※この記事は、12月15日 【内容起こし】IWJ百人百話 第27話 高村美春さん【前半】に関連しています。

【動画】12月16日 百人百話 第二十八話 黒田節子さん
http://www.ustream.tv/recorded/19180113 (48:24)

【以下、お時間のない方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2011年10月14日収録
 黒田節子といいます。
 61歳になったところです。
 出身は、福島県内の只見町っていうところで、会津のずっと奥の方です。そこで生まれ育って、現在は郡山に暮らしています。
 郡山市の自治労っていう事務所があるんですけど、そこでパートとしてこの春から働いています。
 仕事は主に時間の多くは隔週で出してます。自治労かわら版っていうものをこの春から私は勝手に命名してやったんですけども、組合らしくないニュースペーパーを出しているということで、楽しみながら作ってますけど、肩書としては書記ということになるかと思います。
 震災前の4年間は、郡山市の臨時の保育士として保育所で丸4年間働いていました。
Q.3月11日震災当日
 勤務時間中にグラグラっときまして、それで子供達はお昼寝が終わってですね、おやつの時間の前でしたね。それでグラグラっときまして、その時のことを思いだしますと、グラグラっときたので、大変だということで子供たちを抱えてですね、??室のテーブルの下に頭隠して尻隠さずでしたけども、小さいテーブルですから。
 子供を抱きかかえるようにして、とりあえず入りましたね。あの時は。
 結構長かったですからね。揺れが。
 子供たちも、なんだかすごい・・・話には聞いてたんですけど、子供ってやっぱりあまりの恐怖に遭うとどういうことになるかっていうと、おしっこもらすんですね。それは聞いてはいたんですけど、初めてで、何人かの子供がジャジャジャジャっと。
 私たちもそういうのを見て初めて・・・、
「なんか、すごい大変だ」
っていうことになって、そうこうするうちにママたちがどんどん迎えに来ました。
「自分の子は大丈夫かな」
って。
 それで順番にママたちが青い顔して、形相変えて迎えに来ました。
 本当に必死のママたちの動きでしたね。あの時。<涙されています>
 もちろん怖かったです。
 怖かったけど、やっぱり子供がいっぱいいるので、「どうしようか、子供たちをとにかくどうしようか」っていうことで、一番大きな部屋にみんな集めまして、毛布をかけたりして、子供たちがとにかく落ち着かせることが大事ですからね。
 それで建物自体は、被害は特になかったんですね。モノが落ちたりしたくらいですけれども。

Q.3月11日の自宅の様子
 団地、私は団地の1階に住んでるので、もしかして・・・、あ、確か電話を掛けような気がしました。夫もその日家に居るときだったので、潰れないでいたということは、すぐわかったんで。
 帰ってみたら、一見建物はそのままでしたけど、中は惨憺たる状況でしたよね。
 冷蔵庫は飛びあがって動いたっていうし、本棚なんかもがしゃっとなってました。
 そうこうするうちに、停電と水が止まり、ガスが止まりで、とりあえず水をくみましたね。翌日、飲み水。お風呂場にはちょっと残り水がたまたまあったので、それでトイレは流せたんですけど、飲み水がとにかく無かったので、朝から市の公園で。
 もうあれは長蛇の列で、あの時も私はもうすでに放射能は飛んでるなと。天気がとても良かったんですけれども。
 あの時はつくづく思ったのは、あの時障害者の人たちとかね・・・、外に出ることが出来ない人とか・・・、母子家庭も結構多いんですけど、母子家庭の小さい子供を抱えたママは、1時間2時間じゃないんですからね。何時間も並ぶわけですよ・・・。<涙されています>
 大変な思い・・・をしたと思いますよ・・・。本当に。
 だから、あの時の光景は割とよく覚えてますけど、とってもいい天気で青空でしたね。
Q.3月14日一時的自主避難
 13日、14日に私はやっぱりまずいということで、汚染が怖いということよりも、「こうやって水で半日も並ばなくちゃいけないのは、とっても生活できない」っていうことで、そっちのほうの原因の方が大きかったような気がするんですけど、とりあえず「こんなとこに暮らしていけない、水がなきゃ」ということで、脱出しました。夫と二人で車で。
 群馬県の高崎市に私の妹が有機農業をやってるので、割とスペースがあるので、とりあえずそこに避難しました。
 高崎の妹たちのところに、結局10日間しかいなかったんですね。
 「しか」なんですけども、居心地はとても良かったんです。おいしいん野菜をたっぷりいただいて食べさせてもらったりして。
 それで、たまに農作業を手伝ったりしてすごさせてもらって、とても良かったけど、なぜ引き続き避難の全くの一時的救急避難のつもりで行ったこととか、やっぱ仕事のこととかですよね。
 何もしないわけにいかないですよね。居心地良いといっても。
 そんなことで、ただ情報としてはメールは有効でして、パソコンだけは持って歩いてたんですけども、やっぱりなんて言うか、原発の脱原発があちこち動いてるんですね。活発に。『私はここに居る』とか、『あっちに行った』とか、そして小出さんなんかは素早くね、情報を流してくださってて、そういうのも間接的に伝わってきていたし、うーん・・・。
 今思うと、あれは相当、当時高かったですよね。こっちも放射線量っていうのは、1.どのくらいあったのかな・・・。11日以降、3月末くらいは1.2近くはあったんじゃないですかね。1.6,7,8くらいは多分あったと思うんですよね。
 とても暮らしていける数字ではないにも関わらず帰ってきたのは・・・やっぱり生活っていうことの大きさですよね。今思うとね。やっぱ生活基盤というものは何年もかかってやっと築き上げてきたものだし、人間関係っていうのも一気に・・・。無くなるのは一気にかもしれないけど、それはとっても惜しいものですよね。
「できればそうしたくない。」っていうようなことだとか、あったと思います。やっぱ仕事が大きかった。
Q.職安通い
 保育所のほうからも再開するという連絡が入ってきて、それで何日か3月の末に出勤をしたんですね。
 でも、3月30日、あと2日しかないという時点で、
「4月からあなたもういいです」
ということで言われちゃいまして、解雇理由はですね、正式な理由は、私たち臨時っていうのは1年契約ですからね、悲しいことに。そういうことは毎年あるわけなんです。
『解雇期限切れました』
それだけです。
 だけどね、中身を言えば、一つはこの震災で子供たちがもう、少し減っちゃった・・・。一時的であれ、ちょっと避難したと。職員も当然少し削る必要がある。
 今は結構郡山レベルでは落ち着きましたけども、一杯避難の方が仮設に避難されてきたときに、ちょうど私も職安通いが始まってですね、あの時の印象もまた強烈だったんですよ。
 もうあっちの原発立地町村の方が郡山市のあたりに、どっと来たわけですよ。職を失って。そして私が一緒に職安に行くことになってですね、もう座るところが無くて、立ったまま待ち時間、手続きにね。朝行って夕方帰るっていう状況でしたね。
 本当になんて言うか、正直言って『偉いときにぶつかった』と思ったんですけども、もう人いきれむんむんで、もちろんあちらのハローワークの職員の方ももう大変で、全国から応援の人が来てるという状況でしたけど、それで本当に大変で。
 待ち時間が長かったので、時間つぶすためにしゃべるんですね。たまたまそこになった人と。
 そうすると、大体どこから来た人かっていうことが判ってですね、一つの思い出じゃないけど、やっぱ原発のあるところから来たお母さんと若い娘さんと、ちょっと話すようになって、たまたま一人で立ってたんですけど。
 原発の話になると、泣きながらお母さんがね、訴えてましたね。
 娘さんにほうは、なんか気丈に頑張っていたけど、
「原発のせいでこんなことになったんだ。悔しくてしょうがない」
って話してました。そう思うと、その気持ちは・・・多くの人がそうだったと思います。あそこから来てる・・・、全く知らない町に突然連れてこられて、ハローワークがどこにあるとか、郡山の地形とかもよくわからない人ばっかりだったと思うんですね。もちろん知ってる人も居たかもしれない。
 病院がどこにあるかわからない、地理的に。『あれはどこにあるの?』って私の知ってる限りのことはいろいろお話したりして。
 そんなハローワーク通いでして、でも月を追うごとに、それが段々落ち着いてきたっていうか、人が少なくなってきて、あの人たちは、今頃どういうふうに落ち着いたのかななんて。
 私、まだ通ってまして、今は平常通りですね。ハローワークは。
「あのお母さんたちはどうなったかな」
なんて、よく思い出します。
Q.1970年代からの原発運動との関わり
 私は原発問題だけをずっとやってきたのではないんですね。
 生活ももちろんあったし、田舎暮らしに憧れて、もともと田舎出身なんだけど、都会暮らしをやったあと、やっぱり田舎暮らしをしたいみたいなことがあって、農業も長かったですね。それで、基本的には、人が人を傷つける方法だとかやり方とかね、システムには反対というようなことはあったねですけども、その中のひとつとして原発問題はありました、ずっと。
 『ずっと』っていうのは、チェルノブイリが86年ですから、80年、70年代後半・・・、私の年が判っちゃいますけど、70年代後半から、私の周りには原子力、原発問題を一生懸命やってた人がいまして、関西にいたもので、関西は割と市民運動というか、そのことを一生懸命やってたグループがあったんです。そういう人と通信を定期的にしてたりして、情報としてはありました。
 そうして、再処理は六ヶ所村に再処理工場ができちゃいましたけども、実はその前に徳之島に有力候補としてあったんですね。その頃私は、奄美大島っていうところで、まぁなんて言うか、半農半漁の生活を若い仲間たちと一緒にやってまして、奄美本当のすぐ隣です、徳之島っていうのは。
 そういう計画が急に浮上して、反対するために徳之島に通ったりなんかしたことはありますね。援農に行ったり、さとうきび。
 そんなことも30年前になりますけど、ありました。
 美しい島に、とてつもないものができようとしてるっていう状況っていうのは、やっぱり・・・奄美大島でもそうだったんです。徳之島に限らず。奄美大島では再処理ではなかったんですけど、石油備蓄基地っていうものを、それこそ小さな徳之島よりずっと小さな島ですけど、無人島を平らにしちゃって、そこに日本本土は一杯消費地ですから、そこの生活を支えるためにその備蓄基地、でっかいやつをドンドンと作る計画がパッと出たんです。
 だから本当に僻地がとても狙われてるっていうか、僻地っていうのとあれなんだけど、美しいところほど都会の便利な暮らしを支えるためにいつも狙われてるシステムっていうのは、よく見える経験をしました。
 そんなこともありながら、子供は一人そのとき出来まして、体調を壊しましてですね、ちょっと里心がついたというか、会津に帰ろうっていうことになりまして、それはちょうど1986年で、チェルノブイリの年だったんです。帰ってから事故があったんです。春先、まだ雪がいっぱいあるとこなんですけど、只見に帰りましたから。
 その時に帰った直後に、3月に帰って4月に事故があったんですね。
 それで、いつも原発のことは頭にあったわけでは全くないんですけど、それが再び原発と出会う、また出会ってしまったという感じがしました。
Q.1986年福島原発の建設とチェルノブイリ原発事故
 福島原発も、ちょくちょくと私は会津に帰ったころは建設がされていたんですね。そのことは実は自分の故郷であるのに、私は全く知らなかったですね。当時。
 建設当時は私は全然多分居なかったんだと思います。ただ、チェルノブイリ以降、ここ郡山なんかを中心に、いろいろ集会やらありまして、子供、まだ幼稚園ぐらいを引き連れて、何回かここの集会と合流して、或いは浜通りの原発現地の辺りを歩いたりして、そういう経験は何回かありまして、でも、チェルノブイリ後のこととはいえ、やっぱり他人事でしたね。今から考えると。やっぱり他人事でしたね。ピクニック気分がやっぱあったと思います。
 あの時は母乳に出ましたからね。日本のお母さんたちのおっぱいに。
 だから本当に、なんかこう、ユートピアを望んでね・・・<涙されています>居た事実があったんですけども、なんか世界中・・・汚染されてしまったという想いを強く持ちました。
 やっぱり他人事っていうか、チェルノブイリを経験はしたんだけれども、それは全く自分のことではなかったし・・・今とは全然違いますね。それは。気持ちの持ち方が。
Q.今も福島に住む娘と孫のこと
 今は娘一人がいまして、28かな。孫が二人おります。
 孫はね、5歳と3歳かな?3人目がお腹に今居るんですけど、会津でもね、やっぱり放射線値は3倍から4倍ですからね。0.04~5マイクロシーベルト/時なんですよ。平常時がね。
 ところが今会津では、0.2マイクロシーベルト/時です。大体。前後はもちろんあります。
 ということは、4,5倍なんですね。郡山の場合では、今すこーしずつ下がってきてるとはいえ、0.8~9マイクロシーベルト/時です。
 ですから、会津に避難するにしてもそれくらいで、ずっと低いんですけど、それだって平常値ではないので、私は3人目の孫、或いは今時々会いに行くんですけど、本当に子供を家の中に閉じ込めておけるなんてことはできないですよね。元気に田舎でいっぱい走り回って育つわけですから、本当に心配です。砂利を遊んだり、土いじりしたり・・・。
 でもやはり避難するっていうわけには、なかなかいかない状況でね。家を建てたばっかりで親もいて、仕事のこととか。
 だから郡山の若いママたちの苦しみは、本当にそのまま私の娘たちの・・・<涙されています>困難なんですよ・・・。
 とにかく、一番先にやらなくちゃと思ったのは、月に1回くらいは孫を連れて遊びに来てくれてたんですね。それはとにかくダメになっちゃったねって、本当にそれは・・・。
 私たちにとっても悲しいことなんだけども、
「子供を連れて来ない方がいいよ」
っていうことをまず言いました。
Q.6月11日郡山市・デモ行進
 そんなこんなで、原発問題をやらざるをえなくなったというか。
 6月11日に、3か月後ですか、ちょうど。郡山でデモ行進をやりました。実行委員会作って。
 それで、いろんな意見がありましてね、『被曝しながら外での行動はどうか?』っていう意見も、同じ仲間内からもありましたね。確かにそうなんですよね。夏ごろは今よりはもっと高かった、1.0マイクロシーベルトとかあったかもしれません。
 そんなことで、むしろやるって言っても、『行進やるっってことによって、「なんだ、大丈夫なんだ?外に出てこんなことやっても大丈夫なんだ」って、人に思わせることになるかもしれないから、それには反対だ』っていう意見もあったんです。
 そのへんで白熱した論議があったんですが、私はじめ何人かは、ここでとにかく暮らしているわけですよね。いずれどこかに行くかもしれないけれども、暮らしている限りは、やっぱり声を挙げたいっていうことですよね。じっとしてるわけにはいかない。
 放射線のことだけ、自分の健康のことだけ考えれば、確かにじっとしていたほうがいいんだけど、だったら、それだったら、どこかに行っちゃったほうが一番正解なわけですよね。ここに暮らさざるを得ない私たちは、やっぱり声を挙げたいということが多数の意見だったので、やったんですけどね。
 雨もちょっとあったんだけどやりまして、思わず多くの人が集まってくださって、イラク反戦のときでもこんなにはなかったという。
 あの時、天気も12時に始めるんだったんですけど、その直前まで雨降ってたんで、
「ちょっと雨だからどうかな」
と思ってたんですけど、思わず集まってくださいました。市内から。
 主催者発表で、500人。とても元気にやりました。いまどきのあれ、いいですね。若い人、太鼓叩いて。
Q.ドーナツ現象
 やっぱりね、ネットの時代なんですね。
 今全国からすごいですよ。反響がありました。とても熱いメッセージとか、「行くからね」っていうのもあるんでね、それはすごい良いです。
 ところが、やっぱり地元で私たちの力量も足りなくて、紙による直接の訴えもなかなかできないというようなこともあるんですけど、どうも一番情報を持っていなくちゃいけない、動かなきゃいけない郡山市民、或いは福島市民、福島の人たちとかが一番半農が鈍いというか、無いです。
 ドーナツ現象っていう、そういう感じですね。ドーナツは真ん中空いてますよね。そこが一番大切なとこなのに情報が届かないという意味です。全国からは相当な反応があります。熱き支援が。そういう感じです。
 困ったことだなと思っています。
 私は今、今おっしゃったっていうか、要するにプロパガンダの問題と、それからある程度わかってはいるんだけど、なかなか困難があって動けない状況。それは私は両方こういうふうに噛みあってるのかなというふうに今、想像しますけど、情報も確かに少ないです。なかなか。それは私たちの力量不足もあるし、山下先生の圧倒的な力もあるし、それとやっぱり皆さん不安には思ってますよ。一様にどうしたらいいんだという形で、『子供が居るんだけどいいのかな』って。そういう感じで不安には思ってますけれども、実際なかなか一人一人がこういうふうなんですね。話を聞けば聞くほど。
Q.「360℃の困難」とどまる人々
 今、本当に相当数の方が避難して、あちこちで八掛状態っていうんですかね、職場でもそうだと思うし、私のいる団地なんかでも、若いお母さんだけ避難したとかお父さんは一人でいるなんていうのは、もうざらにあって、それを市全体で考えると、相当な労働人口っていうか、減ってると思うんです。
 そういう時に、大変ですよね。個人個人で営業されてる方とかどんどん変わっていくわけですからね。売り上げが落ちて。多分いろんなところで大変だろうなって。
 直接聞くことはあまりないんですけど、私のところでは。
 でも想像は容易にできますよね。
 皆少しずつ控えるでしょうからね。ちょっと食べたいものを我慢する、衣服をちょっと買わないようにするとか、それは大変重たい、私なんかがどうしていいかわからない。ただそれは、私たちは突然降って沸いた被害者なわけだから、きちんとした形で、特に農業者のことをしょっちゅう思うんですけども、大変ですよね。農業者、酪農されてる方は、自殺されたりしてね。何人も自殺されてます。とくに農業者は。今までのようにはとってもやっていけなくなったということで。
 それはもう、全てを補償しつくせるものではないんだけど、やっぱりできる限り、東電或いは国で補償してほしいと思ってます。特に農業者。本当に大変な思いをしています。
 もうどこを見ても大変なんですね。放射能の被害っていうのはね。『360℃の困難』って勝手に私は言葉を使って言うんですけども、でもそうなんだけども、とりあえず、とりあえず最優先で大事なのは、子供の命なんですね。やっぱり、どう考えても。
 だから、そのことを動ける人はもう動いてます。正しい情報を正しくキャッチした人は。
 そうじゃない人が多くて、やっぱり子供さんの乳母車を引いていたりすると私は胸が痛いんですけど、そういう人たちをやっぱり移動させるために、きちっとした情報を流す、それは公的なところでやらないとね、私たちだけではどうも足りないんですね。
 だからそれをどうしてもやらせたいし、チェルノブイリの例で言えばね、郡山の放射線値では、自主避難或いは強制避難させているとこですよね。
 そういうようなことを私たちは一生懸命やってんですけど、なんせ少数派なので、山下先生、山下教授みたいな人ではなく、本当の情報を本当に伝えることをやれる人を国なり行政が雇ってやらないことには、犯罪的だと思ってます。今、『安全、安全』なんて、どこからそういう言葉が出るのか、もう数値が示してるにも関わらず、チェルノブイリの例は大きいですよね。大切です。
 科学者とそれからマスコミの人たちは、本当に責任重大です。
 とりあえず子供たちを動かして、若いお母さんを動かして、そして除染をなるだけやって、経済のことはやっぱりそれは大きいでしょうけど、命ということを考えた場合、やっぱりその次ですよね。しょうがないじゃないですか。一定期間福島の半分くらいは。本当に経済が滞ってしまっても。
『新幹線とかあれがあるから、そうもいかない』
とか、そういう話があるんだけど、それとこれは、確かにそうなんでしょうけどね。なんていうか、力のある人たちは、そこをストップさせたくない。経済をなんとか持たせたいというのがあるんでしょうけど。
 それとこれとは、命とは全く話が違います。
 佐藤さんは、佐藤知事は何を考えてるんでしょうね?東電の前では怒ったふりするんですけども、かたやああいう教授を堂々と雇って、止めさせる気配も全く無し。
 雄平さんは本当に、雄平さんは問題だと思っています。佐藤知事。映像によく出ますよね。やっぱり本当には怒れないですよね。映像は嘘をつかないというか、本当に怒ったようには全く映りませんね。東電のことを言う時。
 それはまず自分が謝ってないからですよ。プルサーマルを受け入れたこと、それからずっと推進したこと謝ってない・・・。<涙されています>
 本当にああいう人はどうなってるんでしょうね・・・。
 謝ってからやってくれって感じですよ。
Q.「360℃の困難」避難した人々
 行ったら行ったでまた大変ですね。電話で時々話すんですけど。
 ネットワークはそこで、福島の人たちのネットが出来てるとこと、まだそうでもないとこがあるようで、無いほうに行ったんですね。
 やっぱり『孤立してる』ってそういう感じで、精神的に追い詰められてるという感じでお母さん方から入ってる・・・。
「小学生の子供が泣いてる、よく泣く」
って言うんですよ。・・・あぁ、どうしたもんかなと思うんですけど。
 やっぱり相当な苦労して、関西圏に行った元同僚のこと、今でも時々電話で話したりするんで、子供達がバスケットボール一生懸命やってたんですが、中学生のお兄ちゃんのほう。
『もうバスケやってんだから、お母さんたち勝手に行きな』
っていう形で、ずっと抵抗してたんですよ。長いこと。
 だけど、やっぱ周りでもちらほらお友達が動き始めたので、お母さんも必死に言うのでね、途中でそうかなみたいな感じで、夏休みを機会に移動できたんですね。
 いや、本当に良かったなと思っているんです・・・が、やっぱその後を電話で聞くと、例えば京都みたいなとこだったら割と福島の人たちのネットワークがあったりしていいみたいなんだけど、そこは違うとこだったので、『とても孤立感がある』と。
「小学生の方の弟が、いつも泣いてる」
って言うんですね。お母さんもやっぱり子供っていうのは、親に影響されるんですよ。一番は。私の経験で。親が滅入ってるんですね。やっぱり。地域の中で。大きな町ではないんですね。
 非常に孤立してるっていう・・・。
 仕事も一応紹介してもらって、すぐに保育士やってるんですけど、子供が段々お金かかる年頃ですからね、どんどん大きくなって、経済的な不安も大きくなって。それから地域の中でちゃんと話せる人が居ないと、まだ居ないと、そういう状況。
 新しい環境っていうのは、相当、それだけでストレスですよね。健康であっても。 
 子供を抱えて働かなくちゃと働いていて、相当なそういうストレスが耐え切れなくなって、薬をちょっと飲んでるんですね。
 大丈夫かなと思って心配してるんですけど。
 電話だからわかるんですけど、ろれつが回らない、もう絶対薬なんですよね。
 そういう想いしていて、そんな狭い部屋で小学生の子供がお母さんを見て泣くんですよね。お母さんの不安を感じて。
 行ったら行ったで大変な話だなと思ってね・・・。
 残るも地獄、行っても地獄ですよ。まさに。
 どうしてくれるの?本当にこの放射能?ってか・・・。
 そうなんですよ、シングルマザーです。だから余計大変なんですよ。責任をぐっと感じてるんです。多分ね、シングルマザーはある意味で動きやすいですので、割と早く動いてた人の中に多いと思うんです。
 だけど、行った先では、これも聞いた話なんですけど、行った先で仕事を紹介してもらって行ったのもシングルマザーで、子供一人。とても酷い仕事に就いたというか、すごい搾取されてる、身体もきついし。
Q.どういう仕事?
 なんか北海道に行った人で、農作業をしながら給料をもらうという、そういう仕事を紹介されて行ったらしいんですけど、とてもきつくて、長時間労働で、『これじゃやってけない、どうしよう』というような相談をある人にして、だからそれもまた大変なんだろうなと思ってね。母子家庭ですよ。
 もう割と早く、彼女は知ってるんですけど、動いたはいいけど先は先でまた大変だろうと思って・・・。
 ほんっとに大変です。
 小さい子供を抱えて、放射能をこのレベルでどうなんだろう?本当は怖いんじゃないかなとか、すごくいっぱい不安に思ってますよ。当然ながら。
 そういう人たちは、でも、皆さんと同じようになかなか動けない事情が、皆さんあってですね、なんかちょっとした話をするたびに、本当に泣きますよね。ほんっとに私はよく判るんですよ、気持ちが。んで、私がまたもらい泣きするんですけど<苦笑>
 それですぐ解決にはならないんだけども、そういう若いお母さんたちの気持ちを丁寧に聞きましょうみたいな、そういうささやかなグループもできて、私はまだちょっと忙しくてあれなんですけど、そういうことをやり始めたグループもありまして、いいなと思ってますけどね。
 そこから改めて一歩というか、力が沸いてくといいですよね。皆困難抱えているんですからね。
 もちろん出るまでには、相当な、皆さん相当な苦労をして、困難を乗り越えて「えい!」と思って行った人ばかりだと思いますけど。
 だから活躍してる人を見ると、ホッとする。嬉しくなります。
Q.ここから
 ここに多数派、多数の人がまだ居るわけですね。ここに残っているわけですよ。
Q.何割くらい?
 いや、もう8,9割ですよ、もちろん。
 だから動いた人の方が、まだまだ圧倒的少数ですね。
 だけど、私はもう数値が示してるし、子供はここにやっぱり暮らしちゃいけないレベルなんですね。郡山とか福島とか。
 もうほんっとに多くの困難があるんですけども、全てを乗り越えて後回しにして、とにかく出ていかなくちゃいけないんじゃないの?と、そういうことを私は思って、ことあるごとにそれを。言い方はいろいろ考えなくちゃいけないんだけど、そういうこと思ってます。
 もう困難は・・・ありすぎ、ありすぎて、それを考えたら動けません。
 行っても、確かに大変なんだけど、少なくとも子供の未来を、あなたの子供の未来は病気になる可能性がぐっと少なくなりますよってことなんです。ここに居たら何十倍かその危険が及ぶわけだから。だから、あなたはどちらを・・・、そういう言い方は全然しませんけども、そういうことを考えてほしいなと思っています。
 本当に大変なことになってしまってね・・・、<涙されています。>いつもそうだったんでしょうけどもね、やっぱりこういう時だからこそ、一人一人のね・・・生き方を問われてると・・・、それは、私みたいにね、原発を止めようと思ってる人だけではなくて、ここに残ってる人たちに、どういう・・・どういう選択をするの?って本当に厳しい話なんですけど、それをしなくちゃいけない。一人一人が、いろんなレベルで・・・。
 そういう時に、何を最優先するかですね。困難はいっぱいありますよ。本当にどっちを向いたって。そういう時に、大人も子供たちのことを、次の世代のことを考えなくちゃいけないし、お母さんはね、自分の子供のことをほんっとに考えてほしいし・・・。
 子供はね・・・、これから生きる人ですからね。やっぱり大人、私たちの責任は、もう圧倒的に大きいですよね。子供に責任は全く無い。
 だから出来るところで、全てを解決する力っていうのは、個人には無いんですけど、できることを淡々と、たまには一生懸命、淡々とやっていく、しかしちゃんと決めながらやるということが大切かなと思うんですけど。
【以上】