※この記事は、11月30日 【内容起こし】IWJ 百人百話 第17話 吉田幸洋さん【その①】に関連しています。

【動画】12月1日 百人百話 第十八話 佐々木慶子さん
http://www.ustream.tv/recorded/18857260 (112:36)

【以下、お時間のない方のために内容を起こしています。ご参考まで。】
2011年10月14日収録
 私は佐々木慶子といいます。
 けいこさんというのは、世にたくさんいますけど、私のけいこは、『弁慶』の慶、『慶應』の慶、『松坂慶子』の慶っていうと、実は顰蹙を買うので、一番ウケるのは『弁慶』の慶です。『弁慶』の慶子でよろしくお願いします。
 私は元教師でした。
 中学校英語科の教師でした。
 定年退職をしまして、何年かたちますので、60代ということで。でも、見た目しか見えないので、できたら自分はそう思っても、「え?」って上の方に見るか、下の方に見るかはお任せします。
 私のこだわりは、『環境』と『人権』と『平和』。この三つのテーマをずっと教職時代から、関わってこだわってきました。
 教職員組合にももちろん関わってきましたが、特定の生徒とかそういうことじゃなくて、本当に子供のために何をしたらいいのか、そして教職員、自分の学校の環境をどう改善したらいいのか、そういうことを常に頭に置いて、自分なりに発言したり、職員会議で発言したり、子供たちと話し合いをしたりして取り組んできたつもりです。
 そういう意味では、私は、教職員組合専従として、を実は5年間専従を務めました。県の女性部長だったんですけど、それはすっごく私にとって勉強になりました。
 いわゆる学校現場で教師としての働きだけじゃなくって、また社会的な面から、それからいろんな教育とか学校を第三者的な立場で見られたこと。それから、いろんな意味で情報を受けることができたこと。自分なりに専従を5年間やったというビフォアとアフターは、随分違ったなと思っています。
 やはりいろんな意味で、環境から離れて見直したり、なんていうかな、非日常とかっていうのは人間回復に必要だって言われ方、よくあるんですが、私自身見直した、考え直したりするには、本当にいい時期じゃなかったかなと思います。
 それでその後、6年間現場に戻って退職までやりましたけど、その6年間がやはり教師としては、私は内部での評価ですけど、一番いい教師だったんじゃないかなって自分で思っております。
 他の人との評価ではありませんので、そこは誤解しないでほしいと思います。

Q.生まれ育った福島。
 戸籍上は郡山市生まれです。
 でも、生後半年から、福島市に移ってきましたので、父は鉄道員だったので、ずっと福島市で育ち、福島市野田町に住んでおりますが、市内です。駅から車でなら、10分くらいですし、よく歩いて帰ることもあるんですが、約30分くらいですかね。
 私は好きです。
 どこが好きか?っていわれて困るんですけど、はっきり言って、あか抜けないところがあります。田舎です。県東なんですが、県東なんていうと聞こえがいいですが、どっか都会的になりきれてない。そして、ちょっとあか抜けない。田舎っぽいところが。
 でも、必要なものは手に入れることができる。情報とかたまに東京から劇団とか来たりしますし、コンサートもしてますし、今はインターネットの時代なんで、いろんなものを手に入れることができますけど、街自体は特にあか抜けてはいません。
 だから、たまに仙台なんて行くと「おぉー!」ってびっくりするところがあるけど、特に特徴がないけれども、のんびりしているところが好きです。
Q.家族のこと。
 家族は、夫1人、それから子供も1人。男の子で、彼が40歳になっておりまして、家庭を持って八王子に住んでおります。
 そして、孫が男の子二人います。小学生です。
 孫たちは、福島の田舎に来るのが大好きで、かならず年3回は来てくれます。車で来るんですけれども、暮れ、ゴールデンウィーク、それから夏休み。だから、暮れから正月。本当に嬉しいんですけど、年中行事のように、
「行くの楽しみにしてるからね」
っていうふうに言って、ずーっと習わしになってます。
 だから、すごく嬉しいんですけど、でも今年は違いました。
 今年の5月5日のゴールデンウィークは本当は「行きたい」って言われたんですけど、私は「来るな」って言いました。
 それはご存じのように、残念ながら3.11の地震と福島原発の事故で、放射能汚染地帯になってしまったっていうことを、彼らも知ってましたけど、私は敢えて「来てほしいけど、来ないで」って言って、そのかわり、私たち夫婦が東京へ行って、遊んで来たり、そういう経過があります。
Q.孫のこと。
 かわいいですよね。そして、私を呼ぶのに「ばぁば」とか「おばあちゃん」とかは禁止です。そういう一般的総称で呼ばないで、「けいちゃんって呼んで」って、物心つくかつかないか、小さい時から
「けいちゃんだよ」
っていうふうに言って育ててきたっていうか、私が育てたわけじゃないけど、接してきたので、今はもうみんな、「けいちゃん。けいちゃん」って言ってくれるので、気分よくしております。
Q.3.11前と後・・・。
 3.11っていうのは、もう私自身にとってもすごい転換点だし、それから私は全世界にとっても大きな転換点だったと思っています。
 そのビフォアだった、さっきも言いましたけど、本当に天国と地獄くらいの差があるんじゃないかなっていうふうに捉えてます。
 それで、ビフォアのあの時は、嫌な時もありました。本当に辛い時もありましたけど、でも、アフターになって考えたら、
「いや、あの時にやはり戻りたい。戻してほしいのに、毎日毎日、あの時には戻れないんだ」
っていう絶望的な、そういうのは確信となった。厳しい現実になってきているところを感じていますが、本当に残念だし悔しいし、全世界に対しても私は申し訳なかったって思っています。
 それはなぜかっていうと、私はずっと原発に対しては、よく不信感と疑問点と危機感を持って、大した運動ではなかったとは思いますが、自分なりに反対運動をしてきました。
 要するに『原発はいらない』。
 教職員組合の役員をずっとやってきたときに、やっぱ委員になればなるほど、当時??は、婦人部長という時代があって、それが女性部長っていう名前に変わって、それから支部の役人になったり県の役員になってりというふうになっていったときに、いろんな問題も責任を持っていわなきゃなんない。表現しなきゃなんないっていう立場になりましたんで、その時に原発担当をさせられたときがありました。
 それで、それまで漠然と『危険なもの・要らないもの』って思ってきましたけど、改めて情報を集めて、知れば知るほど不信感と「なんでこんなものが?」っていう思いが膨らむだけでしたね。
 それで、これを「一般的にどう捉えられているのかな?」ってこういう問いを言ったときに、意外と肯定的に捉えられているということを、その温度差を感じて、
「どういうふうに運動をしていったらいいのかな」
っていうふうに、自分の非力さも判っていますから、何様でもあるまいし、私がひとこと言ったからって世の中変わるわけじゃあるまいし、どんなふうに一人でも多くの人に判ってもらいたいっていう気持ちがあったので、感じて、いろんな問題あります。世の中には。
 でも、私原発問題は、最重要緊急課題だって捉えてきたのは事実です。
 なぜかっていうと、
「なにごとか起きたら、みんなダメになるんだよ?」
っていう予感はしてましたから。
 だから、選挙の時も、どうして原発問題が争点にならないのか?どうして皆、原発問題っていうと避けたがるのか?宣伝もよくて納得しちゃってるのか?
 そこを疑問を持って自分なりにジレンマでしたよね。
 だから、非常にそれが心配だったことが、最悪の形で現実になったので、本当に私は悔しいです。自分の反省もあるし、それからそれをもっともっと大きな運動にすることができなかったっていうのがあるのと、私は教師だったので、生徒に対して、子供たちに対して申し訳ない。
 実は、私は組合運動にちょっと重点的にやったときって、授業は一番大事。でももう一つ両輪のもう一つは、子供たちに学力をつけるとか知識を付けるとか、教育の現場でもそういあれもありますけど、私はやはり『環境』。子供たちが幸せに育つ環境を作らなければ、いくら立派な人間に育ったとしても、それはまずいなっていうふうに思ったので、両輪の輪で授業と運動、戦争とかミサイルが飛んでくるような環境に子供たちを放り出したくないという思いで、両方取り組んできたつもりです。
Q.『原発』と私。
 一番最初に原発問題に私自身が関わったのは、新任教師っていうころ。もうずいぶん40年くらい前になりますが、あのころは、教師になると同時に組合に入るというのが当たり前の時代で、ほぼ100%近くの95%以上の人が組合になっていた時代なんで、私の意思というより、入るのが当たり前という感じで入りました。
 そしたら、既にいろんな職場での問題とか、組合からの動員なんかもかかってkちてその頃はまだ訳が分からなかったのですが、双葉での原発建設の時にですね、行くことになったんです。
 それは、福島第一原発、40年前ですからね。今40年になりますかね。今年で40年ということですから。1970年ですね。
 それで、双葉に動員されて行って、そのころはよく判っていませんでした。実態を。でも、皆で『原発反対!原発反対!』っていうふうに、スクラム組んで、ジグザグ行進をしたものが一番最初の関わりでしたね。
「なんで原発反対って皆言ってるのかな?」
っていうレベルでした。
 それなりに自分で疑問を持ち始め、やっぱり何が危険なのか、何が要らないものなのかな?っていうふうに、自分の関心があったけど、確実な情報ではなかったので、でも、事故は起きるんですよね。第二原発3号機で、あれは何年ごろでしたかね・・・?忘れちゃったんですけど、30年くらい前の話なんですが、とんでもない事故になって、爆発寸前にまでなった事故で隠されてて、それも情報が隠ぺいされてて、ようやく住人に知らされたのは、1週間以上も過ぎてからだということが判って、皆、県民全部がそれが判った時に、ちょっと問題になった時があって、
「こんな危険があったのに、なんでもっと早く知らせてくれなかったの。」
そしてその時に、もっと前にそういう大きな事故が起きてたということも判って、
「ええー!こういうふうに事実が隠ぺいされるものなんだ。こんな怖いもの、とんでもないものだ」
っていうことを改めて判って、自分なりに今度は講演会に行ったり本を読んだり、情報集めをしました。
Q.『原発』を学ぶ、そして知る・・・。
 えーっと、私がやっぱり端的に影響を受けた人は、『東京に原発を』を書いた広瀬隆さんですね。あれをやはり読んだ時に、もう原発建設をすることが如何に膨大なお金を要し、そしてそれにゼネコンが群がり、そして4%近くが黙っててもその人たちの懐に入る、仕組みそのものが原発に群がる人に利益をもたらすようなシステムになってるということが具体的に書かれてあったんで、
「えぇー!国民のため、エネルギーのためっていう情報で、私たちは知らされてきたけれど、実際は何?一部の人の利益のためになってんの?」
っていうふうに、今でいえば原子力村の存在っていうか、そういうのを知って、もっと勉強しなきゃなんないなっていうふうに思いました。
 あとは、講演会っていうといろんな講演会に参加しましたけれども、高木仁三郎さんの講演も行ったんですが、残念ながらお亡くなりになったんですが、彼がとつとつとね、本当に飾らない言葉で資料を示しながら、いかに原発というものは危険なものであるかということをお話になった。そして彼自信の生き方は、私はむしろ原発を推進する研究者側、というか企業側に立っていた経歴があって、でも彼は良心に耐えかねて、それを投げ打って、本当に市民運動の研究者で、言ってみれば本当の国民のままの情報を与えてくれてる人だということでありましたので、本当に、高木さんのお話っていうか、存在を知ったことは大きかったと思います。
 科学っていうものが、要するに・・・、使い方によっては人類にプラスをもたらす面もあるけど、非常に大きなマイナス・デメリットをもたらすこともあり、特に原子力に関しては、他の物質とは違って非常に慎重に扱っていかなければ、人類と核は共存できないって言われてますけど、本当に人類の破滅につながるものであるということを、彼はすごく警告してたと思うんですよね。
 ですからそれを聞いて、本当に人類の破滅っていうものは、ちょっと想像できなかったんですけど、でも、「あ、こういうことなんだな」って3.11以降、私は改めて、彼の言葉が蘇ってきたというか・・・。本当に貴重な人を亡くしてしまった。でも、彼の残してくれたものは大きかった。
 でも、残念ながら、こういう事件が起きてから、改めて存在意義を知るというのは悲しいことだなって。
 やっぱりもっと生きてるうちから、そういう危険性とかを察知する人間がもっと多く居てほしかったなっていうふうに。
Q.若き母親だった頃・・・。
 私自身、子供を一人出産してます。
 いかに母親として子供に有害なものを与えないで育てたらいいのか?っていうのはありました。
 私はやはり一番先に気にしたのは、食品添加物でした。
 言ってみれば、かならず後ろを見て、添加物を見つけたら選んで、自然食品のお店に行って買ってきたり、そういうふうな努力はしたつもりです。
 原発については、危ないものだっていうのは知ってましたけど、はっきり言って、そんなに直接的に大きな影響が来るっていうところまでは、まだ当時、把握しきれてないところがありました。でも、とにかく「これは無くさなきゃなんないものだ」っていう意識はありました。でも、これが例えば爆発したり、大事故を起こしたら、とんでもないことになるっていう漠然とした、そういう危機感はあったんですけど、でも、まだその当時は、運動として取り組んでいるのであって、まだ子供にこんなに直接的影響があるっていう実感はその当時なかったです。
 ただ小さいときに私がやっぱり原発に対して反対だなっていうのは、まだ5歳か6歳でも判ってたとみえて、近所にちょっと過激的なお兄さんたちが居て、『原発反対!』っていう大きな看板で置いておいたのを見たんですね。それで、小学校に入ってたのかな。そしたら、うちへ帰ってきて、
「おかあさん、おかあさんと同じことあのお兄ちゃんたち言ってるよ」
って言われて、子供なりに『原発反対』っていう意味が、中身は判ってなくても、私が反対してるっていうのは判ってくれたんだなって、すごく嬉しかったのは覚えてます。
Q.チェルノブイリ。
 原発に関していえば、大きな自覚をしたのは、1986年のチェルノブイリの事故でしたね。
 あの時は、当時ソ連・ソビエトが、
「ソビエトで大きな事故があった。原発事故があった」
っていうのが流れてきて、世界に流れてくる事故だから、よっぽど大きな事故なんだというふうに思って、ニュースを追っていったのですが、とにかく
「遠くの国だから大丈夫だろう」
って、最初は思いました。でも、なんか知れば知るほど
「ジェット気流で日本には既に原発の雲は来て、落ちてるよ」
っていうようなことも判ってきたし、
「えー!あんな遠くの国なのに、原発事故ってこんなに全世界に影響するのか」
っていうこと、なんとなくわかって、ソビエトにすぐ近いヨーロッパの人たちも大変な混乱になっている。お肉は食べられない、牛乳はダメだ、チーズはダメだ、バターが駄目だっていう、そういうことをニュースで流れてきたので、
「いや、あの人たちは牛肉とかバターとかミルクが主な食べ物なのに、どうして生きていくのかな。何を食べていくのかな。大変だろうな」
っていうふうに思って、ますます日本の原発、あんな事故が起きたら大変だっていうふうに思って、
「原発いらない」
っていう気持ちを強く持ったと思います。
 チェルノブイリが起きた時は、子供が高校生になって、1年かそこらだと思うですけどね。私はその頃は、もうすでに組合運動、ある程度長期間関わってきた時期だったので、やはりいかに原発事故が起きたら収拾がつかないものであり、放射能は国境がないものであり、自分の生活、いくら遠いと言っても影響を受けるものであるっていうことで、一番ショックを受けたのは、起きたところから何十㎞も住めないところになっているという情報が来たとき、
「ええ!日本で起きたら、ええ!!もしかして福島原発で事故を起こしたら、もしかしたら、私住めなくなるのかしら」
っていう恐れを、その時はまだ漠然としてましたけど、狭い日本という認識はありましたから、狭い日本はどうするのかな?っていうふうに、非常に心配になった覚えがあります。
 だから、そのために何をやったか?って言われると、ちょっとあれなんですけど、とにかく役員をしていた時代だったので、やはり運動と情報を強く発信したっていうことで、特に具体的にどうこうっていうのは、ちょっと思い浮かばないですね。
Q.プルサーマル。
 えー、福島原発事情に関して、やはり無視できなくなってきたし、もっともっと関心を持って、自分は持ったけど、持ってもらいたいっていう、そういう立場でもあったので、いろいろ運動を仕掛けたところもありました。
 県内にはもちろん私だけじゃなくて、私よりも前からもっと深く運動をしてきた方々がいます。いわきのほうでは
佐藤かずよしさん。今はいわきの市議会議員として活躍してらっしゃいますが、でも彼はそういう肩書のない時代から、本当に原発に対しては、同じ県民で福島原発に対して問題意識を投げかけてくれてて、私はそういう意味では、彼のグループのメンバーではあったけど、中学としてはいわきだったんで、彼は。あんまり具体的には協力できない面はありましたが、ただ節目節目には関わってきて、彼からの情報をたくさん伝えてましたし、だから、福島原発の事情はそれなりにつかんでました。
 私がやはり役員をやっていたときに、ちょうど前知事である佐藤栄佐久福島県前知事ですね。が、一旦プルサーマルを受け入れたんですよ。なってすぐに。
 それで、「大変だ!これはなんとかしなくちゃ!」っていう思いがあったので、私は女性部長だったので、女性へも働きかけたし、それから退職女性教職員、あけぼの会っていうものを、それも受け持っていたんですね。それの事務局長やってたので、あけぼの会の方達にも「大変なことだよ」って。
 そしたら流石、女性だけあって、
「いや、これは大変だよね」
っていうことで、学習会をもったり講習会をやったりして、「じゃあどうしよう」っていうんで、県庁前に行って、栄佐久さんっていうよりも、当時の東電の社長が栄佐久知事に要請書を持ってきたときに、県庁前に張り込んでいて、一緒に「やめてくださーい!!!」って東電社長に直接声を掛けたり、あとは県議会に要請書を出して、「取り入れないようにしてほしい」っていう、当時の役職で出したり、そういう反対の運動をしました。
「このまま通されたらどうしよう」
 その当時、サッカーのJヴィレッジですね、130億円東電が出して栄佐久知事も受け入れて、「それが了解のGOサインじゃないか」みたいな言われ方をして、本当に危機感いっぱいだったんですね。
 プルサーマルっていうのは、普通の原発より怖いっていうのがそれなりに私なりに学んでたんで、普通の原発の何倍も、もし有事の事故を起こしたら影響があるしね、プルサーマルっていう、プルトニウムっていう物質が非常に普通のウランより怖いというのを知ってましたから、とにかくやめてほしいということを、当時一生懸命やりました。
 栄佐久前知事は、彼なりに学習会をもってくれたんですね。
 多分核燃??会だったと思うんですが、それで自分なりに推進派と反対派の学者を呼んで、両方に論旨をやってもらって、疑問を投げかけて勉強するというような形式で聞きましたけど、そういう勉強を2年間最初にやって、それで彼なりに疑問を持ったんです。そして、いろいろ国に対して???というところ疑問を投げかけたんですね。
 その後、また新たにエネルギー政策検討会でまた継続的に学習会をしていったんですね。それでその中間報告っていう冊子も出したんですけど、非常にそれが良い内容で、体制側のものっていうのは、だいたい私たちから見れば、Objectionっていうか反対にしたい内容が多いんですけど、本当に私たちから見ても、危機的な視点とか、それから問題点をしっかり投げかけて、特にバックエンド対策っていうか、「廃棄物をどうするんだ?」そこを何回も彼は言って、「福島を核廃棄物の最終処分書にするな」ということをすごくしつこく言ってました。
 内心、あんまり権力者側にエールを送りたくないっていう根底の部分があるんですけど、私はそのことに関しては、もう
「佐藤栄佐久知事、頑張ってくれ!」
っていう気持ちを出してました。
 全面賛成ではないけど、全国的に原発反対をしている仲間、それがたくさんいるんですけど、彼らから羨ましがられたっていうか、
「なんで慶子さんの知事はすばらしいんだ!」
って。
 知事はバレンタインデーに、栄佐久知事にエールを送りに行かない?って呼びかけたら、全国からメッセージが集まって、20通以上集まった。人数も20人くらい集まったかな。それで、メッセージは全員から集まったんですが、バラの花束とチョコレートを持って行ったんですよ。知事に会いに。
 したらば、知事がちゃんと出てきてくれて、
「あなたの指示した原発政策すばらしいから、全国からあなたを認めるメッセージが来てますから受け取ってください。今日はバレンタインデーですから、チョコレートも受け取ってください」
って渡したら、彼も、
「ありがたいですけど、チョコレートは受け取れません」
って言われちゃって、
「メッセージはありがたく受け取ります。ただ、チョコレートとバラのほうは受け取れません」
って言われて、私、
「チョコレートは判りました。引き取ります。でも花束はいいんじゃないですか?気持ちですから。知事室に飾るだけでいいですから。何か仕掛けがある花束でもないですから。お願いします」
って言ったら、
「そうですか。判ります」
みたいにいって、彼は、そこを受け止めていただけたんですよ。あれはすっごく、一塊の県民・市民として行ったわけですけど、ちゃんと対応してくれた知事は、やっぱりすごいと思いました。
 ものを受け取るということは、やっぱり公的立場の人間として、なんかそういう裏取引につながるんじゃないかと慎重姿勢だったんじゃないかというふうに、私は評価しました。やっぱりそういう点では、いわゆる裏取引とか賄賂とかね、そういうものに対する潔白性を示したんじゃないかなと私は捉えました。拒否されたというよりも。
 いや、あの、そういう素晴らしい知事って私たちは認めてましたから、原発政策は全面的に賛成してましたし、男女共生の政策も彼は率先してやってくれた時があったし、教育面に関しても、私教師としても教職員組合の立場からみても、東北6県の中でも率先して40人学級の導入の仕方とか、他県よりも先駆けて取り入れてくれるような面があって、非常にいいことしてくれてるな、と。
 そしてさらに、私としては、当時評価したかったのは、『原発に頼らない地域振興について』っていうのを言いだして、そういうテーマの講演会をあちこちで立地町なんかでもやり始まった時期だったんですよ。それで、
「あー、もうそれは是非やってほしい」
と、私は内心思っていたので、いいことだと思ってた矢先に、彼は逮捕されたっていうニュースが入ってきて、
「えぇ!なんで!?何が悪いの!?」
っていう、そういうびっくり、青天の霹靂っていう感じだったんですけど。
 やっぱり国に逆らうっていうか、方策に反論する人に対しては、こういう仕打ちが来るのかなって、正直思いました。
 でも、その時はそれを私が自分で思ってただけで、まだ確認する段階ではなかったんですけど、でも、ちょっと日が経つにつれて、仲間内ではそういうふうな見方があって、でも一般的には、
「やっぱ18年間もやった知事だから、やっぱそういう何かあったのかな?」
みたいな捉え方をしたのも事実で、だから、ハッキリ言って、全県挙げて彼を救おうっていう運動までは高まらなかったのは、今思えば残念でした。
<40:20頃まで>

【その②】に続きます。

にほんブログ村 環境ブログ 原発・放射能へ
にほんブログ村

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村