※この記事は、12月6日 【内容起こし】IWJ 百人百話 第21話 手塚雅孔さん『放射能のことを話してはいけない空気』【前半】に関連しています。

【動画】
12月8日 百人百話 第二十三話 佐藤幸子さん 前編
http://www.ustream.tv/recorded/19006464 (61:36)
12月9日 百人百話 第二十三話 佐藤幸子さん 後編
http://www.ustream.tv/recorded/19026073 (95:52)

【以下、お時間のない方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2011年10月13日収録
 私は川俣町に住んでいます佐藤幸子といいます。
 歳は53歳です。
 子供が5人おりまして、長男が29歳で東京の方におります。長女は25歳でチェルノブイリの歳に生まれました。今は米沢の方に避難しています。次男が20歳で福島市のほうで仕事をしてまして、これがなかなか避難を決めてくれなくて、まだおります。福島の方に。それで、三男が17歳。次女が13歳。この二人が今私と米沢で私と一緒に住んでいます。
 仕事は、もともとは農家です。
 30年前に結婚したんですけれども、その時から百姓に私はなって、長男が生まれるときに子供に安全な食べ物を食べさせたいというところで、無農薬の野菜やお米、そして平飼い養鶏といって、昔ながらの鶏の飼い方で地面に放し飼いにして、卵を作って消費者に直接届けるということをやってました。
 そのあとに、いわゆる有機農業ということのやり方から、少し自分たちの生き方を問い直した時に、自然農といって、畑や田んぼを耕さないやり方で作物を育てるというやり方を知りまして、そちらの方に20年前に転向して、現在に至ってるんですが、6年程前からその自然農を取り入れながらも、障害者やお年寄りの方と一緒に日中過ごせる場所をということで、福祉の方の事業を立ち上げまして、NPO法人青い空という名前で始めまして、それでヘルパー派遣の事業も併せて行うようになってまいります。
Q.自然農。
 自然農っていうやり方なんですけれども、私が始めるきっかけになったのは、奈良県の川口由一さんという方が提唱されていたやり方で、畑や田んぼを耕さないという、まず、耕すということをやらないというのが大きな特徴で、しかも農薬や化学肥料も使わない。普通の農家の場合だと、まず耕して草を全く生やさないというのがやり方なんですけども、草も虫も敵とせずという、必要があって生まれたものは、この世に無駄なものは無いという考え方でやるというところで大きな違いがあります。
 県内で自然農をやってる仲間というのは、だいたい20人くらい居たんですけれども、私のところで研修生を受け入れをしていたので、研修が終わった後に県内に、宮城県の県南の方にも入って、自給できるように生活をしているという方がいました。

Q.自然農を始めるきっかけ。
 結婚して1年後に子供が生まれることになったときに、やっぱり自分の子供には安全なものを食べさせたいなということで、それまでは一般的な農業をしていたので、農薬や化学肥料を使って農協に出荷するというやり方だったんですが、私が仕事を務めてたんですけど、それを止めて、それで一緒にやることになったときに、何がいいかなということで、いろいろ調べまして、それで本屋さんで買ってきた本が、『自然卵養鶏法』といって、これは岐阜の中島正さんという方が提唱されていたんですけれども、昔ながらの養鶏をすることによって、鶏糞を使って畑を作る。そうすると、農薬も必要ないし肥料も必要ないということが書かれてあって、それをやろうというふうになったんですね。
 5年くらいそれを続けてやっていました。
 最初は45羽からスタートして、雛を入れたんですけれども、縁あってコークマートさんにも卸すことができるっていうことになって、1000羽まで増えたんですけれども、1000羽まで増えるとかなり収入もあって、貯金もできるというくらいまでいったんですが、自分たちの生活の中で、何かちょっと腑に落ちないところがあって、それでどうしようかなっていうのを思いながら、さらに5年くらい続けたところに、その川口由一さんの自然農に出会って、今までちょっと疑問に思ってたようなことが、そえでストーンと腑に落ちたという感じで、それを自分たちのやり方の中に取り入れようということになりまして、それで自然農に切り替えたというところです。
Q.自分たちの生活にあっていた自然農。
 自然農に切り替えた時に、実はほとんどが手作業でやらなければいけないというやり方なんですね。それまでちょっと腑に落ちなかったっていうのは、有機農業でやってきたときに誰でもそうですけれども、規模拡大をしてそれで収入をたくさん得るということが生活を豊かにするというようなことになるわけですけれども、収入たくさん得ることによって、いっぱい作物を作ることによってどういうことが起こるかというと、自分では野菜やお米を作らなくてもいい人を増やすという、私たちの作った量なんてたかが知れてますけれども、それでもその分誰かが作らなくても食っていけるという、そういうことになるわけで、本当にこれからの社会、それでいいのかな?っていうことをずっと思ってたので、
「自分で作物を作る人を増やすべきではないかな?自分たちが作らなくなれば、その分誰か作る人を増やすことが出来るんではないかな?」
っていような思いがあって、それで規模を縮小していって、自分でやりたいっていう人を受け入れをして育ってもらうというようなやり方に替えていったんです。
 それは、自然農の田畑になった時に、ものすごく気持ちがいいという自分の中でね、あったんです。子供の頃、野原で遊んでいた時の匂いが、畑の中からしてきたんですね。
 それは、畑の中にいろんな草があって、虫がいてっていう、そういう状況が野原と同じようなにおいがしたんだと、それがものすごい心地よい感覚で私の中に入ってきて、
「この世に生まれた命は、何一つ無駄なものは無い。必要だから生まれてきたんだ。」
というその言葉が自分の中に、腑に落ちたということですね。
 収入はね、実は鶏がほとんどの収入源だったんですけれども、それがだいたい300羽くらいにしたので、単純に計算して3分の1になったということなんですけれども、3分の1になっても、自分たちの中では何も心配することはなかったということですね。
 お金で買えるものって、実は本当に必要なものかどうかっていうことも常々思っていたので、なのでお金が無ければ無いなりの生活の仕方があるって。お金があるがゆえに、無駄なものにお金を使ってしまうっていう、そういうことがあったので、減ることに関しては何の心配もなくいましたね。
Q.出身、生い立ち。
 私の生まれは、同じ川俣町なんですけれども、結婚して住むようになったところから3㎞ほど離れたところです。ただ、小学校の学区は一緒だったのでそんなに離れたところではないんです。
 私の周りはほとんどが農家で、ただ私の家だけが農家ではなくて、お店屋さんだったんですね。ご近所の方にどこでもそうですけれども、昔の方は自分とこで食べきれないくらいに作って、それを食べてもらえるところに持って行くということをしてたわけなんですが、隣近所、皆農家なので隣に持って行っても誰も喜ばないんですが、うちでは作ってなかったから、近所の方達が持ってきてくださるとうちではそれを大喜びしてそれをいただいて食べるという、そういう環境で育ったんです。
 なので、野菜を作ってはいなかったけれども、買って食べたという記憶が無いという、常にもらって食べてるというような家庭環境でした。
 それで、結婚するまではそこにずっと、学校終わってから地元の商工会というところに4年ほど勤めてたんですけれども、そういうときに結婚して、結婚した相手が農家の長男だったので、そこで同居をして、私が1人目の子供が生まれるとわかった時に、私も仕事を・・・事情があって職場の上司とけんかをして、辞表を叩きつけて帰ってきたので、辞めてそれで百姓をやると宣言して、それからそういうような有機農業に転換するということになったわけです。
Q.ふるさと、川俣町
 私の生まれて育った川俣町というのは、盆地で東西南北すべて山に囲まれているというところで育ちました。
 川俣町の東のほうの福島県って浜通り・中通り・会津と分かれるんですが、中通りの中の一番東なので、浜通りに超える山が東側にあるというところで育ちました。
 私の実家のほうは、養蚕とたばこをしたいということで、どこのお宅に行っても、蚕さん飼って煙草を作ってというところで、私も小学校の頃は農家の作っている姿を見て、親戚・父の実家ももちろん養蚕をやってて、たばこもつくってたので、子供の頃は手伝ったりということで、家は商売でしたけれども、そういう風景があるところで私の大人になるまでの過程は、そういう田舎の本当に小麦を作ってたりとかナタネを植えてたりとか蓮華があったりとか、そういうような昭和30年代40年代の風景の中で育って、自分が結婚して百姓になるときに、そういうような昔の暮らしを取り戻したいななんていう思いで百姓になったんですけど。
 周りは本当に工場とかもなくて、農家の方達の本当に助け合っているようなところで育ったので、結婚した先もそういうような感じで、ただ結婚した先はちょっと同じ地区なんですけれども新しい家がどんどん建っているようなところではありましたけど、まだまだ畑田んぼがあるような場所で生活をしてました。
 結婚した先は、3代目ですね。
 その前は、保原町と岩代町からおじいちゃんとおばあちゃんが来て、絹の町・川俣というそこが機織りの産地だったので、そこに機を織りにおばあちゃんが来て、それでおじいちゃんと出会って結婚したという場所なんです。
 私の実家のほうは、もともとの川俣町のほうに住んでいたという、そういう農家ですね。どちらもだから農家の出身なんですけど。
 私の実家はね、ちょっとそんなには遡れないです。記憶の中では。4代くらいは聞いてる中ではどこに住んでたかっていうのはわかります。
 お墓はずっと昔からのお墓でですね。古いお墓もあります。お墓参りは毎年欠かさずいってます。
Q.3.11まで…。
 3.11の前は、私が20代の時にスリーマイル島の事故がありまして、その直後に???田んぼが見つかったとかね、そういう話を聞いてたんですけど、その時はまだ私独身だったものですから、やはりちょっと意識の方が「大変なことが起こったな」という思いはありましたけど、それほどではなかったですね。
 それで結婚して長女がお腹の中で、長男が4歳の時にチェルノブイリの事故があって、その時に初めて放射能が日本にも1週間後届いたということで、もう自分も含めて子供にも被曝をさせてしまったんではないかなというような重いがありました。
 実は、その後に直後に、恥ずかしい話ですけれども、一生懸命勉強したということで、その頃はネットもないので、講演会があると聞くと出かけていって、長男がそれこそ39度の熱があってもその子をおいて、広瀬隆さんの講演会に来たということもあるんですけども、後は本を買って読んで、原発で働いてる人がどれだけ被曝してるのかとか、どれだけ人の心を踏みにじるようなことでお金を積み上げられて原発ができたのかとか、原発を建てれば建てるほど電力会社が儲かるんだとか、そういう中で核の廃棄物が出てもどこにも持って行くとこが無い『トイレなきマンション』なんだということを、そこで初めて知ったんですね。
「これはとんでもないことだ」
ということで、何人かで仲間でガイガーカウンタを買って定点観測というのを始めて、電話連絡で訓練もするみたいなことを25年前にやったんですけれども、その後に少しずつ記憶から薄らいでいって、それで百姓でもあるのでね、石油が無くなっても食料が海外から輸入されなくなっても、自分たちが生きられる技術を身に着けて、それを子供たちに次の世代へ残していくというようなことをやろうというふうに変わってきていました。
 ですけれども、チェルノブイリの事故の時に、万が一福島原発が事故になったら、山形県に子供は避難させようと、その時に決めていましたので、今回、3月11日の夜中に子供を避難させることを決めて家を出ました。
Q.何故、山形に?
 チェルノブイリの後に、私なりに勉強した時に、最低100㎞避難しなければいけないんじゃないかなというふうに思って、それで山形っていうのは、山で囲まれているっていう地形もあったので、風で飛んで行ったときに、山が防いでくれるんじゃないかということがあって、山形っていうふうに決めてて、養鶏をやってる仲間の会があって、全国自然養鶏会っていうのがあるんですけれども、それの仲間が山形に何人か居たものですから、いざとなったらその友人のところを頼っていこうというふうに決めていたので。
 山形市に3.11のあと3月12日に電話を入れて、
「子供たちを救いたい」
というふうに頼んだんですが、快く本当に佐藤さん、
「ついに来るべき時来たね。すぐにおいで」
っていうふうに言ってくれたので、子供たちに福島に住んでた子供4人、その4人の子供を全員13日の朝に避難させたんですけども。
Q.3.11 その日。
 3.11の日は、私が福祉の事業をやっている福島市の飯野町というところに事務所があるんですけれども、そこに金曜日だったんですけど、利用者さんも何人か来て利用している日だったので、2時46分、そろそろおやつの時間にしようかななんてときに、地震が起こりました。
 それで今まで経験したことのないような強い揺れで、実は宮城県沖地震というのが経験あったんですけれども、その時以上の揺れがあって、利用者さんも机の下に避難、寝ていただいて、万が一に備えたんですが、幸いにも建物とかの被害はなかったので、それは一安心でしたけれども、電気がすぐに切れましたし、電話はつながらなくなってしまったしということで、ヘルパーたちがその時間帯も利用者さんのところに行っていたし、1人が市の方のところの安否確認をしなければということで、てんやわんやでした。
 子供たちは、長男が東京だったので、長男に関してはそれほど心配はないということだったんですが、長女が福島市に居まして、長男も福島市、二男と三男と次女が川俣町に居たんですけれども、三男は私の事業所でヘルパーをやっていたものですから、ヘルパーとして自分がかかわっている利用者さんのところをまわってきて、それで「どこも被害が無かったよ」という報告を事務所のほうに来てくれて、そえで先に家に帰っていたんですが、次女は友達と一緒に町の中で買い物してる時に地震に遭ったんですけれども、幸い何も起こらずに家の方に帰っていてくれたんですが、私は事業所のほうで利用者さんの安否確認をしてからということで、電話でつながらないところは直接行くとか出向いていって、それで確認をして、家に私が帰ったのは、夜中の11時過ぎということで、それから三男が夕食を用意してくれていたものを電気は止まっていたので、ロウソクつけて、子供二人で待っててくれたんですけれども、家じゅうのロウソクと懐中電灯と、食料をテーブルの上に載せて待っていてくれましたから、そこで食事をして。
 一度は布団に入ったんですけれども、このままここに居ることがちょっとやっぱり心配になって、原発、恐らく事故を起こしてるだろうと思ったものですから、すぐに福島に住んでいる長女のところに電話を入れて、
「これから行くから、万が一の時には山形まで避難しなきゃいけないから」
ということで、11日の夜中に娘のところに三人で出かけて泊めてもらったということなんです。
 夫はちょうど2月の末からインドの方に行ってたものですから、震災当日はインドの方でニュースで聞いて大変な大きな地震で、津波で原発の事故でというのは、インドで聞いていたということです。
 4月に帰ってくることになってたので、4月の5日の日に帰ってきて、それでそれまでは私たちが養鶏の方も私と息子でやってたんですけれども、息子は山形に避難をさせたので、私が毎日餌をやりにいくこともできずに、3日に1回という形で養鶏をつづけてたんですけれども、4月になって帰ってきて、それで相談をして、
「養鶏を続けることは無理だ。畑、田んぼも、今年はやれない」
という判断をしました。
Q.避難の決断。
 11日の地震の直後に電気がバチンという音がして切れてしまったんですね。
 どの程度の地震だったのかという情報を得るのに、ヘルパーさんも居たので、まず携帯で見ようかと思ったんですが、携帯もダメだということになって、それで車に行って、カーラジオをかけて、そしたらかなり大きな地震で、津波がきてるようだっていうような情報までは入ったんですけれども、私自身は、利用者さんの先に行ってたヘルパーが渋滞に巻き込まれてしまって、次の仕事に行けないという連絡が、本当に何度も電話をよこした中でやっと繋がって、それでそのかわりにこちらから行くからということで、私が出かけて行ったんですけれども、カーラジオをつけたまま走っていたら、
『とにかく逃げてください。津波がきてます』
という情報が流れてました。
『逃げるとき、車は使わないでください』
っていうんですね。
『車は渋滞に巻き込まれて、逃げることができなくなるので、車は置いて逃げてください』
「何をおかしなことを言ってるんだろう?車で逃げないで逃げられる距離なんて、たかが知れてる」
というように思いながら、利用者さんのところに行ったりしてたんですが。
 とにかく『逃げなさい、逃げなさい、津波の影響で逃げなさい。かなり強い地震でした』というそれだけを繰り返して、原発のことは一切言ってなかったんですね。

 それで、最初のうちは、「津波はここまでは来ないから。でも地震の影響でもしかしたら利用者さんのところが家が倒れたりしてないか」ということで、心配で行ったわけですけど、余震も続いていたし、今後どうなるかわからないから避難をされる利用者さんもいて、そこにちょっと付いていたりしていたんですけれども、ガソリンをなぜかわからないですけど、ガソリンは満タンにしなきゃいけないと思って、2台満タンにして帰ったのが夜中の11時過ぎだったんですけれども。
 子供と一緒に食事をしていて、もうこれはやっぱり家族がバラバラになってるのは、今後何かあったときに危険だということで、娘のところに夜中に行ったんですけれども。
 次の日の朝に、山形の友人のところにすぐ電話を入れて、避難を決めたんです。
 ただ、長女は結婚をしてたものですから、旦那の方が仕事を休めないっていうことで、電話がかかってきて、12日の夜には出発させようと思ってたのに、
「夜に出発できないから、もう1日待ってくれ」
っていう電話が掛かってきて、私は思わず怒鳴りましたね。
「どっちが大事なんだ!仕事と命、どっちが大事なんだ!?」
って怒鳴ったんです
けど、それでなんとか仕事場の方に話がついて、次の日の朝には出られるようになったので、二男も福島には居たんですけれども、仕事場で地震に遭ったものですから、
「仕事場がめちゃくちゃになって当分は休みになるだろうからということで、休める」
っていうことで、娘のところに呼び寄せて、それで一緒に山形に13日の朝、避難させたんですけど、特別、原発の事故があったという情報が入ったわけではないんですけれども、これだけの大きな地震があったら、必ず壊れてると。それは確信を持って私は思ってたので、情報が入らなくても避難はさせたいというふうに思っていたんで、避難させて後で判ったことですが、正解だったと思います。
Q.子供たちは…。
 子供達には、原発のことを小さなころから話をしてたということではないんですけれども、ただ、娘のところでは電気は止まってなかったので、テレビで情報は入れていたようなんですが、それで、私が避難しなさいと言ったときには、娘はすぐに避難を承諾して動くというふうにはなってくれたんですけど、実は旦那の方が、『原発が福島県にあったんですか?』と、そういうレベルの知識しかない人だったんで、事故が起こって、放射能が飛んできたらどうなるかっていうのは、全くイメージができなかったようなんですね。それで『避難をして』と言っても、自分で避難をしなきゃという思いが無かったので、職場から休みが取れないといけないんだとかっていう言い訳になってたんだと思うんですけど、旦那のお父さんのほうが、
「若い二人なので避難させてほしい」
ということをお父さんのが言ってくれて、それでお店に勤めていたのでそこの店長が許可を出してくれて休みが取れたんですけれども、私は子供たちに、
「原発が事故を起こして放射能が飛んでくるようなことになれば、川俣にはもう戻れない覚悟で避難しなければいけない」
ということは伝えました。
Q.原発の情報。
 12日の日に実は、私は一回福島に娘のところに夜中行ってますけど、仕事があったので、12日は戻ってきました。職場の方のヘルパーの手配とかガソリンが手に入らないとかということで、それのことをしなければいけないっていうことで戻ってたんですけれども、12日に実は職場の若い人たちにも全員避難するように指示を出してたんです。
 それで、まず、私は飯野町に別荘があって、そこに若いヘルパーさんたちを全員呼び寄せて、そこで一泊をしたんです。その時にラジオをずっとかけていて、そこは同じ飯野町だったんですけど、たまたま電気がとまらなくてラジオを聞くことができて、聞いていたら12日ですから1号機が爆発をしたということが判って、それで
「これはもうここに居ることすら危ない」
ということになって、若いヘルパーさんたちにも避難を奨めたんです。
 それで13日に私の子供たちと一緒に避難することを決めてくれて、避難したんですけれども。
 まず、私自身は残りました。子供達だけです。
 12日の夜中にその事実をラジオで知って、それでとにかく13日の朝まで、
「もう本当に早く朝になって出発してくれ」
と、そういう思いでずっといたんですけれども、13日に実は避難を一緒にしたヘルパーが自分だけ戻ってきて、13日の夜中に戻ってきたんですけど、その時にみんなで同じ場所に泊まってたから、私が寝てたのを起こして、それでテレビをつけて、電気が回復してたので、事業所のほうに戻って事業所の方も電気がきていたから、テレビをつけたんです。
 そしたら、爆発の炎上してる煙が映像が出てて、
「これはちょっと、マズイよね」
っていうような話をしてる時に、事業所の前の道路を赤いランプが回る車が夜中の2時過ぎに何台も通ったんです。
「これは只事じゃないな。原発の労働者たちを逃がしてるんじゃないか」
っていうふうに思って、
<音声不明瞭>
Q.震災後の福祉事業所、そして避難。
 事業所として土日も私はガソリンを手に入れるためにヘルパーさんにお願いをして、とにかく並んで、2時間でも3時間でも並ばないとだめだったので、並んでもらって、事業所の車を満タンにすべてしてもらったんです。
 14日に月曜日だったので、ヘルパーさんたちも事務所に来るようになって、ヘルパーさんたちにも
「避難できる人は避難してね」
ということは言ったんですけど、
「もううちでは避難ができない。お年寄りもいるし。」
あと利用者さんであってヘルパーもやってた方たちは、障害を持っているお子さんを抱えてるんですね。
「この障害をもった子供とどこへ避難しろというんですか?いけないでしょ?であれば、覚悟を決めて、ヘルパーの仕事はずっと続けます」
 1人ひとり聞きました。避難をするかしないか。仕事を続けられるのか続けられないのか。それによって利用者さんをお断りすることもあり得るということで聞いたんですけれども、避難をするというふうに言ってくださった方には、
「本当に仕事は気にしなくていいから、避難してください。」
 残ると言った方には、
「外に出るときには、帽子をかぶってマスクをして、それで雨合羽のようなツルツルするものを着て、家の中に入るときには、それを脱いで家に入るというようなことをしてください。とにかく海藻類を食べて、梅干し食べて、玄米食べてね」
というような指示を出したんですけれども。
 本当に利用者さんに迷惑を掛けられないということで、やりくりをやるその手配が、やっぱり大変で、小さな事業所ですけれども、連絡がとれずにヘルパーさん自身が被災してるかもしれないという状況だったので、本当に利用者さんに迷惑を掛けられないということでありましたので、事務員のかたでお1人の方は、やはり小さなお子さんが居たので、13日に避難していただいたので、その方が戻ってくるまで、私がずっと手配のほうをしてたんですが、もう一人の事務員は、今後どうなるのかもわからなくて、本当に職場に出て来れなかったんですね。休んでしまって。
 私一人で事務の方をやってたんですが、15日に利用者さんが施設の方にショートステイということで???になってたんですけれども、実は、
「もう施設の方でも食料が入ってこないということで、延長していただいてたんですが、これ以上延長できないです」
という話がきて、それで対処していただかなければいけないということで、ご家族の方は、対処されても家で面倒見ることができないということになって、その方もうちの海の家というところに普段は日中だけ来られてる方だったんですけど、夜も一緒に利用していただきましょうということになって、15日に対処していただいて、海の家に泊まっていただいたんですね。
 実は、スタッフも全員ガソリンがなかったので、通うことができなかったものですから、遠い方は事務所の方に寝泊まりして仕事をしてもらってたんです。その方も、泊まるということで泊まっていただいて、16日の朝に朝ごはんを一緒に食べるときに、その前に私が、
「ゆっくり眠れましたか?」
って声を掛けたら、
「いや、施設に居るときはちょっと眠れなかったけれども、昨夜はぐっすり眠れた。皆にお礼を言わなければいけない」
ということで、朝ごはんの時に挨拶をするっていうことになって、その利用者さんが、挨拶を始めたんです。??歳の方で半身マヒの方なんですけれども、話を始めたことの内容というのが、自分が戦争に行ったときのことおから始まるんですね。ちょっと認知も入ってるもんですから、
『自分が戦争にいってたときには、大砲を打つ時に、頭のいい隊長がすぐそばで指示を出した。出さなければ、きちんと大砲が打てなかった』
という話をしたり、
『今は新幹線や携帯電話やパソコンなどもできて、とても便利な世の中になった。だけれども、そういう便利な世の中になった裏に潜んでいたのは、これです。原発の事故です』
とはっきりとおっしゃって、
『私たちはそうした中でも放射能の影響がある中でも、生きていかなければなりません。だから、皆さん頑張りましょう』
っていう話をされたんですね。
 一緒に泊まってた職員が本当に感激して、
「この方は普通は自分のご飯の心配と、ヘルパーが自分の世話をしてくれないと文句しか言わない人かと思ってたら、そうではない。ちゃんとそれを判ってた。」
『こういう世の中の人災だ』とはっきりおっしゃったんですね。
 それで、「この方としばらくは一緒に生活するようになります」というようなことで、朝ごはんを食べたわけなんですけれども、ただ、私自身の身体が持たない状態になっていて、16日にちょっと立っているのも、本当に辛い状態で、1人でずっとほとんど24時間体制でヘルパーの手配をしたりしていたものですから、もともと私は腰が悪かったんです。
 それで、腰が痛みだしてきて、横になっていればなんとかなるんですけど、立ったり座ったり椅子に腰かけたりするのが、ものすごい痛みが走って来たものですから、
「これはちょっと休まなければダメだな」
ということで、避難をしていた若いスタッフが戻ってきてくれたので、それで事務仕事を引き継ぎをして、私は16日のうちに出発しようと、山形に行っている子供たちのところへと思ったんですけれども、自分の自宅の方がまだ鶏を飼っていたので、その鶏のエサをやったり、荷物をまとめて子供のところに持って行かなきゃいけないものをまとめたりして準備をしていたら、ちょっと16日の夜遅くになってしまって、結局17日の朝に出発したんですけれども、その時にもしかしたら二度と戻れないかもしれないということで、お米と基本的な調味料と、それと私は今まで私の家を訪ねてくださった方達や、養鶏をしている仲間の会があるので、それの名簿を持って、それで山形のほうに17日の朝に出発して、子供たちと合流したんです。
<42:00頃まで>

【その②】に続きます。

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