【追記】
7月26日 【署名お願いします】子供たちを守るための緊急署名

これもほぼオンタイムで見ていましたが、認知されていなかったのか、Ustreamでは最初は数十人しかご覧になられていなかったのもあり、内容を忠実に伝えたく、文字お越しをしています。
今回も写真を多用されているため、ほぼ全てをUPしますが、一気に編集することが難しいため、順次UPすることにしました。

堅田9条の会というのを初めて知りましたが、副会長の岡本氏のおっしゃっていることは、かなり重要だと思います。Bochibochiの思いも同じです。

映像で見られる方は、是非、時間をとって映像でご覧ください。

7月23日(土)小出裕章氏 講演 「原爆・原発と憲法9条」 (131:38)
http://www.ustream.tv/recorded/16185189
※少々音声が小さいのと、途切れるところがあります。

【以下、時間のない方のために、内容を起こしています。ご参考まで】


<00:02:45->
(堅田9条の会/岡本副代表)
(一部略)最近頭から離れないことがある。何かというとやはり3.11の件、一体何が起こったのか、よくわからない。なぜ起こったのか、これもよくわからない。
 今、日本で、或いは世界で何が問われているのか?どうしたらいいのか、何をしたらいいのか、よくわからない。これを粘り強く考え、なんとか生きていきたいと思っている。
 最近朝日新聞を読んだら、このような記事が出ていた。
『私は3月15日、イタリアのある大学で広島・長崎の被爆者たちが、被曝体験の話を終えるや否や、記者が取り囲んで聞かれた。
「原爆の被害に遭った日本が、なぜあれほどの原発を持っているのか?」
それに対して、広島で被爆された82歳の方は、言葉が詰まった。その場は「ノーコメント」とされたが、後に次のように話していらっしゃる。
「国が資源に乏しい日本には原発が必要だというのをただ漠然と信じていた。」
 長崎の被爆者は、
「原発の安全神話など疑ったことがなかった」』
原子力を戦争に使う「核兵器」は否定するけれども、平和利用としての原子力は受け入れる。こう使い分けながら日本の社会は戦後を歩いてきたのではないか。その背後には一体何があったのか、ということもよくわからない。これを掴みたい。
 「騙された国民にも責任がある。」そういうことを言う人がいる。私たちが責任を果たすために何をどう学んだらいいのか?この3.11から。考え抜かなければいけない。いい加減なところで「もうやめよう」というのは、やはり許されないのではないか。
 日本の敗戦後、映画監督に伊丹万作さんという方がいた。「戦争責任者」というエッセーを書いていらっしゃる。その中に、次のような言葉がある。
『「騙されていた」と平気で言える国民なら、恐らくこれから何度も騙されるだろう。現在でも既に別のことで騙され続けているのではないか』
この予言どおり、その後に日本は動いたような気がする。
 日本はA級戦犯だった岸信介が総理大臣になった。それから絶対君主であった天皇が??になった。その戦争の責任問題があいまいに流されている。それは厳然たる事実。
 そういうことで、現在の日本はあいまいなまま大事な問題を置いてきたのではないか?それでいいはずはない。
 ヨーロッパでは、特に1980年代、国民、市民が論議をして、国の大事な問題を論議してきた。ドイツは、市民の熟議の中で脱原発を決めた。だから日本も、民主主義は不十分だが、やはり市民が政治家に任せていられない、国家に任せてはいられない。やっぱり市民が発言していかなければいけない。市民が十分に話あって、自分の意見の反対の人とも話し合う、そういう対話、論議をしていく文化を日本でも築いていかなければいけない。(でなければ)
『日本の民主主義に未来は無い』
くらいに思っている。
 今日の集まりがそれに向けての一歩になるよう祈念して、挨拶とかえさせていただく。ありがとうございます。


<00:09:30->
【原爆・原発と憲法9条】講演開始
(小出氏)
今日はありがとうございます。
この会場に私がいて、皆さんがお集まりいただいた、それは多分3月11日に福島原発の事故がきっかけになっていると思うが、今日は福島原発については、一切話をしないつもりです。
 今日はタイトルにあるとおり、原爆・原発と憲法9条というタイトルを与えられたので、そのことに限って話を聞いてもらおうと思う。
 
 これは皆さんご存知だと思う。つい何十年か前まで世界は悲惨な戦争をずっと続けていた。ナチスドイツという国がユダヤ人を中心に何百万人も虐殺したという歴史がある。その場所のひとつ、ビルケナウ強制収容所。

1 ビルケナウ強制収容所


ナチスはここにたくさんの人を収容したが、その戦争のことを戦後のドイツはずっと背負って自分たちがやったことを問い続けている。

2 荒れ野の40年


そして、荒れ野の40年という有名な演説を1985年くらいだと思うが、当時のヴァイツゼッカー大統領がドイツの国会で演説をした。それで端的にいうと、彼が何を言いたかったかというと、「歴史に目を閉ざしてはいけない。自分たちがやってきた過去をしっかりと見つめておかないと、現在をまた間違える、未来のことをまた間違える」ということを彼が言った。

3 ヴァイツゼッガー演説


ヴぁいつぜっかー後の東京写真
 これは東京。一面焼け野原になっているが、東京は1945年3月10日に東京大空襲という空前絶後の空襲を受けた。344機のB29という当時の最大の爆撃機が東京上空に飛来し、雨あられと爆弾を落としていった。344機って皆さん想像できるでしょうか?例えば1機のB29 が滑走路を飛び出して飛んだ。一分後にそれを追いかけるように飛んだ。そういうふうにやっても、なんと6時間かかる。というとてつもない数のB29が飛来して焼き尽くされてこんな姿になった。

 私は実は東京生まれ、東京育ち。これは東京の下町の航空写真。

東京の航空写真


 ネットの地図だとこういう感じ。私の家はここにあった。上野と浅草の真ん中当たりに私は生まれ育った。

ネットの地図


東京大空襲


 これが東京大空襲を受ける前の市街地で、密集して人々が生きていた。東京大空襲のあとどうなったかというと、こうなった。

東京大空襲後



 私は戦後に生まれたので、この大空襲の時は居なかったが、東京の市街地の40%が焼き尽くされた。ここは、人が住んでいたところ、それがこんなふうになってしまって、こういう姿で人々が殺されていった。

遺体の写真


 黒焦げになっているが、こちら(右)が恐らく母親で、こちら(左)が子供。空襲が始まってもちろんみんな逃げようとした。この母親も赤ん坊を抱いてきっと逃げようとしたが、こんなふうになってしまった。
こういう人が積み重なった、焼け死んだのは10人ではない。100人でもない。1000人でもない。1万人でもない。10万人という数の人がこういうふうに、こういう姿で焼き殺された。それでも日本は戦争をやめなかった。天皇を守らなければいけない、国体を守らなければいけないと戦争を続けた。
 一方、米国のほうは、なんとかして日本をやっつけなければいけないとして、原爆を作ろうとしていた。

4 トリニティ


これは人類初の原爆が爆発した時の写真。
これはトリニティと右下に書いてあるが、「三位一体」というキリスト教の方ならなじみが深いかもしれません。そういうトリニティという名前のついた原爆が1945年7月16日の朝、米国のアナマホルドというところで爆発した。何でその日に爆発したのかというと、その日は日本に勧告会議をするためのポツダム会談が開かれる、その日にあわせて米国はやった。「俺たちは勝った、これでこの世界は俺たちのものだ」ということをこれで知った。しばらくして米国は日本に原爆を落とすということをした。

広島のきのこ雲


 これが広島に落とされた原爆のきのこ雲。この下には広島の町がある。

5 広島の町並み


 何のへんてつもない、日本家屋が立ち並び、路面電車が走っていて、人々がここで生活をしている。東京もそうだったが、広島の町もそうだった。この左の上のほうにドームが見えるが、これが原爆ドーム。このドームの600mのところで(音声不良)

6 広島原爆投下前


 広島の町はこんな感じだった。人家が密集して建っている。ここに原爆が落とされて、広島のまちはこんなふうになった。

7 広島原発投下後


遠くの方に山が見えるが、これは??島という海の上にある島。そこまでが見えてしまうというくらい町自体が全てなくなってしまった。

8 この世の地獄


 これは、爆弾を受けて逃げ惑う人々の姿。みゆき橋というところで、爆心地からすこし離れたところ。その為に即死はしなかった。幸か不幸か。生き延びて逃げ惑ってここに人々が集まってきた。でも、この人たちも被曝をしているから、多分かなりの方はごく短期間に亡くなっていると思うし、生き延びた方も被爆者というレッテルを貼られて、一生背負って生きなければいけなかった。

 3日後に、今度は長崎に原爆が落とされた。これが長崎の原爆のきのこ雲。

9 長崎のきのこ雲


10 長崎原爆投下前


 長崎の町もこんなふうに家が密集していた。

11 長崎原爆投下後


 こんなふうになった。

12 被害


 人々はやはりこのように爆撃を受けて、真っ黒焦げになった人がここに。生き延びた人もこんな姿。ここに母親と赤ん坊が写っているが、これは次男。長男は爆弾を受けて死んだ。次男を抱えて母親がいるが、この次男も短期間で亡くなってしまった。母親だけはかなりの間生き延びて、確か数年前に亡くなっている。
 
13 比較 ここに赤い四角を書いた。これは何かというと、東京大空襲で344機のB29が落とした爆弾の総量がこれだけ。1685トン。戦争を経験された方もいらっしゃると思う。当時は1トン爆弾という爆弾が落とされると、町ひとつが無くなる恐れがあるという爆弾。それに換算すると、1600発、1700発落とされたわけだから、東京の下町がなくなってしまうくらいの量だった。では、広島はどれくらいのだったかというと16キロトン。1万6千トン。東京一面を焼け野原にした東京大空襲のなんと10倍という爆発力を持ったものが原爆だった。長崎の原爆はどうだったかというと、もっと大きかった。21キロトン。たった一発で。東京に飛んできたのは344機。広島・長崎に飛んできたのは、2機とか3機。落とした爆弾は一発でこんなことになった。

【その②】へ続きます。