※この記事は、11月28日 【内容起こし】百人百話 第15話 小堀健太郎さんに関連しています。

11月29日 百人百話 第十六話 齋藤英子さん
http://www.ustream.tv/recorded/18818068 (104:49)

【以下、お時間のない方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2011年9月28日収録
 齋藤英子、1960年生まれです。
 今、幼稚園の園長をいわき市内郷地区というところでやっています。
 二児の母でもあります。
 子供は震災当時小学校6年生と高校2年生。あと夫。
 夫の両親が近くに。同じ内郷地区なんですけど、住んでおりまして、ただ、母はちょっと震災後、身体を壊しまして、4月15日に義理の母親は亡くなりました。
 やはり断水状態続いたりして、震災後、夫の方も母を亡くしたりして、いろいろ落ち込んでる。今になって落ち込んでるというような様子が見受けられます。
 私自身は、結婚をした仙台に行って、ここにきて19年。いわき市に来て19年になります。もともと兵庫県の姫路市に生まれ育って、社会人になって神戸とかにも住んでおりまして・・・
Q.いわきへは何歳の時に?

 30越えてからですね。31、2歳でいわきに参りました。
Q.お子さんは男の子?女の子?
 今高校3年生になったんですが、男の子。中学校1年生が女の子です。
Q.ご主人はどういったお仕事を?
 保険会社関係なんですが。
Q.亡くなられたお母さんの死因は何だったのでしょう?
 死因は最終的には肺炎なんですけど、ガンも認知症も併発してましたので、でも今年いっぱいは大丈夫だろうということだったんですが、震災後入院してる病院が断水だったり、看護師の方が不足していたり、周りがバタバタ悪くなられていって、本当に突然という感じでしたね。
 この地区の浜通り、原発の近い小高町出身だったもので、兄弟もみんな浪江だとか原町だとか南相馬市、あの辺りの兄弟が多いので、危篤になったときも皆避難しててなかなか連絡がつかなかったり、葬儀も、母が亡くなるより皆さんのそういった心配があったりとか、そういうのがありました・・・
Q.3.11前のご自身あるいは周囲の方の原発に対する知識について、お聞かせください。
 チェルノブイリが起こった時が、私が26歳だったんですね。
 その頃、神戸の方に居まして、周りにもチェルノブイリに関して非常に関心が高かったので、あの当時に一度、肥田舜太郎先生とか、そう言った方のお話とか聞きにいったり、あと美浜の会のものを読んだりとか、関西に居た時点ではあったんですね。
 それからしばらく、結婚をしていわきに31歳で来て、当時、私、英会話学校のイーオンっていうとこに勤めてたんですが、マネージャーをやっていた際に、東電の方が習いに来られて、大熊町、今の第一原発ですね。
「あれ?」
って。原発はもう知っていて、関西の友達なんかは、結婚してすぐ仙台で、1年経っていわきに越した際に、
「え?いわきに引っ越すの?原発近いんじゃないの?」
って言われて、
「そうなのよね」
っていうくらいの範囲ではあったんですよね。ちょっと心配。地震でもあったらって。
 その後、阪神淡路大震災があった時に
「もしここであったら大変だな」
という。ここ、いわきで。第一原発の近くで、福島でこれが起こっていたら、あれどころじゃ済まないなっていう思いがありました。
 でも、地元のこの福島のその頃の周りの人は、そういう話題は出なかったんですね。福島で、職場でイーオンで、
「これ、もし福島だったら大変だよね?」
って言っても、あんまり皆さん反応が無くて、そのイーオンのいわき校ってとこに勤めた際に、東電の方・・・。私最初東北電力の方だと思ってたんです。
「東京電力なんですね?」
って。周りのスタッフの人はもともといわきの人たちで、何人かに聞いても、
「あ、そうなんですか?」
「あ、そうなんですよ」
っていう。
「でも、それはなんで?」
土地代の関係、バブル、バブルも引いてあれだったけど、
「土地が高い東京に作るとなったら、土地が高いからなの?人件費のせいなの?いや、それともやっぱり危ないからっていうのもあるんじゃないの?」
っていうふうにほとんどの職員っていうか、先生たち、習いに来てる人たちと話した時に、あまり皆さんそういうこと、何も考えていないっていうか。
 広野とかあっちはすごく、公園も立派だし、皆でバーベキューするときには、皆であっちに行ったりするんですよ。
 その範囲だったんですけど、なんかしっくり来なかったんですね。
 ただ、だんだん私もいわきに住み続けてるうちに、そういう話題が全くないので、いつの間にか忘れていたというところはあって、家を建てる、7年前家を建てたんですが、オール電化にする際に、
「東北電力だよな、なんかヘンだよな。」
勧められたのも東北電力、うちに来るのも東北電力のがくるので、
「ここいわきで、なんでここよりまだ北が東京電力なのに、東北電力なんだろう?」
って思いつつ、突然10月ごろに原発給付金っていうのが振り込まれるんですけど、4000円だか5000円だか。これも、
「なんかちょっと嫌な気分だから、これ、拒否したら返せるの?」
って主人に聞いたことがあるんですよね。なんかそれでもらっていて、
「文句を言わせないためのものなの?これ何なの?」
っていうのがあって、
「でもそれって原発給付金の手続きってとったっけ?東京電力に何かしたっけ?」
とか。うちは東北電力としか契約してないのに、未だにちょっとそれはきちっと調べてないんですけど。
Q.なぜ知ってるんだ?と?
 そうですね。どうして東京電力、振り込まれてるのは原発給付金だったら、東京電力ですよね。あれ?っていう思いがあって、なんか10月になるたびに思い出すんですけど、ここは勝手な自分のあれですけど、引かれてたら問いあわせ言ったかもしれないけど、足されてる分なので何も言わなかったんだろうか?って今になって思いますね。
Q.阪神大震災は、おいくつの時でしたか?
 阪神大震災の時は35歳でした。
 もういわきに来ておりまして、上の子供が2歳で、2歳の子供と一緒にテレビ見ながら泣いて・・・、もう本当に嘘だろう?って。こんなことがあるの?っていう。それも全部自分の青春時代に住んでいた町だったので、その町が!っていうことで、実際自分が知ってる街だから余計だと思うんですけど、非常に悲しくて涙をボロボロ流しながら、ずっと画像を見ていた覚えがあります。
Q.ここで震災が起きるという危惧は、以前からお持ちでしたか?
 その映像を見て、その後宮城県沖で震災があったというのを聞きましたので、
「もしもここ福島で起きていれば、原発があるわけだから、どうなるんだろう?」
っていうのは、私は思いました。
 ただ、そういう話題をふっても、あまり周りは反応がないっていうか・・・。いわきはあまり地震もないし、台風に直撃されることもないし、非常に気候的に住みやすい街だっていうのは、皆さんありますね。
 そういう話題をなんとなくしにくいっていうのもありましたけど、周りではそういう話題が出ないので、少し、イーオンの外国人の先生とはそういう話をしたことがあって、むしろアメリカ人の先生とかと
「もしここで・・・」
「そんな怖いことを言ってくれるな」
ということを言ってましたね。
Q.3.11以降のご自身の状況をお話しください。
 3月11日の2時46分ですね、あの時は、私が勤めてる幼稚園でちょうど一般の幼稚園が終わって、預かり保育の子供たちがお昼寝をしていた時間なんです。
 最初職員室におりまして、で、ちょ・・・っとすごい揺れだということで、すぐお昼寝してる保育室に駆けつけて、普通のこれは揺れじゃないなって。
 最初「止まるだろう」とまずは思ったんですが、いつまでたっても揺れ続けるし、普通の大きさではないっていうので、すぐ隣に付帯事業でやってる保育室があって、そこには赤ちゃんから2歳児くらいまでが居るんですが、そちらのほうでも泣き叫ぶ声が聞こえてきて、私の方は、そこの建物が崩れるほどではないだろうということで、子供たちも起きだしたところをトントンしながら、
「ここは来ないからね。大丈夫だよ」
って言って、「収まるのをとにかくまとう。それから外に出よう」と思ったんですが、なかなか収まらなくて、どうしましょう?って。
 すると赤ちゃんのほうの先生たちは外に出始めていて、揺れが非常にあって、今まで経験したことがなくて、私そこの責任者でありますので、
「責任者としてどうしたらいいんだろう?」
っていうことで頭がいっぱいで、
「この子たち守るのに、これからどうしよう?」
 ある程度収まった時点で、子供たちに起きなさいと起こして、外に上履きはかせて全員園庭に出して。
 保育園の先生たちも、おぶったりベビーカーに乗せたりして皆で集まって、30名近く、20数名ですね、居まして。
 その後、すぐ近くの、うちの幼稚園の園庭が第一避難所になってるんですが、二次避難所のもうすこし大きな方の公園に移動して、その4時になるとみぞれが降ってきて、
「ここには居られないよね。寒いよね」
ってなって、ご近所の方がすぐ近くにあるコミュニティセンターに掛け合ってもらって、そこをあけていただいて、皆子供たちを連れて、そこで避難し始めて・・・。
 その間も余震がとにかくすごかったですから、みんな子供たちも震えてるし、怖がって、それを「とにかく怖がらせないように、トラウマになって怖い思いさせたくないな」って、守るというところと、命の安全と心の・・・、心を守るって、両方どうしたらいいだろう?って、お友達を落ち着かせたりしてましたね。
Q.津波をどうやって知り、どのように受け止められましたか?
 津波が起きたっていうのを知ったのは、かなり後・・・、その所には何の情報も入ってこないんですね。
 津波がっていうのは、その後・・・、そこのコミュニティセンターってとこで、誰かがテレビをつけて、津波だっていうところ・・・。
 もうとにかく目の前の子供たちを守って抱き上げているので精一杯だったので、テレビの近くに行くこともできないし、お母さんたち、特殊な事情というか、ほとんどが看護師のお子さんたちをお預かりしてるのが多いので、お母さんたちも普通の園のように「お迎えに行きます」にはならないので、皆さん、患者さんの対応に追われていて、小さなお子さんがいる方だけは優先的に少し、顔を見に来て、
「無事だったね」
って言って、また職場に戻られていく。じゃあ今度何時ころ、早く先生たちはお母さんたちに引き渡したいんだけれども、ずっとそうしていて、何か津波が起きたらしいっていうのは、外の廊下にあるいろんな方がそれぞれちょっとずつ避難されてきた、お言葉の端々に聞こえてきて、
「いわき市にある四倉っていう海沿いの方面が津波来たらしいよ」
とか、そういうお話を聞いて、実際に子供たちを全員に引き渡しできたのが8時ころだったので、それ以降になってようやくいろんな情報が入ってきて、
「私の家、もしかしたら・・・」
っていう先生とか、
「この子の家、大丈夫だったんだろうか?」
っていうのが8時9時になってからですね。
 で、片づけて解散したのが、夜の10時・・・
Q.ご自身の家の被災状況はいかがでしたか?
 私も子供がいるので、小学校6年生で、どうしてるんだろう?って。
 ただ、偶然うちのバスの運転手さんが気を効かせて、家の近所をぐるっと。幼稚園の近くなので回った際に、
「お子さん無事でしたよ。お父さんと一緒に外に出てましたよ」
っていうのを聞いて、
「娘は大丈夫なんだ」
って。すぐそばにいって抱きしめてあげたいなと、怖がってるだろうなと思ったんですけれども、園の方を守るのが先だということで、無事であれば大丈夫だということで、ハラハラしながらも。
 夜10時ころ戻ると、もう・・・、すぐに子供は抱きついてきて、家のピアノも動いているし、本棚も全て落ちてるし・・・ですね。
 クリスタルガラスの家の守り神の天使が落ちて割れてしまっていたっていう・・・形で、家の中はぐちゃぐちゃでした。
 ただ、家が損壊してどうっていうのはなくて、すぐ近くに住んでいる義理の両親、主人のほうの両親は古い日本家屋なので、屋根瓦がかなり落ちていたんだというのを主人から聞いて、全員家族が無事だったということで、まずホッとしたというところでした。
Q.津波の被害はなかったですか?
 内郷地区は、海からどれくらい離れてるんでしょう?
 15㎞とか、かなり離れてますので大丈夫ですね。
 夜10時ころに、一旦家に戻って、関連機関っていうかうちのときわ会グループっていうのがあるんですが、医療機関の主に私の川向い、歩いていけるところだったので、そこの総務本部機構のほうにすぐ出向きました。
 すると、その時点で「大変だろう、今後の医療を続けていくのが大変だ」っていうような形だったので、
「近くにいてお手伝いできることがあったら、また呼んでください」
っていうことで、その日は戻りました。
Q.ときわ会グループというのは?
 財団法人ときわ会というのと、医療法人ときわ会というのがあって、いわき市の民間の医療関係の一番大きなところだと思うんですが、ときわ病院とか一応ホームページで、もともといわき市の病院だったのを2年前に委託委譲されて、ときわ会でやっている病院です。
 あとときわ園っていう、老健施設だったり、そういったのがグループ内にありまして、3年前に会長の常盤が、近くの園が閉園するという話を聞いて、お子さんたちはそこの園の卒園生だったので、
「子供の教育機関が無くなるのは寂しいことだということで、なんとか立て直しできないのか?」
っていうので、3年前に園児を2,3人だったんですが、そこを3年前に引き継いだ幼稚園なんです。
 最初はグループ内の保育士さんたち、医療スタッフのお子さんたちを見ている範囲だったんですが、今はもう割合としては3分の1が常磐会グループのお子さんで、あとは一般のお子さんです。
 ただ、土地柄、社会保険福祉センターとかもある地方一体というのは、医療福祉ゾーンということになってますので、医療機関に勤めるスタッフの方が非常に多いんですね。
 ですから、幼稚園なんですけど預かり保育とかもやって、皆さん、医療関係勤めてる方が非常に多いんです。
 震災があった際にも、なかなか皆さん迎えに来れないというところのジレンマと、子供のことは心配だけど避難できないのと、両方の葛藤が非常にあったと思います。
Q.原発が大変なことになっていると気が付いたのはいつ頃ですか?
 12日、翌日です。翌日、まず幼稚園に行ったら、私は寝る前に「あ、原発どうなんだろう?」っていうのがあったんですが、テレビで何もやってなかった。津波くらいですね。朝やってたの。
 それで、でも原発、どうなんだろう?っていう、すごく思いがあって、幼稚園に行っても、先生たちは、本当に真面目に次の日もちゃんと出てきて、片づけ仕事をやったり、卒園式の準備をやったりしてくれてるんですけど、
「先生たち、それよりも、もう帰っていいから。なんか危ない、もっと危ないことが起きそうな気もするし」
って言って、その日は午前中で先生たちを帰して、常磐会の方の総務に行くとテレビがついていて、その時点で確か原発の映像を事務局長とか若手のドクターも時々見に来ていて、1号機、最初は2号機が危ないとか言い出してるっていうのを聞いて、
「あぁ、やっぱり」
っていうのをすごく思いまして。しばらくはそちらのほうにくぎ付けになってました。
「これは、どう・・・、ここで爆発したら、どうなるのか?」
 逃げるっていうか避難しなきゃいけないんだけど、その時点で私は、もし幼稚園に居たらもっと発想が違っていたかもしれないんですが、そこは上の階では透析の患者さんたちは透析をしているところなので、
「これ、もしも、何かあったら、どうなるのか?」
っていうことと、断水ですね。水が夜は出てたんですけど、朝起きたら断水していたので、これ、透析医療どうなるんだろう?っていうことと、ひかり電話は通じなかったので、家のネットも幼稚園のネットもひかりだったんで通じないし、
「ハイテクはとても脆いな」
ととても思って。
 とにかく情報をっていうことで、保育士のほうが唯一アナログ回線ということで、ネットがあって、そこからいろいろ調べたり、あと、常磐会の総務のほうでテレビを持ってきて見ていたので。
「ここで爆発があったら・・・」
っていうのを、
「もしも・・・」
って思っていて、2号機ですね・・・。
Q.爆発が起こる可能性があるということは、予見されていたのですか?
 あれだけの、本当今まで経験したことない揺れだったし、海で津波があったって聞いているので、何かしらあるんじゃないか?っていうのは。
 若手の先生の中に、
「これ絶対なんかあるんじゃない?」
って言ってた先生もいて、画像を見ていくうちに、「何か絶対ある」っていうことは・・・。うーん・・・。
Q.放射能漏れか、事故か?
 事故かどちらかということは思いましたね。
 何か放射能が漏れていく、放射能漏れ事故があるのか、プールされているって、そういう使用済燃料が行き場が無くて、そういうところにあるんだっていう知識はあったので、津波でどこまでかぶって中に入って、そういったものが海に漏れていってるのではないか?とか、そういうのは思いましたね。
 最初は「2号機が危ない」とかって言ってたような記憶があるんですけど、それが1号機が12時の何時でしたっけ?爆発したの。
Q.15時くらいですね。
 見てて、その時に居たドクターも、しょっちゅう見に来ていて、その東京から来てくれていた先生なんですけど、非常に心配されていまして、何かあったら・・・。
 水が止まってるっていうことだけでも、病院としては危機感があったので、ここでもしっていうことがあったら、患者さん、ここに居られないし、同じグループ内で原発の、今立ち入り禁止区域になってる富岡に富岡クリニックっていうのと、楢葉ときわ苑っていう楢葉町に老健施設があったので、その二つの施設の心配をみんなで幹部の人たちは、心配を始めてました。
Q.14日までの様子を教えてください。
 12時に爆発があって、『これはただことではないんで、皆さん避難しましょう。避難してください』っていうのを、安否確認をしながら
「できるだけお子さんたち、避難させてください」
っていうのを、幼稚園の園児のお母さんたちに連絡がつく範囲だったんですが、みなさんに避難を呼びかけました。
 全員、あの時点で無事だというのを確認して、プラス「できるだけ遠くに避難された方がいいと思います」ということを、月曜日なので14日にお伝えしました。
13,14にかけてお伝えしました。
 あとは自分の子供も居ますので、私は関西出身、姫路に実家がありますから、これはもう、被曝者にはさせたくないという思いがあって、爆発による危険と、やっと電話が通じた際に、こちらいわきに居る人たちよりも、関西にいる友達たちのほうがメールとか送ってきて、すごく心配をしてくれていて、13日に関西の大学でお世話になっていた方から、
「昆布か何か食べてるか?」
っていわれたんです。
「昆布あるか?とろろ昆布でもなんでもいいから、食べたほうがいいよ」
って言われて、
「はい?」
って私はそういう感じだったんです。聞くと、
「爆発してるんだから、ヨウ素が飛んでいて、あぶない。え?そういうの、何もないの?ヨウ素剤とか配られてないの?」
とか、そういうのを関西の友達から矢継ぎ早にいろいろな情報が入ってきて、
「これは本当にただことではないんだ」
ということで、子供たちを避難させようと思ってましたね。
Q.福島県内と県外との情報の温度差についてと、ヨウ素剤が配布されなかったことについて教えてください。
 切実に『危ないんだ、これはもう取り返しがつかない大事故なんだよ』っていうことは、神戸や奈良とか大阪、関西の友人たちから次々入ってきて、
「早く戻っておいで」
「でも、仕事が・・・」
「仕事って、一旦避難して、職場はもう無いかもしれないよ?」
っていうくらい、関西の友達たちはそういう声をかけてくれてきたんですね。でも、地元の人たちっていうのは、停電の地区もありましたから、とにかく情報はそんんなに入ってこないし、枝野さんの声しか入ってこないわけですね。
『大丈夫です。』
っていうところなので、皆さんはそれを信じている。
「国の発表だから、大丈夫だろう」
っていうのが、なんだか周りの方の反応ですね。
「えー?でもそんな大丈夫?原発に何かがあって、大丈夫なわけないじゃない?」
って、その違いが今までやっぱり安心なんだっていうことで、ずーっと教育があったのかどうかわからないので、思ってきた人と、やはりこれまで私なんかは関西人で、広島とかの被曝の差別も見聞きしてきて、
「あ、子供を被曝させたくない」
『被曝』という言葉を出した時に、皆さん、まぁまぁ、同じ職場内の人たちが、
「何を大げさなことを?」
という感じのことを言われて、
「そんなびっくりするようなこと、言わないでよ」
っていう…職員も居たんですね。
「でもこれって、だってこれから被曝していくんじゃないの?」
って、被曝させたくないっていう思いがあって、
「やはりここは、広島・長崎から遠い東北だから10基もできてたんだな」
とか、
「なんかこういうふうに皆さん、信じていてあまり危機感持たないとか危ないと思わないので、いつの間にか54基あるうち10基も福島にいて、まだ7号機8号機建てようとしてるんだな」
という気持ちがありましたね。
 何も本当に情報が入ってこなかったんですね。
 だから、危ない、どういう危険性があって、どうしなきゃいけないのかとか、とにかくそういうことが入ってこないんですね。
 お店が出ないから皆ライフラインも、その心配ばっかりなんですね。一般のいわきに居る方たちも。お水が出ないから、お水どうしよう。じゃあ並んでどこかで水がもらえるらしい。そこに出ていくわけですね。
 後になって、お母さんたち、とっても悔やんでますね。あの中、並ばせてしまったということ。
 なので、本当に情報が、どうしたら今危ないことが起こるかもしれない、万が一の時はこうしてくださいとか、こうなんだっていうのも全く入ってこないし、ヨウ素剤が配られたっていうのも、いつどういう経路で配られてどうなったのかとか、よくわからないままなんですね。
 口づてに「もらってきたよ」とか、そういう感じだったんです。
 私は、自分の子供に関しては避難させようと思いましたので。
Q.いわき市では、ヨウ素剤の配布はされて、内服の指示はなかったようですが?
 保健センターとかいろんな支所に行けば、ヨウ素剤がもらえるっていうことは、皆口伝いであって、何歳?40歳以下でしたでしょうか、だったらもらえるということで、比較的そういった詳しいことがなくてももらえるということを聞いていまして、医療施設のほうでも医師会の常任理事、県の理事とかやってるので、ヨウ素剤の話は出ていましたので、配られるっていうのは聞いて。
 子供たち、私は避難させてアレだったんですが、その頃に「役には立たないけど、とりあえずもしもの時に飲んでおこう」って言って。
 でも、テレビではずっと『指示があるまで内服させないでください』って、そういうあれはずっと流れてましたので、それを完全に皆さん守っていたというところで、私なんかは、全部が信じられないっていうところもあったので、ネットで調べたら、内服させたらどういうデメリットがあるんだろう?被曝させることとさせないことと、爆発があって・・・。っていうと、
「飲んでも副作用はあるかもしれないけど、どっちがどうなんだろう?これ、大熊のあたりの人たちはどうしてるんだろう?近くの人は飲んでるよね?」
くらいに思っていたんですが、実際、何の指示も出てなくて、本当にすぐ近くの方々も、皆国の指示待ちだったと聞いて、あとで驚きました。
 せっかく配られていたのに、本当に誰も飲まないでいて、冷蔵庫にしまっておいてくださいと言われたら、皆冷蔵庫にしまったままで終わってしまったというのが、ヨウ素剤です・・・。
Q.続けて、その後の様子を教えてください。
 子供たちの危険を感じて、長男が高校2年生。長男は、私はもう自分の職場のことで手一杯だったんですが、
「長男と長女は避難させよう。万が一何かがあったときに、私はこの子たちを守れないから、まずこの子たちを避難させなければ」
と思ったので、やっぱりもともと二人でけっこう姫路の実家に行ったりしていたので、息子はちゃんと自分で調べて、
「茨城空港が明日の朝から開くよ。今は天井落ちて、飛べないらしいけど」
って、夜の9時になったらネットで予約ができるらしいってことで、夜の8時50分ころから、息子はネットの前に、パソコンの前でずっと待って、自分と妹の分を。
「ママどうする?パパどうする?」
っていうのを聞かれたんですけど、
「二人でまず行ってきて。まず二人だね。」
っていうことで、二人分、自分で予約をとって、念のために福島空港もとっておこうって言って、午後便空いてるかどうかっていうので、ほぼ満席だったんですけど、何回も更新したら取れたよっていうので、その前日に、これはなぜかちょっとわからないですけど、福島空港があって、大阪から来る便は来れるのに、福島から出ていく便が無かったんですね。あれは、私もまだその後追及して調べてないんですけど、その時にとっても怖かったのは、
「被曝した人たちをここの外に出さない気なのかな?ここに閉じ込めるのかしら?」
そこまで私はとても思ってしまって、茨城空港は外に出られるんだと聞いて、すぐ茨城空港から、今までいったことはないんだけど、神戸空港の便がスカイマークで臨時便が1便飛ぶと聞いて、予約が二人取れたんですね。
 『一刻も早く少しでも南に』と思ったので、高速道路もないので、夜中の3時ころですかね。夫の方が子供二人連れて、茨城空港、水戸の先なんですけども、に、向かいましたね。
 本当に危険な危ない道で、ガードレールに津波の跡が、ガードレールに車が突き刺さっているような、子供は「未だにちょっとフラッシュバックして思い出す」って言うんですが、見ながらガタガタ道を、普段だったら高速で時間弱のところなんですけど、3,4時間かけて到着したそうです。
 夫が子供たちも乗せて茨城空港に到着したのは、朝まだ開門前くらいだったんで、開門と同時に入って、空港に入れるのは8時半だったらしいんですね。その間に駐車場で待ってる時に会った方は、東電の家族連れの方で要職関係、現場の技術職というかそういった第一原発に直接関係のない方達だったそうなんですが、
「僕たちは『避難しろ』『かなり危ない状態だ』っていうことで、本当は東電自体が撤退したいくらいなんだ」
っていうことだったそうなので、それで、
「3日間そういう特別休暇がでたんだ」
という話を主人は聞いてきたということで、その後主人は戻るんだって、子供たちだけ送って戻るんだっていうことを言うと、非常にその東電の方たちが心配してというか、
「いや、そんな危ない。まだ空席あるんだから絶対乗ったほうがいいよ」
って非常に引き留められたと帰ってきてから言ってました。
 ずっと私も子供たちを送った後心配していたら、10時20分発だったんですけど、余震があったので、離陸したのは11時ちょっと前だったんですけれども、その後、11時5分に3号機が爆発、水素爆発しましたよね。その時に機上の人になっていたということで、本当にホッとしました・・・。
<36:35頃まで>


【その②】に続きます。
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