※この記事は、12月14日 【内容起こし】IWJ 百人百話 第26話 田口葉子さん 【前半】に関連しています。

【動画】12月15日 百人百話第二十七話 高村美春さん
http://www.ustream.tv/recorded/19157893 (90:36)


【以下、お時間のない方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2011年11月26日収録
Q.自己紹介をお願いします。
 高村美晴と申します。
 3月26日震災当時に43になりました。
 出身は福島県南相馬市原町区、生まれも育ちも原町区。当時は原町市でしたけど。
 今は、高平地区といって、北側の奥の方に住んでおります。
 今月からは、山形市のほうに借り上げ住宅を借りて、週末避難を繰り返している今です。
 4人家族です。私は母子家庭で、私が母として男の子3人で一緒に住んでおりました。というのは、高校3年生になりました息子が3月の震災後になんとか脱出をさせて、千葉の方に就職をいたしましたので、今現在は長男と三男と私で三人家族です。
Q.現在はどこで生活をしているのですか?
 山形市のほうに今は借り上げ住宅という形で避難をしています。
 ただ、仕事というか、10月から始まる仕事がありますので、そちらが3月31日までの契約社員なものですから、全部の避難はできません。
 なので、理想は月曜から金曜までは南相馬にいて、金曜の夜からは山形市に移動して、月曜の朝には南相馬に戻っているという生活を今行っています。
 山形にはとりあえず避難をする家、南相馬は仕事をして、三男が来月で5歳になりますけども、
「保育園のお友達とは離れたくない、保育園の先生とは離れたくない」
という意向がありますので、できるだけ南相馬において、南相馬のお友達と遊べるような生活を平日して、週末は今は外で遊べませんから、自転車に乗りたくても乗れませんから、山形には遊びにいくような感覚で、外で遊べるようなお家っていう形で行ってます。

Q.小さいお子さんが線量の高い南相馬市にいることに不安はありませんか?
 南相馬の線量というのを考えると、多分他の人たちは、例えば中通りに福島市や郡山市に比べれば低いですよねっていう考える方もいらっしゃいます。
 福島市の場合は、やはりそれも程度があります。例えば、渡利地区や大波地区のように2.0マイクロシーベルト以上で避難勧奨地区にならない場所もあります。そして、駅前だとだいたい1.0というように聞き及んでおります。場所によっても違います。
 南相馬ですと、海沿いの方に行くと、0.1。とても低いです。それは、水をかぶったおかげっていうふうに聞いていますし、海側には落ちなかったっていうふうにも聞いてます。
 でも、私の家の周りは、1.0マイクロシーベルトの家にたっていて、ただ私の家は市営の団地なので、鉄筋コンクリートの3階建てなんですね。3階にありますから、多分建物の立地というものもあって、部屋の中は0.15。閉め切った部屋ですと0.1。多分それは通常の数字くらいかもしれません。
 ですから、正直言うと、線量の高い・低いでは南相馬市というのは、もしかしたら低い場所に当てはまるかもしれません。
 ですが、あくまでも原発からは近いというところというふうには、私は認識しています。
Q.原発からの距離はどのくらいですか?
 原発からは、私のところは25㎞の地点に家があります。25㎞というのは、正直、私にとっては遠かったです。
 というのは、震災前、私は大熊の仕事も行ってましたので、約40分くらいかかるんですね。それは道をまっすぐいけないので、大体35㎞くらいの距離を走ってたんですね。私の中では「35㎞くらいあるから遠いんだな」と思ってたんです。ところが、震災があって原発の事故があって、「ここが直線距離25㎞ですよ」って言われたときに、
「25㎞しかなかったのか!?」
っていう驚きですよね。そんな普段から、ここは原発から何キロっていうふうに考えたことが無かったものですから。
 それを考えると、「ここはなんてそんなに危ない場所だったんだろう」と今は思っています。
Q.ご実家はどちらですか?
 あの、私の実家はもともとは高平という地区のほうにありまして、南相馬市は今現在は合併をいたしまして、私が幼いころ住んでおりましたのは、その南相馬市の中の小高区、原町区、鹿島区、今合併して南相馬市ですけど、私はその原町区、もともとは原町市というところで生まれ育ちまして、ただ残念なことに、父と母がガンで他界をしましたので、もう実家がありません。
 合併前の南相馬市というのは、相馬郡小高町、そして原町市、相馬郡鹿島町という三つに分かれていました。私の父の出身はとなりの相馬郡小高町の出身でしたので、今その父と母のお墓は隣の警戒区域になっております、小高区の方にあります。
 そして、私が生まれ育った高平地区というのは、南相馬市原町地区、昔は原町市と申しました、高平地区ですね。大体、農村地区の、昔は高平村といったところで、広い広い農村があった場所ですので、土地柄というか、その土地に根付いてきた父と母のルーツ、その先祖、私のおじいちゃん・おばあちゃん、会ったことはないけど、そのまたおじいちゃん・おばあちゃんたちは、みんなここに住んで生きて、死んで、今お墓の中にいて、そして、そのお墓も今は小高区という警戒区域ですね。20㎞圏内のところにそのお墓があって、私は今お墓参りすらできない。私の家は原発から25㎞ですから、緊急時避難準備区域解除になった場所にあって、自由に行き来できるけれども、居なくなってしまった父や母や、おじいちゃんやおばあちゃんたちのお墓にお花を手向けてお線香と立てることは、今はできない。
Q.ふるさとはどんなところでしたか?
 自分の生まれ育ったこの場所の四季をじゃあどうだったんだというふうに振り返ると、今からだと小さいころは太平洋高気圧なんていう言葉は知りませんでした。冬になると空っ風がたくさん吹いて、でもお天気は良くて、外に行くと田植えが終わった後の田んぼの中をおもちゃの凧を、昔はそれほど電信柱があったとは思ってないので、夏、その凧をずっと持って田んぼの中を走り回って、多分あの当時は寒かったので、本当にまっちゃ色の田んぼだったんですよね。稲が終わった後の。その藁の中をワーッと走り回ったり、寝っ転がったり、とにかく走り回ってた。
 そして、段々空っ風が吹いて来て、雪が。この辺はそれほど雪が降らないんですけれども、でもやっぱり12月、1月になると雪がちらつくようになって、雪がちらつくと、ここから見える阿武隈高地、柳沢峠というところですね。その辺が段々真っ白になってくるんですよ。そうすると、
「あ、山が雪だ。じゃあこっちも降るのかな?」
と思うと風花と呼ばれる、風と一緒に雪が飛んでくるようなところで、でも積りもしない。そうですね、今思えば、本当に美しい、多分日本の原型っていう、まぁ日本なのか、それとも田舎なのか、南相馬なのかはわかりませんけれども、私の中で美しい風景でしたね。
 だから、今年は屋内退避ということで、お花見もできませんでしたし、お花見をするよな雰囲気でもないですし、またその桜の花が今度散っていく、散っていくときに、今度は八重桜というものが咲いていて、季節が巡っていっても、あの当時は5月になったら、山吹が咲いて、桜が咲いて、八重桜が咲いて、子供が大好きなミモザの花が咲いて。要するに咲く花の順を追っていった覚えがあるのに、今年は花が咲いたのかどうかさえ覚えていない。気がついたらもう夏になっていて。だから、夏になると小さいころは、遊ぶところはここは何もないので、海に行くか川に行くかくらいなんですね。側に行くと滝つぼに飛び込んで遊んで、海に行けば父親が隣で磯釣りをしながら、私はその脇で海に飛び込んであそんだり。
 だから本当に自然が友達のように相手にして遊んできた、そんな・・・何も無かったけど、何もなかったのが美しい田舎だったのかなというふうに思います。
Q.3.11震災当日はどこにいましたか?
 3月11日は、私、当時は、特老といいまして老人ホームの会合のパートをしてたんですね。福寿苑というところで。その日たまたま休みだったものですから、ちょうどお友達の家にお茶を飲みに行って、「じゃあそろそろ家に帰るね」といって自宅に帰った時に地震が起きました。
 その時はもう高校生は卒業式が終わって家におりましたし、長男も家におりましたので、3人で家の中で長い長ーい地震を体験して、あの時長男は、
「地震だから早く逃げて!」
 でも、二男は一生懸命食器が飛び出す棚を押さえてるんですよ。でもあまりにも揺れがひどくなったので、
「押さえなくていいから!早く逃げなさい!」
って言って、3人で靴も履かずに飛び出したのを覚えてます。
 靴を履こうと思うと、玄関が揺れるんですよ。靴が履けないんですよ。
 それで
「もう仕方がない、とにかく出るだけ出よう。もしこの建物が倒れてしまったら、靴なんてかまってられない」
 靴も履かずに飛び出したんですね。
 階段もやっと壁にぶつかりながら下りてきましたから、3階でしたから。
 それで出た瞬間に、近くのお母さんがお子さんを抱きかかえて泣き叫んでるんですよ。
「どうしたらいい?どうしたらいい?」
 私は、だからその時に、なんでしょうか、とっさの判断だったんでしょうかね。揺れがまた来るだろうと。すぐ子供たちに
「携帯を持ってきた?携帯ですぐ情報をとりなさい」
っていうふうに指図をして、
「あなたたちはここに居なさい。お母さんは部屋に戻るから。車のカギと貴重品だけ持ってくるから、そこに居なさい」
って言って、私はぐちゃぐちゃに食器が割れた部屋に入って、車のカギと貴重品だけ持って、靴を持って、すぐ近所のお母さんには、
「お母さん、すぐ余震がくると思うから、建物の外に居ないで、多分上のお子さんを迎えに行かなきゃダメだよ」
って言って、私はそのまますぐ保育園の3番目の保育園に迎えに行きました。
 保育園では、園庭にお昼寝からびっくりして飛び起きた子供たちが百人近く園庭の真ん中に先生が前になって、裸足のままみんな出ていて、先生が
「ママー!ママー!!」
って皆が泣き叫んでいて、でもまだ揺れは収まらず
<涙されています>、四葉保育園のところはその時にまだ隣に新しい乳児園を作っていたものですから、その工事関係者の方がたくさん居たんですね。でも、その方たちは、もう空を仰ぎ見るだけで何もしないんですよ。
 もうどうしていいかわからない。
 ただ、ああいう時っていうのは、茫然として、ただ空を仰ぐだけしかできないのかな。
 空を仰いで、仰ぎながら電信柱が揺れているのを見て、
「あ、危険だ」
って思うくらいしかできなかったのかなっていうふうに思います。
 でも、子供を迎えに行って、あの時は寒いですから、ジャンバーも園に置きっぱなしで、とにかく先生に
「私はこの子を無事に連れて行きます。先生方も頑張ってください」
というふうに言って、先生方も
「わかりました!」
って言って、でも先生方は一人二人連れて行くと、安心しますよね。お母さんたちが迎えに来てくれると。
 私は3人乗せて
「さぁ、どこに行こう」
 でも、まだ電信柱は揺れている。
 家の中もぐちゃぐちゃ。
 じゃあ、どうしよう・・・どうしよう・・・。
 でも、車とラジオはナビのテレビは
『津波が来ます。3m、4mの津波が来ます。逃げてください。』
 その時に、その園の先生とも話してて、
「先生、津波が来ます。」
「でもここまでは来ないでしょう」
「海から8㎞のところにありますから、来るわけない」
「そうですよね。」
「そうであってほしいです」
という会話をして、
「じゃあ戻ります」
ということを言って、じゃあ小学校に避難場所に行こうと思ったんですけど、それよりももっと情報がとれるところに行こうと思って、原町区の大木戸にありますじゃスモールっていうイオンがあるんですね。イオンの駐車場に車を止めたんですよ。そこは電信柱はもちろんありませんし、何かあったときにはそのホームセンターがありますから、買い物もすぐ出来ますし、情報もすぐとれるだろうと思って、そこにずっと居たんですけれども。
 でも出てくる情報がすごいですよ。
 だんだん津波が4mから6m、9mっていうふうに、もう10mの津波って私にはわかりませんから。
「どうしよう。どうしよう」
 そのうちジャスモールの人たちがいっぱい出てくるんですよ。
「あぁ、じゃあ買い物もできない。じゃあどうしよう。ともかく津波が怖いから、津波から逃れよう」
ということで、馬事公苑というここよりももうちょっと高いところがあるんですけど、そこに行こうと思ったときに、海の方を見たら、水しぶきのようなものが、水蒸気のようなものが舞ってたんですね。
 私のところは8㎞なんですけど、それでも水蒸気のようなものがバーッと見えたんですね。
 もうどうなるかわからない。
 とにかく怖い。
 余震も怖い。
 だから、遠くへ高くということで、山の上に上がりました。でも、車は目の前に地割れが入ってるんですよ。山道ですから、崖くずれがあって、それをくぐりながら上がっていって。
Q.津波はどのような状態でしたか?
 実際に津波が来たのは、3㎞から4㎞くらいのところっていうふうに一致してますけど、私があの時見たのは、雲だったかもしれないし、水蒸気だったのかもしれないし、判らない。
 ともかく振り向いた時に、子供たちも言ってました。
 パーッと水しぶきが上がっているような、なんていうんですか・・・、入道雲のようなものがワーッとその海の方に湧き上がったのを覚えてます。だから子供たちも、
「お母さん、早く早く!ここから離れようよ!」
って言ったのは、耳に響いています。
 何かの映画のワンシーンでありますよね。津波っていうのは見えませんので、気がついたらもうそこに来ていて飲まれてしまったっていうのを、映画のワンシーンで思いだしていたので、とにかく逃げよう、逃げようしかあの日は無く、山の上に上がっていて、そしたらやはり似たような方たちが居て、結構何十台も車が止まってたんですよ。
 私は、そのがけっぷちのほうに行って、様子を見ようと思ったら、そこからは隣の小高区の町が遠くに見えるんですね。
 ・・・津波が来てました。
 遠かったので、それほど鮮明には見えませんけど、それでも車のようなものがグルグルおもちゃのようになって、そして、その小高駅というところに水がワーッという動きを上から見ていました。
 怖かったですね。
 だから、もう下には下りられない。
 これからどんな大きな波が来るんだろう。
 こらから満潮になるから、津波は満潮に合わせて、また大きくなるかもしれないから。
 ともかく満潮が来る8時まで、ここの高いところにいて様子を見よう。
 それが、だから3月11日の8時過ぎるまで車の中でずーっと家族4人でテレビとラジオとネットでずっと情報だけを拾ってた。
 3月11日に満潮が過ぎて、寒くなって、
「じゃあそろそろ家に帰ろうか。」
 家に帰って、電気・水道・ガスが使えるかどうか確認しよう、ネットが使えるか確認しようと思って、だけど、メールがその時はもう途切れ途切れで、電話も通じなくて、友人たちみんなが大丈夫かどうかの情報もなくて、とりあえず家に戻り、ぐちゃぐちゃになった家に靴を履いたまま上がって、片づけて。
 子供たちには家の中でも靴を履かせて、防寒着を着せて。
 小さいちびは、テーブルの下に寝かせて、いつでも大きい余震が来たら、逃げられるように食べるものと、そういったものも全て用意して、あれくらいの地震でも大丈夫でしたので、テレビやそういったネットで情報をとろうと思いましたけど、一番先に怖いと思ったのは、原発で働いていた友人のそのまた友人からきたメールが、
『原発危ないみたい。だから、逃げた方が良いよ』
っていうメールが来たんですね。
Q.その原発の情報について、詳しくお聞かせください。
 普段仲良くしている友人が、
「原発で働いている人からもらったんだけど、なんか危ないみたいなこと言ってるよ」
 それで私はすぐ東京電力に働いている友人にメールをしました。
 東京電力で働いている友人は、富岡第二で働いていましたので、でも、連絡が取れなかったんです。
 その友人は東京電力の社員です。
 3月12日になって爆発すると・・・。でも爆発をしたから、正直に言うとどうなるんだろうと。
 核爆弾のようなああいうことが私たちにも起きるの?
 どうすればいいの?
 多分あの時は、いろんな学者が出てきて
「大丈夫です。安全です。パニックにならないでください。すぐ収まります。」
 家族会議をしたんですね。うちは。
「一番大事なのは何?
 ・・・命だよね。
 じゃあ家族の中で一番大事なのは?
 ・・・ちびだよね。
 就職も決まってこれから行くっていう地なんだよね。じゃあ、みんなでこれから何かあったときには、この二人を守っていこうね」
って聞いたんですね。
 だけどその間、原発の正しい情報だったりとか、ただ
『外出を控えてください。マスクはしてください。口に何かものをあてて外出してください』
 何が起こったかわからないんですよ。
 だけど、皆は避難していく。
 じゃあ大事なものを考えるときに、皆逃げているから、とりあえず一回出ていこうということで、また3月12日に家族を車に乗せて、ここから川俣町は何キロかな?ここから。30㎞、40㎞のところの川俣町という道の駅、多分直線距離ではそれほどないんですけど、山道でいくので3,40㎞行くんですが、川俣道の駅まで着いたんですね。
 というのは、車にガソリンが半分しか入ってなかったものですから、戻るのであればこの地点。福島市に行くまでだったらこの地点。そこでもう一度冷静に考えようということで、川俣の道の駅で車中泊をしたんです。
 300とか500とか、そういった数字が・・・。
 そんなところまで子供を連れて走りたいなとは思わなかったと思います。
 でもあの当時はあの道しかなかったんです。
 もちろん南には行けませんでした。原発がありますから。
 北は津波で道路が壊滅。
 私たちに残されているのは柳沢から飯舘に向かう道。
 途中・・・、飯舘のセブンイレブンがあるんですけど、あそこに何回か、公衆電話があるということで止まったのを覚えています。当時すごく高かったというのも後から聞きましたし、だけど、その12日の朝、車中泊をして4歳の子供がイスで不自然な格好で寝てるんですよね。なんかそれを見た時に、
「家に帰れば布団もあるし、電気もガスも水道もあって、普通に生活できるのに、なぜ私はこの子をこんな目に遭わせてるんだろう」
 よくわからなくなってしまって・・・。
Q.その時点で原発、放射能についての知識はどのくらいありましたか?
 3月11日の原発事故が起きるまで、原子力発電所というところの成り立ちは知っていました。
『クリーンなエネルギーである。』
 それで何回か見学に行ってましたし、私も仕事がらみで原子炉の立ってるそばの事務所に何回か行ってましたし、だけど、その普通に原子炉の建屋のすぐそばの事業所まで行ってますから、ここにどのくらいの放射能があって、放射能というものが自分の身体をどういうふうに影響を及ぼすのかっていうのは、考えたことはあまりありませんでした。
 ただ、テレビでよくチェルノブイリ、スリーマイル、そして放射性物質の危険性っていうのは時折はやってましたけど、でもそれが自分に降り注ぐものだっていう認識はあまりなかったと思います。
 放射能物質というものも、例えば原子力発電というものにも広島の原爆を『はだしのゲン』とかそういう漫画の本の、その自分とはちょっと違う、一枚壁を隔てたところの世界の話っていうふうに見てました。
Q.何かほかに生の情報は入ってきましたか?
 情報というよりも、妹が浪江町でしたから、津島方面に逃げた。津島というのは町の西手の山なんですけど、今はとても線量が高い場所なんですが。津島に逃げた。でも、
「津島はダメだ」
「遠くに行け、小高に行け、小高町に行け、小高区に行け」
「小高区もダメだ、相馬に行け」
 でも、その様子を見ていた弟が、
「おかしい。おかしいと思う。」
 弟の家はすこし壁が崩れてしまったのもありましたし、状況も状況だし、子供もいるから、ちょっと遠くに行くということで「一緒に行こう」って言われたんですね。ガソリンも足りなかったですけど。
「でも、ちょっと考えたい。そんな簡単にじゃあ他人様の家に行けないから、ちょっと考えたい。」
 そこでちょっと弟と別れて、弟は確かガソリンが足りなかったんですけど、那須のあたりでやっとやってるガソリンスタンドを見つけて、運転して埼玉に走ったっていうのは聞いてます。
 隣の飯舘村というのは、相馬郡飯舘村っていうんですね。相馬郡っていうことは隣接してるっていうことですよね。原町がありまして、原町の西手には柳沢峠と言われている山道を上がっていくと飯舘村があるんですね。
 飯舘村、震災の津波がありましたので、津波があった東には絶対に行けないんですよ。そして、津波のあった被害っていうのは、テレビは逐一流しましたから、例えば新地町というところの線路は流出してない。南の鹿島区の6号線まで津波は来て、車は流されて通行止めになっている。
 そうすると、私たちが逃げなきゃと思っても使える道というのが、西に行く、福島市に抜けていくための飯舘村というところを通らなければいけない。そして、『飯舘村であれば原発から遠いであろう』という気持ちもあって、私の知り合いも飯舘村に避難してました。
 本当に避難するのであれば、荷物も全てまとめて出ていこうと・・・。
 そこで何回かメールをもらっていたその埼玉に居る、前の主人ですね、ちびの父親がメールと電話をよこしてたんですね。
 でも、もちろんつながりません。メールも時間差で、1時間も2時間もずれます。来たメールは、
『迎えに行くから、ガソリンが無いんだったら迎えに行くから、皆で埼玉に来てくれ』
 悩みました。
 だけど、4人全員行くのは、それはやっぱりいかがなものかと。
 それで家族会議は、ちびと次男が最優先である。もちろん就職が決まっている千葉さえ、あの子がいければ、これから大丈夫。ちびもお父さんのところに行くんだから、2年近くあってないお父さんだけども、お父さんだからなんとかなるかもしれない。
 もしも私に何かあったとしても、面倒を見るのは父親であろうと。
 だからやっぱり申し出を受けることにしたんです。
 車が2台あったので、片方にまだ半分くらいガソリン残ってましたから、ガソリンを持ってきてくれということをお願いをして、途中で待ち合わせをして、子供を渡すってことになったんです。
 それが13日です。
 もしかすると、そうですね・・・。
 子供が『お父さんがいい』ってもし言ったときに、『じゃあお父さんのところに居てもいいよ』っていうことも考えなきゃいけないし、もしかするとこれから何かもっと悪いことが起きた時に、やっぱり子供を手放さなければいけないのかもしれない。
 私もあの時避難に私の保険証券とか実印とか、そういったもの全て持たせましたので、
「これからどうなるかわからないから、あなたが持っていなさい」
っていうふうに預けましたので、そういった気持ちもあの時にはありました。
 だから、13日に帰ってきてから、「じゃあどうしましょう、ああしましょう」っていうことはなく、多分ずーっと泣いてたような気がします。
 ともかくあの子たちだけでも、無事なところに行ってくれればという想いだったと思います。
 なので、14日は仕事に行きましたので、仕事に行った先、まあ老人ホームですので、でも・・・あの日は爆発音も聞こえましたし、6号線沿いの老人ホームのすぐ裏の、すぐ裏ではないですけど、原町火発が爆発したという誤報が流れて、でも黒煙は上がっていて、その時に津波で全壊したヨッシーランドのおじいちゃん、おばあちゃんも老人ホームへはたくさん来てましたので、てんやわんやの、なんか、ショートステイの私は、ショートステイというのは、1泊2泊3泊だったり、短い預けられるおじいちゃん、おばあちゃんたちの部署にいましたけども、震災当時預けられていたおじいちゃん、おばあちゃんのお家は流されてしまって、ご家族は行方不明の方もいらっしゃったり、自ら津波のシーンを見せられていたおばあちゃんが、ボケが進んでしまって、もう何を言ってもまともな受け答えができなくて、
「震災前はあんなにしっかりしていたのに、人ってこんなふうに変わっちゃうんだ」・・・
Q.14日に爆発音が聞こえたということですが?
 14かその、放射能が飛び交ってるよっていうのは、スタッフの間で話をしたんですね。だから「窓締めようね」とか。だけど、外に出ないわけにいかないので、たまたま外に居たんだと思います。
「じゃあ何時何分に爆発があったの?」
って言われると、私も定かではないんですけど、言われると
「あれ?じゃああの音だったの?」
っていう。
 あの時余震もドーンと来たんですけど、ドーンみたいな、こう、なんか鈍い音が聞こえたんですね。だから、
「いったいどこでタイヤパンク・・・?いや、タイヤパンクじゃない。何か変な音がした。」
 なんか、それも友人たちと話してました。
「何か変な音がしたよね。」
 そしたら、海の方で遺体捜索をしている人たちが、キノコ雲が上がったのを見てた・・・。3号機の爆発だと知ったのは、後からです。
 そして、その前後に、車、走る??何かが原町火発で検討をして、車の炎上で黒煙が上がったというのを後から聞いたんですが、管内放送で所長が
『原町火力が今爆発しました。火事になっています。詳細はお知らせします』
というアナウンスが流れたんですね。
 あの時、正直『火発もだめ、原発もだめ』目の前にはおじいちゃん、おばあちゃんがたくさん居て、「このまま死ぬのかな。ここで。」
 余震も来ます。
 震度4、震度5という余震がたくさんきます。
 その都度、動けないおじいちゃん、おばあちゃんとベットごと動かすのは、もう皆体力が無かったので、シーツにくるんだおじいちゃん、おばあちゃんを引っ張って、避難先の広い食道ホールに連れて行くんですけど・・・、今でも覚えてます。帰るときに、大きいごみの袋があるんですけど、上の人が
「高村さん、駐車場の車いくまで、ちょっと心配だからこの袋かぶって帰りなよ」
って言われて、袋をバーッとかぶって駐車場まで行ったの覚えてます。
「なんでこんなの被るんですか?」
「いや、あの、放射能っていうのがいっぱいあちこちあるから、危険らしいよ?」
「まぁそりゃそうですけど、こんなんで大丈夫なの?」
みたいな。そんなふざけた感じで。
「一応かぶって、車に行って、じゃあこの袋をどう処分すればいいのよ。」
「うーん、まぁ誰も多分そんなことわかんないで、いいや、ご普通にゴミで捨てよう」
とか。
 そして家に戻るんですけれど、そしたら強い余震が。電話を寄こして、
「ダメだよ」
 普段仲のいい・・・、あの、3月11日もお茶を飲んでいた主婦の友達なんですけど、その子のお兄さんっていうのが、そういった原発の方の下請けだったりとか、原発で働いてる友人が多いので、そういった方の情報をお兄さんから友人のところに来て、同じ母子家庭なので、普段から
「母子家庭だと大変だよね」
なんて話をしていた、すごく仲のいい友人だったんですね。
 またその友人が、
「ダメだってみんな言ってる。逃げろって言ってる。」
 またその友人の家には、小高区から逃げてきた親戚が居たんですよ。小高区から逃げてきたから、いろんな情報を持ってるんですよね。
 私は知らなかったんですね。
 その処理済みプールだとか、えーっと・・・MOX燃料の3号機がMOX使ってるとか、知らないですよね。
「もうね、あそこはMOX燃料だからね、駄目なんだって。だから、もうね、本当に核爆発してるからね、ダメだって言ってるよ?」
「えー!何それ!?」
 多分それは友人の姉の兄の友人だったんですよね。原発で働いてる人たちが、言ってる。
『核爆発してるから』
 普通私たちの中で核爆発、広島とか長崎のイメージしかないので、
「じゃあもうダメじゃん。どんなに逃げたって無理じゃん。」
「それでもまだ広島の原爆とかそういうのとは違うから、ともかくここから逃げろって言ってるから逃げようよ。」
「だって行くとこもない。」
 そしたら、その友人がまたちょっとおもしろい友人で、
「じゃあさ、避難と思うと辛いからさ、温泉かどっか行こうよ。」
 それでその友人と土湯温泉方面に逃げることになったんですけど、ところがそこでまたメールと電話がつながらなくなってしまって、ちょっと友達とは離れてしまって、私は14日の8時くらいに飯舘村のセブンイレブンがあったところでずーっと友人を待ってたんですね。
 でも待てど暮らせど、友人は来ないわけですよ。多分友人もほかの車、一緒に行った親戚とかと一緒にいったので、多分行ってしまったと思うんですね。でも、私は判らないので、連絡がとれる公衆電話があるところで待っていようと思って、ずーっと4時間くらい飯舘の後から知った高線量のところで、外にずーっとマスクもしないで、あの時雪が降ってましたので立ってたんですね。
 その時のたくさんの車とたくさんのバスが数珠つなぎのように走って、みんな福島方面に逃げてるんですよ。
「あぁ、私は多分このまま置いていかれてどうなるんだろう?映画のワンシーンのようなたくさんのバスに乗れない私たちは、どこにこれから行くんだろう・・・?そして、やっぱりここは危険なところだから、だからああやって、たくさんの人たちはどこかにいくんだな。」
 それが3月14日の夜ですね。飯舘村で待ってました。
<45:30頃まで>

【後半】へ続きます。

失礼します。
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