※この記事は、12月1日 【内容起こし】IWJ百人百話 第18話 佐々木慶子さん 【その②】の続きです。

<01:17:35頃~>
Q.沈黙のアピール
 私が運動方式として取り入れてきた方法は、WAWAWAの会の精神を取り入れてやってきたわけですが、その一つは『沈黙のアピール』という名前で、雄平知事が今のプルサーマルを取り入れる危険性があるということを知って、仲間と一緒に「じゃあどうしたらいい?」ということで、
「『沈黙のアピール』やらない?」
って、私が言い出しっぺだったんですが、
「とにかくわめいたりがなったりしない、大きな大弾幕に私たちの目指すキャンペーン、言葉をやって、ただ黙って立ってるだけでもいいよね。それやらない?」
って言ったら、
「あ、いいね」
っていうことになって、最初は少数の仲間だったんですけど、例えば
『私たちの故郷を第2のチェルノブイリにしないで』
っていうような言葉とか、
『私たちの故郷を核のゴミ捨て場にしないで』
とかっていうような大きな5mもするような大弾幕を掲げて、県庁までたちたいね!っていうことで、それをなんとかしてやりたいということで、県に掛け合って、
「そんなのダメだ」
って言われたんですけど、
「じゃあ、メッセージを届ける間だけ」
っていう条件付きで実施しました。それで、最初は黙って立ってたんですけど、必ずメッセージを届け続けました。

 平日、連日、50日間8月4日から昨年やりました。
 それで、ついに導入されちゃったんですね。案の定、三条件は形式的な手順で『クリアしました』という言葉で8月6日、正式に受け入れ発表し、
「なんで8月6日だ!?」
ってすごく責めたんですけど、
「いや、特にない」
って、とんでもないときに
「プルサーマル爆弾を落としたようなもんでしょ!」
って私、県に迫ったんですけど、
「県のセンスってそんなレベルなんですか!」
と言いました。でも、とにかく受け入れられてしまったので、今は月1回やってますけど。ただ、やるときに私なりの方法で、ただ黙ってないで前を通る方にも「おはようございます」とかね、挨拶すると、やっぱ挨拶ってされると悪い気分はしないと思うんですね。私はやっぱり感触として、7,8割の方は何らかの形で返してくれてました。
 っていうのは、そりゃ「おはようございます」って言ってくれる人は少ないですけど、でも、小さい声で「おはようございます」って言ってくれた人とか、頭だけ会釈してくれた人とか、あとは「わかったよ」って言ってくれる視線で言ってくれた人とかは、なんとなく顔見知りになってくれた人とか、守衛さんが「毎日ご苦労さんです」って言ってくれるし、守衛さんともケンカをしない、そういうお互いに対立的な雰囲気じゃない、そういう運動を展開したつもりで。
 県も、私はそこは評価したいと思うんですが、追いだしたりしなかったし、まともに私たちのメッセージをしっかり一応聞いていただいたし、私たちがただ渡すだけじゃなくて、コメントを必ずつけたのをちゃんと時には小一時間になるくらいしゃべったことあるし、少なくとも2,30分は必ずコメントを添えて言ってきたりしたので、ちゃんと礼儀正しく対応してくれたのは、私は評価したい。そこは。
 ただ、そのことをしっかり受け止めて、実質聞き入れてもらったかということは、プルサーマルは受け入れられたし、現にあんな事故にもつながってしまったし、そういう点は非常に不本意ですけれども、ただ、無下に拒否された、拒絶されたりするようなことはなかったし、私たちが最後のころに言いましたよ。
「このままやるんでは、大事故を起こすまで止まりませんね。」
って本当に言いました。実際に事故が起きるちょっと前に。
 だから、それは県も結構偉い方も聞いた方もいると思うんですけど、だから、私たちが言ったことは、足蹴にしたりはされてないけど、やっぱ巨大な組織がバックにあって、そう簡単には受け入れてもらえなかったなっていう、すごい・・・虚しさもあるけど、でも行動に対する後悔はないです。やり続けてきたし。
 やり続けてきたことが、ある意味、皮肉、皮肉だと思うんですが、評価してくれる人も居たり、
「今頃なに?」
って言いたいとこあります。でも、とにかく自分は信念を貫いてきたということに対する後悔は、一切ありません。
Q.あきらめない・・・。
 私は結果大きな事故につながったことは、非常に不本意だし、そうならないように私だけじゃなくて、仲間。本当に全国の仲間も支えてくれた人が居て、本当に『福島老朽原発を考える会』通称フクロウの会の方達なんかも、本当にメッセージの受付の窓口をやってくれたり、毎日のようにメッセージを私のメールに届けてくれたりしてね、本当に支えられたし、それからいろんな問題点も私が気が付かないようなところも教えてくれたりね、指摘してくれたり、公開質問状を出したり、本当にある意味私たち単独でやるよりも質の高い運動をしたんじゃないかなと思います。
 でも、結果、報われたかっていうと、あんな事故になったっていう意味では報われなかったと思います。
 でも、私はやったこと自体、さっきも言ったように全然後悔もしてないし、やり続けてきた。諦めないでやってきたこと。今も実はやってるんですね。『沈黙のアピール』を月一、6の日にやりますけど、メールをダーッと出すと、何らかの形でアクションを返してくれる人もいるし、
「よくやってるね」
っていうお褒めの言葉をくださる方もいるし、そういう意味で、県民と県とのパイプ役をしていこうと。
 信念を貫くことに意義があるんだと。結果は今は報われてないけど、ここで諦めたり、あとはどうでもいいやって投げやりになるっていうことは、私も少しは社会に向かって運動してきた経緯もあるし、そういうふうに私と関わった子供たち、今はもう大人になってる子が多いですけど、そういう子たちもあるところから見ている人も居るだろうし。だから、そういう人たちのためにも、私は別に人のためというより自分としてやっぱり貫きたいって思います。
 だから、今後も多分『環境』と『人権』と『平和』の問題については、自分なりに『脱原発』も『ジェンダーフリー(男女平等)』の問題も、『子供の権利』の問題もやり続けていくと思います。
Q.2011.3.11
 残念ながら、3.11の事故は起きたし、あれは午後2時46分ですけど、我が家にいました。我が家の2階に居ました。夫と二人で居ました。
 それで、地震がただならぬ揺れが、しかも長く、止まらないんですね。普通は
「あぁ、ちょっと我慢すれば止まるかな」
っていうので今までは止まってくれたっていうか。
 でも、あの時は、
「なんだこれ、だんだん大きくなる。どうしよ。どうしよ」
本当に立っていられないというか、掴まりましたね、私。壁のところに、ちょうど階段の近くなんですけど。
「えー!これどうしよう・・・」
夫もちょっと脇に居たんですけど、二人して顔を見合わせて、どうしようもない。動けないんですよね。
 そしたらもう、物はガッチャンガッチャンって落ちました。私は結構セキュリティー感覚があるほうだと思います。
 家具が倒れるような家具は起きませんでした。全部作り付けかまたは壁にちゃんと止めておいた。家具は倒れなかったんですけど、家全体が動いたんで、戸棚も動き、中の瀬戸物やなんかはガッチャンガッチャン落ちてきて、割れる音がすさまじかったし、
「これはちょっと・・・只事でないな」
っていう恐怖感ですけど、でも私、不思議に冷静だったんですよね。
「これはどういうことなんだろうな。これは普通の地震じゃないから、どこまで大きくなるのかな?やっぱ原発大丈夫なのかな?」
ってやっぱりすごくそこが気になりました。
 でもまぁ、とにかく悲惨な状況で本なんかが崩れた中で止まってくれたんで、
「どうしよう」
って思ったんですが、とにかくテレビがついたんですよ。電気は奇跡的にあれだったんでやったらば、なんか最初は大した情報が出てこなかったんですが、
「これはちょっと並じゃないな」
と思ってたら、段々『何かがオカシイ』っていうような情報が出てきたときに、やっぱり私は、
「原発事故が起きたら、大変なことになる!」
っていうのは予測できる、ちょっと情報があったんで、はっきり言って逃げたかったです。
 でも私、生活クラブ生協もやってたんで、それのステーションに我が家がなって、週1回のどーんとモノが届いて、人もたくさん取りに来てっていうこともあったので、15日がその日だったんですよ。だから、その日まで逃げるわけにいかないし、11日に起きたからその日までは居なきゃなんないなっていう思いがあって、でも、『逃げたい』。
 ものすごく大きな事故になったら、放射能を被るっていうのは恐怖感あったんで、
「とにかく逃げようね」
って夫に言ったら、
「俺は逃げねぇ」
って言われたんですよ。
「えぇ!とにかくとんでもないことになったとしたら、とにかく逃げようよ」
「いや、お前だけ行け。」
「この夫、説得するのに、本当にどうしよう!」
って思いましたね。
 でも、とにかく一時的でもいいから逃げなきゃってはっきりと思いました。でも、15日まではとにかく逃げれない。逃げられない。
 それで、それまでどこに逃げようと思ったときに、下の方に逃げたほうがいいんじゃないかと思ったんで、やっぱり専従時代に山形県の女性部長と仲良くしてたんで、その人にお願いして、ちょっと家貸してっていうような感じで、その人を頼って許可を取って、ちゃんと一軒家を借りることになったんで、
「行くよ!とにかく一時でも逃げるから!」
ととにかく夫とその時は初めて夫とバトルしましたね。
「あなた一人、置いていけないんだから!とにかく一時逃げて様子見ようよ!」
ってはっきりとそう言いました。
 とにかく15日過ぎて、そん時は、まさに過去、あとから見たら15日が最高線量の高い日だったんですね。でも、その日は来る人も来てくれた人も居たんで、でも、私「あんまり来ないで」とは言ったんですよ。危ないから。でも、欲しい人は来てくださいという形でやって、一応みんなお世話終わってから、いざ「行くよ」ってなって、夫もその時は「仕方ないな」みたいな気持ちになってたんで、
「じゃあどこに行くんだ?ちゃんと行き先決まってるのか?」
男っていうのは、ほんと、きちんと決まんないと動けない人なんですね。動けない人種っていうかね。
 私は本当に逃げるのは、まず行ってからでも、私どうにでもなるというところがあるんですね。でも、この夫を説得させるには、「どこの誰の家のここならあるんだ」という情報をしっかり与えたら、
「じゃあ行くか」
みたいな。もう3か月分くらいの衣類を持って、その時寒かったので冬ものなんですが、夏物まで最小限持って、電気が無かった場合のろうそくとかそういうものも入れて、そういうのみんな私は主導権を握りました。夫はとにかく
「俺はここでいいんだ。死んでもいい」
みたいな言い方するから、
「でも、死ぬのはまだ早いから、とにかく一旦逃げて様子見てまた戻ってこよう」
っていうことでようやく行きました。
 ものすごい吹雪の日で辛かったんですけど、17日一応行って、ほぼ1カ月近く一軒家を借りることできたので、すっごく寒くて大変だったんですけど。
 やぱり風の流れです。あの時はまだ冬だったので、北風の方が季節風的には強くて、北西っていうか、だから原発の方に流れる風上に行きたいということで方向を選んだし、山形のほうが馴染みがあったんですよ。米沢に親戚いっぱいいるし、でも、親戚にあんまり迷惑掛けたくないっていうのもあって、一軒家を用意してくれる人と私なりにゲットしたので、本当に山形の前の女性部長さんに感謝なんですけど。本当に快く「来ていいよ」って言ってくれて、受け入れていただいたこと、今でも感謝です。山形県教委にもご挨拶に言ったら
「いやいや、大変でしたね」
って、暖かく迎え入れてくれて、本当にそういう時は、
「仲間っていいな」
っていうふうに思いましたけど。だから、とにかく仲間のおかげで最大の危機を脱することができたっていうのは、本当に嬉しかったです。
 でも結局私、いろいろ運動やってたので、何回も戻ってきちゃったんですね。福島に。
「こんなんじゃあっちに行ってる意味がないんじゃないか」
って夫に言われて、私もだんだん危機意識が薄れてきて、最初はマスクにゴーグルかけてやってたんですけど、段々自分も・・・ダメですね。環境にならされちゃうっていうか、大丈夫なのかなって、ちょっと状況が落ち着いたように見えただけなんですけど、そういうことで、4月の23日ころかな。また結局引き払って戻ってきました。
「もうこなったらここで生き抜こう」
っていう覚悟をして、原爆みたいな一時的な爆風とか爆破とかそういうのはもう来ないっていうのが一応わかったんで、とにかくもうここで私らは生き抜くんだという覚悟を改めてして、戻ってきました。
Q.ここで生きる。
 私はね、とにかく福島に戻ってきて、もうこうなったらここで生きぬこうっていうふうに思った理由はですね、まず一つは、ある程度歳を超えているということ。要するに放射能に対して、鈍い年代になっているということが大きかったのと、あと、小さい子を抱えてなかったんです。
 私とともに一緒に運動してきたハイロアクションの方なんかは、小さいお子さん、2歳半かな?3歳くらいのお子さん抱えてたので、彼女はもうすっごく敏感ですね、動きが。私、母親としては本当に敬服するくらい、ようくあんなふうに逃げたなと思うくらい立派だったと思います。子供を守るには、あれが本当の母親の姿だと私は思うんですけど、とにかく子供と一緒に行きましたよね。最初、広島辺りまで行っちゃったのかな。今は九州のほうに行ってらっしゃいますけど、とにかく子供のためなら本当に最善を尽くしたのが、本当によく判ります。ましてや、原発の事故の恐ろしさも、彼女もすーっごい勉強したんですよ。急激に彗星のごとく現れて、すばらしい方なんですよね。聡明だし、若いし、本当に楽しい方だし、福島に居ていただいたほうが私は嬉しいんですけど、でも、そういう形でやった。
 私も振り返ってみた時、子供が小さかったら、私も半狂乱だったと思います。
 私、すっごく判ります。小さい子供を持っている、特に母親はね、子供のためにどうにかしたい、守りたいっていう思いがすごく判るので、幸か不幸か私の場合は、もう40になってますので、福島に居ないし、でもね。嬉しかったですよ。息子がすぐ電話かけてきてくれて、
「お母さんすぐ来い」
って言うんですよ。すぐ来いっていっても、狭いんですよね、3LDKの東京のマンションですから。
「でもいいからすぐ来て。彼女も言ってくれてるし」
私はお嫁さんっていう言い方しないんですね。お嫁さんは家に嫁いできたというよりも、名前で娘って呼んでるんですけど、彼女にね、
「お母さん、すぐ来てください」
って、口先だけじゃないような言い方で言ってるのが判るわけですよね。
いや、すごく嬉しいんだけど、それ言ってもらっただけでも嬉しいかったですね。でもはっきり言って、南の方に行く気は無かったんです。とにかく今は北に行ったほうがいいって思ってましたね。
 とにかく『私はここからもう逃げない。生き抜くんだ』というふうに覚悟をして、今も家に居ますけど、やっぱり一番の大きな理由は、やっぱりこの家を自分の思うように自分の設計で建てたんです。実は。終の棲家にしたいと考えたし、私のライフスタイルに合わせてね、夫にも迷惑かけないように自分の・・・好きなように交流できる場を作ったりして。だから、私はこの家で最後まで居る、生き抜くんだっていうのは、震災前も考えていましたけど、でも、やっぱり戻ってきてこの家が私の家なんだと。
 何度も私は前のころに言ったけど、福島が好きなんですよ。
 あんまりあか抜けてない。都会にもイマイチ、イマニ、イマサンかもしれない。でも、この何にもない、気忙しくない、ケバケバしくない。でもなんかあったかみがあって、ちょっと町をのんびり歩いても、なんかちょっと寄っていくようなお店があったり、会ってみたい人に会えたり、福島フォーラムなんていう映画館があって、そこは私たちの望むような映画を上映してくれるところがあったり、私自身が
こういうスポットがあって、今ホットスポットっていう良くないふうに使われてますけど、私の周りにはトレジャースポットのような、宝のようなスポットがたくさんあるわけですよね。だから素敵なレストランがあったりね、そういうお店がある。本当においしいパン屋さんがあったり、そういうお店があるっていうだけで嬉しいんですね。
 そんなにしょっちゅうは行けないですよ。でも、そういう人たちが良い品物を売ったり、いいことをしたりして、私たちが行くと癒しの場になってくれたり、本当に安全な食べ物を提供してくれたりっていう、そういう宝物のような場所がやっぱりたくさんあるんですよね。
 だから、こういう町で暮らしたいっていうことが大きいし、それからもう一つ大きな要因は、私、『沈黙のアピール』やっていて、今も月一回、県に働きかけてやってるんですけど、一番先に働きかけたのがあるんですよ、『大震災を受けて』ってね。『県民が被曝者となって』ってね。その時に書いたっていうか込めた中に、やっぱり
「被曝者になった。被害者だ。」
っていうだけじゃなくて、
『加害者である。』
って、さっきも言ったんですけど、ついにこんな大事故を起こしてしまった加害県の信任権だと、そういう意味で、本当に申し訳ないという気持ちだったんですよ。
 こんな事故を起こした県民として、他の人たちは、例えば私が県外に居たとしたら、
「なんで福島県の人はもっと反対してくれなかったの?」
って思ってる人もいるんじゃないかなっていうふうに思って、
「ごめんなさい。本当に申し訳ない。私たちの力が足りなくて。そして子供たちをこんな目に遭わせて」
ってっていう、そういう。
 だから、逆に、私はここに生き残って、なんらかの故郷を失わない運動につなげたいって、そういう気持ちがね、私なりに大したことないんだけど、自分なりにやっぱり信念を動かさないような、今まで運動してきた立場上、やっぱり反原発、生き抜く自分でいたいなというそういう気持ちが大きいですね。
Q.とどまるコトの意味。
 とにかくこういう放射能まみれの、はっきり言って、放射線量が高くて、放射能管理区域並の地域になった現状の中で、逃げなきゃなんない。とにかく子供と若い人は逃がさなきゃなんないし、居てはいけない場所になったという現実があると思います。
 そういう人たちと、それから逃げたくない人との、ある意味二極化っていうか、そういう現実があると思いますね。
 だから、私はどっちもはっきりいって、主張してる人たちにとっては本音の部分だし、どっちもいいとかわるいとか、『あんた間違ってるよ』とかいうふうな言い方はしたくないんですね。
 ただ、子供にとっては、若者にとっては、健やかに生きながらえる環境ではないよっていうのは、誰も否定できないんだから、とにかく若い人は、居てほしいんだけど、私の本音の部分では一緒に居たいんだけど、でも、ごめんなさいね。こういう環境にした世代責任ていうのを感じてて、申し訳ないんだけども逃げてほしい。
 でも、故郷無くなって、人口が少なくなって、『死の町』っていう言葉を使って失脚した大臣もいましたけど、私、暗にそこに通じる状況になる可能性があるわけですよ。本当に。
 でも、そうはしたくないっていう気持ちもあって。
 でも、厳しい。絶対入っちゃいけない地域があって。
 でも、私それはそれで全部残るべきだとも言わないし、全員逃げるべきだとも言わない。
 でも、残る人があっていい。それは誰なのか?って言ったら、私やっぱり私たちのようなシニアじゃないかと思ってるんですよ。シニアだって、環境が良くないものは良くないだろうけれども、でも、若い人よりは比較的放射線に対して鈍いとか抵抗力があるっていう現実もあり、だから、
「シニアでまず、できることをやろうじゃない?」
っていうような呼びかけをして、私自身『シニアパラダイス 福島プラン』っていうプランをやって、若者はとにかく安全な環境に心配なく場所を提供してもらい、職業も提供してもらって、それは自治体で最高お金をかけてやってほしい。
 それでその穴埋めっていうかその後は、シニアでとにかく生きやすいような、恵んでもらって、良くしてもらって、ただぬくぬく住むようなシニアではいけない。この福島をどのように活性化させていくのか、それでシニア自身も生涯現役で行きつづける意識を持って、最後までどこかで役に立つシニア。それで、存在を認められるシニア。自分も生きがいを感じることができるシニアとして、生き抜く、抜けるような、そういうシステムを作りたい。
 それで、ある意味特区化してね、他県からも逆からいったら、他県のシニアも
「来てみたいな、行ってみよう」
ていうようなところまで特徴のある特区化した、そういう故郷にするのはどうかな。
 あと、流れを見て、帰ってきたい人は帰ってきてもいいし、あくまでもそれは自己決定でそれはやってほしいんですけど、強制じゃなくてね。
 だから、そういうふうにしばらくは、若い子供、小さい子供とか子供、その年代と別れなきゃなんないところもあるかもしんないけど、それはしょうがない。ある程度、時々は行き来してももちろんあれだけれども、シニアは頑張るしかないんじゃないかなというふうに思っています。
 できたらそういう運動を展開していけたらなっていうふうに思います。
Q.最後に・・・。
 これから・・・、この福島をどのようにして生き抜いていくかっていうのは、私なりに覚悟はしましたけど、大きな問題は核廃棄物の問題だと思います。
 核廃棄物は、もうだんだんどうしようもない問題だということは、認識されると思うし、このまま稼働し、原発稼働は許されないっていう現実が突き付けられると思いますが、その時にやっぱり国民として、『それでも原発が必要だ』っていう方向にいかないように、政府も私たち国民、県民、市民もなっていってほしい。
 取り返しがつかなくなってから、
「やっぱり原発はダメだったよね」
ってならないような社会づくり、県づくり、日本づくりをしていきたい。
 できれば、っていうよりも、原発はやっぱり・・・人間の幸福にはつながらないんだっていうことを全世界が認識して、全世界の原発をとめたいっていうのが、私の夢です。
【以上】

失礼します。
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