※この記事は、11月17日 【内容起こし】IWJ百人百話 第9話 有馬克子さんに関連しています。
【動画】
11月18日 百人百話 第十話 "BOND&JUSTICE" DJ mambow さん
http://www.ustream.tv/recorded/18592062 (65:00)
【以下、お時間のない方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2011年9月1日収録
Bond and Justiceの遠藤と申します。
福島県の郡山に在住です。
爆発した時、地震の時は郡山市に居ました。
35になります。
子供が3人と嫁さんですね。子供は小学校3年生と幼稚園年長さんと年中さんの5人家族です。
Q.出身とお住まい
埼玉で生まれたんですけれども、郡山市の隣の須賀川市というところで学生まで居て、その後仙台行ったり沖縄行ったり、アメリカ行ったりって感じで、今はもう郡山にずっと。
Q.なぜ郡山に?
郡山、好きですよね。ほかに理由は多分あんまりないかなと思います。
Q.どういったところが好き?
まず仲間、家族、風土、人間、環境、大好きっすね。はい。
Q.3.11当日
その時は、たまたま自宅に居たんですよ。
それで、嫁さんと二人で居て、自分の娘が幼稚園から帰ってくるのを待ってる状態だったんですね。息子も小学校から帰ってくるのを待ってる状態。
地震になり、一番下の娘だけは家にいたんですけども、びっくりするじゃないですか。で、テレビを押さえて、金魚鉢を押さえて、家財を押さえながら、子供をこたつの下にもぐらせて、ちょっと落ち着いた時に一気に外に出て、娘がまだ帰ってきてなかったんで、幼稚園、バスで来る予定だったんですけど、帰ってこなかったんで、そのまま幼稚園まで迎えに行こうっていうことになって、ほんと、ちょっとした時間だったんですけど、その間に息子も帰ってきて、息子は半泣きで帰ってきて・・・。
通学路の石段、石棚?なんて言うんですかね。家の壁もどんどん倒れてくる状態で息子が走って逃げてきたって言ってたんですけど、とりあえず無事を確認して、あと長女だけが幼稚園から戻ってきてなかったので、幼稚園まで車で迎えに行きました。
途中も塀が崩れてたりとか、もちろん地震も全然収まらなかったので、何分に1回くらい大きい地震が何回も何回もあったので、そういう状況で、幼稚園に迎えに行って、そしたらまだ幼稚園に居たんで、そこで乗せて、自分の友人の娘も同じ幼稚園に行ってたんで、自分の友人も連絡つかないし、心配だろうということで、その子も一緒に乗せて友人の家まで送っていって・・・。
そうですね。
で、その日は自宅に一回戻って、車の中で一夜を過ごしたんですね。
Q.原発事故を知ったのはいつ?
それは、うーんと、その次の日?11日に爆発したんですかね?12ですよね?
その時に、もう郡山は水とかも出なかったので、生活できないから、嫁さんの実家のほうに行こうってことになって、郡山から1時間かからないくらいのところの田舎なんですけど、浅川町っていうところなんですけど、そこに居るときにテレビを見てて、テレビで・・、知りました。
Q.3.11までの原発に関する知識は?
もう全然ゼロです。
『チェルノブイリ』、『なんかあったら危ない』、でもまさか、自分たちの周りでこういうことがあるとは全く・・・無頓着でした。
Q.原発に関する情報収集の手段は?
電話つながらない状態だったんですけど、かけ続けてたらたまに友人につながったりとかして、その友人から逆に「まずい状況だよね」っていうことを言われて、自分の中でも
「うわ、爆発した・・・。あれ、やべぇんじゃねぇの・・・?」
っていうくらいだったんですよ。
友達とかとしゃべってたり、あとツイッターとかで「やばい」っていう話がどんどん煽られていったんですよね。
で、自分の中でよくわけわからない、時間が過ぎていったんですね。
国も「大丈夫」って言うじゃないですか?
自分自身では、
「大丈夫なわけねーだろ」
っていう気持ちがありながらも、無知ですし・・・。
その実家のお父さんとかも、テレビとかをしっかり信じるタイプの人なんで、
「テレビで大丈夫って言ってるから、大丈夫だと思う。津波はあの映像で大変かもしれないけど、原発は大丈夫だろう」
っていうことを言われたんですが、嫁さんと話して、
「いや、まずいよな」
っていうことで、「子供たちを外に出さないようにしよう」。
で、もうずーっと家の中、こもりきりが始まったんですね。
実家に行ってからずっとですね。
14日くらいから、自分はボランティアのほうで動き始めたんで、宮城の、仙台の先輩が電話よこしてきて、
「大丈夫か?郡山大丈夫か?」
ということで、ぶっちゃけ、郡山なんて全然大丈夫だったし、確かに瓦が剥けちゃったりはあったと思うんですけど、海の映像を見てたら、もう全然郡山は全然大丈夫だって話をして、そしたら、その仙台の先輩が、
「物資を速攻集めて大量にあるから、来れるんであれば来い」
と。それで、
「わかりました。じゃあ行きます」
もうイライラしてたんで。ずーっと。
新潟の時も、関西、神戸の時も・・・、大変な時なのに何もできてない自分にイライラしてて、でもそれを口に出して言ってもカッコ悪いし、でも、その地震から2日、3日間はずっとイライラしてて、家族のことも心配だけど、もう動きたくてしょうがなくて、その仙台の先輩がチャンスを自分にくれたと思って、親に相談したんですよ。嫁さんの親に。
「先輩からこうこうで、行っていいか?」
っていう話をしたら、いいかもしれないですよね。今こういう状況で原発もあるし、大丈夫とは言ってるけど、家族のことも考えなきゃいけないのか?いち早く。
でも、俺の中では、実家に居るからちょっと安心感があったんですよ。
で、「行かせてくれ。」
でも、ガソリンは無い。
ガソリン入れるとしても、ずっと並ばなければいけない状態で、その並んでる時間でも、先輩からの電話があったんで。
うちの実家のじいちゃんが、携帯のポリ管、携帯のカンカンあるじゃないですか?あれに、もしもの時のためにって、20リットルだけガソリンを入れてたんですよ。それを聞いたんですね。
で、その、あの時ってホント、ガソリンとか燃料ってすごい貴重だったじゃないですか。手に入らない。
で、じいちゃんに相談したんですよ。
「じいちゃん、仙台の先輩がこうで、俺ちょっと物資をとっていわきの方に持ってきたいんだけど。」
ちょっとドキドキしながら言ったんですね。
そしたら、じいちゃん、二つ返事で
「おう、行け。」
って言われて、んで、そこから始まったんですよ。
それで、仙台まで行って、その途中もガソリンとか知り合いのガソリンスタンドの人にに協力してもらって、並ばないで入れてもらったりとか、ワケを説明して並ばないで入れてもらったりとか、それはあって。
なんとか仙台まで取りに行くことができて、先輩は、「物資がいっぱいあるから取りに来い」って俺に言ったんですけど、そしたらバカみたいにいっぱいあるわけじゃないんですよ。でも、
「これも持っていけ、あれも持っていけ」
って、軽トラに入れたんですけど、俺、後輩と二人で。
もう軽トラ満載に積んでくれて、ガスコンロとか、炊飯器とか、もう食べ物。レトルト品とか生活、必要なもの、手に入ら無いものも相当の量あったんですけど、それを預かって、で、いわきに戻るっていう。
いわきに戻るっていう時に、「どこに持っていけばいいんだ?」ってなるわけです。
何も決まってない、何も判らない状態で動いてるんで。
で、ツイッターで持っていくところ探そうっていろいろ調べていて、でも情報が間違ってるとか、そういう情報とかも全部流れてたじゃないですか。
「でも、どうしよう・・・」
ってなってるときに、いわきの仲間から電話が来たんですよ。
いわきの仲間から電話が来て、
「大丈夫?郡山大丈夫?いわきで物資、がっつり集めたから、郡山大変だったら、郡山に持っていってくれ」
って電話が来たんですよ。
その時に、マジ感動して・・・。
んで・・・。
で、いわきに持っていこうと俺らは思ってたので、そのうちらの仲間たちももう動いてるっていうことが、そこでわかったので、
「俺たちも仙台から持ってきたから、それを託していいか?」
「もちろんそんなにあるんだったら、是非持ってきて」
っていう話になっていったんですよ。
行ったら行ったで、その動きがタイトで、あちこち情報とりにいったりとか、炊き出しをどういうふうにするか計画を立てたりとかっていう状況だったので、人手が足りない状況だったんですよ。
だから、俺と後輩で「ちょっとここに居ようか」っていう話になって、いわきのネイバーフッドカンパニーっていう音楽やってる仲間たちなんですけど、と一緒に約2週間、20日間くらい、ずっと一緒にそこで活動して、その間にやっぱり被災地の映像もとっておかなくちゃいけないっていうことで、20㎞圏内まで入っていったりとか、第一原発の前まで行ったんですけど、20日の日ですね。
恐怖心とかそういうのはもう乗り越えて、立ち入り禁止だったんですけど。
ちょうどそのときなんでそっちに行ったかっていうと、大熊町のほうにも人が居るっていう話を聞いて、「立ち入り禁止、食料もなにもないだろう」っていうことで、うちの八百屋の後輩が居るんですね。だから、
「野菜を持って大熊町の方まで人を見つけて届けよう」
って話になったんですよ。
それで入るときに、
「中に俺のばあちゃんが居るから」
って言って嘘ついて入っていって、それで、自分が思ってる以上に人が居なくて、一家族だけ見つけたんですよ。
一家族みつけて、そこのところに走っていって
「こんにちはー!野菜??ですかー!?」
って聞いたんですよ。そんなノリで。そしたら、びっくりして、
「おまえら何しに来てるんだ?ここに。」
「いや、もう野菜届けに来た!」
「いや、俺たちはもう今から避難するから、避難する準備をしてたんだ。今お前たち見つかったら、警察に逮捕されちゃうから、戻ったほうがいいぞ」
って言われて、そこが大体20㎞位のとこだったんですよ。で、そのまま「戻ったほうがいいぞ」って言われたんですけど、そのまま6号線を突進していって、そしたら、ちょうど第二原発の目の前のとこで寸断されてるんですよね。道が。
そこでまた戻って、迂回して、大熊町まで絶対行こうっていって、大熊町のほうで知り合いじゃないです、人が居るだろうと。人が。
Q.誰かしら人が居て、困ってる、逃げ遅れてるやつがいるんじゃないか?飯食えない人間が居るんじゃないかと思って、届けようと?
そうですね。
Q.突進していったんですね?<笑>
突進したんすよ。
これ、まだ嫁さんにも言ってないことなんすけど、
Q.本邦初公開?
はい。
仲間内にしか言ってない。
Q.無茶だった?
無茶だったと思います。
なんか、今できることは?って。
それで突進していって、大熊町に着いて、で、もちろん町の中、本当に普通なんだけど、人が全然居ない。警察署のガラスは割れてる。警察署にも人が一人もいない。パトカーは何台かある。人っ子一人いない状態で、第一原発の看板が見えたんですよね。
「もう行くしかねぇ」
って。
で、目の前まで行って、目の前まで行ったら、防護服の門番の人たちが何か俺たちを見つけて、トランシーバーでなんかワサワサしてるんですよ。
「これ、まずいな。」
警察につかまっちゃうよって話を聞いたもんで、
「ちょっとこれ、まずいな」
ってなって、とりあえず門のところでUターンして・・・。
そしたらその後は、またいわきに戻って、結局人に会えなかったんですけど、いわきに戻って炊き出ししたり、物資運んだり、被災者のじいちゃん、ばあちゃんの話聞いたり、っていう毎日だったんですよね。
Q.原発の関する事前の知識もなく「突撃」・「炊き出し」etc...情報もない中、自分の身に何が起きているのか、把握していた?
わかってないですね。
テレビも無い状態だったので、自分たちの基地にはテレビが無かったんです。だからラジオだけだったんです。ラジオも情報収集のツールでしかなかったし、なんか、大丈夫っていう言葉を全く信じてない自分がいたっす。
なぜかっていうと、メンバーの中に原発で働いたことがあるやつが居たんですよ。
で、彼の話が一番僕らの・・・
Q.ニュースソース?
そうですね。
Q.それは、どこで働いていたの?その人?
うーんと、第一原発ですね。
で、多分そいつが言ってたのは、
「そのうち声がかかるんじゃないかな。自分にも。だって中を知らないやつが行っても、しょうがないでしょ?俺が中を歩けるからさ。多分呼ばれる。」
「じゃあ、どうすんだ?」
「いや、行くしかないでしょ。」
っていう・・・、感じですよね。
だから、もう「危険だよ」っていうことは、判ってはいたっすね。何がどう危険なのか、どうなったらどうなのか?っていうのは、全く判らない。ただ、
「そっちの方に行くときは、マスク2枚重ねて行こうね」
っていうくらいの感じです。
Q.その彼とは福島第一原発ぎりぎりまで行かれたのですか?
いや、その無茶も、最初からそこに行こうとして行ったんじゃないので・・・。
Q.迷って行っちゃった?
迷って行ったというか、第一発見した人、「警察につかまっちゃうぞ」って言われた人以外に人と会ってないんですよ。だから、結局空振りに終わるわけにはいかないっていう、食べ物もバンにたっぷり積んでいったので・・・、だからミッションが全然もううまくいってないわけですよ。自分たちの中で。だから、突き進んでいってしまったっていうだけですね。
バカですね・・・。<笑>
今考えれば<笑>。
結局空振りだし。
Q.原発で働いていたという友達に「正門まで行った」ということを伝えたら、何と言われた?
「行ったの?まずいよ、それは!」
「だよね~。でも行っちゃったからさ。」
そのくらいです。
Q.「除染しろ」等、言われた?
言われたッす。
でも、シャワーとかも無いので、とりあえず露出してるとこ拭いて、うがい手洗い・・・、もうそんなもんすよね・・・。
3月は5回くらい鼻血出たんです。
Q.幼い子供だけでなく、大人も?
僕の周り、結構いますよ?うん。はい。鼻血出るっていうヤツは。
最初の頃は、ちょっと精神的なストレスか、疲れてんじゃないか?と思ってたんですけど、でも、話をどんどん知っていくうち、
「やっぱあの時のはまずかったんじゃね?」
っていう話にはなります。
3人で行って、2人しか鼻血は出てないです。
Q.他に身体的な変化は?
うーんと、身体のだるさと、それはもうずーっと続いたっすね。
3,4,5・・・、6月くらいまでは。
熱は自分はないですね。
下痢は、もうずっと今でもしてるっす。
俺の周りの友達もほとんどのやつは、下痢してる。
郡山にしかいない人でも。
あと、目ですね。目が。目がシパシパするというか、常に目薬ずっとやってる。
Q.症状が放射能の影響ではないかと疑い始めるのはいつ頃?
4月あたまくらいに、最後の5回目くらいの鼻血だったんですけど、それが、ちょっとした鼻血だったんですね。その前は結構鼻血、鼻につめて、2,3本真っ赤になっちゃうくらいの鼻血だったんですけど、最後の鼻血がちょっとだったんですよ。
何かが変化してるのか、何なのか?って考えた時に、その原発で働いたことがある自分の仲間は、ずっと言ってたんです。もう笑い話くらいの感覚で話してたんで。
「ぜってぇ被曝してるっしょ?」
そのくらいの感じだったんで。軽いノリで。
そのくらいじゃなかったら、もう居られな状況だったんですよ。その、津波のほうのあれが大変だったので、自分被曝してるなんていうのは二の次くらいの感覚で、笑い話くらいの・・・。
その最後に鼻血になった時に、その自分の変化に気づいたっていうか、やっぱ身体がおかしいんだなっていう・・・、これは良くないなっていう感じですね。
メインは自分たちの周りにいる人たちに対しての炊き出しだったりとか、物資の配達だったりとかっていうことだったので、自分のこと、自分の身体とかを考えてる時間は、全く無かったんですよ。そういう思考回路が無かった・・・。
で、ちょっと落ち着いてきたんじゃないか?っていうところじゃないですかね。
で、ちょっとあの、自分がホッと一息ついた時に、「あれ?」っていうふうになったのかなと思って、考えたことなかったですけど。
でも、なんか自分ももう、なんて言うんですかね。
興奮してるっていうか、アドレナリン全開っていうか、ずっとそういう状況だったんですよ。だから精神的にも、
「もうやるやつがやんないと、とまんねぇんだろうな」
っていう、その原発の彼が言ってたのは、
「絶対的に必要なのは、『人間の手』なんだよ。ロボットでカチャカチャやっても、あんなの・・・。氷山の一角どころか、塵を掃除するくらいしかないから。実際は、本当に解体現場行けばわかんじゃん?あんなのラジコンでチョコチョコやって片付くわけないじゃない?」
だから、人の手が絶対的に必要だっていうのは判ってて、腹の中で『もう行くしかないか』くらいの感じにはなってたんですよね。そのメンバー自体が。
「行くか?」
っていう話になってて。仕事うんぬんとかじゃなくて。
まぁ、その頃1日働いて7万とか20万とか、そういう話とかも出てたんで、もう行くしかないっていう正義感と、あと「金もいいから、ここで一気に稼いで、家族にやればいいんじゃないの?」くらいの、そのくらいのなんか、特攻隊的な、おかしい感じにはなってたんですね。
Q.事故後、実際に原発で働いた人はいる?
自分の友人の友人はいます。
気持ちだけでその人も行ったみたいで、行って戻ってきて、相当後悔してるっていう話までは聞いてるんですよ。
だから・・・。
Q.遠藤さんの所属する「Bond and Justice」とは?
ホームページもあるんで、それを見てもらうとよく判ると思うんですけど、簡単に言うとBond & Justiceの代表の大土雅宏っていうのが、古くからの友人であり、音楽を一緒にやってきた仲間でもあるんですよ。
自分もずっと音楽はやってまして、HipHopっていう音楽をやってまして、その代表が、以前、ちょっと某有名なHipHopグループのマネージャーをしてたんですね。
それで全国にコネクションを持ってたと。北から南まで。それで、彼が立ち上がって、11日の時点で立ち上がって、自分に電話をよこしてきてたんですよ。
だから、全国の仲間たちに、音楽を通じた仲間たちに、11日の時点から電話をかけまくってたと思うんですよ。電話繋がらない中。
その代表がやり始めたっていうのが、僕は知ってたんですけど、被災地支援ですね。まずは物資集めじゃないですか。
自分は家族とかを優先してたので、家族のほうでさっき言ったように実家に行ったりしてたんですけど、その間に彼は全国に声を掛けて、3日で80トン・・・、70トンか、80トンくらいの物資を集めたそうです。全国で。全国の人の協力、仲間たちの協力、HipHopコミュニティーで集めてくれて、東京、宇都宮、仙台っていう拠点も一気に確保して、そこに物資を集めて大型トラックで南相馬、彼の実家が南相馬だったので、南相馬に持っていったんです。
それとかもニュースにもなってたんですけど、そこから始まって、自分はいわきのほうといわきの方がちょっと落ち着いてきたって判断したんで、Bond & Justiceに合流して、そこからずっと一緒にやってるんですけど、うーん・・・。
もうずーっとその場その場の、3月の時点では物資を集めることが大事で、そして炊き出しをやって、それで今は水を集めて、大まかですけど、という感じで、その時その時で一番必要なものにスイッチして、ずっと動いてきた感じですね。Bond & Justiceは。
今の時点で、炊き出しは2万食オーバー。物資が180トン前後くらいの物資を被災地に届けてる個人団体っす。
Q.メンバーは何人?
メインのメンバーは、10人くらいですかね・・・。
でも、その、何人っていう感じじゃないんですよね。
その大阪だったら、大阪ですごく頑張ってくれてる人たちも居たり、岐阜だったり、東京だったり、誰がBond & Justiceだっていうのは・・・?
Q.グループ名じゃないんだ?
もう、『気持ち』っすよね。
Q.『気持ち』?気持ちでいいんだ?登録とかそういうのがあるわけじゃない?
個人の団体なんで、全く無いです。NPO法人にしたほうがいいっていう話もあるんですけど、そこらへんはどうなんですかね。進んでるかどうかはわからないですけど。
Q.音楽グループではなく、支援グループ?
そうです。音楽をやってる人たちが集まったっていう・・・、でその南相馬出身の大土雅宏が代表として、皆に指示を出して、「何が欲しい、何が欲しい」って集めて持っていく、それの繰り返しですね。
【その②】に続きます。
失礼します。

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埼玉で生まれたんですけれども、郡山市の隣の須賀川市というところで学生まで居て、その後仙台行ったり沖縄行ったり、アメリカ行ったりって感じで、今はもう郡山にずっと。
Q.なぜ郡山に?
郡山、好きですよね。ほかに理由は多分あんまりないかなと思います。
Q.どういったところが好き?
まず仲間、家族、風土、人間、環境、大好きっすね。はい。
Q.3.11当日
その時は、たまたま自宅に居たんですよ。
それで、嫁さんと二人で居て、自分の娘が幼稚園から帰ってくるのを待ってる状態だったんですね。息子も小学校から帰ってくるのを待ってる状態。
地震になり、一番下の娘だけは家にいたんですけども、びっくりするじゃないですか。で、テレビを押さえて、金魚鉢を押さえて、家財を押さえながら、子供をこたつの下にもぐらせて、ちょっと落ち着いた時に一気に外に出て、娘がまだ帰ってきてなかったんで、幼稚園、バスで来る予定だったんですけど、帰ってこなかったんで、そのまま幼稚園まで迎えに行こうっていうことになって、ほんと、ちょっとした時間だったんですけど、その間に息子も帰ってきて、息子は半泣きで帰ってきて・・・。
通学路の石段、石棚?なんて言うんですかね。家の壁もどんどん倒れてくる状態で息子が走って逃げてきたって言ってたんですけど、とりあえず無事を確認して、あと長女だけが幼稚園から戻ってきてなかったので、幼稚園まで車で迎えに行きました。
途中も塀が崩れてたりとか、もちろん地震も全然収まらなかったので、何分に1回くらい大きい地震が何回も何回もあったので、そういう状況で、幼稚園に迎えに行って、そしたらまだ幼稚園に居たんで、そこで乗せて、自分の友人の娘も同じ幼稚園に行ってたんで、自分の友人も連絡つかないし、心配だろうということで、その子も一緒に乗せて友人の家まで送っていって・・・。
そうですね。
で、その日は自宅に一回戻って、車の中で一夜を過ごしたんですね。
Q.原発事故を知ったのはいつ?
それは、うーんと、その次の日?11日に爆発したんですかね?12ですよね?
その時に、もう郡山は水とかも出なかったので、生活できないから、嫁さんの実家のほうに行こうってことになって、郡山から1時間かからないくらいのところの田舎なんですけど、浅川町っていうところなんですけど、そこに居るときにテレビを見てて、テレビで・・、知りました。
Q.3.11までの原発に関する知識は?
もう全然ゼロです。
『チェルノブイリ』、『なんかあったら危ない』、でもまさか、自分たちの周りでこういうことがあるとは全く・・・無頓着でした。
Q.原発に関する情報収集の手段は?
電話つながらない状態だったんですけど、かけ続けてたらたまに友人につながったりとかして、その友人から逆に「まずい状況だよね」っていうことを言われて、自分の中でも
「うわ、爆発した・・・。あれ、やべぇんじゃねぇの・・・?」
っていうくらいだったんですよ。
友達とかとしゃべってたり、あとツイッターとかで「やばい」っていう話がどんどん煽られていったんですよね。
で、自分の中でよくわけわからない、時間が過ぎていったんですね。
国も「大丈夫」って言うじゃないですか?
自分自身では、
「大丈夫なわけねーだろ」
っていう気持ちがありながらも、無知ですし・・・。
その実家のお父さんとかも、テレビとかをしっかり信じるタイプの人なんで、
「テレビで大丈夫って言ってるから、大丈夫だと思う。津波はあの映像で大変かもしれないけど、原発は大丈夫だろう」
っていうことを言われたんですが、嫁さんと話して、
「いや、まずいよな」
っていうことで、「子供たちを外に出さないようにしよう」。
で、もうずーっと家の中、こもりきりが始まったんですね。
実家に行ってからずっとですね。
14日くらいから、自分はボランティアのほうで動き始めたんで、宮城の、仙台の先輩が電話よこしてきて、
「大丈夫か?郡山大丈夫か?」
ということで、ぶっちゃけ、郡山なんて全然大丈夫だったし、確かに瓦が剥けちゃったりはあったと思うんですけど、海の映像を見てたら、もう全然郡山は全然大丈夫だって話をして、そしたら、その仙台の先輩が、
「物資を速攻集めて大量にあるから、来れるんであれば来い」
と。それで、
「わかりました。じゃあ行きます」
もうイライラしてたんで。ずーっと。
新潟の時も、関西、神戸の時も・・・、大変な時なのに何もできてない自分にイライラしてて、でもそれを口に出して言ってもカッコ悪いし、でも、その地震から2日、3日間はずっとイライラしてて、家族のことも心配だけど、もう動きたくてしょうがなくて、その仙台の先輩がチャンスを自分にくれたと思って、親に相談したんですよ。嫁さんの親に。
「先輩からこうこうで、行っていいか?」
っていう話をしたら、いいかもしれないですよね。今こういう状況で原発もあるし、大丈夫とは言ってるけど、家族のことも考えなきゃいけないのか?いち早く。
でも、俺の中では、実家に居るからちょっと安心感があったんですよ。
で、「行かせてくれ。」
でも、ガソリンは無い。
ガソリン入れるとしても、ずっと並ばなければいけない状態で、その並んでる時間でも、先輩からの電話があったんで。
うちの実家のじいちゃんが、携帯のポリ管、携帯のカンカンあるじゃないですか?あれに、もしもの時のためにって、20リットルだけガソリンを入れてたんですよ。それを聞いたんですね。
で、その、あの時ってホント、ガソリンとか燃料ってすごい貴重だったじゃないですか。手に入らない。
で、じいちゃんに相談したんですよ。
「じいちゃん、仙台の先輩がこうで、俺ちょっと物資をとっていわきの方に持ってきたいんだけど。」
ちょっとドキドキしながら言ったんですね。
そしたら、じいちゃん、二つ返事で
「おう、行け。」
って言われて、んで、そこから始まったんですよ。
それで、仙台まで行って、その途中もガソリンとか知り合いのガソリンスタンドの人にに協力してもらって、並ばないで入れてもらったりとか、ワケを説明して並ばないで入れてもらったりとか、それはあって。
なんとか仙台まで取りに行くことができて、先輩は、「物資がいっぱいあるから取りに来い」って俺に言ったんですけど、そしたらバカみたいにいっぱいあるわけじゃないんですよ。でも、
「これも持っていけ、あれも持っていけ」
って、軽トラに入れたんですけど、俺、後輩と二人で。
もう軽トラ満載に積んでくれて、ガスコンロとか、炊飯器とか、もう食べ物。レトルト品とか生活、必要なもの、手に入ら無いものも相当の量あったんですけど、それを預かって、で、いわきに戻るっていう。
いわきに戻るっていう時に、「どこに持っていけばいいんだ?」ってなるわけです。
何も決まってない、何も判らない状態で動いてるんで。
で、ツイッターで持っていくところ探そうっていろいろ調べていて、でも情報が間違ってるとか、そういう情報とかも全部流れてたじゃないですか。
「でも、どうしよう・・・」
ってなってるときに、いわきの仲間から電話が来たんですよ。
いわきの仲間から電話が来て、
「大丈夫?郡山大丈夫?いわきで物資、がっつり集めたから、郡山大変だったら、郡山に持っていってくれ」
って電話が来たんですよ。
その時に、マジ感動して・・・。
んで・・・。
で、いわきに持っていこうと俺らは思ってたので、そのうちらの仲間たちももう動いてるっていうことが、そこでわかったので、
「俺たちも仙台から持ってきたから、それを託していいか?」
「もちろんそんなにあるんだったら、是非持ってきて」
っていう話になっていったんですよ。
行ったら行ったで、その動きがタイトで、あちこち情報とりにいったりとか、炊き出しをどういうふうにするか計画を立てたりとかっていう状況だったので、人手が足りない状況だったんですよ。
だから、俺と後輩で「ちょっとここに居ようか」っていう話になって、いわきのネイバーフッドカンパニーっていう音楽やってる仲間たちなんですけど、と一緒に約2週間、20日間くらい、ずっと一緒にそこで活動して、その間にやっぱり被災地の映像もとっておかなくちゃいけないっていうことで、20㎞圏内まで入っていったりとか、第一原発の前まで行ったんですけど、20日の日ですね。
恐怖心とかそういうのはもう乗り越えて、立ち入り禁止だったんですけど。
ちょうどそのときなんでそっちに行ったかっていうと、大熊町のほうにも人が居るっていう話を聞いて、「立ち入り禁止、食料もなにもないだろう」っていうことで、うちの八百屋の後輩が居るんですね。だから、
「野菜を持って大熊町の方まで人を見つけて届けよう」
って話になったんですよ。
それで入るときに、
「中に俺のばあちゃんが居るから」
って言って嘘ついて入っていって、それで、自分が思ってる以上に人が居なくて、一家族だけ見つけたんですよ。
一家族みつけて、そこのところに走っていって
「こんにちはー!野菜??ですかー!?」
って聞いたんですよ。そんなノリで。そしたら、びっくりして、
「おまえら何しに来てるんだ?ここに。」
「いや、もう野菜届けに来た!」
「いや、俺たちはもう今から避難するから、避難する準備をしてたんだ。今お前たち見つかったら、警察に逮捕されちゃうから、戻ったほうがいいぞ」
って言われて、そこが大体20㎞位のとこだったんですよ。で、そのまま「戻ったほうがいいぞ」って言われたんですけど、そのまま6号線を突進していって、そしたら、ちょうど第二原発の目の前のとこで寸断されてるんですよね。道が。
そこでまた戻って、迂回して、大熊町まで絶対行こうっていって、大熊町のほうで知り合いじゃないです、人が居るだろうと。人が。
Q.誰かしら人が居て、困ってる、逃げ遅れてるやつがいるんじゃないか?飯食えない人間が居るんじゃないかと思って、届けようと?
そうですね。
Q.突進していったんですね?<笑>
突進したんすよ。
これ、まだ嫁さんにも言ってないことなんすけど、
Q.本邦初公開?
はい。
仲間内にしか言ってない。
Q.無茶だった?
無茶だったと思います。
なんか、今できることは?って。
それで突進していって、大熊町に着いて、で、もちろん町の中、本当に普通なんだけど、人が全然居ない。警察署のガラスは割れてる。警察署にも人が一人もいない。パトカーは何台かある。人っ子一人いない状態で、第一原発の看板が見えたんですよね。
「もう行くしかねぇ」
って。
で、目の前まで行って、目の前まで行ったら、防護服の門番の人たちが何か俺たちを見つけて、トランシーバーでなんかワサワサしてるんですよ。
「これ、まずいな。」
警察につかまっちゃうよって話を聞いたもんで、
「ちょっとこれ、まずいな」
ってなって、とりあえず門のところでUターンして・・・。
そしたらその後は、またいわきに戻って、結局人に会えなかったんですけど、いわきに戻って炊き出ししたり、物資運んだり、被災者のじいちゃん、ばあちゃんの話聞いたり、っていう毎日だったんですよね。
Q.原発の関する事前の知識もなく「突撃」・「炊き出し」etc...情報もない中、自分の身に何が起きているのか、把握していた?
わかってないですね。
テレビも無い状態だったので、自分たちの基地にはテレビが無かったんです。だからラジオだけだったんです。ラジオも情報収集のツールでしかなかったし、なんか、大丈夫っていう言葉を全く信じてない自分がいたっす。
なぜかっていうと、メンバーの中に原発で働いたことがあるやつが居たんですよ。
で、彼の話が一番僕らの・・・
Q.ニュースソース?
そうですね。
Q.それは、どこで働いていたの?その人?
うーんと、第一原発ですね。
で、多分そいつが言ってたのは、
「そのうち声がかかるんじゃないかな。自分にも。だって中を知らないやつが行っても、しょうがないでしょ?俺が中を歩けるからさ。多分呼ばれる。」
「じゃあ、どうすんだ?」
「いや、行くしかないでしょ。」
っていう・・・、感じですよね。
だから、もう「危険だよ」っていうことは、判ってはいたっすね。何がどう危険なのか、どうなったらどうなのか?っていうのは、全く判らない。ただ、
「そっちの方に行くときは、マスク2枚重ねて行こうね」
っていうくらいの感じです。
Q.その彼とは福島第一原発ぎりぎりまで行かれたのですか?
いや、その無茶も、最初からそこに行こうとして行ったんじゃないので・・・。
Q.迷って行っちゃった?
迷って行ったというか、第一発見した人、「警察につかまっちゃうぞ」って言われた人以外に人と会ってないんですよ。だから、結局空振りに終わるわけにはいかないっていう、食べ物もバンにたっぷり積んでいったので・・・、だからミッションが全然もううまくいってないわけですよ。自分たちの中で。だから、突き進んでいってしまったっていうだけですね。
バカですね・・・。<笑>
今考えれば<笑>。
結局空振りだし。
Q.原発で働いていたという友達に「正門まで行った」ということを伝えたら、何と言われた?
「行ったの?まずいよ、それは!」
「だよね~。でも行っちゃったからさ。」
そのくらいです。
Q.「除染しろ」等、言われた?
言われたッす。
でも、シャワーとかも無いので、とりあえず露出してるとこ拭いて、うがい手洗い・・・、もうそんなもんすよね・・・。
3月は5回くらい鼻血出たんです。
Q.幼い子供だけでなく、大人も?
僕の周り、結構いますよ?うん。はい。鼻血出るっていうヤツは。
最初の頃は、ちょっと精神的なストレスか、疲れてんじゃないか?と思ってたんですけど、でも、話をどんどん知っていくうち、
「やっぱあの時のはまずかったんじゃね?」
っていう話にはなります。
3人で行って、2人しか鼻血は出てないです。
Q.他に身体的な変化は?
うーんと、身体のだるさと、それはもうずーっと続いたっすね。
3,4,5・・・、6月くらいまでは。
熱は自分はないですね。
下痢は、もうずっと今でもしてるっす。
俺の周りの友達もほとんどのやつは、下痢してる。
郡山にしかいない人でも。
あと、目ですね。目が。目がシパシパするというか、常に目薬ずっとやってる。
Q.症状が放射能の影響ではないかと疑い始めるのはいつ頃?
4月あたまくらいに、最後の5回目くらいの鼻血だったんですけど、それが、ちょっとした鼻血だったんですね。その前は結構鼻血、鼻につめて、2,3本真っ赤になっちゃうくらいの鼻血だったんですけど、最後の鼻血がちょっとだったんですよ。
何かが変化してるのか、何なのか?って考えた時に、その原発で働いたことがある自分の仲間は、ずっと言ってたんです。もう笑い話くらいの感覚で話してたんで。
「ぜってぇ被曝してるっしょ?」
そのくらいの感じだったんで。軽いノリで。
そのくらいじゃなかったら、もう居られな状況だったんですよ。その、津波のほうのあれが大変だったので、自分被曝してるなんていうのは二の次くらいの感覚で、笑い話くらいの・・・。
その最後に鼻血になった時に、その自分の変化に気づいたっていうか、やっぱ身体がおかしいんだなっていう・・・、これは良くないなっていう感じですね。
メインは自分たちの周りにいる人たちに対しての炊き出しだったりとか、物資の配達だったりとかっていうことだったので、自分のこと、自分の身体とかを考えてる時間は、全く無かったんですよ。そういう思考回路が無かった・・・。
で、ちょっと落ち着いてきたんじゃないか?っていうところじゃないですかね。
で、ちょっとあの、自分がホッと一息ついた時に、「あれ?」っていうふうになったのかなと思って、考えたことなかったですけど。
でも、なんか自分ももう、なんて言うんですかね。
興奮してるっていうか、アドレナリン全開っていうか、ずっとそういう状況だったんですよ。だから精神的にも、
「もうやるやつがやんないと、とまんねぇんだろうな」
っていう、その原発の彼が言ってたのは、
「絶対的に必要なのは、『人間の手』なんだよ。ロボットでカチャカチャやっても、あんなの・・・。氷山の一角どころか、塵を掃除するくらいしかないから。実際は、本当に解体現場行けばわかんじゃん?あんなのラジコンでチョコチョコやって片付くわけないじゃない?」
だから、人の手が絶対的に必要だっていうのは判ってて、腹の中で『もう行くしかないか』くらいの感じにはなってたんですよね。そのメンバー自体が。
「行くか?」
っていう話になってて。仕事うんぬんとかじゃなくて。
まぁ、その頃1日働いて7万とか20万とか、そういう話とかも出てたんで、もう行くしかないっていう正義感と、あと「金もいいから、ここで一気に稼いで、家族にやればいいんじゃないの?」くらいの、そのくらいのなんか、特攻隊的な、おかしい感じにはなってたんですね。
Q.事故後、実際に原発で働いた人はいる?
自分の友人の友人はいます。
気持ちだけでその人も行ったみたいで、行って戻ってきて、相当後悔してるっていう話までは聞いてるんですよ。
だから・・・。
Q.遠藤さんの所属する「Bond and Justice」とは?
ホームページもあるんで、それを見てもらうとよく判ると思うんですけど、簡単に言うとBond & Justiceの代表の大土雅宏っていうのが、古くからの友人であり、音楽を一緒にやってきた仲間でもあるんですよ。
自分もずっと音楽はやってまして、HipHopっていう音楽をやってまして、その代表が、以前、ちょっと某有名なHipHopグループのマネージャーをしてたんですね。
それで全国にコネクションを持ってたと。北から南まで。それで、彼が立ち上がって、11日の時点で立ち上がって、自分に電話をよこしてきてたんですよ。
だから、全国の仲間たちに、音楽を通じた仲間たちに、11日の時点から電話をかけまくってたと思うんですよ。電話繋がらない中。
その代表がやり始めたっていうのが、僕は知ってたんですけど、被災地支援ですね。まずは物資集めじゃないですか。
自分は家族とかを優先してたので、家族のほうでさっき言ったように実家に行ったりしてたんですけど、その間に彼は全国に声を掛けて、3日で80トン・・・、70トンか、80トンくらいの物資を集めたそうです。全国で。全国の人の協力、仲間たちの協力、HipHopコミュニティーで集めてくれて、東京、宇都宮、仙台っていう拠点も一気に確保して、そこに物資を集めて大型トラックで南相馬、彼の実家が南相馬だったので、南相馬に持っていったんです。
それとかもニュースにもなってたんですけど、そこから始まって、自分はいわきのほうといわきの方がちょっと落ち着いてきたって判断したんで、Bond & Justiceに合流して、そこからずっと一緒にやってるんですけど、うーん・・・。
もうずーっとその場その場の、3月の時点では物資を集めることが大事で、そして炊き出しをやって、それで今は水を集めて、大まかですけど、という感じで、その時その時で一番必要なものにスイッチして、ずっと動いてきた感じですね。Bond & Justiceは。
今の時点で、炊き出しは2万食オーバー。物資が180トン前後くらいの物資を被災地に届けてる個人団体っす。
Q.メンバーは何人?
メインのメンバーは、10人くらいですかね・・・。
でも、その、何人っていう感じじゃないんですよね。
その大阪だったら、大阪ですごく頑張ってくれてる人たちも居たり、岐阜だったり、東京だったり、誰がBond & Justiceだっていうのは・・・?
Q.グループ名じゃないんだ?
もう、『気持ち』っすよね。
Q.『気持ち』?気持ちでいいんだ?登録とかそういうのがあるわけじゃない?
個人の団体なんで、全く無いです。NPO法人にしたほうがいいっていう話もあるんですけど、そこらへんはどうなんですかね。進んでるかどうかはわからないですけど。
Q.音楽グループではなく、支援グループ?
そうです。音楽をやってる人たちが集まったっていう・・・、でその南相馬出身の大土雅宏が代表として、皆に指示を出して、「何が欲しい、何が欲しい」って集めて持っていく、それの繰り返しですね。
【その②】に続きます。
失礼します。

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