※この記事は、11月22日 【内容起こし】百人百話 第12話 渡部幸子さんに関連しています。

【動画】11月24日 百人百話 第十三話 ヤスユキさん
http://www.ustream.tv/recorded/18716394 (70:00)

【以下、お時間のない方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2011年9月1日収録
 郡山市で開業医をやっておりますタネイチヤスユキと申します。
 46歳です。
 家族は、今現在、両親と妻と子供が女の子3人ですね。
 一番上が中学生、二番目が小学校4年生、一番下が4歳です。
Q.震災当初の状況
 震災当初は、診療中でちょうど午後の診察が始まった直後くらいです。
 まず、その時はここで患者さんを診てまして、で、患者さんに注射しましょうかって促した直後だったんですね。で、患者さんをまず安全を守っていただいて、医療機械を壊れないようにっていうことで、ある程度セッティングをして、その後、ちょっと受付の方がどうなってるのかっていうのを見に行ったんですが、それまでは比較的冷静に動いてたんですけれども、そこからですね、カルテ棚がもうびっくりするくらいに揺れてるんですね。
 うちのスタッフが皆、揃ってカルテ棚を押さえてるっていう状況。
 本来震災の時に、もっともやってはいけないことをやってたんですが、正直な話、まぁ僕もそこに一緒になって押さえてたといった形ですね。

 まぁ今から思うと非常に愚かな行為だったと思うんですが。
 受付の部分からは、待合室の患者さんが見えますので、待合室の患者さんに声を掛けながら、なるべく心配させないようにというふうに話をしてたんですが、それでもあまりにも長い地震だったので、流石に・・・、心の中で「いい加減とめてくれ」と、いうふうに思ってました。
 まず、待合室のテレビを患者さんにはとりあえず診療は今日は終わりにしますというふうにお話して、帰る準備をしていただいてる間に、一緒に診察室を出て、待合室のテレビを見てたんですね。
 そしたら、まず津波が大きく襲ってきて、その直後にはコンビナートの爆発の映像が入ってきて、っていうふうな形で、「大変なことが起こってるな」というふうに感じました。
 まぁ、あの、どうしても福島県の人間っていうのは、地震保険がもっとも安かったので、この辺は。要するに「地震は来ない」と。
 今、原発のほうの話で考えても、福島原発は地震の確率ゼロって言われてたんですね。
 で、実際僕らも地震は来ないだろうと思っていたんですね。心の中で。
 あれだけ大きい地震が来てたのにもかかわらず、恐らくここにこれだけ大きいのが来てるってことは、もっと大変なところがあるに違いないって考えてたんですね。
 ところが、まぁしばらく様子を見てるうちに、東北地方全域が大変なことになってるっていうことで、自分たちが一番渦中の人間だったっていう・・・、後で気づいた。
 ただ、実際問題として、非常に大きい地震だったので、僕の仕事上やるべきことは何なのか?っていうのをその場で考えたんですが、自分の診療所の患者さんに関しては、皆安全に帰っていただいたので、それでとりあえず義務は果たした。
 まず、スタッフも家族が心配だろうと思うので、まずとりあえず一度、予約の患者さんとかには全部連絡をして、あー、でも連絡つかなかったかな、あの時は。つながらなくて・・・。
 で、とりあえず診療所を閉めて、スタッフそれぞれ家に帰って、まず自宅のことを見てくださいと。
 私は、家族とたまたま連絡がついたので、一応整形外科医という職業柄、当然一番外傷患者というものに対して対応しなきゃいけないということで、この辺の一番の救急病院に向かったんです。
 もともとそちらで僕働いてたんですけど、
Q.それは呼ばれたんですか?
 いや、呼ばれたわけではなくて、直接、自分の意思で言ったんですけど。
 家族にちょっと声かけて、
「恐らく2,3日帰ってこれない。恐らく病院で泊まり込みで手術をずっとやり続ける話になる」
っていうふうに言い残して、出かけたんですが、救急外来の先生とかも皆知り合いですから、「どうなってますか?」っていうふうに話を伺いに行ったんですが、その時に、意外にけが人がいないんですよ。意外にっていうか、ほとんど全くといっていいほど、手術が必要な患者さんというのはいらっしゃらないということで、実は、その整形外科医、そこの病院不在、半分くらいは学会で不在だったんですけれども、やはり、外傷患者もいないということで、「とりあえずここはいいよ」っていうふうに言われまして、それで結局自宅に帰ったんですね。
 じゃあ自宅に帰って何をしたかっていうと、結局、当面の食べ物とか飲み物とかを確保しなければいけないってことで、周り、お店屋さんとか見に行ったんですが、当然のことでやってない。
「ガソリンを入れなきゃな」
っていうのも、ちょっと思ったんですが、ガソリンスタンドもことごとく閉まってる。
 びっくりするような勢いでモノが無くなっていくんですね。
 翌日になったら何とか収まるだろうと思ってたんですが、翌日になると益々ひどくなっていくと・・・。
 どんどんどんどんモノが無くなっていうような中で、家も小さい子供が居ますので、なんとかうちのものだけはと思ったんですが、たまたま買い置きがたくさんあったんで、そんなに並んでまで買わなきゃいけいけないっていう状況じゃなかったんですけど。
 3.11金曜日でしたよね。
 土曜日は、一応診療所を休診という形で、日曜日、そして月曜日っていうふうに進んでいくまでの間に、12日の、あの・・・原子炉の爆発ですよね。ありまして、
「本当に大丈夫だろうか?」と。
Q.それは何で知りましたか?
 やはりテレビでしたね。
 その後、最初、
「水素爆発だから、大丈夫だ」
っていう話を聞いたので、それなりになんとなく安心してですね、月曜日にはとりあえず一度診療所に集まろうって決めてたので、月曜日に診療所でスタッフ全員集まって、
「じゃあこれからどうしようか?」
っていう話をして、
 とりあえず目の前で診療所に来てる中でも、救急な処置が必要な方、あと薬が切れては困るような方をとりあえず呼び出しかけて、それで、その後、午前中いっぱいでそういう作業を終えて、午後はまたとりあえず閉めましょうということで、その後また外傷患者とか来てるんじゃないかということで、僕はまた救急病院に向かったんですね。
 ところがやっぱりそこでも、救急患者さんとか居ないということで、とりあえず、その
「火・水と二日間休みにしましょう」
というような話をして、それまでの間にみんな体制を考えましょうっていうふうに、スタッフとも話してたので、僕はその二日間を利用して病院にこもるつもりでいたんですが、なぜかやっぱり必要とされなかったということで、
「じゃあ、何をしようか?空白の二日間」
と言ったときに、やっぱり子供を守るしかないというふうに考えた。
 14日、その月曜日の状態で、3号機が爆発して、その爆発したのをスタッフ皆で見守ってびっくりしながら、とりあえず自宅に皆わかれたんですけど、その後、
『本当にこのまま居ていいのか?』
というふうな疑問を感じまして、テレビを見ているうちに、私の先輩からも
「そろそろ避難を考えたほうがいいんじゃないか」
という連絡が入りまして、彼は
「15日の朝、新潟に出る」
というふうな話をしてたんですね。
Q.その方も福島県内の方ですか?
 はい。 福島県の人間で。
「新潟までのルートは恐らく大丈夫だ」というような情報が入った。その時に。
 僕は、実は、どっかに逃げるにしても途中で道路が駄目になってるんであれば、逃げた途中でまた地震にあって、またひどい目に遭うんじゃないかと考えてたので、動かないほうを最初選択してたんですけど、「どうやら新潟まで大丈夫だ」というような情報が入ったので、新潟まで高速は止まってたので、止まってたというより通行止めになってたので、下道で向かおうというふうに、じゃあ15日に一緒に行こうというふうな話にしてたんですね。
 ところがなんとなく胸騒ぎがしまして、テレビを見てると、夜中に向かってですね、
「空港のほうから臨時便が出ます」
と・・・。夜に向かってどんどんどんどん、何か東京方面に移動しなさいみたいなサインが出るんですよね。
 新幹線も郡山からは走ってないんですが、隣の隣の那須塩原からは東京まで出るというふうな情報が入って、
「これは、恐らく『頭のいい人間は気づいて逃げてください』っていうサインだ」
と思ったんですね。
 それで、僕は14日の夜中1時に出ようと決断しまして、親も起こして、夜中の3時に新潟に向けて出発しました。
 妻の実家が金沢だったんで、金沢方面にということで、今となって考えると、非常にいい選択だったんですけど、方向性も時期も。
 そういう形で、とりあえず一次避難という形になりました。
Q.テレビ以外の情報は入手しましたか?
 ちょうどですね。震災の直前から、私FACE BOOK始めたんですね。フェイスブック、使い方も判らない状態で、何か情報を仕入れられそうなんだけど、判らない・・・、ということで、
「じゃ、ツイッターだったらもうちょっと簡単じゃないか?」
っていうことで、実はスタッフと別れる時も
「とりあえずツイッターをやろう」
ということで、判らないかもしれないけど、
「みんなツイッターやろう。これでお互いの情報を仕入れて、お互い動きましょう。」
っていうことで、それで別れたんですよ。
 ですから、よく考えてみると、ツイッターはやってました。
 ダイレクトメッセージとかに関しては、使い方が正直なところわからなかったです。ですから、使えたか使えなかったか?っていうところも判らなかったと。
 だから、本来の個人個人の情報の伝達はメールでやってました。
 そうするとメールの場合は、下手すると2日かかって届いたりとか、いうふうな状況で、なかなかこう、うーん、うまくリアルタイムに伝わらないという状況でしたけど、なんとかそれで通信しながら。
 僕は、新潟に行くまでの精神状態っていうのは、非常にものすごい追い詰められた気持で・・・走ってて・・・。走ってる最中に、この、また、地震速報が来るわけなんですね。
「やった!これで新潟まで出たぞ」
っていう時に、津波が来ますっていうのを聞いた瞬間に、
「あぁ、もうダメだ」
って思ったんですけど・・・、うーん。
 その時のダメだと思ったのは、地震と津波ですかね・・・。はい。
 原発に関しては、「ここまで来てれば大丈夫じゃないか」というふうな、甘い感じがありましたね。新潟のあたりでは。はい。
 ただ、ちょっと走ると今度刈羽原発があるので、ここで地震が来たら、次にこっちの原発がやられるのか?っていう感じはありましたけど・・・。
 僕は直接、子供たちをおいて直ぐ帰ってくる予定で考えてたんですが、やはり子供たちの精神状態が、余震の繰り返しと、水が出ないストレスと、いろんなことがこちらに避難する直前の3日間の間に、ものすごい子供たちのストレスがあったので、「僕が帰る」って言うと、もう泣き出すんですよね。
 それで帰れない状態になってしまって、結局、私が帰ってきたのは、3月22日ですかね。連休明けです。
 石川県の金沢市なので、正直な話、全く地震も何もないわけなんで、周りの人たちも全く危機感はない。しかし物は無い。買い物に行くと・・・
Q.奥さんの実家なんですよね?
 はい。
 買い物の行くと、お店には懐中電灯は無ければ、電池も無ければ、ガスボンベも無い。
灯油缶も無い。ガソリン缶なんか当然売ってない。
 あまりにもモノが無くてびっくりしましたけど、日本中からモノが無くなってるんだってその時には気づきましたけどね。
 カップめんも売ってないですね。
Q.いつ頃から原発事故の状態がわかってきましたか?
 やはり避難先でテレビを見てる。
 結局テレビになっちゃうんですけど、テレビで次々爆発する、爆発は実は、移動中に経験してたんですけど、どんどんどんどん爆発していくので、
「早く皆逃げろ」
って一生懸命メール打ってたんですけど、それが伝わらない。
 避難中の車の中でラジオで聞いてたのが、一番、一番なんか・・・入ってきた・・・、
「もうダメなんじゃないか」
っていうふうに思ったときでしたね。
 要は、金沢に向かってた時っていうのは、14日の深夜から15日の朝にかけて、昼間にかけてなので、ちょうどその時に、次々と爆発があったんですよね。
 で、2号機の・・・、サブチャンバーでしたっけ、それが爆発したりとか、4号機が火災を起こしたとか。
 流石に
「一基だったらなんとかなるんじゃないかな」
っていう、ちょっとした気持ちはあったんですが、四基いっちゃってるっていうのを考えた時に、
「もう福島帰れないんじゃないか」
っていうふうに僕はそこで思いましたけどね。
 で、逆に残してきたスタッフたちに、「さすがに3時にお前らも出ろよ」っていうのは言えなかったんで、『ものすごい申し訳ない』っていう感じがして、
「とにかく、何とかしてこのメールが届いてくれ」
っていうふうに思いながらメール打ってた・・・覚えがありますね・・・。
 まず、一番最初に必要なものは、放射線の測定器が必要じゃないかと思って、ネットでまず、何とかして手に入んないかと思って、やってみたんですけど、やっぱり手に入んないんですよね。あの当時は。
「それはしょうがない」
ということで。
 22日に帰ってくる決断をしたのは、スタッフを残しているっていうこともありまして、あと、スタッフが
「いつ始めるんですか?」
というふうな連絡も来まして、流石にほっとくわけにはいかないと・・・、本当にそんなふうな感じで帰っていいのか、悩みましたけれども、やっぱり帰らなければいけないんじゃないかというふうに考えて、帰ってきた。
 その帰るにあたって、ガイガーカウンターをなんとかして手に入れたいと思ったんですが、やはり手に入らず。
 郡山から何キロですかね。20㎞ほど西の方にある猪苗代の、最初避難のきっかけになった先輩の診療所には、なぜか
北里研究所がシンチレータ式のガイガーカウンタが届いて。
 それで、ちょうど帰りに新潟方面から帰ってくるときに寄って、ガイガーカウンターっていうものが手に入るものなんだっていうふうに見かけながら帰ってきたんですね。
 ただ、そこも箱に入ってたので、
「箱の鍵が届かないということで、ココにあるんだけど使えないんだ」
っていうふうな状態でしたけど。<苦笑>
Q.『鍵が届かない』っていうのは、どういうことですか?
 鍵を掛けてたのを知らない、忘れて、多分送られてきたんですね。かかってないと思われてたんですね。送ってきた方は。
 こちらに戻ってきて、とりあえずスタッフ集まって、
「出れるものだけ出てください」
っていうふうな形で、
「逃げたい人は逃げてください」
っていうふうな形で僕は考えてたので、7割くらいのスタッフで診療を始めたんですが、当然患者さん、来ないですよね。通常の半分以下っていうふうな状況ですね。3月再開直後は。
 来てる患者さんたちも、皆ビクビクしながら来てるわけなんですね。
 余震もありましたし、診療中もまた余震が起きてっていう状態だったので、非常に腰の据わらない状態で仕事をしてました。
 やはり、再開後は確か、ネットも結構普通に使えるようになってたんですね。地震直後はほとんど使えなかったんですけど、インターネットの中で、どんな情報が出てるのかなっていうのをいろいろ調べてきましたが、郡山市っていうのは、当初空間線量の測り方が同じ福島県内の他の市町村に比べると、他の市町村は、地上1mで測ってたんですけど、郡山市に関しては、3回測ってたんですね。
 だから全く数値が他のところと違って、妙に低いんですよね。
 それで安心してた人たちも結構居たと思うんですけど、確か、21か22か23、そのあたり、ちょうど僕が帰ってきたあたりに、地上1mで測るようになって、数値が三倍近くに跳ね上がったんですね。その時に、
「あぁ、やっぱり福島市も郡山も同じようなもんなんだ」
っていう認識をして、その時には、ちょっと皆危機感が高まったんじゃないかなと思います

 インターネットは、武田先生のブログはよく見てましたね。
 結局、何が正しいことを言ってるのかっていうのを選んでいくと、武田先生の話が、一番信ぴょう性もあるし、それなりに安心できる話も出てくるしということで、小出先生の話は、あまりにもこう・・・、怖い話・・・なので、できればそうじゃなければいいなって思いながら見てましたね。
 それでも見てましたけど。<苦笑>
Q.インターネット情報
 その当時、インターネットを見てたのは、そういう深刻な話を載せてるモノをなるべく見るようにしてたんですね。
 だけど、じゃあ世の中で何が行われてたかっていうと、私が帰ってきたとき、すぐ直後にですね、長崎大の教授の講演会があるということで、その時は、高村先生の方の講演会が郡山でありまして、それに一般市民も混ざって僕も聞きに行きました。
 確かに語り口も非常に柔らかくて、ものすごい攻撃的な質問に対しても非常に紳士に答えてるってことで、それなりになんとなく説得力はあるんですが、ところどころおかしいんですよね。話が・・・。
 質問されてる方たちが、現実問題として、本来・・・牛に室内の稲わら、牧草とかそういうものしか食べさせてないにも関わらず、牛が危ないっていうふうな話が出てきて、牛乳からも放射性物質が出てるというふうな話が、多分ちょうどその頃出てたと思うんですよ。
 その時に農家の方は、
「この牛は、空気と水と牧草、全部俺らと同じものを食わせてる。っていうことは、俺らもそうなんじゃないか?」
っていう質問を投げかけたんですが、長崎大の教授は、長崎の風土と思って言ってしまったんだと思うんですが、3月22日は、郡山近辺は草生えてないんですよね。
「外の草が頭だして食ったんだろう」
というようなことを言われてましたが
<苦笑>
「外の草を牛舎から顔を出して、外の草を食べたんでしょう。そのために外の草とか外の土から放射性物質が入ったんでしょう。」
って答えたんですが、どう考えてもそんなに有り得ない話なんですよね。
Q.当時の郡山はどんな状態なんですか?
 当時の郡山は、時々雪が降るような、そういうふうな非常に寒い。
 それでいて、燃料も手に入らない。
 皆もう震えるような状況でいましたね。
 そこの会場も、ビックパレットっていうところなんですけど、非常に大きい体育館みたいな、あれは定時制高校の体育館でやったんですけど、非常に寒くて、
「その寒さで草が生えてないっていうのが気づかないのかな?」
って、ちょっと僕は思ったんですけど。<苦笑>
「でも、やっぱり長崎の先生だからそういうふうなことを言われたのかな。そうするとやっぱ整合性が無いな。ちょっとおかしいぞ」
っていうふうにそこでは気づいてましたけど。
 郡山市っていうのは、比較的山下先生とかの話が、講演会とかが少なかったんですね。当初。
 福島市内はかなりやってたと思うんですね。
 あと、福島県立医大周辺では。
 だから、どうしても福島と郡山との間で危機感が乖離してる事情っていうのは、その非常に危険な時期に、
「安全だ」
っていうふうな話を非常に言われてたのは、福島市周辺なんじゃないかと。
 郡山市は、少しそういう情報が後手に回ってたので、逆にちょっと心配だっていうふうな話のほうが強かったのかなっていうふうに、今では思ってますけど。
Q.今もその影響は出てるなというふうにお感じになってますか?
 それは、非常にあると思います。
 やはりそういうふうな宣伝がうまくいってたのかなというふうには思います。
Q.山下教授の発言に対して
 それが、『安心でパニックを起こさない』っていうふうな意味で良いっていうふうに先生は言っておられますが、その『パニックを起こさない』っていうふうに考えるのは、『政治家の考え方』。
 『医師が話す話』じゃない。
 某テレビ局の取材のカメラの前で、
「なぜ福島市の人間を避難させないんですか?」
というようなことを聞かれて、
「じゃあこれだけの人数、どこに避難させるんですか?」
って答えていた映像が・・・、あれはYOUTUBEだったと思うんですが、そこに入ってたんです。
 それを見た瞬間に、
「あ、この人は『医者』じゃなくて『政治家』なんだ」
と、いうふうに私は感じましたね。
Q.同じ医師として思うこと
 それは、私は違ったことを考えたと思います。 
 もし同じ立場でいたら。
 しかも、知識も過去の事例から学んでる人間なわけですから、僕があの時点で同じ立場であったら、まず、ヨウ素剤を配ったと思います。
 それが第一歩だと思うんですよね。
 ヨウ素剤を配ることによって、ある程度の安全マージン、時間的なマージンが得られるわけですよね。24時間から48時間くらいは、ある程度ヨウ素を防御できる体になるわけなんで、そういう状態を作って、
「時間的な余裕は十分あるんだから、ゆっくり避難しましょう」
というふうに話をするべきだったんじゃないかなって僕は思ってます。
 それは、僕の個人の考えですけど。
 なぜかというと、やはり『医師』っていうのは、そこの患者さん、目の前の患者さんもそうですし、地域住民の健康を守るのが仕事なわけで、その健康を守ることがオーバーだろうが何だろうが、守るほうが先決だと思うんですね。
 それが『医師の役目』であって、それをやってモノが手に入らないという場合にでてくるのが、政治家の話である。
「じゃあ配分できないから、どういう人に配分しましょうか?」
そういうことを考えるのは政治家で、勝手にやってくださいと。
 だけど、我々は目の前にいる人に対して、それを与えないということ自体が・・・、僕の医師としての考え方は、「おかしいな」というふうにしか思えないですね。
 3月末の時点のことを思い出しますとね、まぁ、『安全だ』っていう話は、それは間違いだろうというふうに、講演会の直後はやはり『安全だ』と言われると、非常に安心するんですね。私もちょっと一瞬
「あ、そうなのかな」
って思いました。
 だけど、やはり「ちょっとおかしいぞ」というような気持ちがあったので、そこの部分をネットで調べていくうちに、明らかにおかしいというふうに思い始めまして、その講演会を聞いて1週間はなんとなく安心な気分でいたんですけど、その後の1週間過ぎた後は、
「明らかにこの人たちはダメなんだな」
っていうふうに、
「違う人たちなんだな」
っていうふうに気づきましたけどね。
 『安全だ』って言われて、僕が最初に見た講演会でも、みんな安心して帰っていきましたね。ほとんどの人が。
 僕は、その先生の語り口が、非常に紳士な語り口だなっていうふうにだけは感じましたけど、山下先生は、逆にインターネットで見て、
「あ、そういうことを言ってるんだな」
っていう情報だけは仕入れましたけど、当然、やはり同じ医師なんで、おかしい人だとは思いたくないので、最初やっぱり
『100mSvまで安全です』
っていう言葉は、それはやはり言い過ぎだろうと、ただ
『100mSv以下では、医学的に危険性が指摘できるエビデンスがありません』
みたいな、要するに『わかりません』っていうふうに答えるのが、本来のスタンスだったんじゃないかなと、それを『わかりません』じゃなくて、
『安心です、安全です』
っていうふうに言ってしまったっていうこと自体は、やはり「『政治家』なのかな」っていうふうには思いました。
<00:33:10頃まで>


【その②】に続きます。
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