※この記事は、11月29日 【内容起こし】IWJ 百人百話 第16話 齋藤英子さん【その①】に関連しています。

11月30日 百人百話 第十七話 吉田幸洋さん
http://www.ustream.tv/recorded/18836958 (74:44)

【以下、お時間のない方のために内容を起こしてます。ご参考まで】
2011年9月28日収録
Q.自己紹介をお願いします。
 吉田幸洋といいます。
 私はいわき市の北部なんですけど、いわき市の久ノ浜地区というところで、いわき市の海岸線沿いに地域があるわけなんですけども、ここは3.11のころ地震と津波。
 それで私は無職なんでございますが、私たちが住んでいる部落はいわき市の中の海岸線に位置していまして、今度の3.11では、地震と津波、それと火災によって、旧市街というか、街部分なんですが商店街を含めて壊滅的打撃を受けたわけなんですけども。
Q.震災後の状況を教えてください。
 そうですね。旧市街地というとほとんど7割8割が全部なくなっちゃったわけですね。
 津波で。
 それと合わせまして原子力発電所の爆発事故がありまして、避難所に居た人間が、やはりまた再避難するというような事態がおきまして、私は幸いにもこの地震と津波では高台に家がありましたので、逃れたわけなんですけども、被災した方たちの支援ですね。炊き出しとか、そういったものをやってたわけなんですね。
 ですから、3.11、3.12、この時点で、炊き出しをやってたわけなんですけども、突然警察とか消防のほうから、
「逃げろ」
というような形で、その避難所にきたものですから、どういうことかわかんなかったんですけど、その「逃げろ」という言葉に我々もボランティア的な形で取り組んでたんですけども。

Q.それはいつの話ですか?
 3月13日、私は3月11日ですね。
Q.どのように避難されましたか?
 仕事先に向かってたんですよ。それで、「さて仕事に取りかかろうかな」と。3時からの勤務体制だったものですから、その準備をしてたんですけども、自宅のほうから電話がありまして、
「今久ノ浜地区が地震と津波で大変な状態になってる。仕事やってるような状態じゃないから、すぐ自宅のほうに戻ってほしい。」
と、自分の家内から連絡あったんですけど、それで私はとりあえず、仕事場から自宅に戻ったわけなんですけども、あの当時のパニック、やはり国道なんですけども、まぁ車が走れない、そういうような状態だったわけです。
 道路は崩壊してましてね、なかなか自宅には戻れない。通常ですと25分から30分で自宅に着くんですけれども、やはり2時間、3時間はかかっちゃったわけなんですね。
 その中で自宅に戻って、街の市街地の方を見たら、そこに火災が発生してましてね。空は黒煙っていうんですかね、黒いような煙なんですが、そういう状態で街全体を覆ってまして、私の家の前を被災した方が避難所に向かって、避難してるわけなんですけども、私はその段階で、もう夕暮れになって暗くなってましたので、灯光器を上限に向けてつけて、やはり避難者の方に対して、足元が暗くてご不便だろうという形の中で、灯光器を灯したわけです。
 それと玄関を開けておきまして、トイレ利用の方もおりましたので、トイレの利用等々、そういったものに対しても自宅を開放したわけなんですね。
 それと、テレビ報道、これをやはり玄関を開けておくことによりまして、テレビの画面が表からも見えるような状態でしたので、情報の提供というような対応もしておったわけなんでございます。
 それで、その避難所っていうのは、私の家から200mくらいの高台の久ノ浜中学校というところに設けられたわけなんですけれども、そこに被災された方が全員避難してきたわけです。

Q.津波はご覧になりましたか?
 自分自身は見てなかったんです。職場に居た時には、地震によって駐車場が大きな地割れしまして、割れているのが見えたわけなんですね。
Q.今おいくつですか?
 私は62になるんですけども。はい。
Q.今何かお仕事はされているんですか?
 アルバイトっていう形で、声が掛かればそこに仕事にお手伝いにいくという形なんですけどもね。
Q.前の仕事は何をされていたのですか?
 それはですね、水産業、第一次産業の漁業協同組合というところに奉職してたわけなんですけれども。
Q.現場に戻った時には、既に津波は周囲を囲っていた?
 はい。自宅に戻った時には、もう津波の被害がありまして、もう街全体が瓦礫の山になってました。
Q.炊き出しをはじめられたのは、いつ頃ですか?
 はい。自分はですね、12、13なんですけども、久ノ浜地区は13日でもって、全員また二次避難、三次避難という形になったわけなんですね。
 その当時ですね、いわき市のほうから、
「バスを用意します」
という形のなかで、久ノ浜地区だけじゃなかったんです。その当時は富岡・楢葉・広野の方々も久ノ浜中学校のほうに避難されてた方もおりまして、その方々も一緒に湯本地区の方に避難したわけですね。
 私の場合は、朝の炊き出しのほうをボランティア活動でやってたんですけど、その段階で「避難しろ」という形で、消防団とか警察のほうから、パトカーのほうから連絡がありまして、わけがわかんない状態で、もうそのままの状態で湯本地区のほうに避難していったわけなんですね。
 ですから、私たちも地震・津波の被害は無かったんですけれども、それこそ着の身着のままというような状態で避難していったわけなんですね。
Q.避難をされた初めの頃、原発事故は念頭にあったか否か?またそれを知ってどのように感じたか?
 えーっと、原発事故のことは想定はしておりませんでした。考えては無かったです。
 ですから、私どもが「避難しろ」という指示が出た段階で、
「原子力発電所に事故が起こった、爆発事故だ」
というような形を聞かされた時には、まぁ自分も
「そんなことがあるんだろうか?まさか原発が事故を起こすんだろうか?」
と、そういうな気持ちになりました。
Q.なぜ原発は安全だと思っていたのか?その時点までで、原発に関して知っていた知識は、どのようなものだったのでしょう?
 やはり、現在まで私の場合はですね、原子力発電所は今まで事故が無かった、事故が無かったと。そういう中でやはりテレビ報道とか、新聞報道の中で度々原子力発電所を記録の隠ぺい、記録隠し、そういったものがあって、やはりプルサーマルがちょっと軌道に乗らなかった。それでも3号機がそういった稼働できるようになったということは、安全審査とかが通ったからだと私なりには思ったわけなんですけど、やはり原子力発電所は、これからのこの日本に対するエネルギーの問題で、必要だということを吹き込まれて、『安全だ。安全だ。今まで大きな事故が無かった』ということで、この放射能、放射線っていう知識自体がなかったわけです。
 今回、この事故がありまして、放射線、放射能のそういったものを身体に本当に嫌というように浸みこみましたですね。
Q.その当時、安全性は疑わなかったということですか?
 原子力の安全性については、いみじくも・・・、安全に対して疑ったことは無かったです。
 私たち福島県民として、それと原子力発電所が立地してる大熊・双葉地区よりいわき市は距離的にも離れてるんで、それほどその事故が起こっても影響は無かったのかなと、そういうふうに思ってましたけれども、あとで報道等によって知ることになるわけなんですが、いわき地区は3月15日から16日にかけて、やはり放射線の相当セシウムとかヨウ素とか、そういったものが飛来してきたんだなというようなことは、あとでやはり新聞等・テレビ等で知ったわけです。
 それは、私たち避難所に居た時のことなんですが、それについても政府なり行政機関は、そういった情報を持っていながら、やはりその地区の住民、それに対しての情報開示が遅れていた。遅れていたっていうより、情報を知っていながら情報操作をしたんじゃないかと、私はそういうふうに捉えております。
Q.原発事故の第一報を聞いた時に感じた率直な思いをお聞かせください。
 そうですね。
 あの、第一原発が爆発事故、水素爆発事故を起こしたというようなのは、第一報は、政府からの警察関係、防災関係の消防団のほうから、耳にしたわけなんですけど、その当時は、
「これはエラいことが起こったな。」
とにかく目に見えるものではありませんので、この状態からとらえようがなかったんですけども、やはり線量なんかを測ったりして、計測器を持ってきて避難所でも私たちが検査を受けたその段階では、
「これはエライことだ。2日や3日、1月2月では、これは解決しないな」
と自分なりに思いましたね。
Q.その後、避難所から戻れるようになるまで、どのくらいかかったのですか?
 それでですね、避難所から戻るような状態になったのはですね、いわき市長さんが、私たちは湯本高校の避難所に居たわけなんですけれども、記憶では4月11日12日ころだったと思うんです。いわき市の警戒解除というものがありまして、それと4月11日ですか、政府の警戒区域、警戒準備区域というような段階を示されまして、その段階でいわき市はそこに含まってなかったわけです。
 私たちは直線距離にして第一原発から私の自宅は30.8kmなんですよね。
 ですからあの当時30㎞圏内という形だったんですけれども、それは大久川があるんですけど、そこを境にして30㎞圏内と。私のとこは、南側だったんですが、そこから800m。直線距離で。そんな関係で、私どもが避難の圏外になるわけなんです。実際はね。ですけれども、そこは久ノ浜っていう町になってるものですから・・・
Q.久ノ浜?
 久ノ浜。
 永久の久です。
 ここは水産業が盛んで、いわき市の大体常磐口の魚なんかはやはり上物として、東京の築地市場では・・・、結構高級な、そういう魚があってるわけなんですけどめ。
Q.現在はどこで生活していますか?
 自分は自宅が地震の被害がそんなになかったんです。壁に亀裂が入ってテレビが倒れたくらいです。
 食器類は全然大丈夫で、2回目の4月11日の地震では、給湯器のオイルタップが倒れたくらいなんで、ですから被害的には、皆さんに申し訳ないんですけど、自分の自宅としてはそんなに被害はなかったんです。
 ただ、原子力の放射線物質の問題が、やはり重くのしかかったわけなんですね。
Q.自宅にお戻りになったのですね?
 はい戻りました。
 4月の後半ですね。
Q.4月の後半まで中学校の体育館で寝起きしていたのですか?
 もう中学校の避難所っていうのは、原発の水素爆発事故によりまして、やはり底も移動になって、その避難所全体が、また湯本地区に避難することになったわけなんですよね。
Q.どのくら離れていたのですか?
 えーっと、うちのほうからですと、20㎞から30kmになりますかね。原発からは40㎞以上は離れてると思います。
 自分たちは安全だと思って、そこに避難したわけです。
Q.今考えても安全なところですか?
 その辺は自分としてもわからないです。
 線量は新聞とかテレビのテロップに流れるんですけど、いわき市の中心部、役所に駐車場で測ってる分には、線量は低いということですので、湯本地区はもっとそれより南側にありますもんで、まぁ安全ではなかろうかと、こういうふうに思ってる次第なんですね。
Q.実際に計測している人は誰もいない?
 そうですね。私の知ってるところでは、各支所においては測ってるようなんですけどね。
Q.行政ではなく、一般市民で計測している人はいないのですか?
 そういう情報は私のほうには入ってきていません。
 自分としては測りましたけどね。
Q.お持ちで?
 いや、線量計を借りてきて、9月2日に測ったんですけども、比較的私の住んでる自宅は、市が発表してるよりは高いです。
Q.数値でいうと?
 そうですね。0.3、今日あたりは0.34っていうんですけど、私の住んでるところは、それ以上もっと高いです。
Q.どのくらいですか?
 それの2倍・・・。数字ですか?0.6。場所によっては1.2とかそういった箇所もあります。自宅なんですけども、特に駐車場の方が高いです。それと垣根が濃いですね。その垣根類は高いです。
Q.いくつですか?
 垣根の場合は、2.0とかそういったものの値を示す時もあります。
Q.行政の発表より実際は高いのですね。
 測ったら高いです。
Q.行政の発表は当てにならないとお考えですか?
 行政の示してる値は、やはり0.18とかそういったものは、いわきの中心部であって、私たちは双葉郡に接してるわけで、そこのいわき市の北部についての線量っていうのは、やはり比較的高いんじゃないかと思ってます。
Q.個々に測らないとダメですね。
 私は個々に測ってもらいたいなと、こう思っております。
 それでですね、この放射線量の件なんですけども、私たちが避難した3月4月には、やはり線量計、測定器具っていうのは無かったわけで、測定機による放射線の計測っていうのは、避難所においても実際には行われなかったんですが。測れなかった。
Q.測れなかった?
 それによって、自分たちは数値っていうものが全然捉えられなくて、これで安全なのか、安全でないのか、その判断っていうのは、全然することができなかった状態ですね。
 ただただ、政府の発表によって、
『影響はない。ただちに影響はない』
というような言葉だけに頼るしかなかったと、すがるしかなかったと、そういうような実態でした。
Q.湯本地区の避難所はどういうところでしたか?
 はい。学校の体育館です。久ノ浜地区、大久地区っていうのがあるんですけど、いわき市の北部に。ここの住民はやはり湯本の小学校、中学校、高校のわたしたちは、高等学校の体育館に避難していたわけなんですけど、湯本の中学校、小学校の体育館、それと内郷地区にあるんですけど、御厩小学校、高坂小学校、内郷一中とそういったところの体育館に分散して避難したわけですね。
Q.避難所での生活はどのようなものでしたか?
 当初ですね、3月っていうとまだいわきも雪がちらついてましてね、いわき市は温暖な地域だということなんですけど、その当時は雪も降ってまして寒かったです。
 体育館で寝起きをするのにも、毛布1枚。毛布1枚で家族身を寄せ合って過ごしたものですから、当時私どもが避難した時には、476名でしたかね、避難した人数が。
 その中で、本当に身を寄せ合ってすし詰め状態で寝起きをしておりました。
 ですから、この思いなんですが、私たちが暮らしが豊かになったわけですけれども、いざこういうふうな事故が起きると、プライベートな面、こういたものがなくなるわけです。ですから、精神的にも、これは言葉に表すっていうのは大変なような状態で、避難生活は送ってたわけなんですね。
Q.いつまでそこにいたのですか?
 自分の場合はですね、4月の後半までいたんですけども、そのほかの方々は仮設住宅、借り上げ住宅が手当てができるまで、避難所にいたわけなんですが、私たちはいわき市長の安全宣言に基づいて、やはり自宅のほうに戻っていったわけなんですけども、私たちが自宅に戻っていった段階では、久ノ浜町という、被災に遭わなかった私たちの部落の中でも、やはり人はまばらで、この部落に戻ってくるのは、5月になってから活気づくようになりましたね。
Q.混乱状態で、どういう情報は得られ、逆に得られなかった情報は何ですか?
 情報源としましては、私どもが避難してた湯本高校の体育館は、ラジオはありました。ラジオによって情報を得てたわけなんですね。それと、新聞は各社の新聞が入ってきました。ですから新聞等によって情報は得てたわけなんですが、テレビは後々になって、テレビが支給されたわけなんですね。
 ですから、当時情報源としましては、ラジオですね。その避難所にNHKさんのほうから、個々に携帯ラジオが支給されまして、個人個人にイヤホンで夜もその情報を聞くことができたわけなんですけども、当初はラジカセが1台か2台があるだけで、全員が情報を持っているという状態ではなかったですね。
Q.インターネットは?
 インターネットは無かったです。
 それと電話なんですが、各々にケータイ電話を持ってたわけなんですけども、充電するのに大変な状態が起きましたね。それぞれの充電が、当初は、もう間に合わないというような状態だったんですけども、後からはKDDIさんのほうで、まNTTさんですかね。そちらのほうでまとめて充電できるような充電器を支給していただきましてね、それによって一度に何台というような充電ができるようになったんですが、当初はコンセントに1台が1台でございまして、みんなの充電ができなかったというような状態です。
Q.原発の推移について、どのように理解していたのですか?
 情報というのは、さきほども申した通り、ラジオと新聞報道しか私たちには入ってこなかったんですが、やはりその中でも政府の情報隠しと、そういようなことが、『東電は嘘をついているんじゃないか』というような会話の中で、私は嘘をついているというようなことは???おりませんでした。
『これは、政府や東京電力による情報操作だ。こういうふうに情報操作なんだ。嘘じゃないんだ。後出しじゃんけん』
という言葉がありますけれども、物事には表と裏があるように、本音と建て前ということがありまして、
『隠してた、操作をしてた、情報の操作をしてた』
と私は思ってました。避難所でね。
Q.実際よりは深刻な事態が発生しているのではないかと疑っていたと?
 自分としては、もう疑ってみてました。
Q.避難所からお戻りになってから、現実を知っていくプロセスを教えてください。
 4月の後半に自宅のほうには戻ったんですが、それ以来、外での活動っていうのは一切しないで、自宅の中に閉じこもりです。洗濯物、こういうのも室内干し、外には干せなかったような状態、というのは、放射性物質の値っていうのを計測するすべがなかったわけで、自分たちの判断の中で、「どのように日常生活を送ればいいのか?」と、自宅に戻っても、ようするに「明日どうなんだろう?あさってどうなんだろう?」と、そういうような胸の内にありましたので、そのことだけで1日が経過していった。
 こういったもどかしさの中で、今日まで過ごしたというのが実情です。
Q.家族構成を教えてください。
 自分のところは、妻と私と二人なんです。
 それと、自宅の下なんですが、娘と孫がおりまして、これらも同じ湯本高校のほうに避難はしてたんですが、自宅に戻ったのは同時期だったんですが、別々に生活してるわけですね。日常生活は、私は妻と二人なんで。
Q.同じ家に二世帯住宅なんですか?
 いや、別なんです。
 近くに住んでるわけなんですが、それは本当の30㎞圏内なんですね。川挟んで北側なんですね。次女なんですけども、私の娘は38になるところなんですね。孫が中学2年生と小学5年生で、最近まで放射線の問題で、子供たちとか乳幼児の問題でいろいろ騒がれてるわけなんですけども、家族の中でもやはり
「地元に残る」
「いや地元より放射線の影響が少ない遠くへ避難する」
これは、若い娘たちの考え。私も子供たちの、孫たちの安全性を考えたらば、やはり自宅より久ノ浜より、外に避難したほうがいいのかというようなことを常日頃考えてまして、「どうしようかな」と思ってるんですけども、やはり避難所生活の思いをしましたら、
「自宅ほどいいものはない」
とこう思って、今も生活を送ってる状態なんですね。
Q.避難所から戻られた後、原発の現実と放射能の状態は、何によって知られたのですか?
 そうです。はい。
 まずは帰ってきてテレビメディアですね。それと新聞。それと書籍等。それと地域におきましては講演会。原子力、原子力災害についての講演会なども、地区におきまして催されたものですから、そういったものには全部出席しましたね。参加しました。
Q.例えばどういったところに?
 ちょっと学者さんのお名前はちょっと私も判らないですけども、やはり線量を測って、線量マップというものを作られている、そういった作業に携わってる先生方がおいでいただいたわけですけれども、やはり線量の発表されてるんだけども、一定ではない。ところどころによってはばらつきがあるんだというようなことで、そういった資料なんかも提示していただきました。
 そういう中で、
「あー、自分の住んでる地区は、発表されてる以上に高いんだな」
と、こう思いながらも、自分でも除染っていうか、そういった形で除草、それと生垣がありますので、それを伐採、垣根の伐採。そういったものを今やってる状態なんです。
Q.それはいつ頃から?
 そうですね、9月2日に線量計で自分で測りましてね、やっぱり報道等による線量の発表より、計測値が若干高かったものですから、
「これはちょっと日常生活に、ちょっと・・・異常をきたすんじゃないか」
という自分の考え方で、
「これは何らかの手を打たなきゃなんない、除染っていうものをしなきゃなんない。」
というようなことで、水道の圧力をあげて、玄関前とかそういったところの水洗いとか、それと今言う、垣根の伐採。それと、駐車場等の除草。そういったものを今現在やってるとこなんですね。
Q.それで線量は下がりましたか?
 それはまだ絶対的に今週あたり、今週の末あたり、今月の末あたりになりますかね。また線量計をお借りして、その後の線量を測りたいなと思っております。
Q.原発事故について、何の影響で考え方が大きく変わったのですか?インターネットは使っていましたか?
 インターネットそのものは、私、やらないんです。できないんです。
 それは千葉県にまだ娘が居るんですけども、三女が千葉県におりまして、インターネットとかの情報を私の方にもらいまして、それで三女のほうが、
「千葉のほうに避難してこい。まだそっち安全でないかもしんない。だから千葉のほうに今でもいいから避難してこい」
というようなことは再三言ってくるんですけど。
Q.いつ頃から言ってきてくれましたか?
 そうですね、3月。湯本高校の避難所に避難した段階から言ってましたね。
Q.なんで行かなかったのですか?
 行かなかった理由はですね、移動手段がマイカーだったものですから、あの当時ガソリンが入らなかったんですね。給油できなかったんです。
 それで私どもは当初、千葉か横浜に避難しようかと思ってたんですけども、そこまで行く燃料がなかった。足りなかった。その後も、燃料が手に入らない中で、とりあえず近かった湯本高校のほうに避難したということなんですね。
Q.3月に電話をもらったとき、自分と娘の情報量の差をどう捉えましたか?
 なぜその当時、知識が薄いとはいえ、パソコンでの情報等に基づいて避難しなかったかということについては、自分の場合はですね、自分の家族だけではなくて、これは都会の方にお話しても分からないのかもしれないんですけども、この『家族』家族っていう構成なんですけども、私の方は本家とか、分家とかそういうものが縦横のつながりがありまして、家族、親族、血縁ですね。そういう形の中で、本家も分家も町が下にあったものですから、地震と津波の災害を受けたわけですね。
 それで、私のところに本家も分家も避難してきてたわけなんですね。
 それで、避難のときは、本当に『一族』っていう言葉があるんですけれども、一族でもって避難行動をとるものですから、4人とか6人の1単位の家族ではなくて、やはり『一族』というような単位で避難ということがあったものですから、やはりそこでそれだけの大人数が、千葉・横浜に避難できるか?というような思いがありましたね。
 ですから、私としては避難所において、「ある落ち着きを取り戻すまでは、避難所で生活していようか」と。
「最終的決断というのは、やはり自分としてはくださなきゃなんないだろうな」
と、常に思ってました。
「その避難所から、また『一族』ごと、何らかの手立てを講じて、避難していかなきゃなんないな」
と、こういうことは、常に思ってましたね。はい。
<37:20頃まで>

【その②】に続きます。
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