※この記事は、12月16日 【内容起こし】IWJ 百人百話 第28話 黒田節子さん【『360℃の困難』】9月19日 【さようなら原発】 武藤類子さんのスピーチに関連しています。

【動画】12月19日 百人百話 第二十九話 武藤類子さん
http://www.ustream.tv/recorded/19252292 (65:33)

【以下、お時間のない方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2011年10月14日収録
Q.自己紹介をお願いします。
 福島県三春町に住んでいる武藤類子と申します。
 年齢は58歳です。
 私の家族は、母親とそれからつれあいと年老た犬です。
 福島の矢吹町というところで生まれて、福島市で育ちました。
 学生の頃に東京に出ました。大学を出てからは、印刷会社に勤めました。版下職人っていうのをやってたんですけど、それは福島市でです。
 そして、ちょっと考えるところがあって、宮城県の大学にもう一度入りなおして、養護学校の教員になりました。20年ほど養護学校の教員をやっていたんですけれども、教員生活でとっても忙しくなって、子供と一緒に居る時間とか、事業を作る時間とかそういうのが無くなっていったのは、とてもそのことにいら立っていて、とうとう辞めました。ねー。
 その後に、知的障害を持っている方々の作業所で卵の配達をするというパートをやりまして、それから今は山の中で小さな喫茶店を開いていました。3.11まで開いていました。やっぱりこの店が私の店できららといいます。

Q.お店のこと教えてください。
 この店は、山の中にあるので、その山の山菜を採ったり野原に咲いてる草花を採ったり、それをお茶にしたりとか、それからどんぐりを拾ってきて、どんぐりのカレーを作ったりして、そういう・・・山、いろんな自然から恵みをもらって暮らすという、そういう暮らしの仕方を提案してました。エネルギーもなるべく自分で自給したいと考えて、ソーラー発電をしたり、ソーラーでお湯を沸かしたり、あとは炭とストーブ、炭を使ってお料理をしたりとかお湯を沸かしたり、そういうことをしてきました。
 私が長いこと脱原発の運動をやってきたので、その情報とかも皆さんにお知らせできるような、そういうお店にしていました。
 山菜を採ってきて、それを料理して出したりとか、そういう店だったので、そういうことがもうできなくなってしまったっていうふうに思ったんですね。
 それから、ミルクを使った飲み物もあるので、安全な牛乳はあるんだろうか?っていうふうに思ったし、そうですね、そういうことで、もう店はやれないっていうふうに思いました。
 水のこともとても心配でした。
 それで、3.11以後、この店は閉じました。
 震災が起きて、すぐに1か月くらい避難してたんですね。1か月後くらいに帰ってきて、私と母だけで帰ってきたんですけれども、店はどうしようかと考えたんですけれども、もうここではできないなっていう思いで、そのまま店は開けなかったです。
Q.原発に関心を持ったきっかけは?
 原発のことに関心を持ったのは、チェルノブイリの事故があった後ですね。それまで福島に原発が10基あるということも知らなくて、本当に無知な人間でした。でも、原発事故が起きて、5月頃藤田裕子さんの原発事故に関するレポートを読んで、唖然としたんですね。こんなに恐ろしいものがこの福島にあったんだっていうことを、初めてわかって、それで運動にのめりこんでいきました。
 ちょうどその頃、私の姉が白血病という病気になったので、その白血病という病気を引き起こす可能性のある放射能というものに関してもすごく関心を持ちました。
 こういう病気が子供達とかほかの人にもそういう病気になってほしくないと思って、こういう運動を始めました。
Q.どんな活動内容ですか?
 例えば、講演会を開くとか、それから学習会を開く、それからデモもやりましたし、それから東京電力と毎月交渉して、東京電力でどんなトラブルがあったかそういうことを聞いたりとか、追究したりとか、そういうことをしてきました。
 私が関わっていたのは、脱原発福島ネットワークというもので、まず福島県の原発を止めようということはもちろんですけれども、日本中の原発を止めたいというふうに思いました。また、六ケ所村の核燃施設のことも、とても福島から廃棄物がそちらにいっているわけですから、核燃も止めたいって思いがあって、90年くらいだったと思うんですけれども、『核燃いらない女たち』という女たちで1か月キャンプをして、初めて六フッ化ウランという放射性物質が六ヶ所村に入るときに、女たちで道路に寝転んでそれを阻止しようという運動をしたことがありました。
Q.社会活動を始めた背景は?
 私の両親は、戦後すぐの共産党員だったんですね。それで、私の育った環境っていうのは、ちょっと多分普通の家庭ではなかったかもしれないんですね。
 母親はいつも私を背中におぶって、『聞け万国の労働者』とか『インターナショナル』とかって、そういう歌を歌ってました。父が連れて行ってくれたのは、メーデーのデモとかそんな環境で育ってきたので、特に社会的なことを教え込まれたとかそういうことは全然ないんですけど、何か皆と一緒じゃなくてもいいよって、そういうメッセージがいっつもあったんですね。
 私は「なぜ日の丸あげないんだろう?」とか、「私がお正月に学校に行っておもちをもらってくるのをどうしていかせてもらえなかったんだろう?」とか、そういうことってあったんですけど、子供なりに「なんでかな?」っていう想いはあったけど、なんかそれでも皆と一緒じゃないっていう、なくてもいいよっていうそういうメッセージがいつもあったっていうのが、私には影響があったなというふうに思うんですね。
 行った大学というのが、和光大学という大学だったんですけど、そこは新しい大学で、教授・助教授とかって、そういう教授・助教授は居たんだけど・・・教授を頂点としたピラミッド的な、そういうところではなくて、一人一人の先生方が、一つずつの研究室を持っているみたいなところで、自由な討議がいっぱいされて、学生が「こんな授業やりたい」っていうと、その授業を申請すると、それが単位として認められるような、そんな学校だったんですね。
 学校にはヒッピーの全盛期だったものだから、学校に暮らしてる人がいたりとか、おもしろい環境だったんです。
 1973年の入学です。
 そういうところで、なんか・・・今までの社会と違うことが面白いってそういう感覚がすごくあったんですね。
 そこで女の友達もたくさんできて、女性と二人で暮らしてたので、そこでたくさんの女の人たちが常に入り浸って、面白かったんです、ものすごく<笑>
 そういう中で語られてことっていうのが、そんなに真面目ではなかったけれども、社会のこととか、女という存在のこととか、女性差別の問題とか、そういうことが普通に語られていって、そういうことが私に影響したかなというふうには思います。
 父は、早稲田の学生だったんですけど、戦争に行く前は。いろいろやっぱり社会的なことを学んでいたのではないかと思います。もう亡くなってるのでわかりませんけれども、学生運動のようなことをやってたんじゃないかと思うんですけど、それで、戦争に行って命からがら帰ってきたわけなんです。外地ではないんですけれども、国内にいましたけれども、樺太のほうにやられるところだったんですね。それで、帰ってきたというようなことでした。大正8年生まれです。
 それで、戦争から戻ってきて、
『新しい世界と作るんだ』
って多分思ったんだと思うんですけれども、人民大学っていうのを作ったんだそうです。そして大学を人々に開放しようっていうようなことをやったそうです。
 そういうことをやりながら大学生活を終えたんですけれども、その間に母と結婚したんですね。
 母親というのは、少女の頃から戦争の時代だったので、広告少女だったそうです。まさにそうで、『ヒットラーユーゲントなんて歌、今でも歌えるよ』とか言ってるんですけど、それで戦後を迎えるんですけど、終戦の時に
「本当に昨日までとまるで価値観が変わった」
ということを言ってますね。その裏切られた感じっていうのは、ものすごく強かったんだそうです。それで、
「私は容易に人を信じない」
って今でも言ってるんですね。
 母は大正13年の生まれで、今年87歳です。
 そのことをずっと言ってました。
 それで、二人とも共産党員なんですけれども、共産党内部の何か分裂があったんだそうです。詳しく私はわかりませんが、それで除名になって、そして教師になって郷里の福島に帰ってくるんです。二人とも東京に出てました。
 郷里に帰ってきてから、中学校の教師に父はなるんですけど、その中で職員室の一番いいところにあったのをそこを図書館にすることとか、つづり方をやるとか、いろんなことをやってたようなんですね。
 私の小さいときには、目が覚めると生徒が家の中にいて、常に親と生徒たちが家に来てるような家でした。ごはんもみんなで食べるので、みんなが来ると、
「あ、ご飯が少なくなる」
という、そんな感じでしたね。はい。
 父から受けた影響というのは・・・、『みんなと同じじゃなくていいよ』って、それでしたね。特に、父がやってきたこととかそういうことに娘だからあまり興味も持たなかったんですけど、父は学校を退職してから三春町に戻って、そこで教育改革っていうのをやるんですね。いままでの学校の建物とかシステムを変えていくようなことをやっていました。でも、そのことについても私は娘なので、あまり興味を持ってなくて、父親が死んでから、
「あぁ、こんなことやってたのか」
っていうことがわかりました。
Q.福島の風土について
 福島の風土っていうのは、すごく地域・地域の連帯意識というか、そういうのがすごく強いところですから、ほかの・・・家とちょっと違うことをしたりすると目立つんですよね。
 例えば私が小さいころに、皆アノラックっていうのを着たんですね。すごく流行って。それは私もすごく欲しくて、欲しいなと思ったんだけど、親はそうでなくて、もっとあたたかくて厚いオーバーコートみたいなのを買って、「これを着ろ」と言ったんですね。
 まぁ、そういうふうな皆と違うものを着てるとすごく目立つし、いろいろ言われて、
「なんでそんなの来てるんだ?」
っていうことを言われたりとか、そういう風土があったので、人と違うということは、ある意味子供の私にとっては、ちょっと辛いことだったんですね。ほかの家が皆お正月とかに日の丸挙げているんだけど、うちだけは挙げないんですよね。
「どうしてかな?」
って、子供にとっては綺麗な旗でしかないから、
「なんで挙げないんだろう?」
ってことを思ってたりとか、そういうことが・・・無言のメッセージというか、そうしない親っていうのを見てきて、
「違ってもいいんじゃないか?」
っていう、そういう感じを私は受け取ったっていう感じですかね。
Q.福島に戻ったきっかけは?
 東京に居たのは、19歳から23までです。23で戻りました。福島に。
 東京のぎゅうぎゅう詰めの電車に耐えられなかったんですね<笑>
「あぁ、田舎に帰りたいな」
って思いました。
 いろんな文化とかおもしろさでいえば、東京の方がずっとおもしろかったです。
 でも、やっぱり自然っていうかね、山とか・・・。私の育った家からは、吾妻山という山がバーンと見えてたんですね。そういう山が恋しくなったりしました。
Q.福島の良さ
 福島は森が圧倒的に多いんですね。気が本当にたくさんあって、多分空の上から見たら緑一色なところなんじゃないかっていうふうに思うんですね。水もきれいだし、浜通りっていうのは海側、海があって、そして阿武隈山系があって、中通りがあって、そして会津平野っていうのがあるんですけれども、それぞれに違った風景、そして違った文化があるんですね。海は海の方でちょっと言葉も違うんです。中通りや会津って言葉が違ってて、たくさんのお祭りとか踊りとかがそれぞれのところにあるし、魚がおいしかったり、果物がおいしかったり、コメがおいしかったり、そういう豊かなところなんですね、ものすごく。
 私が自分の店に暮らしていて思うのは、本当に地球って美しい星だなっていっつも思うんですね。夕暮れ時を見てもそうだし、それから雨が降っても雨上がりの美しさっていうのがあるし、それから雪が降れば雪が降ったで白一面の世界になるし、夜は暗いし月も星も綺麗だし、月明りでライトが無くても歩けるくらい明るいし。
 福島だけじゃないかもしれないけど、こういう自然とともにあるっていう暮らしは、本当に美しいなっていうふうに思います。
Q.3月11日はどこにいましたか?
 3.11は、この店で体験しました。
 午後だったと思うんですけれども、営業中でした。
 ガタガタガタと地震が起きて、とにかく長い地震だし、ものが落ちてきて、ガラスが割れたりなんかして、今まで自分が体験したことのない大きい揺れと長さだったんですね。
 それで、テーブルの下にもぐって犬を抱いたままで、テーブルの下にもぐったりしてたんですけど、とても長く感じました。
 それで、すぐに『原発、大丈夫かな』って思ったんです。
 っていうのは、ずーっと東京電力と交渉っていうのを月に1回もってたものですから、その時に、去年かな?去年、電源喪失事故っていうのがあったんですね。全部の外部電源が切れちゃって、30分くらいそういう状況であったっていうことがあって、あわや大事故みたいになって、そのことを東電にずっと聞いたりしてたんですね。それで、電源が全部無くなった時に、一体何が起きるのかっていうことを想像することができたんです。
 それで、『原発、大丈夫かな』って思ったんですね。
 ラジオを聞いていたら、やがて『原発は全部止まった』ということがわかって、止まったっていうので良かったなと思ったんだけど、夕方になってからだったかな。
『冷却のための外部電源が、全く入らなくなった』
っていうとを聞いたんですね。
「ええ!!」
 本当に青ざめモノでした。
 11日です。それは。
 その日のうちに子供がいるお友達7人がいたので、その家に電話も何も通じなくなってしまったので、その家を夕暮れのちょっと暗くなった時に周って歩いて、
「とにかくもう逃げた方がいい」
ということを言って回ったんですね。
 二組の家族が、その日のうちに旅立っていったんです。
 それで私たちも夜中だったかな、夜になってからだったと思うんですけど、母親と連れ合いと犬と小さいワゴン車に乗って、とにかく西に逃げようっていうことで、11日の夜にここを逃げて脱出しました。
 すごい吹雪の夜だったんですけど、会津の方に向かっていったんですね。
 それで、猪苗代っていうところなんですけど、その辺でものすごい吹雪になって、それでようやく会津若松のちょっと手前で車を止めて、そこで夜を明かしたんです。
 次の朝になって、ちょっと避難所はないかなって、身体を休めたかったもんだから、避難所がないかなって探して、会津若松に地震のための避難所があるっていうのがわかったので、そこに行ってちょっと休んだりしてるんですね。
 その時に新潟ですごい大きな地震があったっていうニュースを聞いて、
「あれ?なんか・・・これは、どこに逃げたらいいのかわかんない」
と思ったんですね。
 っていうのは、1年前にプルサーマルが始まるときに、広瀬隆さんをお呼びしてお話を聞いたことがあったんですね。彼が言うには、
「とにかく『いろんなプレートが動く時期が来ている』って地震学者の人が言ってて、必ず大きな地震が起きる」
ってことを言ってたんですね。
 それは、東海地震を多分想定してられたんだと思うんですけれども、
「その大きな地震が起きたら、必ず地震・津波が起きて、そして原発事故が起きるだろう」
ということをおっしゃってたんです。そのことを思い出して、広瀬さんが去年の8月に書かれた『原発時限爆弾』という本を読んでたので、
「ちょっとこれは、どこに一体行ったらいいんだろう?」
とすごく考えてしまったんですね。
 それと同時に、まだ福島に残ってる人たちが居るし、伝えきれなかった友達っていうのがたくさんいるっていうようなことを思い立って、とにかく「戻ろうか」っていうことになったんです。会津若松でガソリンを満タンに入れて、そして一旦ここに戻ってきたんです。
 それが12日の午前中くらいにここに戻ってきたんですね。
 そして、また今度は電話も何も通じないような状況になってたんですけど、ラジオで第一原発が爆発したっていうニュースを聞いて・・・それで、
「あ、これはもうメルトダウンだな」
っていうふうに思って、その日の12日、それでもまだその日は居たんです。
 そして13日も居て、14日になって3号機が爆発したんですよね。
 3号機っていうのは、プルサーマルをやっている炉だったので、プルサーマルやってる炉が爆発したら、1号機とか2号機とは全く違う、ものすごい被害が起きるっていうふうに思ってたので、
「これはもうここに居られない」
というふうに思って、14日にまた荷物をいっぱい積んで、そして山形に向かって避難しました。
 ちょうど友達と福島で合流して、そのまま山形の天童っていうところに行ったんです。そのお友達が知っている家で、私たちは何の一面識もない方のお家に寄せていただいて、すごく親切にしてもらって、そこに1か月避難していました。
Q.原発事故について、どのような情報を得ていましたか?
 山形に行ってからは、まず毎日テレビにくぎ付けでした。普段テレビ見てないのに、一生分を見るくらいテレビを見続けました。毎日。それから新聞もいろんな社の新聞を買ってきて、それも読みました。
 そのうちやっぱりネットの環境をきちんとしようということになって、うちの連れ合いも新しいパソコンを買ったんだっけな?あの時。パソコンと友達のパソコンを4台位それぞれのパソコンで、いろんな情報を入れ始めたんですね。
 友達はたまたま私たち、放射能の測定器をたまたま貸してもらって持ってたんですね。避難してくる間もどこがどれくらいあるか?っていうことを記録してったりしたので、それを今度、ブログにして友達が発表しようっていうことになって、そういうことをずっとやってました。
 私は全くパソコンのキーも打てない人間なので、インターネットもやったことがありませんでした。
Q.おやりになったんですか?
 やりません。<苦笑>私はそばで
「これを出して、あれを出して」
って言って、いろんな、例えば福島県内の放射線の一覧表みたいなのとか、それからいろんなサイトで出してる福島原発の事故をずっと出してるサイトがあったりとか、そういうところを皆に頼んで出してもらったりしながら見てました。
 そうですね。
 マスメディアは、本当のことを言わないんだなっていうのがよく判りましたね。
 ある程度のことは報道しますけれども、発表されたものを報道するだけなので、それこそSPEEDIのこととか、爆発してメルトダウンしてたこととか、本当に後になって市か判らなかったですよね。
 でも、インターネットだと、『そうかもしれない』という情報というのは、常にあったので、
「どうなんだろう・・・?」
っていう感じで、両方見てました。
 すごくびっくりしたのは、どこかスウェーデンだったかな?そこで、放射能がどんなふうに動いていったかっていう、そういうシミュレーションの地図みたいなのをやってたと思うんですよね。風の向きだったかな、ちょっと忘れちゃったんですけど、それは、すごく驚きでしたね。
「あぁ、こういうふうだったんだ。えー!」
っていう感じで、それはもちろんテレビではやらないし、新聞にも載ってないし、そういう画面が驚きでした。
 今までここで暮らしてた時は、インターネットっていうのは全く無かったんです。やってなかったんですけど、そもそも電波が来ないんだっけ?電話でしかできないような状況だったので、やってなかったんですけど、最近なんだかこういう<笑>・・・、だからそれをやるようになってからは、ここで見るように。
Q.ここには引いてないですか?
 引いてないです。はい。
Q.ネットに触れてみてどうでしたか?
 情報量のすごさに目がクラクラするようでした<笑>
Q.大量すぎて?
 そうですね。でも、本当にいろんなサイトがいっぱいあって、ちょっとこういうのを知りたいなって思うと、それが出てくるっていうのが驚きでしたけど、やっぱりあまりにも大量で、どれを選択したらいいのか、どれを信じたらいいのか、それはすごく自分の中の尺度が必要だなって思いましたけど。
Q.原発事故が起きて思ったことは?
 事故そのものは、こんなにものすごい事故っていうのは、本当に衝撃的でした。
 特に爆発の映像を見て、ちょっと呆然とするくらい・・・でしたね。そして、1号機から4号機まで全部が損傷したってことは、何と言ったらいいか・・・、呆然とするようなことでした。
 この事故になったら、国はどんなふうに対応するんだろうということは、それは考えてはいたんですね。『いろんなことを隠すだろう』ということも思ってたし、それから、本当に『私たちが逃げるのを阻止されるんじゃないか』っていうのもちょっと考えてたんですけど、それは避難の時はなかったけれども、今になると、県内から外に流出するのをなんとか食い止めようとする、実際の柵じゃないけれども、『見えない柵』は張られているような、そんなことが起きていますよね、今ね。そういうことに、「そうかな」っていうふうには思っていたけれども、現実的に「やっぱりそうじゃないか」ってそういうふうに感じて、そのことはなんていうんだろう、本当に『ガッカリ』っていう感じですね。
 『見えない柵』というのは、まず事故が起きてすぐにものすごい安全キャンペーンが張られたんですね。ご存じのように山下教授という方がいらっしゃって、あちこちで『大丈夫だ、大丈夫だ』ということをずっと言って、そういうことを言っている間に、避難できる人はたくさんいたと思うんだけど、皆「やっぱり大丈夫か」ってとどまったっていうこともあると思うし、SPEEDIの情報が出なかったがために、飯舘村とか浪江地区とか、そういう深刻な汚染があったところの人たちも、避難するきっかけを失ってしまったっていうのがあると思うんですね。
 そういうところに『見えない柵』っていうのを感じますね。
 あと、もう一つは、県全体が『除染』っていう感じになってるんですね。除染はものすごく必要なことだとは思いますけれども、
「除染するから大丈夫だから、ここに居なさい」
という、そういうメッセージに聞こえます。
 除染は、限界があるというふうに思うんですね。私のところがこんな山の中にあって、木とか地面に落ちてる木の葉っぱとか、そういうところに放射能がたくさん降り積もっていると思うので、それを全部除去するっていうことは不可能だと思うし、ガンマ線って100mくらい飛ぶっていうことを聞きました。それで、1軒の家をやっても、その周りが除染しなければ、そこから飛んでくる放射能で、やっぱりそこの数値ってうのは下がらないと思うですね。だから、全体をやらなければならないということが一つあるし、除去した葉っぱだとか土だとか、そういうものを今度一体どこに持っていくかっていうことがあると思うのね。ただ移動してるだけに過ぎないというふうに思います。
 うちも草を刈ったんですけど、どうしようかと思って、ちょっと穴を掘って、そこに溜めるようにしたんですけど、実際そこに行くと、周りよりもずっと数値が高いんです。1.2くらい出ますかね。溜めてあるところに行くと。でも、他のところは0.4とかそんなもんなんです。そのくらいになります。
 あとは、汚泥とかありますよね。水の浄化、なんだっけ?浄水場の。
<地震が起きました>
あ、ごめん。怖い・・・。
これが来るのがもう嫌なのー<笑顔>
 えっと、浄化槽の汚泥の問題とかがあるんですけど、それを一体どこに持っていくのかっていうのも、すごく深刻な問題だと思ってます。
Q.今福島で起きている問題について
 まず福島市とか郡山市とか三春町も一部はそうなんですけど、線量の高いところがありますよね、1mSv以上とか、そういうところに子供がそのまま住んでいるっていうことが、すごく問題だと思います。
 なんとか安全なところに行ったほうがいいなと思います。
 ただ本当に家庭の事情がそれぞれあって、なかなか避難できないっていう状況も一方であると思うので、一概に「みんな逃げろ、逃げろ」って言っても難しいとは思うんだけれど、できるのであれば、やっぱり県外の線量の低いところ、福島県の中でも線量の引くところに行ったほうがいいなと思います。
 それが一つですね。
 それから、こんなにすごい事故が起きたのに、日本中の原発をまだ前廃炉にしようとしていないっていう、そのことにも・・・驚きというか・・・がっかりです。
 やっぱりこれだけの体験をして、なぜまだそれを推進しようとしているのか。野田首相がアメリカに行って、国連に行って、
「世界一安全な原発を作る」
なんて一体ほんとに何を考えてるんだろうと思いました。
 自分の国でこうなってしまったっていうものを、またほかの国に押し付けようとしてるわけだから、もっとタチが悪いんじゃないかなと思います。
 一つには、人口が流出していけば、産業が成り立たなくなるっていうのがあると思いますね。
 農業をやってる方々は、自分の土地から離れるっていうのは、ものすごく罪悪感があるみたいなんですね。先祖代々受け継いできた土地を手放すっていうことに対しては、すごく抵抗がある。
『農民は土地が無ければ生きていけない』
そういう想いがあるんじゃないかなって思います。
 あとは、とにかくこの土地にそのまま人が居続けることで、この原発事故は、
「なんだ、大したことなかったんじゃないか」
っていう、そういうふうな図式にしたいんじゃないかなっていうことも思います。
 ・・・人間って、やっぱり『元に戻りたい』っていう欲求ってすごくあると思うんですね。記憶合金のように元に戻りたい気持ちっていうのがあって、そこに『安全だ』っていうふうに言われれば、そこにすがって『居たい』っていうふうに思うんじゃないかと思うんですよ。
 でも、内心、どこかで何かしらの不安を持ってると思うんですね。でも、その『危ない、危ない』と言われると、そこの不安に直撃されるものだから、それを聞きたくないっていうふうに思って、前と変わらない暮らしをしたいっていう、そういうふうな思いってうのがあるんじゃないかなと思います。そういう人たちも居るんじゃないかと思います。
Q.今福島に留まっている人たちについて
 ある程度年代が上の方々は、
「自分たちは放射能の影響もそうはないだろう。それよりは、ここに居て今までと同じ暮らしがしたい。」
 もちろん愛着もあるだろうけど、そういう想いの方々もいると思うんですね。でも、子供が居らっしゃるお母さんたちは、お父さんもそうだと思うけれども、逃げたいっていうか避難して安全なところに行きたいって思っても、父親の仕事であるとか、母親の仕事であるとか、あと、おじいちゃん・おばあちゃんがここに居るということで、其のはざまでなかなか避難を決意できないって、そういう人たちもたくさんいるんじゃないかというふうには思ってます。
 ときどき若いお母さんたちの話とか聞くんですけど、そういう人たちも不安に思ってない人は誰一人居ないんですね。みんな心配なんです。
 でも、やっぱり行けない。
 もう大体、行ける人はもう避難してしまったんじゃないかなっていうふうに思うんですよね。
 でも、『不安だけれども、まだここに居ざるを得ない』っていう間ですごく苦しんでる人たちがたくさんいると思います。
 でもそこをちょっと背中を押すと、決意して避難して行かれるっていう方も、ポツポツトは居るんですね。そういういろんな避難のためのプロジェクトがいくつか出来ているので、そういうところで皆繋がっていければ、また新しい道を探すっていうこともできるんじゃないかなと思うんですけど。
 あとは、私の場合は、87歳の母親が居ますので、彼女をどこか新しいところに連れて行って、そこで生活をさせるというのは、彼女にとってはすごく酷なことなんじゃないかと思ってるんですね。たまたま私のいとこのお姑さんは、避難区域になってしまったので、広野町というところから会津の方に移ったんです。そこで認知症を発症してしまったんですね。徘徊が始まってしまって、入院して、その病院でそのまま亡くなってしまったんです。
Q.3.11の後?
 3.11の後です。
 そういうことも聞いているし、あと1か月の母の避難生活の中で、今までの日常生活と違うから、いろいろ我慢しなきゃならないこともあったし、椅子に座っていたのを、今度お座りしなきゃなんないとか、そういう細かい暮らしのスタイルのこととか違ってくるので、段々ちょっと体調が悪くなって、足腰が痛くなったりとか、精神的にも家に帰りたいっていう想いが、段々積もってきたみたいだったんですね。
 それで思い切って、母とともに帰ってきました。
Q.ご自身が留まっていることについて
 私自身も、本当はこの放射能汚染の地で生きるのは嫌ですね。
 っていうのは、健康被害、全く無いとは言えないかもしれないけど、それはさほど心配ではないかもしれないけれども、生活がおもしろくなくなってしまうんですね。
 例えば、そこいらに生えている山菜とか野草とか、木苺とかそういうものを採ってきてジャムを作ったり食べたり、そういうことができないし、薪ストーブの薪もね、焚くと放射能がそこから拡散していくし、灰に溜まるし、それで薪ストーブは使えないというふうに思ってるので、そういうことを考えると、ここで暮らしててもつまらない、すごくつまらないって思うんです。
 だから、運動は別ですけれども、生活としてはここで生活するってことは自分の思った生き方ではないなというふうには思っています。
 どこかちょっとわからないですけれども、どこに行くかは・・・。やっぱり・・・エネルギーをあまり使わないというか、大事に使って・・・できたら自然の採取ができて、ささやかでもいいから食べ物もちょっと作って、ひっそりした暮らしがしたいですね。
 自分が思うような暮らしができるところであれば、福島でなくてもいいなって思ってます。
 どこに移住したとしても、その近くに日本は狭いから原発があると思うんです。原発事故を影響を受けるところっていうのは、日本中そうだと思うんですね。だから、やっぱり日本中の原発を、まず止める。それが大事かなと思ってます。
 私は多分どこに行っても、そういうことをやりたいと思うし、福島県の中に、今は居ますし、今いる限りできる限り、原発を止めることを自分なりにやっていきたいなっていうふうに思ってます。
Q.福島に今住んでいる人たちについては?
 難しいよね・・・。
 子供とか若い人たちは、福島には居ないほうがいいと思ってます。
 でも、ずっとここで生まれ育ってきた人たちで、ここに残りたいと思う人たちも居られると思うので、そういう方々は、健康に留意しながら、ここで暮らせるように、何かそういう対策ができればいいなと思います。
 いや、でも判らない。私、そのことについて、あんまりよく、考えられないですね。どういうふうにしたらいいのかは。このこととごみのことに関しては、本当にわからないですね。
Q.『ゴミのこと』とは?
 放射性の廃棄物ですね。瓦礫だとか汚泥だとか、剥いだ表土とか、そういうものを一体どこに持っていくのか、どこで永久保管していくのか、そういうことに関してどう考えたらいいのか、すごく難しい問題で、それは本当に皆が本気で、日本中が本気で議論しなくちゃならない問題だと思っています。
 だから、私はわからない・・・。どうしていいかわかんないです。
Q.脱原発活動について
 私たちは、25年前から『脱原発福島ネットワーク』というゆるい繋がりの中で、福島県内の原発問題を考える人たちの集まりがあったんですね。そこで反対運動をやってきたんですけれども、福島原発が第一原発の1号機が40年をむかえるということで、プラントとしての寿命は終わるわけですよね。
 ところが、国が10年延長を許可して、更に10年動かすということになったんですね。でも、福島第一原発は本当に老朽原発で、いろんな配管のヒビだとか、そういうことがどんどんわかってきて、とにかくすぐ止めなければならないような原発だったんですね。
 それで第一原発をなんとか止めて、廃炉にして、そして原発無き後の私たちの暮らしのビジョンというかね、地域社会のビジョンみたいなものを皆で考えていこうということで、『脱原発福島ネットワーク』が新たに立ち上げたのが、『ハイロアクション
』だったんです。それは、私たちの脱原発運動っていうのは、段々それこそ老朽化してきて、皆50代くらいになってしまったので、やっぱこういう運動を若い人たちになんとか繋げていってほしいなと思っていたので、若い方々が入ってきやすいような、そういうふうなものにしたいっていうふうに考えてたんですね。
 それで名前もカタカナで『ハイロアクション
』っていうふうにしたんです。
 それで、40代、30代くらいの方々がたくさん入ってきてくださったんです。それで、実行委員長も事務局長も、みんな若い世代にやってもらおうっていうふうに決めました。私たちはサポートに回ろうというふうに決めて、そして一緒にやっていく中で伝えらえることがあるだろうし、新しい世代に私たちが教えられることもあるだろうというふうに思って、そういう意味で作ったのが、『ハイロアクション
』です。
Q.なぜ行動を起こそうとしたのですか?
 最初は、やっぱり原発事故が起きると放射能が噴出されるということですね。放射能っていうものがどういうものかっていうことを知ったんですね。その放射能がいろんな病気を引き起こしたりだとか、そいうことがすごく怖いっていうふうに、最初思いました。
 段々、その運動に関わっていくにしたがって、原発っていうものが、とにかく被曝っていうものなしでは成り立たないっていうことが判ってきたんですね。
 最初に燃料を掘るところから、まずウランを採掘する人たちが被曝するわけですよね。そして、その燃料を生成して、劣化ウランというものができて、その劣化ウランが爆弾になって、それがアフガニスタンとかイラクで使われたりっていうことがありますね。
 それから定期点検、1年に1回ある定期点検というものでも、必ず労働者が被曝しなければできない。
 そして事故になれば、たくさんの市民が被曝する。
 そして更に今度は、発電の後に必ず使用済の核燃料、核のゴミが残るわけですね。
 そういうことを考えると、被曝を必ずしなければできない発電方法だということと、すごく差別的なものだということが判ってきたんですね。
 まず最初にすごく貧しいところに原発っていうものは作られるし、それから労働者もほかに働くところがないから、原発でしか働けないという人たちが多いですし、そういうところで差別っていうものが、すごくあるものだなっていうふうに、そういう社会構造みたいなものが見えてきました。
 それから、原発によってすごくお金を儲ける人たちが居るんだっていうこともわかってきましたね。そういう人たちが、お金を儲けるために犠牲になってる人たちがたくさんいるっていう、そういう構造も判ってきました。
 そうですね・・・。
 事故が起きた時、
「あぁ、間に合わなかった・・・!」
っていう想いですね・・・。
 すごく、悲しかったです・・・。
Q.これからの活動について
 一つは、『ハイロアクション』の仲間は、子供さんが居る方がたくさんおられたので、皆ちりじりになってしまったんですね。あちこちに。それで、そういう人たちが集まってできるアクションがやりたいっていうふうに思ったんです。
『皆それぞれの場所で最善を尽くして生きていこうね』
って約束してたので、皆が集まってできるアクションをやっていきたかったんですね。
 それで考えついた一つが、『女たちの座り込み』です。
 これは、東京の経済産業省前で福島の女100人で座り込みをしようというようなことを考えています。そして、全国に呼びかけたら、どんどんエントリーしてくださる方が居て、相当な数に膨れ上がるのではないかというふうに思っています。
 それと同時に、ハイロアクションでは、今月末に合宿をやるんです。線量の低いところを選んで皆で集まって、これからのことを考えていこうねっていうふうにしています。
 たくさん考えなければならないこともあって、もちろん避難のことだとか、それから一番大きなのは、放射性廃棄物の問題なんですけど、そのことをどういうふうに考えていったらいいかということを、とことん皆で話し合いたいなっていうふうに思ってます。
 そこから、
「じゃあ私たちがこれからやっていけることって何だろう」
っていうことを考えて、それも何かのアクションに結び付けていけたらいいなというふうに思っています。
 今回始めた時には、とにかく100人の女を集めようっていうことで、まだ100人にも達してないんですけど、私たちの想いとか、怒りとか、そういうものをとにかく聞いてもらいたいっていうことと、『女は原発とは相容れないんだ』というところでやっていきたかったんですね。そして、いざ、ブログを作って、皆にメールで回して呼びかけたら、どんどん参加したいという方がいらして、大阪は大阪で座り込みをやるっていうことを聞きましたし、海外でも集まってくれるっていうことははっきりわからないけど、耳にしてるんですね。
 日本中、世界中が、『女の生き方と原発は相容れないんだ』ということに気が付いて、みんながそういう想いを持ってくれれば、それでいいなと思うんです。
 直接のアクションが、即原発を止めるっていうことになるかどうかは、わからないけれども・・・その想いというか、
「私たちは止められる、変わっていけるし、そういう力がそれぞれにあるんだ」
っていうことを皆自分の中に思ってくれればいいし、そして、繋がっていけるっていうか、連帯していける、女であるということで連帯していける・・・男の人を排除するという意味ではもちろん全然ないんだけれども、女であるというところで、繋がっていけるっていうことを実感していけたら、それでいいなっていうふうに思っています。

Q.女と原発のイメージとは?
 イメージですけれども、『原発』って、大きいし・・・、堅いし、なんか爆発力を持ってるし。けど、そういうものに、それに象徴されるものっていうかね、うまく言えないな・・・。その原発と女が持ってる柔らかさとかたおやかさとか、多少いい加減さとか、『なんとかなるさ』みたいな朗らかさとか、そういうものってどっか対比してるんじゃないかなと思います。
Q.6万人デモでのスピーチについて
 6万人スピーチは、たまたま私に回ってきたものだったんですね。
 でも、お話があった時に考えたのは、福島県でたった一人話ができる機会があるわけですから、なるべく福島県の人たちが、今感じていることとか考えていることを何とか代弁できたらいいなと思いました。
 震災後福島に戻ってから、いろんな人にあって、いろんなお話を聞く機会があって、そういう一言一言が頭に残っていたんですね。
 その頭に残っている言葉を紡いでいったら、あんなふうな言葉になっていったんですね。
 スピーチで言いたかったのは、
『これは福島だけの問題じゃないよ。日本中の問題なんだよ。そのことを日本中で忘れないでほしい』
っていうことが一つ言いたかったのと、それから、
『私たちが本当に何気なく暮らしてきた中で、何気なく使っているエネルギーっていうのは、一体どこから来て、どんな犠牲がその下にあったのかっていうことに、もう一回考えなくちゃいけないね。そのことを考えなくちゃいけないね』
っていうことも言いたかったですね。そして、
『原発に代表されるような、そういう社会っていうものを、私たちは今変えていかなきゃならない』
っていう想いと、
『変えていくのは本当に一人一人なんだっていうこと。その一人一人っていうのは、皆、「私なんか・・・」っていう、こういう社会だったと思うんですよ。自分の中に自信っていうものを本当に失わされてきたという社会構造があったと思うので、それを今、取り戻していこうよ』
っていうことを言いたかったんです。
『皆、もともと明晰な頭脳を持っているし、すごく愛情深い心を持っているし、それ思い出そうよ』
っていうことを言いたかったんです。
Q.自分自身を取り戻すとは?
 何年か前なんですけど、電通ってありますよね。電通に『消費をさせるための10か条』というのがあるんですね。それを何かで読んだんです。
 それは例えば、
『飽きさせろ』
『流行遅れにさせろ』
『セットで買わせる』
『混乱を作り出せ』
とか、いろいろ市民の消費を煽るための戦略が書かれているものだったんです。
 それを読んで、猛烈に腹が立ったんです。
「私たちってこんなに馬鹿にされて生きてるんだ」
って。
「消費っていうのは、自分が欲しくて買っているようだけど、実はそうじゃなくって買わされていたんだ」
っていうことに気が付いたんですね。
 ほんっとに猛烈な怒りだったんです。自分の中で。
「そういうものに乗せられて生きるのは、もう嫌だ」
ってものすごく強烈に思って・・・、何ていうのかな・・・。私たちって自分の意思でやっているように見えることでも、実は社会からとか、学校から、それからメディアから、いろんな押し付けをされてきて、抑圧されてきて、そういう中で自分の生き方みたいなものを方向付けさせられていた、みたいなそんな感じを持ったんですね。
「絶対に自分の生き方で生きてやるぞ!」
って思ったんですね。その時にね。
 ということは、やっぱり原発に依存する社会っていうものも、私たち、気が付かないうちにそういう方向にさせられてきたっていうことがあると思うんですね。やっぱそこに気が付かなくちゃいけないと思うのね。
 それに気が付いて、自分の人生の主体というか、『生きる主体は自分である、生きる主人公は自分である』っていうふうなことを思い起こす必要があると思うんです。
 それには、自分の頭で考えることですね。
 誰かの意見とか、誰かの考えに従うことじゃなくて、ほんとに私なんかそんなに頭よくないから、ほんとに頭を絞って絞って、自分で考えること。そして、自分で決めること。そして、自分で行動すること。
 そういうことがすごく大事かなと思ったんです。
 そのことが社会を変えていくことにつながっていくというふうに思うんですよ。
 そうすることによって、原発っていうものがどういうものかっていうのが、また違う視点で、それぞれに見えてくるんじゃないかな?って思います。
Q.今後について
 3.11以来、世界は変わったって思うんです。
 それは、本当に大きな犠牲を伴ったけれども、でも私たちはそれによってものすごくたくさんのことを考えたし、たくさんのことを感じたし、体験したと思うんです。
 そこから新しい世界を作っていかなくちゃならないというふうに思うんですね。
 それをやるのは、政治でもなければ、ま、政治家もしれない・・・。それをやるのは、一人一人だと思います。『全員が世界の当事者だ』っていうふうに思います。
 女も男も自分の力を取り戻して、自分たちが生きる社会っていうのを自分で作る。そういうふうに思って、皆で手をつなぎながらやっていければいいなと思うんです。
 前にある人に聞いたことなんですけれども、海の干潟っていうのがあるでしょ?その干潟っていうのが、潮が満ちるときは、ずーっと向こうから波が押し寄せてくるのではなくて、最初に小さな水たまりができるんです。水たまりが段々広がって、ある瞬間、それがブワーッと一面につながるんだそうなんです。
 そういうイメージってすごく良いなと思うんです。
 やっぱり自分の足元の水たまりを広げていくっていうことが、大事かなと思います。
 自分の隣に居る人と、それを語り合って、この新しい社会を作るにはどうしたらいいかっていうことを語り合って、そしてそこから段々広がっていって、それで一気に繋がって新しい世界が生まれてくればいいなと、私は思います。
【以上】

6万人デモのスピーチを再掲いたします。


みなさん、こんにちは。
福島から参りました。
今日は福島県内から、それから避難先から
何台もバスを連ねてたくさんの仲間と一緒にやって参りました。
初めて集会やデモに参加する人もたくさんいます。
それでも
「福島原発で起きた悲しみを伝えよう」
「わたしたちこそが原発いらないの声をあげよう」と
声を掛け合い、誘い合ってやって来ました。

はじめに申し上げたいことがあります。
3.11からの大変な毎日を
命を守るためにあらゆることに取り組んできた
みなさん、ひとりひとりに
ひとりひとりを深く尊敬いたします。

それから
福島県民にあたたかい手を差し伸べ、つながり
様々な支援をしてくださった方々にお礼を申し上げます。
ありがとうございます。

そして、この事故によって
大きな荷物を背負わせることになってしまった
こどもたち、若い人々に
このような現実を作ってしまった世代として
心から謝りたいと思います。
本当にごめんなさい。

さて、みなさん。
福島はとても美しいところです。
東に紺碧の太平洋を臨む浜通り。
桃、梨、りんごと、果物の宝庫の中通り。
猪苗代湖と磐梯山のまわりに黄金色の稲穂がたれる会津平野。
そのむこうを深い山々が縁取っています。
山は碧く、水は清らかな、わたしたちのふるさとです。

3.11 原発事故を境に
その風景に目には見えない放射能が降り注ぎ
わたしたちは被曝者となりました。

大混乱の中で、わたしたちには様々なことが起こりました。
素早く張り巡らされた安全キャンペーンと不安の狭間で
引き裂かれていく人と人とのつながり。

地域で、職場で、学校で、家庭の中で
どれだけの人が悩み、悲しんだことでしょう。

毎日、毎日、否応無く迫られる決断。
逃げる、逃げない。
食べる、食べない。
こどもにマスクをさせる、させない。
洗濯物を外に干す、干さない。
畑を耕す、耕さない。
何かにもの申す、黙る。
様々な苦渋の選択がありました。

そして今
半年という月日の中で次第に鮮明になってきたことは
事実は隠されるのだ。
国は国民を守らないのだ。
事故は未だに終わらないのだ。
福島県民は核の実験材料にされるのだ。
莫大な放射能のゴミは残るのだ。
大きな犠牲の上になお原発を推進しようとする勢力があるのだ。
わたしたちは捨てられたのだ。

わたしたちは、疲れと、やりきれない悲しみに 深いため息をつきます。
でも、口をついてくることばは
「わたしたちを馬鹿にするな」
「わたしたちの命を奪うな」です。

福島県民は今、怒りと悲しみの中から、静かに立ち上がっています。
子どもたちを守ろうと母親が父親が、おじいちゃんがおばあちゃんが。
自分たちの未来を奪われまいと若い世代が。
大量の被曝に曝されながら事故処理に携わる原発従事者を助けようと
労働者たちが。
土地を汚された絶望の中から農民が。
放射能による、新たな差別と分断を生むまいと、障害を持った人々が。

ひとりひとりの市民が、国と東電の責任を問い続けています。
そして「原発はもういらない」と声をあげています。
わたしたちは静かに怒りを燃やす、東北の鬼です。

わたしたち福島県民は
故郷を離れる者も、福島の土地にとどまり生きる者も
苦悩と責任と希望を分かち合い、支え合って生きて行こうと思っています。

わたしたちとつながってください。
わたしたちが起こしているアクションに注目をしてください。

政府交渉、疎開、裁判、避難、保養、除染、測定、
原発・放射能についての学び。
そしてどこにでも出かけ、福島を語ります。
今日は遠くニューヨークでスピーチをしている仲間もいます。
思いつく限りのあらゆることに取り組んでいます。

わたしたちを助けてください。

どうか、福島を忘れないでください。

もうひとつ、お話ししたいことがあります。
それは、わたしたち自身の生き方、暮らし方です。

わたしたちは
何気なく差し込むコンセントの向こう側を想像しなければなりません。

便利さや発展が、差別や犠牲の上に成り立っていることに
思いを馳せなければなりません。

原発はその向こうにあるのです。

人類は地球に生きる、ただ一種類の生き物に過ぎません。
自らの種族の未来を奪う生き物が、他にいるでしょうか。

わたしはこの地球という美しい星と調和した
まっとうな生き物として生きたいです。

ささやかでも、エネルギーを大事に使い
工夫に満ちた、豊かで創造的な暮らしを紡いでいきたいです。

どうしたら、原発と対局にある新しい世界を作っていけるのか
誰にも明確な答えは分かりません。

できうることは
誰かが決めたことに従うのではなく
ひとりひとりが、本当に本当に本気で自分の頭で考え
確かに目を見開き
自分ができることを決断し、行動することだと思うのです。

ひとりひとりにその力があることを思い出しましょう。
わたしたちは誰でも変わる勇気を持っています。
奪われてきた自信を取り戻しましょう。

原発をなお進めようとする力が垂直にそびえる壁ならば
限りなく横に広がりつながり続けていくことがわたしたちの力です。

たったいま隣にいる人とそっと手をつないでみてください。

見つめ合い、お互いの辛さを聞き合いましょう。
涙と怒りを許し合いましょう。
いまつないでいるその手のぬくもりを
日本中に、世界中に広げていきましょう。

わたしたちひとりひとりの背負っていかなければならない荷物が
途方もなく重く、道のりがどんなに過酷であっても
目をそらさずに支え合い
軽やかに、朗らかに生き延びていきましょう。

【終わり】
http://bochibochi-ikoka.doorblog.jp/archives/3073422.html

失礼します。
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