※この記事は、11月16日 【内容起こし】IWJ百人百話 第8話 島村守彦さんの続きです。

11月17日 百人百話 第九話「有馬克子」
http://www.ustream.tv/recorded/18571009 (27:55)

【以下、お時間のない方のために内容を起こしています。ご参考まで】
2011年9月1日収録
 私は郡山市で生まれ、現在52歳。須賀川市に住んでおります。
 有馬克子といいます。
 家族は、子供が5人、それからおじいちゃんとおばあちゃん、夫と、実の私の母親と10人家族です。
 仕事は穀物菜食レストランの銀河のほとりという小さなお店をやっております。
 生まれも育ちも福島県で、途中一年だけ京都に住んだことがあります。
Q.3.11はどこで?
 地震が起きる午前中に、ちょうどお店を新しくして引っ越ししてたんですが、そのお店の建築の最終的な許可が下りたので、その報告をしに亡くなった父親のお墓に参っていました。
 娘たちとお墓参りをしてる最中に、グラグラ揺れだして、びっくりするほど地震が長くて、目の前で墓石が次々落ちていくのを見ました。

 ただ、大きな揺れに驚くばかりで、もう自宅から離れたとこだったので、どんなふうになってしまったのかな?という思いで、「すぐ帰らなくては」と思ったのですが、急にふぶいて来て、空模様が荒れたり、すごく不気味な天候になって、ただただ恐ろしく感じました。
 地震があって、お墓で次々に墓石が落ちていくのを見たんですが、子供たちとすぐに車に乗って、郡山市内を横切って、隣の市の今の住まいのほうに戻ってきたんですが、その途中の光景、本当にびっくりするようなもので、停電になったので至る所で信号が止まっていて、陸橋とかそういうところでも、段差が激しくついていて、途中にある道沿いの病院なんかでは、患者さんが裸足でとか、看護婦さんに付き添われてたくさんの人たちが本当に吹雪の中、外に避難する光景を見ました。
Q.地震→津波→原発事故をどのように知りましたか?
 わりと自分たちの住まいのある地区は、停電が早く解消されたので、テレビが映るようになったんで、テレビで見ました。
 もともと私たち、自然な暮らし方とかしたいと思っていたので、原発の危険性については少し学んでいたので、
「あー、これは地震の後、必ず原発に何か起こるんじゃないかな?」
というふうに思っていたので、その情報にはすごく注意していて、友達ともなかなか形態はつながらなかったのですが、連絡を取り合うようにしたので、「あぶない」っていう情報は、わりと早くキャッチできたかなと思います。
 やっぱりテレビで映像とか流れたのが早かったかなー。うーん、あの、原発の温度が、外部電源が失われて、温度が上がりつつあるっていうのを聞いた段階で、
「もうこれは始まったな」
というふうに思ったので、それ以上情報を得る間もなく、家族ですぐに避難しなければということで、すぐ夫とも話し合いました。
「一時的にでも避難しなくては」
ということで。
Q.原発で何が起こっていると思いましたか?
 自分の中で、「外部電源が消失したということが、すぐ爆発に、大きくなれ小さかれ、必ず大きな事故につながるな」っていうふうには、すぐ想像できました。
 事故が起きたら、大量の放射能が放出されて、もうここの土地にもたくさんの放射能が降り注ぐようになるんではないかと思いました。
Q.避難はどちらへ?
 まずは、あてがあったわけではないんですけど、そうです。燃料があまりなかったんですが、うちで10人家族なのに、軽自動車しかなくて、おじいちゃんとおばあちゃんはもうちょっと様子を見てから、動きたくないっていうことで、おじいちゃんとおばあちゃんも運転はできるので、私たちは家族、軽自動車2台で乗って出たんですが、燃料のことを考えると、とりあえず関東に向かった方がいいかなという感じがして、それで栃木県のほうに向かったんです。
 風向きとか・・・、そうですね。風向きとかもっともっと冷静に考えたほうが良かったのかもしれないんですが、なぜかその時は、南に向かわなくてはというふうに思ってしまったというのが正直なところです。
 南に向かえば、まず燃料が手に入るような気がして、向かいました。
 その時は、本当にあっという間に地元でもガソリンスタンドのほうにガソリンが入ってこなかったりで、手に入らなくなってしまったので、まずは燃料を入れないことにはどうしようもないな、という考えしか浮かばなかったように思います。今振り返ると。
 その後ですね、避難、とりあえず栃木県のほうに行って、車中泊をしまして、コンビニの駐車場ですね。それから2泊も3泊もそうはできないということで、家族で泊まれそうな宿を探しまして、一旦、家族で宿に入ろうと思ったんですが、実は私のところに、お店の方にね、いろいろ全国の仲間から、「支援物資を送る」っていうことがあちこちで言われてるっていう情報が、その「送ってくれる」っていう、支援してくれる方からじゃなくて、「あ、これは一旦私だけでも戻らなければならない」ということになって、その時に、家族と・・・、正直のところ、ちょっともめたんです。
 家族はやっぱり別れたくないから、
「お母さん、戻らないで一緒にいてほしい」
って子供たちには言われたんですが、支援物資を送るって連絡が何軒かから入って、
「一旦もどるしかないのかな」
っていう、本当に引き裂かれるような思いで、一旦私と次女と。次女は他に用があったので、こちらに戻ったんです。
 それで家族が二手に分かれてしまったんです。
 ??に一旦戻るために、栃木県のほうから山道を抜けて、??村というところを通って福島県に戻ってきたんですが、本当に山の中の道は至る所道路が寸断されて、大型車は通行止めのような中だったんですが、比較的交通量が少ないので戻ってこれたんです。
 戻ってきて、おじいちゃんとおばあちゃんはまだその時点では残ってたのですが、帰ってくるとすぐ、やっぱり3号機が危ないっていうふうな情報が入ってきて、それも3号機はプルトニウムだっていうことで、「これはもう1号機とか2号機の比ではないのではないか?」ってことで、やっぱり一旦戻ってもう、避難の支援物資が送られたとしても、今は一旦、娘、次女も一緒にくっついて来てしまったものですから、もう一旦出なくてはいけないということになって、家族とすぐ合流しようかと思ったんですが、仲間が一旦新潟に避難するという人たちが居たんで、一緒に一回新潟に抜けて、その後家族と合流するってことになったので、実際には家に一泊もせずにまた出たようになりました。
 本当に混乱してたと思いますね。
(岩上氏:怖かったですね。)
 そうですね。
 あの、大変怖かった思いがあります。
Q.避難先から戻られたのはいつ?
 えー、それから先、新潟に一旦避難しまして、新潟のほうで友達と連絡取りながら、車中泊をしたりして過ごしたんですが、なんとかガソリンをまた入れることができたので、栃木県の家族ともう一回合流しようということになったんですが、それまで夫と子供たち3人は、安い旅館みたいな、民宿みたいなところに泊めさせてもらったんですが、支援のほうの受付に行きましたら、えーっと、なんだっけ?ごめんなさい、思い出せない・・・。
 益子にある青少年センターのホームのほうに避難させていただいたっていうことで、私たちのほうの行き場も確保してあるっていう連絡が入ったので、そちらのほうで、やっと家族合流することが出来ました。
 益子のほうの青少年ホームでは、いわきのほうの・・・、浪江のほうだったかな。たくさんの・・・、津波に巻き込まれて家を失くした方とかが一緒に避難することになりまして、幸いにもでも、大部屋というんじゃなくて、それぞれ家族ごとに仕切りのある場所で、お風呂とかもある場所で、過ごさせていただくことができました。
 えーっと、その益子のほうの避難先のほうには、一週間ほど滞在させてもらいました。
 その一週間の間、テレビを見たり携帯電話で情報を集めて、なかなか一進一退というか、状況がつかめないままでいたんですが、いよいよもって、やはり支援物資が届くことになるという連絡をいただいたので、
「これはやっぱり腹を決めて、戻らなければ」
ということで、やはりまた、家族の中から、私と娘と、一足先に、二日ほど先に戻って、私と一緒に戻った娘は・・・、20歳です。
Q.当時の状況を教えてください。
 益子の避難先からこちらに戻ったのは、23日だったんですね。3月23日でした。
 それからは、外には避難せずに、自宅とこちらの店舗におります。
Q.避難先から戻られてどれくらいですか?
 新しく作った店舗の方は、引っ越しして本当に新しいところで地盤も大丈夫だったので、ほとんど被害はなかったのですが、自宅の方がかなりやられてしまって、お風呂とか廊下とか、建物も随分やられてしまって、玄関ですとか、戸がほとんど窓とか開け締めできない、開けっ放しの状態だったので、大気の汚染とかそういうことに関しても、情報がつかめず、空気、外気にさらされてるような状態だったので、本当にやっぱり心配っていうか、不安がずっと、寝ても覚めても付きまとっていたような状態でした。
Q.放射能について、どう思っていましたか?
 一般の人の感覚と、実際の現状っていうものに関しては、やはり『その時点では何もわからなくて混乱してた』っていう一言に尽きるかなと思うんです。
 ただ、自分と、あとその支援でたくさんの人がここに来てくれて、そういう方たちがいち早くガイガーカウンタとか持ってきて計測してくれたので、自分としては割と早くここの状況がどのくらいかということは、知ることはできたんですが、一般の方は本当にそういうことに無頓着だったり、なかなか判りにくかったりっていう状況だったので、普通の人は、本当に無防備だったと思います。
 そのことについて、友達から
「何でこんなに無防備なの?」
っていうことで聞いたら、私たちが1週間から10日近く県外に行ってる間に、皆さんの情報源っていうのはラジオだったらしいんですが、ラジオの中で
「放射能、これくらいでは大丈夫だ」
っていうのを何回か耳にして、
「健康になるくらい大丈夫なんだよ」
っていうことも、おじいちゃん、おばあちゃんが特に信じてしまっているっていうのを聞きました。
「これは大変なんじゃないかな?」
ってその時に思いました。
 それを誰が言ってるかとか、そういうこともわからなかったんで、後々いろいろ、子供を放射能から守るネットワークとかそっちのほうからとか聞いて、「あー、それは山下さんという方だったんだな」ということを知りました。
 友達から聞いた限りでは、
「放射能っていうのは自然にもあって、多少の放射能があっても、却って健康に良くなるくらいで、全然心配がいらない。マスクくらいでは変わらないので、マスクをしても意味がない」
というような話を聞いたということで、その方たちはマスクを、最初はしていたのに、マスクでさえももうすることをやめてしまったと聞きました。
 私の中ではとてもショックだったですね。その話を聞いて。
 やっぱりどんな些細なことでも、やはりまだ未知ものもなので、
『少しでもやっぱり防衛しなければならないんじゃないかな』
っていうことを伝えなくてはと思ったんですが、既にそういうふうな「安全だ」っていうことで、皆さん一旦あった緊張が緩んでしまったので、そこにもう一度説明するっていうことが、すごく・・・、実際に困難だったんですね。
 特におじいちゃん、おばあちゃんは、「ココに居たい」っていう思いがあったからだと思うんですが、
「大丈夫なんだ。このくらいでは。(この辺で『さすけね』って言うんですけど)ちっとも問題ねぇ、『さすけねぇ!』そんなん心配してっから、病気になっちまうんだわ」
って、そういうふうに言われてしまうっていうような、若いお母さんたち。小さい子供さんが居る若いお母さんとか、お父さんたちの悲しい泣き言っていうか、そういう声も何人もから聞きました。
Q.「さすけね!」という言葉
 私も一緒に住んでるおじいちゃん、おばあちゃんは、やっぱり楽観的で、またほかの土地に行くっていう気持ちも無かったので、
「ここで暮らさなくてどうする?なんでもねぇとおもわねきゃしょうがねわ」
みたいなことをやっぱり言われて、私自身ももう一回、一番末の娘は小学校6年生なんですけど、せめてその子だけでも、早いうちに県外に何回か出そうと試みたんですが、そういう話をした時に、やっぱり家族、おじいちゃん、おばあちゃんから反対されて、
「そんなに心配しすぎてどうするの?」
その時の口調なんですけど、
「あんたみたいに、そんな神経質になってどうすんの?こんなことでさすけねぇばい?そんなん、心配してばっかりいて、本当に子供病気になったらどうすんの?」
と逆に言われて、本当に返す言葉も無くて、悔し涙だけがこう・・・、出たっていうのがね・・・。思い出されますね・・・。
(涙ぐんでらっしゃいます)
 私なんか、もう50過ぎたのにね、立場弱いんですから、若いお母さんたちはもっと辛いだろうなっていうふうに思いました。
Q.その時ご主人は?
 主人のほうはね、その時にですね、一緒の場には居合わせなかったんですけど、ちょうど田植えの時期にも重なってたんですよ。田植えは長い間、県のほうの指導もあって、一旦見合わせということで先送りになったんですが、ある程度の見通しということで、一斉に田植えをするっていう時期に重なってしまったので、話し合いもする間もなく、田植えに突入してしまったっていうのが、実際のところで、もっと放射能が濃いところに関しては、別な指導っていうことで、延ばしたようですけど、ここら辺は、田植えをとりあえずしましょうっていうことで、農業関係のほうから一斉に始まるような指導が入ったようで、ここらへん一帯も一辺に農作業に入って、こうなってしまってからは、田植えはとりあえずやって、夏休みだけでもなんとか避難させようっていうことになって、主人と話し合って、北海道のほうとか避難先を探しまして・・・。
Q.作物の作付けの基準について
 作物の方は5000ベクレルだと、稲だと10分の1程度だろうという見通しで500ベクレル以下になるという見通しで、とりあえず田植えをしようってことで始まったんですが、子近所の農家さんも集まると、
「いや、実際やっててどうなんだろうね?俺ら、本当に放射能まみれでこれ、やってっぞない?」
っていうふうに、笑いながらですけど、心の中は本当に不安とか怒りでいっぱいだったようでした。
 まず、基準値のことなんですけど、まず、最初は本当にずっと混乱した調子で、こちらに戻ってきてすぐも、本当にハウスだけで作ってる農家さんの庭とか、なんとかすぐ土壌とか測定して、それほど汚染の値がほとんど出てなかったので、なんとかそれをちょっと県外から応援したいっていう声があって、出荷しようとしてた時もあったんですが、一律にストップかかってしまったりということがあったんです。
 ちょうどその矢先に枝野官房長官のほうから、
「福島県の野菜、一律に出荷見合わせ」
という連絡が入って、これは一個一個測定して、野菜の基準値、いろんな種類があるし、モニタリングっていっても、くまなく一個一個測ってるわけではないのに、本当に一部分だけ測定して、安全かどうかを判断してしまって、出荷するかどうかを決めてしまうすごく大雑把なやり方というのも、すごく疑問を感じたし、国外での基準というもの、それから今までにあった日本の基準というものをこの事故があったからということで、暫定基準値というので一遍に500ベクレルとかに上がってしまったんですけど、それがいつまで暫定なのか?っていうのもはっきり示されないまま、どんどん緩くなってしまって、実際にその500ベクレルものものを子供たちに食べさせていいかどうか、生産してる農家さんももちろん混乱してると思うんですね。
 私たちは、もともとオーガニックレストランというスタンスで、有機農家さんというかそういう方のお世話になってたものですから、本当にそういう土から作って、「少しでも土にも安全なものを、お客さんにも安全なものを」って血反吐を吐くような思いで苦労してやってた方が、本当に泣く泣く、もう自分の野菜を・・・、もう
「責任もって出すことができない。だから出荷できないよ。」
って、何人もの方から連絡をいただいた時、本当に悲しい、悲しい・・・、もう怒りと悲しみと一遍に伝わってきて、やりきれない気持ちになりました。
 かたや、一般の農家さんは、出荷できるか・できないかっていうことにのみ、その時は無我夢中だったからしょうがないと思うんですけど、視点があって、出せるか・出せないかで一喜一憂してるような状況もあって、その先のことを考えている方と、今ね、今の自分の生活で精一杯の方と、どちらもあるっていうのは、現実なんだなっていうふうに感じました。
Q.同じ農家でも考え方に違いはあるのでしょうか?
 えー、地元の農家さんでも、やっぱりいろいろな考え方の農家さんたちがいて、もともと無農薬の農家さんとかは、本当に今回の事故そのものに大きな打撃を受けていて、本当に自分たちの無農薬とかやるときにね、本当に皆の幸せとか、皆の健康とかやってた方が、本当にこの放射能汚染で、基準値がどうのこうのよりも、自分たちの土地が汚染されてしまったということに、すごい悲しみと怒りを感じてしまったということをまず感じたんですけど、一般の農家さんのほうは、数値がどうのこうのまでは、ちょっといかなかったんじゃないかな?っていうふうに、いかない人が、まだその数値の基準とかそういうことの感覚がもともと無かったわけですから、これはやむを得ないかなと思うんですが、出せるか・出せないかは、農協さんだったり県の指導とかで、一喜一憂してたっていう感覚じゃないかと思います。
 でもね、東電・・・。
 あの、敵対する気持ちだけじゃなくて、やっぱりそういう感覚が、いい加減な感覚が誰しもの中にもあるし、行政のことも批判をしたりですけど、実際に地元の行政なんかは、本当に市庁舎とかもガタガタに壊れてて、「本当によくやってるな」っていうふうなので・・・。
【以上】
失礼します。

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