※この記事は、12月15日 【内容起こし】IWJ百人百話 第27話 高村美春さん【前半】の続きです。

<45:30頃~>
その時、トイレに行きたくなってセブンイレブンの上に避難所があったんですよ。そこまでトイレを借りに行きました。状況がわからないので、避難所の係の方に聞きました。そしたら、
「ここは、全く情報が入ってこないんです。テレビも無いです。今どうなってるんですか?」
って、飯舘の避難所の方が、逆に私たちに聞いてくるんです。
「爆発したのは、知ってますよね?」
「それも知ってるんだけど、でもこの後どうしたらいいか、私たちは指示が無いからわからない」
Q.そのバスには誰でも乗れたんですか?
 多分たくさんのバスは多分、警戒区域から逃げてきた方たちの避難所から避難所へのバスだと思います。
 みたことのないバス会社の名前だったりしてましたので、決して震災後南相馬市のほうでバスを用意して「避難をしてください」というバスではなかったと思います。
 友人とは会えましたので、そこで2泊すごして、またそこから避難生活が始まりましたけど。
Q.どこに避難したんですか?
 3日泊まったんですけど、
「どう考えてもこれはもうダメだろう。3日経って。避難しなきゃいけないだろう。
 でも避難するにしたってどこに行くんだ?
 っていうか、その前にガソリンが入っていない。
 じゃあガソリンを入れなきゃいけない。」
 それで、私と息子は雪の20㎝降り積もっていたところを、ノーマルで山道を降りまして、命がけですよね。車中泊をして、車の中でガソリンスタンド開くところを探して、なんとか20リットル入れることができて、息子は5リットルの缶を二つもってまして、10リットル、缶をもって何とか入れることが出来て。
 そうするとならなかったはずの電話がなるんですね。
 また別の幼馴染の友人からです。
「あんた、どこに居るの?」
「福島市だよ」
「じゃあ、私今須賀川の叔母のところにいるから、叔母の家広くて部屋残ってるから」
って言ってくれて、須賀川市というところは、建物被害がとてもひどくて、全壊のうちやビルがたくさんあって、マンホールは飛び出しているし、道路は陥没、地割れ、車は走れるところではなく、そして水は水道が止まったまま、私がずーっとその家にお邪魔をしながら、水を汲みに何度か歩きました。
 そして、そのお世話になったお家というのが、これまた不思議なご縁で、須賀川市の災害本部、対策本部長の実家で、
「暇だったらじゃあボランティアでもしない?」
と言われて、須賀川市の体育館で、自衛隊の方たちとおにぎりや炊き出しをずっとやってたんですね。
 須賀川でずっとそんな避難生活をして、テレビでやっと情報が入ってくるようになりました。その20日くらいですね。
 あれ?線量っていうものが、こちらの方が高くない?須賀川市っていうのは高いんですよね。水も出ないんですよね。でも南相馬に戻ると、水も出るし電気も通ってるし、何もないんですよ。
 だけど、須賀川市も線量高いんですよね。南相馬市も線量が高いんですよね。
 私、なぜここでおにぎりを結んでるんだろう?
 2回くらいちょっと用事があって南相馬に戻ることがあったものですから、様子を見てるんですね。でも出ていく人もたくさんいる。出ていく人もたくさんいるけれども、その中で困ってる人もたくさんいる。
「私、南相馬に帰るね」
って、友人に言ったのは27日です。
 放射能について詳しく考え出したって言ったほうが正確かもしれませんが、3月28日からボランティアセンターに入ってボランティアをしておりましたので、そのボランティアの内容というのが、300人ほどの名簿を持って、避難できなかった方たちの安否確認に行く仕事だったんですね。
 それはもちろん今は警戒区域で入れない区の方達だったり、原町区だったり・・・。その名簿を持って1軒1軒回って、
「大丈夫ですか?お怪我はありませんでしたか?食料品はありますか?」
っていうふうに歩くんですよ。
 だけど一人では危ないので、二人一組なって歩くんですね。それは地元の方が居ないからです。皆さん県外のボランティアさんです。県外のボランティアさん、地図の漢字が読めないんですよ。
「この漢字なんて読むの?」
 そこから地図を探して、道を探していくので、皆さん道を間違えちゃって、
「今日はなんか奥までいっちゃった」
とか、
「浪江町に入っちゃった」
とか、全くあの当時放射能に対して、怖さというものが無かったんですね。だから平気でマスクやそういったものをしないで、東電の原発の門まで行ってしまった人もいます。
 私はとりあえずお宅回りをよく行ってましたので、ただその日にボランティアで京大で
「今ぼくは原子工学を習っています」
という学生さんも来ました。
「ただ、僕は原子力というものは勉強しているけど、そういった放射能を体に取り込まないようにするにはどうしればいいか、僕もわからない。だけど、今こうやって原子工学をやっている限りは、今皆さんのことをやっぱり僕は見たいと思ってきました。」
「でも、『見たい』と思ってきたと言っても、何かしら知識を持って来いよ」
というのは言いましたけど<笑>そうですね、手ぶらでは来るなと。
「知識かモノを何か持って来いよ。お前だけ来てもダメなんだよ。そんな京大とか言っても、それじゃ小出先生を連れてこいよ」
くらいの話であって、だからそういう話をしながらボランティアしようよって言ってましたけど、あの当時はそれどころの話では。もう生きるだけで精一杯で。
 だから、救援物資を配るときに、皆さん2時間、3時間すごい待つんですね。800人くらい並ぶんですよ。
「屋内退避と言われていても、マスクもしないで2時間も3時間も並ばせる行政は何をやってるんだ!?」
と。
 それはだから、怒りがそういったところにいっていて、放射能に対してどうのこうのっていうのではなかったと記憶しています。
Q.放射能の情報が個人的に流れてくることは多かったのですか?
 だから、私自身も原発に関係あって動いてたりとか、友人もそうですし、関わってない人は多分居ないと思うんですよね。
 この辺りというか、南相馬はとても遠いように思いますけど、南相馬自体があまり仕事が無いと、やはり大熊とか富岡とか、原子力関係の企業に仕事行こうと考える方が、多分多かったと思うんですね。
 あの当時、多分情報が欲しいと思ったら、
「あの人は多分原発で働いてるから、わかってるだろう」
っていって、こちらから聞きに行くこともできたと思いますし、或いは、やっぱり今でもそういう方いらっしゃいますけど、『原発に入ってるからこうこうだよ』って教えてくれる方もいらっしゃいましたし、私が3月14日の夜に飯舘のセブンイレブンのところに立っていたら、話しかけてきたおじさんは、
「自分の義理の弟が原発の下請けの所長をやっている。だけど、そいつは逃げてない。でも俺は逃げるんだ」
「え?どうして?だってあなたの弟さんは逃げてませんよね。大丈夫だって言ってますよね」
「でも、俺は怖いと思うよ」
 そんな話をセブンイレブンで集まった9人くらいでしてたんですよね。そしたら、その方が、
「じゃあ俺今から弟に電話する。」
っていうんですよ。公衆電話だから通じますから、そしたら、
「大丈夫だよ、だって東京電力の人間だっているもん。大丈夫だよ。そんなお兄さん逃げないでくださいよ」
っていうのが聞こえてくるんですよ。電話越しに。
 だけど、電話を切った後に、弟さんもそっと
「俺、やっぱり逃げる」
って言うんですよ。
「ちょっと、だって今弟さん大丈夫だって言ってましたよ?」
「うーん。ダメだ。」
って言うんですよ<笑>
 14日のその夜、先ほども言いましたけど、9人くらい集まった時に、やっぱりある女性の方が、
「そういえば、うちの近所の東京電力の方が居ないわ」
って言うんですね。
 それはこっち側の男の人も言うんです。
「あれ?そういえば、あそこに家も電気ついてなかった」
って言うんですよ。
 それで、多分いろんな考えがあって、たまたまそこの飯舘村のところに集まった10人くらいでしゃべってたんですけど、誰かに言われて気が付いたから、
「あ!そういえば・・・!」
「あ!そういえば・・・!」
 でも、私はその時に東京電力の友人は家に居るので、富岡で働いていた友人が居るので、『屋内退避と言われてるから、屋内退避で大丈夫だよ』というふうに言われて、
「でも、それはあなたは農家で食料品いっぱいあるからね。大丈夫でしょ」
っていう考えもあったので。
 だから、実際に私のまた別の友人は、それは旦那様は知らないけど奥様は東京電力で働いてる方の奥様で、私は知っていて、でも、その彼女が子供も同じくらいの年代でいるんですけど
、まだ地元に残って仕事してますよ。奥様は。
 だから、多分、東京電力の中の人間でもいろんな人がいると思うんですよ。危険だと思って家族だけ出した人もいるし、だけど、いろんなことを考えて残ってる人もいるし、だけどやっぱり私たち今、皆で話してるのは、
『次の爆発があったりとか、次何かリアクションを起こす時は、東京電力の家族見張ってようね』っていうのがあるんです。
『あの人たちが逃げたら絶対だから』
っていうのはあります。
Q.『籠城』とか『兵糧攻め』というのはどういうことですか?
 南相馬市という相馬市というのは、流山からくんで、相馬の馬追というのが神事として有名なところです。
 相馬市というところは、もともとお城があり、そこに相馬藩と国主が居て、そして原町区、原町市というところは、雲雀が原という野原だったところで、馬を追って何かあった時にはお国のためにという場所でした。
 その流れが今もありまして、お殿様は東の相馬市、そしてここはもともとは原ノ町という駅があるように、原っぱの中に町ができた宿なんですね。宿場町です。宿場町というところは、よそから人が来て、また流れていくというところですから、相馬市から見れば、ここは下なんですよね。位というか見方が。
 そうすると、ここが新しい街である。そして、三つ合併して南相馬市という名前を付けた時から、相馬の方は気に入らない。
「なんで南という名前を付けて、相馬という名前をつけるんだ?」
 それは実際、私がボランティアセンターに居た時に相馬市の方から電話をもらってます。
「市役所にかけても電話がつながらないから、お前のところにかけてるんだ。南相馬なんていう名前をつけたから、お前のところは天罰なんだ。ふざけんな!」
っていう電話を私は何回も受けています。
 すごく根深いものがあるんでしょうね。
 私は申し訳ないですけど、そういった想いを全く知らないので、電話をとるまで知りませんでした。実際にだけど、相馬市の避難所に行った方々は、相馬市の避難所で差別を受けてます。それは、相馬市民の方がお弁当だと、南相馬の人間はおにぎりなんですよ。言った言葉は、
「相馬市の人は税金を払ってるけど、ここに居る南相馬の人間は、相馬に税金はらってないでしょ。」
って言われたと。
 そういう悔しい思いをして帰ってきてる人がたくさんいるんですね。
 だから一概に相馬市がいけないとか、南相馬市がいいとかそういうことは言ってません。ただ、そういったことの流れがあって、桜井市長は
「籠城』という言葉を使い、私たち市民は物資・・・」
Q.『籠城』というのはどういう意味ですか?
 籠城ですね。例えば戦の考えですね。お城に立てこもり、出さない。でもその籠城の場合は備蓄がきちっとあって、例えば1か月、2か月、下々のものに食べさせるものンも燃料も必ずある。それは、相馬市というところは、正直これは政治的な話になるかもしれませんけども、自民党である自民党のパイプが強い。そして道が福島市と相馬市というのは、通ってましたので、そこからパイプが入ってくるんですね。
 30㎞圏内という南相馬市というのは、ある意味桜井市長が出していることは、危険な場所なんだという認知もあります。だが相馬市は危険ではない。名前が出ていないことによって、『あそこは入れるだろう』というのがあって、物資が来てるんです。それは確かです。
 私ボランティアセンターに行ったときに、相馬に山ほど物資が来ていて、相馬市に私はもらいに行きました。相馬市にわざわざ。
 多分『籠城』の意味は、人を避難させない。放射能というものは、相馬市には来ていない。出ていくのはならん。それは今も変わりないです。
 相馬市でモニタリング???を作ろうとすると、『作るな』と言われます。『線量も出すな』と言われます。食品測定器でモノを測ると、『測ったものを発表するな』と言われます。
 南相馬と相馬市は、今全く、ちょっと別な線のところになっていて、『籠城』というのは多分そういう形だと、私は認識しています。
 その兵糧攻めの方の説明をしておくと、桜井さんがYOUTUBEで言ったようにガソリンも来ない、食料品も来ない。それはみんな、私、須賀川市に行ったときに、須賀川市にはたくさんの物資が来るんですよ。物資の倉庫にいたときに、ドライバーさんが言ってました。
「怖いから、ここでもう帰りたいから降ろしていく」
って。須賀川というのは、県内の端っこで、白河、須賀川、郡山です。
「ここまでは来るけれども、もうここに荷物を降ろして、僕たちは帰りたいから」
って帰っていくんです。
 じゃあその荷物、南相馬に誰が持っていく?誰も持っていきません。ということは、薬も底をつく、食料品も底をつく。私自身もボランティアセンターにいて、安否確認をしながら、胃瘻のおじいちゃん、おばあちゃんがもう無くなるんですよ。そういった食料品が無くなって
、食品名出していいかわからないですけど、エンショアという缶が1本、それは本来は1本で1食なのに、たった1缶を1日分に3回に分けるんですよ。胃瘻ですから、普通の朝食のモノを削っておかゆを食べさせて、そういう問題じゃないんですね。もう高濃度の高カロリーのそういったものが今度は入ってこない。
「それはどこで作ってるんですか?どこにあるんですか?」
と聞くと、
「白河の工場で作ってたけども、今回その工場が震災で、今は作ってないので、ものが無いです。」
「じゃあそれをどこに誰からもらえばいいんですか?」
「入ってこないです。」
 だから、多分兵糧攻め・・・。
 誰も助けてくれない・・・。
 私自身は餓死したっていう情報があって、私はその方達にはお会いしたことはないですが、安否確認をして歩いてる時に、具合が悪くなった方は確かに居ました。
 でも、そういう方たちは、長野県とか長崎から来た方たちのドクターに引き合わせてなんとかお願いしますってしたのは、何回かあります。
 当時は本当に、阿鼻叫喚・・・でしたね。
 助けを求めても誰も来ない・・・。
 求めたとしても、『そこには行けません』
 気がついたら報道も誰も居なくなってましたし。
 その安否確認で回るときに、何度か食料品は来るんですよ。だけど、300という軒数をまわる物資は無くて、市は必ず言うのが、
『公平であるように、平等であるように』
ですね。
 あの状況で『公平だ、平等だ』なんてできないです。
 そうすると、ボランティアセンターで救援物資の倉庫をやってましたけど、できることは大根一本もらって、それを三つに切って、それで切った3分の1に人参半分切って、ジャガイモ入れて、袋に入れて、安否確認の家に持っていくということをしてましたね。
 おじいちゃん、おばあちゃんのお宅に大根1本持っていっても使いきれないだろうというのもありましたし、その大根1本さえ持っていけないんですよ。1回で入ってくるのが大根10本とか20本くらいしかなかったりすると、20本では20軒しか回れないということですよね。公平でも平等でもないわけですから・・・。
Q.除染についてはどう思いますか?
 さきほど言った三男ですね。
 5月のGWに戻そうと決めました。
 それは30㎞圏外に今まで通っていた保育園が、仮設としてできるようになったというのもあって、じゃあ、その保育園に預けることができる。そしてやっと2か月、もらうメールで笑ってない子供を迎えにいくことができる。じゃあ今度、それまでは正直、大人だけでしたので、放射能に関しては、気にはしていたけどそれほど気にしていない。
 だけど、今度4歳の子供を迎えに行って生活をするとなったときに、ここは本当に4歳の子供が居られるのか改めて考えた時に、無理だと思って。
 ただ救いなのは、一番高い時期に居なかったので、落ち着いてきた時期なので、その時私は、ある人の紹介で鎌田実先生といって、長野の諏訪中央病院の鎌田先生を紹介してもらって、日本チェルノブイリ連帯基金というところからですね、ガラスバッチをいただくことができたんですよ。それで私は5月の真ん中くらいからガラスバッジを私と子供がつけることによって、積算量っていうものが見えるようになったんです。
 ガラスバッジをつけるようになって、改めて母として放射能の勉強をしなければいけないんだ。それからですね、児玉先生だったり小出先生だったり武田先生だったり、ともかく有名であろう人たちのYOUTUBEだったり本だったり、資料を読み漁って、勉強するようになりました。
 正直眠くなります。
 あの、ベクレル、シーベルトどうの、全く知らない世界ですから。だけど、勉強しないとわからないことばっかりで、子供のことは守れない。外部被曝、内部被曝、聞いたことない言葉だけど、やらなければいけない。そういう生活を今もしています。
 私は今回、先々月から九州行ったり、沖縄行ったり、長野県に行ったり、一時避難を繰り返してきて、それは子供の健康でもありますけど、もしかするとここではない違うところで、これから生活をするかもしれないということを念頭に置いて、移住場所っていうのも探して歩いていたんだと思います。
 私自身、ここに子供を置いて生活をしていかなければ、要するに残らざるをえない親子になっています。ですけど、先ほどもいいましたように1mSvを超えていて、除染されていない場所で遊ばせるわけにはいかないので、今月から山形市に借り上げ住宅を借りて、週末だけは子供を自由に遊ばせたい。そして、私もストレスのない、ストレスフリーの食生活をしたいので、遠くに出てご飯を食べたい。
 じゃあ南相馬の復興をどう思うんだ?前は月曜から金曜、ここで仕事をして、南相馬の復興を考えるのか、じゃあ除染をしなきゃいけないのか。
 夕べですね、うちの子供が通ってる保育園、保育園で父母の会、連絡会が原町保連というのがあるんですけど、それで年1回行政とのかかわりがある。今年はその父母の会として市長と懇談会をして、『子供たちのこれからを行政がどう思ってるのかを車座になって話をしましょう』というのを夕べ行ったんです。
 市長始め、幼児教育課、すぐやる課、除染対策室、健康つくり課とかそういった関連の方が6名いらっしゃって、私たちが事前に用意した質問に答えるという時間を2時間、もらいました。
 除染については議論になりました。
 除染対策室は、
「避難勧奨地区のところから面的にやっていく、そして仮置き場も3カ所作ることになっている。そこから始めていきます。だから安心してください。帰ってきてください。」
という言葉を聞きました。
「では、今現在線量が高い乳幼児や妊婦さんがいるお家はやっていただけないんですか?」
というふうに質問しました。答えは、
「高線量のところからやっていく。面的なことしかやっていません。やらない」
というふうに言われました。
 面的に放射線量自体がなっていくのも私もずっと思ってました。それは当然だ。上から下へ。高いところから低いところへやっていくのは当然である。
 ですが、今現在高い線量のところに住んでいる人がいるんです。ミニホットスポットとかそういう問題ではなく、一番大人の放射能の3倍、5倍受けやすいという赤ちゃんや子供が居る家、妊婦さんの家、それは私は点的にやってもいいと思うんですね。それは実際にもうここに住んでいて、何ミリシーベルト受けるかもわからず、今現在も影響を受けているわけですから、それを少しでも減らす必要だと思うんですよ。ですから、面的にやっていく、且つ、それは面であり、だけど、そういった方達、希望した『やってほしい』という希望の声は拾ってほしい。
 だけど、昨日の答えは、
「検討はします。持って帰ります」
ということだけで終わりました。
 そして、保育園の副園長やボランティアさんたちは、そういうお家にはボランティアでやってくれてます。市長は
「僕、そういうの行かせてるよね」
っていうふうに言いました。でも、それはボランティアです。自分で実費を払ってガソリン代とかそういったものを払ってやってるんです。
 そして言われました。
「じゃあ、業者に頼んだら?東電に請求してくれ」
と。
 そこですかね。
「じゃあなぜ市が東電に請求しないんですか?」
「いや、市はそこまでは・・・。」
 私は正直つっこみたかったんです。
「市長の下に副市長は誰ですか?厚生省からの天下りですよね。何人東電の社員が、お宅の市役所に居るんですか?」
 私は対策本部室何回も行って、東電からの出向社員を何人も見てます。
「じゃあ、そういう人たち、パイプ役はあるでしょ。東電からお金がおりてくるとかおりてこないとか、それはわかるでしょ?じゃあなぜそこで東電に個人が請求しろっていうんですか?」
 でも出てくる答えは、いつもの行政的なお答えで、ここで議論しても仕方がないから、
「じゃあ結構です」
というふうに話は終わりました。
 だから、私は一番最初の答えで、桜井市長に言いました。
「私はこれ以上外部被曝を与えられないから、出ていくことを決めました。だけど仕事があるから通ってます。だけど、完璧に除染はできるんですか?」
って聞きました。答えはお答えになってませんでした。
「こういうふうな計画があるから、こういうふうにやっていきますから」
「そういうことを聞きたいんじゃない。完璧に震災前の綺麗な場所に戻すことができるかどうかを聞いてるんです」
って聞きたかったです。だけど、答えになってない答えを聞いた時に、
「あ、ダメだ。」
 私はそういう答えを聞きたいわけじゃない。できるかできないかを聞いているだけだから、じゃあそうなると、除染は必要だと思いますけれども、除染だけではないと、そして除染をするのであれば、その線量を受けてしまった子供たちも一時的でもいいから、保養という形でもいいから、外に出して、それで面的なことをやっていくんだったらいい。
 だけど、そこに子供を置いて、人間を置いて、除染をするのはいかがなものか。
 だから、どうしても除染ありきで行く行政には、私は不信感しかないです。
 もともと信頼関係なんかないです。
 SPEEDIの公開というものが無かったときから、私は国や行政を信じてませんから。
信頼関係というものを失ってるのに、さらにまた???嘘のようなことばかり言われていれば、期待はしてないです。
 だけどやってもらわなきゃいけないんで、それは期待ではないです。
 当然の義務ですから。
 義務は果たしてもらう。
 そこで住む人間としては、自分の自己防衛ですね。子供たちを守るためには動きますけれども、復興のため、復旧のため、私も言われました。
『除染ボランティアやりなさい』
 私は「しません」って言いました。
「私は内部被曝が怖いから、やりたくありません。私は母子家庭だから、私にもしものことがあったら、子供を誰が見るんですか。私がこれ以上内部被曝をしたくありません」
って言いました。そしたら他の人に
「卑怯だ」
と言われました。
「自分の子供を抱えてる保育園も除染ボランティアできないなんて、お前卑怯だろ。だったら、子供を保育園に預けるなよ」
と言われました。
 どうして、同じ住民同士がそれでケンカしなきゃなんないんですか?
 おかしいですよね。
 そういったことも、私は離れたいと思って、一時的でもいいから、山形市に避難した。でも、帰ってはきています。それは、やっぱりここが無くなってしまうかもしれないと思ったときに、大っ嫌いだったけど、でも本当は大好きだったんだって気づいたから離れたくないから。
 でも、子供のためには離れなきゃいけないと思って、でも離れたくないと思っている。そういった複雑な思いで、今、今日、居る・・・んですね。
Q.大機代だと言っていた田舎を大好きだと気付いたのは?
 大っ嫌いだと思っていたふるさとを大変好きだと思った時、『I love you ふくしま』っていう歌があって、猪苗代湖ズが歌っていて、私はあれを歌えなかったんです。そんな『I love you ふくしま』なんか歌えるか。そんな好きじゃねぇよってはっきりいって思ってたんですけど・・・
Q.誰が歌ってるんですか?
 猪苗代湖ズっていうところが歌って、箭内さんとかサンボマスターの方達が歌ってて、だけど、その・・・ここを離れなきゃいけないと思って、離れようと思った時、後ろ髪をひかれるっていう想いが、本当にあったわけですよね。
 私も若いときに都会に出た時に、それはふるさとというものが必ずあって、帰って来れる場所があるから、出ていけるんですよ。人というのは。家があるから出ていけるんですよね。
 何か自分が傷ついたりとか悲しんだりとか、嬉しかったりするときに、誰かにその想いを伝えたいとか、駆け込みたいとか思う場所がある。だけど、もうここの場所を出てしまった時に、ここが無くなると思ったときに、そういった場所を無くした時に、
「私が生きてきたものとか、そういった軌跡っていうものが無くなるのかな」
 だから、ふるさとって考えた時に、
「あぁ、こんなにふるさとが好きだ」
というふうに・・・私はこんなにふるさとのことを恋しい。好きとか愛してるとかじゃなくて、『恋しい』と思ってたんだな。
 だから、根無し草になりたくないと思ったんですよね。
 やっぱり人はどこかで根っこを張って生きている。その根っこがふるさとであって、私はいつかは戻ってきたいと思う。だから、戻ってきたい場所を自分の手で作っていきたいな。だから、
「大っ嫌いだったけど、本当は好きだったんだな」
としみじみと。
 だから、震災後は辛く苦しかったけど、そういうことを気づかせてもらった部分というのはたくさんあって、大っ嫌いだった田舎だったけど、町を歩けばみんな知り合いでと思ったけど、でも、その山形に行って、誰も知り合いもいないところからまた戻ってくると、町を歩いて知っている人の顔を見ると、ホッとするんですよ。あんなに束縛されて、誰かに見られて嫌だと思ったのに、だけど、知ってる顔が居て、ホッとして、
「なんて自分勝手なんだろう」
と思いながらも、
「やっぱりいいな。やっぱりあったかいな、ここは。」
 そういう暖かい場所を本当なら私の子供たちに残してあげたいなというふうに思っています。
【以上】



失礼します。
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