っていました。
 川内村の人も、原発関連の仕事に行ってる人は多いって聞いていましたし、東電主催の格安の旅行の案内が村の広報で来たり、村に東電から本が寄贈されたとか、あとは・・・、とてもすごく立派な広報誌が届いたりとか、川内村はそこまでなかったけど、しょっちゅう行ってた富岡町には、「なぜここに?」というような立派な図書館があったりっていう、そういうものを明らかに経済の恩恵を受けてるっていうのは感じていましたし、地元の子供達が原発の見学ツアーに行って、感想文を書いていたりするのが広報誌に載ってるんですけど、そういう意識して読んでいたんですけども、もう賛美してるわけですよね、明らかに。子供たちもそれを受け継いでいて、高校生の作文なんか、いくらか廃棄物の問題とかあるんですけども、やはり自分も高校を出て、そういう産業にそういうとこに就職していきたいという気持ちが見えるような、やはり希望を持ったような感想で。

 私は・・・もちろんメリットっていうのはある、経済、地元にとって必要だろうなということは感じましたし、実際あったら原発の問題を言うことは、働いてる地元の人たちの仕事を否定してしまうって、ちょっとその意味にとらわれてしまうんですね。
 じゃなくて、もうちょっと上の部分、上というか、もっとなんでしょう・・・。国策だからっていうのが大きくはだかっていて、「その国策をもっとみんなで考えていきたい」っていう気持ちを持っていて、だけどとてもそこには至らないような・・・広報誌で俳句を募集してて、季節の五・七・五の句を東電の広報誌で募集していたので、私はその想いを伝えたくって、
『安全と 地元の子らを 騙すのか』
って書いて送ったことはあったんですけど、なんかもうちょこちょこ投書したりとか、自分の意思をそうやって伝えたりはしていました。
 親方なんかも、
「今度那須野温泉旅行行こうと思うんだ、東電主催で。」
「え、そんなの行くんですか?」
って、結構親方にはちょこちょこ判るように伝えていたけども、親方自身は、うーーーん・・・。危ないっていうのは判ってたんですね、判ってたけど、
「そこまで言うのではないんじゃない?」
っていうような恩恵もちゃんと受けてるような、そこまで疑問視することは無かったですね。
 でも、その片や知り合いで原発に勤めていて、病気になって亡くなる人も居たんですよね。
Q.具体的に話していただけますか。
 私が住んでいた部落にご夫婦が住んでいて、その方には大事な一人息子さんがおられて、そこに私は親方と仕事行ったことがあって、『うちの子になれ』なんて私にも言われて、親方から
「あそこの息子さんは若いときに亡くなったんだ」
っていう話だけ聞いてたんですけども、その何年か後に何かの話の時、
「実はあそこの息子も原発行ってたんだ。病気になって死んだんだ」
っていうのを聞きました。
 あとは、もう一つ、親方の、私が直接知らない人なんだけど、ある人がクリーニングの仕事に就いたっていってて、
「洗濯くらいでいい給料がもらえてラッキーだ」
って話を親方にしてたらしんだけど、そのクリーニングというのは、原発から出た作業服か何かわからないんですけど、そういう仕事だって、その人もしばらくして病気になってしまったっていう話。
 それはちょっと又聞きっぽいんですけども。
 一番最近で強烈だったのは・・・
Q.白血病かガン・・・
 うーん、そうですね。そのご夫婦の一人息子さんは、同じ部落に住んでいたご夫婦の息子さんが亡くなったのは、白血病になったっていうのは聞きました。
 あとは、村のたかゆきさんていう人が居て、会えばいつもニコニコしてる元気な方で、村興しにもなるような直売所を作ったり、いろんなお仕事されてて元気な方で、私も何かと関わりがある人だったんですけども、その人がいつも車であっても必ずニコっと挨拶する人なんですけども、ある時、「あれ?」って車ですれ違ったときに暗い顔、いつもと違う感じだったんですけども、
「あれ?たかゆきさん、珍しく笑ってない」
くらいにあれ?って思ったんだけども、その・・・1か月後くらいに急性白血病で亡くなっちゃったんですね。そのたかゆきさんが。びっくりしました。本当に元気な人だったから。その彼はいろんな仕事をしてたんですが、その一環で原発の作業に人と派遣する仕事もやっていて、本人も現場に行くことがあったっていうのを・・・聞いたんですね。
Q.福島第一?第二?
 福島第一だったか第二だったかもわからないし、どういう仕事だったかもわかんないです。皆が本当に驚くような死だったんですね。その方が突然亡くなって、村の人たちも驚く・・・
Q.年齢は?
 えー、息子さんが30代だから、50代くらい、50代後半くらいだったと思います。
<35:40頃まで>

【後半】へ続きます。

失礼します。